ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識「大名庭園」

2017年07月31日 | 旅の豆知識
 近年、日本の近世にあたる江戸時代に関心を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、江戸時代の跡を追いかけてみるのも、また面白いものです。その中で今日は、「大名庭園」について見てみたいと思います。
 大名庭園は、日本各地に残されていますが、日本三名園(偕楽園、兼六園、後楽園)や栗林公園、小石川後楽園、六義園などがその代表です。これらは、昔の大名たちが諸国から名木や名石を取り寄せて、作庭されたものも多く、日本の美意識が凝縮されているとも言われています。必ず、どこかに茶室も作られていますので、休憩がてら抹茶を立ててもらって、飲茶しながら庭園を愛でてみるのも良いかと思います。
 大名庭園は、大規模な回遊式庭園が多く、テーマを持って作庭したものも結構あります。東海道五十三次の景勝を模したといわれる水前寺成趣園、近江の琵琶湖をかたどった八景池をメインにした中津万象園、中国湖南省の洞庭湖にある玄宗皇帝の離宮庭園を参考にしたという玄宮園、尾張藩ゆかりの木曽の寝覚めの面影を写したともいわれる名古屋城二之丸庭園などです。このようなテーマを念頭に庭園を巡ってみても面白いものです。日本の美の一つの完成形を見る思いもします。

〇「大名庭園」とは?
 江戸時代の幕藩体制の下で、それぞれの藩の大名が領地内や江戸屋敷等に築造した庭園で、各藩がお互いに競争したことにより、造園技術が発達し、各地に名園を生み出しました。
 これらの庭園は、大規模なものも多く、回遊式庭園がたくさん残されています。日本の庭園の歴史を見るうえで極めて重要なものです。

☆「大名庭園」のお勧め

(1)偕楽園<茨城県水戸市>
 日本三名園の一つで、千波湖に隣接していて、特に梅で名高い庭園です。江戸時代後期の1841年(天保12)に、9代水戸藩主徳川斉昭 (烈公) が、中国の古典である『孟子』の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節からとって命名し、そういう趣旨で造営させました。 園内には、約100品種・3,000本の梅が植えられていて、早春には多くの観梅客でにぎわいます。1922年(大正11)には、国の史跡及び名勝に指定されました。

(2)六義園<東京都文京区>
 江戸時代中期の1695年(元禄8)に、5代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保が綱吉から拝領した土地に、約7年をかけて完成させた大名庭園です。約8万 7800m2の回遊式築山池泉庭園で、土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引き入れた池を中心に、中島を大きくつくり、巨石で蓬莱石組を構成し、さらに岩島を造り、池畔にはアシを繁茂させていました。名前の由来は、『詩経』の六義からきていて、吉保自身の命名したものとのことで、徳川5代将軍綱吉もしばしば遊んだそうです。明治維新以後,岩崎弥太郎(三菱創設者)の所有となり,1938年(昭和13)に、岩崎家から東京市に寄贈されました。1953年(昭和28)に、国の特別名勝に指定されています。春のしだれ桜、秋の紅葉など四季折々の風情があり、とても良い庭園です。

 
(3)小石川後楽園<東京都文京区>
 東京ドームのそばにある江戸時代の大名庭園です。江戸時代前期の1629年(寛永6)に、水戸藩水戸徳川家初代藩主徳川頼房が、江戸の屋敷内に庭の造営に着手し、2代藩主徳川光圀に引き継がれ、「後楽園」と命名して完成させました。庭園は池を中心にした回遊式築山泉水庭園で、随所に日本や中国大陸の名所の名前をつけた景観を配しています。江戸時代大名庭園の初期のものとして貴重なことから、1923年(大正12)に国の史跡及び名勝に指定され、1952年(昭和27)には、特別史跡及び特別名勝に指定されました。現在は、約7万平方mもの広大な都立の庭園として公開されていて、都民に親しまれています。

(4)兼六園<石川県金沢市>
 日本三名園の一つで、加賀藩5代藩主・前田綱紀が、別荘を建てその周辺を庭園としたのが始まりとされています。 その後、加賀藩前田家の歴代藩主により長い歳月をかけて形作られ、現在のような一大回遊式庭園となったのは1851年(嘉永4)とのことです。廃藩置県後の 1874年(明治7)より、金沢市民に開放され、1922年(大正11)、国の名勝に指定されました。そして、1985年(昭和60)には、名勝から特別名勝へと格上げされています。特に、徽軫灯籠(ことじとうろう)付近から霞ヶ池を見た景色が有名です。

(5)玄宮園<滋賀県彦根市>
 井伊家旧下屋敷の大名庭園で、彦根藩4代藩主直興が、江戸時代前期の1677年(延宝5)に造営しました。唐の玄宗皇帝の離宮をなぞらえて造ったので、この名がついたと言われています。大池泉回遊式庭園で、魚躍沼(ぎょやくしょう)と呼ばれる大きな池に突き出すように建つ臨池閣(りんちかく)、凰翔台(ほうしょうだい)といった建物、蓬莱四島になぞらえたという4つの島、鶴鳴渚(かくめいさぎさ)、竜臥(りゅうが)橋などなど、樹木や岩石が巧みに配置され、背景に国宝彦根城天守閣がうかがえる様は、見事というほかありません。初夏にはハナショウブ、秋には紅葉と、四季折々の風情が、訪れる人の目を楽しませてくれます。1951年(昭和26)に、楽々園と併せて、庭の敷地約28.700平方mが名勝に指定され、テレビの時代劇や映画のロケ地としても度々使われているとのことです。

(6)二条城二之丸庭園<京都府京都市中京区>
 1953年(昭和28)に、国の特別名勝に指定された日本を代表する大名庭園で、江戸時代前期の1602年(慶長7)~1603年(慶長8)頃に、二条城が造営されたときに作庭されました。小堀政一(遠州)の代表作とされる桃山様式の池泉回遊式庭園で、神仙蓬莱の世界を表した庭園と言われ,別名八陣の庭とも呼ばれています。池には3つの島(蓬莱島、亀島、鶴島)が浮かび、4つの橋を併せ持ち,池の北西部には、二段の滝があります。二の丸御殿大広間上段の間(将軍の座)、二の丸御殿黒書院上段の間(将軍の 座)、行幸御殿上段の間(天皇の座)・御亭の主に三方向から鑑賞できるように設計されていました。明治時代以降に、宮内省に所管されてからは5回以上改修が行なわれ、離宮的・迎賓館的な城として利用されることになります。1939年(昭和14)に、宮内省が二条離宮を京都市に下賜し、それから、一般公開されるようになりました。これ以外にも城内には、明治時代に造られた本丸庭園、そして昭和に入ってから造られた清流園があります。四季折々に花が咲き、季節を愛でるにもよいところです。また、二条城は1994年(平成6)に、「古都京都の文化財」の一つとして、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。

(7)岡山後楽園<岡山県岡山市北区>
 岡山藩2代藩主・池田綱政の命によって、江戸時代中期の1687年(貞享4)に着工し、14年の歳月をかけ1700年(元禄13)に完成した、元禄文化を代表する庭園で、国の特別名勝に指定されています。園内を一巡したのですが、さすがに日本三名園の一つと言われるだけにすばらしいのです。総面積は133,000平方mと広大な、池泉回遊式の大名庭園で、後景に岡山城天守閣を配する造りがみごとです。所々で立ち止まりながら、写真を撮りつつ、じっくりと見て回りました。

(8)栗林公園<香川県高松市>
 讃岐高松藩の下屋敷として利用されていた回遊式庭園で、現在は県立公園となっています。元々は、江戸時代の高松藩初代藩主松平頼重の別邸でしたが、五代にわたり、100年以上をかけて造営されて、江戸時代中期の1745年(延享2)、5代藩主松平頼恭の時に庭園が完成しました。紫雲山を借景とし、6つの池(西湖、南湖、北湖、涵翠池、芙蓉池、潺湲池)と13の築山(飛来峰、小普陀、飛猿巌など)を配した回遊式大名庭園で、面積約 75万 m2の広大なものです。明治維新後荒廃していましたが、1875年(明治8)には県有地となり、1885年(明治18)には県立公園として一般公開されるようになりました。1922年(大正11)に国の名勝に指定され、1953年(昭和28)には、特別名勝に格上げされています。また園内には、茶亭や讃岐民芸館、商工奨励館もあります。

(9)水前寺成趣園<熊本県熊本市中央区>
 面積約7万3千平方mと広大な大名庭園で、水前寺公園は通称です。熊本藩細川氏の初代藩主細川忠利が、そこにあった水前寺を他に移し、江戸時代前期の1636年(寛永13)頃から造営した「水前寺御茶屋」が始まりでした。その後3代にわたって築造が続き、細川綱利のときに泉水・築山などが作られ、現在のような姿になったのです。池泉回遊式庭園で、東海道五十三次を縮景したものとして有名でした。しかし、中心となる御茶屋「酔月亭」は1877年(明治10)の西南戦争で焼失し、泉水・築山なども荒廃してしまったのです。その後有志によって復興され、一般にも開放されるようになり、1912年(大正元)には、細川幽斎ゆかりの「古今伝授の間」が、京都から移築復原されました。1925年(大正14)から水前寺公園の名で市民に親しまれ、1929年(昭和4)には、「水前寺成趣園」として、国の名勝および国の史跡に指定されたのです。

☆「大名庭園」一覧

・秋田藩主佐竹氏別邸庭園(秋田県秋田市) 久保田藩 国名勝
・酒井氏庭園(山形県鶴岡市) 鶴岡藩 国名勝
・南湖公園(福島県白河市) 白河藩 国史跡・名勝
・御薬園(福島県会津若松市) 会津藩 国名勝
・紅葉山公園(福島県福島市) 福島藩
・偕楽園(茨城県水戸市) 水戸藩 国史跡・名勝 日本三名園
・楽山園(群馬県甘楽町) 小幡藩 国名勝
・浜離宮恩賜庭園(東京都中央区) 国特別名勝
・旧芝離宮恩賜庭園(東京都港区) 国史跡・名勝
・小石川後楽園(東京都文京区) 水戸藩 国特別史跡・特別名勝
・六義園(東京都文京区) 郡山藩 国特別名勝
・清澄庭園(東京都江東区) 関宿藩 都名勝
・清水園(新潟県新発田市) 新発田藩 国名勝
・兼六園(石川県金沢市) 加賀藩 国特別名勝 日本三名園
・金沢城玉泉院丸庭園(石川県金沢市) 加賀藩
・養浩館庭園(福井県福井市) 福井藩 国名勝
・名古屋城二之丸庭園(愛知県名古屋市) 尾張藩 国名勝
・徳川園(愛知県名古屋市) 尾張藩
・玄宮楽々園(滋賀県彦根市) 彦根藩 国名勝
・二条城二之丸庭園(京都府京都市) 国特別名勝
・養翠園(和歌山県和歌山市) 紀州藩 国名勝
・和歌山城西之丸庭園(和歌山県和歌山市) 紀州藩 国名勝
・旧赤穂城庭園(兵庫県赤穂市) 赤穂藩 国名勝
・後楽園(岡山県岡山市) 岡山藩 国特別名勝 日本三名園
・衆楽園(岡山県津山市) 津山藩 国名勝
・近水園(岡山県岡山市) 足守藩 県史跡
・縮景園(広島県広島市) 広島藩 国名勝
・嘉楽園(島根県津和野町) 津和野藩
・徳島城表御殿庭園(徳島県徳島市) 徳島藩 国名勝
・栗林公園(香川県高松市) 高松藩 国特別名勝
・中津万象園(香川県丸亀市) 丸亀藩
・松山城二之丸史跡庭園(愛媛県松山市) 伊予松山藩
・天赦園(愛媛県宇和島市) 宇和島藩 国名勝
・松涛園(福岡県柳川市) 柳河藩 国名勝
・旧金石城庭園(長崎県対馬市) 対馬府中藩 国名勝
・石田城五島氏庭園(長崎県五島市) 福江藩 国名勝
・水前寺成趣園(熊本県熊本市) 熊本藩 国史跡・名勝
・仙巌園[磯庭園](鹿児島県鹿児島市) 薩摩藩 国名勝

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旅の豆知識「近代教育の遺産」

2017年07月30日 | 旅の豆知識
 近年、日本の近代史に関心を向ける人が多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、日本の近代化の跡を追いかけてみるのも、また面白いものです。その中で今日は、近代教育の展開について見てみたいと思います。
 明治維新によって、いくつかの改革が行われましたが、その中に「学制」の制定がありました。1872年(明治5)に太政官より発せられ、フランスの学制にならって学区制をとっていて、全国を8つの大学区に分け、1大学区を32の中学区に、さらに1中学区を210に小学区にわけて、53,760の小学校を置くことを定めました。その後、1879年(明治12)の教育令に受け継がれて、学校の設置が順次進められて行きました。これらによる国民教育の普及によって、就学率は向上し、識字率も高まっていきました。これによって、近代国家の形成に大きな役割をはたしたと言われています。
 日本中に、近代教育の遺産が残されていて、見学できるものも多いのです。小学校、旧制中学、旧制高校、大学などいろいろな近代教育に関わる建物が保存され、国の重要文化財に指定されているところも多く、内部は教育資料館となっていて見学できるところもありますので、訪れてみることをお勧めします。

〇『学制』とは?
 幕末明治維新期の1872年9月4日(明治5年8月2日)に、明治政府から発布された、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令です。その序文として「學事獎勵ニ關スル被仰出書」が出され、教育理念が示されました。その内容は、四民平等の原則に立って、封建時代の儒教的教育理念を否定し、個人主義、実学主義を教育の原理としたものです。そして、国民皆学を目ざし、立身出世の財本としての学問の普及を理念として、全国を8大学区、1大学区を32中学区、1中学区を210小学区に編成、大学区に大学、中学区に中学、小学区に小学校、各1校ずつを設置しようとし、文部省の中央集権的管理を目ざしました。義務教育は8年と定められていましたが、費用は住民の負担にしたため、学制に反対する一揆が起こり、1879年(明治12)に廃止になり、教育令に切り換えられたのです。

☆『學事獎勵ニ關スル被仰出書』(全文)

學事獎勵ニ關スル被仰出書(學制序文)

太政官布告第二百十四號(明治五壬申年八月二日)

朕人々自ラ其身ヲ立テ、其産ヲ治メ、其業ヲ昌ニシテ、以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ、身ヲ脩メ、智ヲ開キ、才藝ヲ長スルニヨルナリ。而テ其身ヲ脩メ、智ヲ開キ、才藝ヲ長スルハ學ニアラサレハ能ハス。是レ學校ノ設アル所以ニシテ日用常行、言語、書算ヲ初メ、士官・農商・百工・技藝及ヒ法律・政治・天文・醫療等ニ至ル迄、凡人ノ營ムトコロノ事、學アラサルハナシ。人能ク其才ノアル所ニ應シ、勉勵シテ之ニ從事シ、而シテ後初テ生ヲ治メ、産ヲ興シ、業ヲ昌ニスルヲ得ヘシ。サレハ學問ハ身ヲ立ルノ財本共云ヘキ者ニシテ、人タルモノ誰カ學ハスシテ可ナランヤ。夫ノ道路ニ迷ヒ、飢餓ニ陷リ、家ヲ破リ、身ヲ喪ノ徒ノ如キハ、畢竟不學ヨリシテカヽル過チヲ生スルナリ。從來學校ノ設アリテヨリ年ヲ歴ルコト久シト雖トモ、或ハ其道ヲ得サルヨリシテ人其方向ヲ誤リ、學問ハ士人以上ノ事トシ、農工商及ヒ婦女子ニ至ツテハ、之ヲ度外ニヲキ學問ノ何物タルヲ辨セス。又士人以上ノ稀ニ學フ者モ、動モスレハ國家ノ爲ニスト唱ヘ、身ヲ立ルノ基タルヲ知ラスシテ、或ハ詞章記誦ノ末ニ趨リ、空理虚談ノ途ニ陷リ、其論高尚ニ似タリト雖トモ、之ヲ身ニ行ヒ事ニ施スコト能ハサルモノ少カラス。是即チ沿襲ノ習弊ニシテ文明普ネカラス。才藝ノ長セスシテ、貧乏破産喪家ノ徒多キ所以ナリ。是故ニ人タルモノハ學ハスンハ有ヘカラス。之ヲ學フニハ宜シク其旨ヲ誤ルヘカラス。之ニ依テ、今般文部省ニ於テ學制ヲ定メ、追々敎則ヲモ改正シ、布告ニ及フヘキニツキ、自今以後、一般ノ人民 華士族卒農工商及婦女子 必ス邑ニ不學ノ戸ナク、家ニ不學ノ人ナカラシメン事ヲ期ス。人ノ父兄タル者宜シク此意ヲ體認シ、其愛育ノ情ヲ厚クシ、其子弟ヲシテ必ス學ニ從事セシメサルヘカラサルモノナリ。 高上ノ學ニ至テハ其人ノ材能ニ任カスト雖トモ幼童ノ子弟ハ男女ノ別ナク小學ニ從事セシメサルモノハ其父兄ノ越度タルヘキ事
但從來沿襲ノ弊學問ハ士人以上ノ事トシ、國家ノ爲ニスト唱フルヲ以テ、學費及其衣食ノ用ニ至ル迄多ク官ニ依頼シ、之ヲ給スルニ非サレハ學ハサル事ト思ヒ、一生ヲ自棄スルモノ少カラス。是皆惑ヘルノ甚シキモノナリ。自今以後此等ノ弊ヲ改メ、一般ノ人民他事ヲ抛チ自ラ奮テ必ス學ニ從事セシムヘキ樣心得ヘキ事
右之通被仰出候條、地方官ニ於テ邊隅小民ニ至ル迄不洩樣、便宜解譯ヲ加ヘ、精細申諭文部省規則ニ隨ヒ、學問普及致候樣、方法ヲ設可施行事。

                    「法令全書」より
 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<現代語訳>
学事奨励に関する仰せ出だされ書

人々が自分自身でその身を立て、その生計を立て、その家業を盛んにして、そのようにしてその一生を成就することができるものはというと、それは他でもない、自分の行いや心を整え正し、知識を広め、才能と技芸を伸ばすことによるものである。そうして、その、自分の行いや心を整え正し、知識を広め、才能と技芸を伸ばすことは、学ばなければ不可能である。これが学校を設置する理由であり、日常普段の行動、言語・読み書き・算数を始め、役人・農民・商人・いろいろな職人・技芸に関わる人、ならびに法律・政治・天文・医療等に至るまで、だいたい人の営むところで学ぶ事によらないものはない。人間はよくその才能のあるところに応じて勉励して学問に従事し、その後に初めて自分の暮らしの道を立て、資産を増やし、家業を盛んにすることができるであろう。従って、学問は立身のための資本ともいうべきものであって、人間たるものは、誰が学問をしないでよいということがあろうか、いやない。その、路頭に迷い、飢餓にはまり、家を破産させ、身を滅ぼすような人たちは、要するに学ばなかったことによって、このような過ちをもたらしたのである。これまで学校が設置されてから長い年月が経過しているとはいっても、あるいはその方法が正しくないことによって人はその方向を誤り、学問は武士階級以上の人がすることと考え、農業・工業・商業に就く人、及び女性や子供に至っては、学問を対象外のものとし、学問がどういうものであるか考えていない。また、武士階級以上の人でまれに学問する者があっても、場合によると学問は国家のためにするのだと唱え、学問が身を立てる基礎であることを知らないで、ある者は詩歌や文章を暗唱するなどの瑣末なことに走ったり、現実とかけ離れた役に立たない理論や事実に基づかない話に陥り、その言っている論理は知性や品性の程度が高いように見えるけれども、これを自分自身が行ったり、実施したりすることができないものが、少なくない。これはつまり、長い間従ってきた古くからの悪い習わしであって、文明が普及せず、才能と技芸が上達しないために、貧乏や破産、家を失う者といった連中が多い理由である。こういうわけで、人間は学問をしなければならないのである。これを学ぶためには、ぜひともその趣旨を誤ってはならない。こういう理由で、このたび文部省で学制を定め、順々に教則を改正し布告していくことになるだろうから、今から後は、一般の人民(華族・士族・卒族・農民・職人・商人及び女性や子供)は、必ず村に子供を学校に行かせない家がなく、家には学校に行かない人がいないようにしたい。人の父兄である者は、よくこの趣旨を認識し、その子弟を慈しみ育てる気持ちを厚くし、その子弟を必ず学校に通わせるようにしなければならない。上級の学校については、その人の才能に任せるが、幼い子弟は男女の別なく、小学校に通わせないことは、その父兄の落ちどであることになること。

ただし、これまでの長期間の悪習となっている学問は武士階級以上の人のことであり、そして学問は国家のためにすることだと唱えることにより、学費及びその衣類・食事の費用に至るまで、多くを官に依拠して、これを給付してくれるのでなければ学問はしないと思い、一生自分の身を粗末にして顧みない者が少なくない。これは皆どうしたらよいか戸惑っていることの甚しいものである。今から以後は、これらの弊害を改め、一般の人民は他の事を投げうって自分から奮闘して必ず学問に従事させるように心得るべきであること。

右の通り仰せ出だされましたので、地方官において、辺境の庶民に至るまで漏らすことのないよう、その時々に応じ、意義を説明してやり、詳しく細かく申し諭し、文部省規則に従い、学問が普及していくように、方法を考えて施行すべきであること。

☆「近代教育の遺産」のお勧め
 
(1)「農業教育資料館」<岩手県盛岡市>
 この建物は、我が国最初の高等農林学校として、明治時代後期の1902年(明治35)に創立された盛岡高等農林学校の本館として、1912年(大正元)12月に建てられました。明治期の形を伝える国立専門学校の中心施設として現存する数少ない貴重な遺構なので、1994年(平成6)に国の重要文化財に指定されています。館内には、盛岡高等農林学校創立以来の農学部における農学教育や研究に関する資料と宮澤賢治在学中の資料の一部が展示公開されています。

(2)「小諸市立小諸義塾記念館」<長野県小諸市>
 小諸義塾は、キリスト教牧師であった木村熊二が小山太郎らの要請の応えて1893年(明治26)11月に開設した私塾です。1906年(明治39)に閉鎖されるまでキリスト教による近代教育を実践しました。塾長は木村熊二で、教師には小説家として有名になった島崎藤村らがいました。この建物は、小諸義塾本館校舎を移築復元したもので、内部には、当時の教育に関する資料が展示されています。

(3)旧開智学校<長野県松本市>
 ここは、明治時代前期の1876年(明治9)に竣工した洋風校舎で、文明開化時代の小学校建築を代表する建物として、1961年(昭和36)に国の重要文化財になっています。内部は、教育博物館として江戸から現在までの各種教育資料が展示されています。明治時代の教育を知る上でも重要な資料を見ることができます。

(4)「旧制高等学校記念館」<長野県松本市>
 ここは、1993年(平成5)、あがたの森公園内に開館した松本市立の博物館で、全国の旧制高等学校に関する貴重な資料を収集して、展示しています。前身は隣接して建つ旧制松本高等学校校舎内に1981年(昭和56)に開設された「旧制松本高等学校記念館」で、その校舎は現在「あがたの森文化会館」として活用されていて、2007年(平成19)に国の重要文化財に指定されています。

(5)「旧岩科学校校舎」<静岡県賀茂郡松崎町>
 ここは、明治時代前期の1880年(明治13年)に完成をみた、洋風デザインの印象的な建物で、1992年(平成4)に改修工事をして建設当初の姿に復元されています。貴重な明治時代の学校建築として、国の重要文化財になっていて、内部には、明治時代以降の教育に関する資料が展示され、人形によって教育現場が再現されています。

(6)「旧見附学校」<静岡県磐田市>
 静岡県磐田市見付にある学校跡で、磐田市のシンボルともなっています。この校舎は、明治時代前期の1874年(明治7)に着工し、翌年完成して、開校式が行われました。1883年(明治16)には、3階部分を増築し、2層の楼をその上に造る改築工事が行われて、現在の外観になったのです。現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎として、貴重なものなので、北側にある磐田文庫と共に、1969年(昭和44)に国の史跡に指定されました。館内は、教育資料館として、教育関係の資料を中心に展示し、授業風景も人形によって、再現しています。

☆国の重要文化財に指定された近代学校建築一覧

<北海道>
・遺愛学院(旧遺愛女学校)本館 (北海道)
・旧札幌農学校演武場(時計台) (北海道)
・北海道大学農学部(旧東北帝国大学農科大学)第二農場・事務所 (北海道)
・北海道大学農学部(旧東北帝国大学農科大学)第二農場・種牛舎 (北海道)
・北海道大学農学部(旧東北帝国大学農科大学)第二農場・牧牛舎 (北海道)
・北海道大学農学部(旧東北帝国大学農科大学)第二農場・産室・追込所及び耕馬舎 (北海道)
・北海道大学農学部(旧東北帝国大学農科大学)第二農場・穀物庫 (北海道)
・北海道大学農学部(旧東北帝国大学農科大学)第二農場・収穫室及び脱ぷ室 (北海道)
・北海道大学農学部(旧東北帝国大学農科大学)第二農場・秤量場 (北海道)
・北海道大学農学部(旧東北帝国大学農科大学)第二農場・釜場 (北海道)
・北海道大学農学部(旧東北帝国大学農科大学)第二農場・製乳所 (北海道)
・北海道大学農学部植物園・博物館・博物館本館 (北海道)
・北海道大学農学部植物園・博物館・博物館事務所 (北海道)
・北海道大学農学部植物園・博物館・博物館倉庫 (北海道)
・北海道大学農学部植物園・博物館・植物園門衛所 (北海道)

<東北>
・弘前学院外人宣教師館 (青森県)
・岩手大学農学部(旧盛岡高等農林学校)旧本館 (岩手県)
・岩手大学農学部(旧盛岡高等農林学校)門番所 (岩手県)
・旧登米高等尋常小学校校舎 (宮城県)
・旧山形師範学校本館 (山形県)
・旧米沢高等工業学校本館 (山形県)
・旧福島県尋常中学校本館 (福島県)

<関東>
・旧茨城県立太田中学校講堂 (茨城県)
・旧茨城県立土浦中学校本館 (茨城県)
・旧学習院初等科正堂 (千葉県)
・学習院旧正門 (東京都)
・旧東京医学校本館 (東京都)
・旧東京音楽学校奏楽堂 (東京都)
・慶應義塾図書館 (東京都)
・慶応義塾三田演説館 (東京都)
・自由学園明日館中央棟 (東京都)
・自由学園明日館東教室棟 (東京都)
・自由学園明日館西教室棟 (東京都)
・自由学園明日館講堂 (東京都)
・早稲田大学大隈記念講堂 (東京都)
・明治学院インブリー館 (東京都)

<中部>
・旧富山県立農学校本館(富山県立福野高等学校巌浄閣) (富山県)
・旧第四高等中学校本館 (石川県)
・旧睦沢学校校舎 (山梨県)
・旧開智学校校舎 (長野県)
・旧松本高等学校・本館 (長野県)
・旧松本高等学校・講堂 (長野県)
・旧中込学校校舎 (長野県)
・旧岩科学校校舎 (静岡県)

<近畿>
・同志社(旧英学校、神学校及び波理須理科学校)彰栄館 (京都府)
・同志社(旧英学校、神学校及び波理須理科学校)ハリス理化学館 (京都府)
・同志社(旧英学校、神学校及び波理須理科学校)有終館 (京都府)
・同志社(旧英学校、神学校及び波理須理科学校)礼拝堂 (京都府)
・同志社(旧英学校、神学校及び波理須理科学校)クラーク記念館 (京都府)
・龍谷大学本館 (京都府)
・龍谷大学南黌 (京都府)
・龍谷大学北黌 (京都府)
・龍谷大学旧守衛所 (京都府)
・愛珠幼稚園園舎 (大阪府)
・奈良女子大学(旧奈良女子高等師範学校)旧本館 (奈良県)
・奈良女子大学(旧奈良女子高等師範学校)守衛室 (奈良県)

<中国>
・岡山県立津山高等学校(旧岡山県津山中学校)本館 (岡山県)
・旧旭東幼稚園園舎 (岡山県)
・旧遷喬尋常小学校校舎 (岡山県)

<四国>
・旧開明学校校舎 (愛媛県)

<九州>
・旧第五高等中学校・本館 (熊本県)
・旧第五高等中学校・化学実験場 ( (熊本県)
・旧第五高等中学校・表門 (熊本県)
・熊本大学工学部(旧熊本高等工業学校)旧機械実験工場 (熊本県)

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旅の豆知識「飛騨製糸工女の道」

2017年07月29日 | 旅の豆知識
 近年、日本の近代史に関心を向ける人が多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、日本の近代化の跡を追いかけてみるのも、また面白いものです。
 明治維新以後、富国強兵策のもとで、外貨を稼いで、軍備増強の元手を担ったのは、生糸でした。それは、農家の養蚕によって作る繭を原料に、10代、20代のうら若き製糸工女の手によって、紡がれていたのです。製糸業の中心は長野県や群馬県でしたが、とりわけ信州諏訪地方に集中していました。工女達は周辺農村部から集められ、粗末な寄宿舎に寝起きして、ろくに休みもなく1日12時間以上の過酷な労働に従事しました。
 その様子は、細井和喜蔵の『女工哀史』や山本茂実の『あゝ野麦峠』などの著作で知られ、後者は山本薩夫監督によって、1979年(昭和54)に映画化され、大きな反響を呼びました。続編『あゝ野麦峠 新緑篇』も、1982年に同じく山本薩夫監督によって映画化されていますが、飛騨の製糸工女達が、遠路はるばる厳冬の野麦峠を越えていく様子はとても印象に残りました。

〇『女工哀史』とは?
 細井和喜蔵著のルポルタージュで、大正時代の1925年(大正14)7月に、改造社から刊行されました。京都の貧農出身の著者が、15年間紡績工場の下級職工として働いた経験と見聞に基づいて書かれています。
 女工募集の裏表(第3章)、雇傭契約制度(第4章)、労働条件(第5章)、工場に於ける女工の虐使(第6章)、寄宿舎生活(第7・8章)、「福利増進施設」(第10章)などの労働・福利厚生の実態と、女工の心理(第16章)や生理・病理(第17章)を詳細に描き、巻末に「女工小唄」も採譜収録されていました。
 刊行後版を重ねて多くの人々に読まれ、女工の過酷な労働の代名詞としても、この書名が使われるようにもなったのです。

〇『あゝ野麦峠』とは?
 山本茂実著の飛騨地方から信州へ来た製糸工女のルポルタージュで、昭和時代後期の1968年(昭和43)に、朝日新聞社から出版され、1972年(昭和47)には、新版が刊行されました。明治時代前期から大正時代にかけて、飛騨地方の貧農の娘達は、長途野麦街道を徒歩で信州の製糸工場へ働きに行きました。
 まず、古川、高山の町に集まり、工場毎の集団になって、美女峠を越え、寺附(朝日村)又は中之宿(高根村)で1泊し、難所の野麦峠(標高1672m)を越えて信州に入り、奈川村のどこかの集落の宿に泊まり、奈川渡を経て、島々(安曇村)又は波田(波田町)に泊まって、塩尻峠を越えて諏訪地方に、だいたい3泊4日の行程で至ったのです。
 この旅は、1934年(昭和9)に国鉄高山線が開通するまで続きました。工女達は周辺農村部から集められ、粗末な寄宿舎に寝起きして、ろくに休みもなく1日12時間以上の過酷な労働に従事したのです。

☆「飛騨製糸工女の道」の関係地
 
(1)八ツ三館<岐阜県飛騨市>
 当時、飛騨北部地方の工女の集結地の旅館の一つで、製糸工場の検番たちが工女を募集する根拠地ともなり、工女の荷物の集散までやっていました。この旅館は、唯一当時の建物が残り、昔の繁栄を想起させてくれます。
 また、川をはさんだ向こう岸には、あゝ野麦峠記念碑が立ち、工女の像もあります。

(2)美女峠<岐阜県高山市・久々野町>
 工女達はこの峠を越えると、高山の町が見えなくなるため、ふるさとに向かって永の別れを惜しんだところで、見送りのもの達もたいていはここの茶屋で別れをしました。峠に上る途中からは、高山の町を遠望することができ、当時の別れの様子を思い起こさせてくれます。しかし、当時の街道は現在の自動車道の峠の位置とは異なっています。
 旧道で高山から峠を越える途中には、橋場、差手観音、接待所跡(峠の茶屋)、餅売場、比丘尼屋敷、峠観音、神力不動尊堂などの旧跡があり、工女達のつらい旅を思い起こさせてくれます。

(3)野麦峠<岐阜県高山市・長野県松本市>
 信州へ向かう最大の難所で、標高1672mあり、冬期に越えるのは至難で、谷底に転落したり、病で倒れる工女が多数いました。
 峠にはお助け小屋が復元され、石地蔵や供養塔が残り、また、「野麦峠の館」には、当時の峠越えを再現したコーナーもあり、当時の厳しかった野麦越えの旅を追想させてくれます。
 晴れれば、乗鞍岳の眺望がすばらしく、『あゝ野麦峠』の碑も立っています。

(4)川浦歴史の里・扇屋<長野県松本市>
 川浦歴史の里は、飛騨から信州へ向かう製糸工女たちが通った野麦街道沿い、野麦峠から信濃方面へ下った山麓にあります。ここにある「扇屋」は、野麦峠の山麓 旧奈川村川浦の当時の尾州藩旅人宿を再現した展示館なのです。昔ながらの板葺き屋根に石を載せた造りで、とてもレトロな感じでした。
 館内には、飛騨と岡谷・諏訪との峠越えをした女工の姿、わらび粉づくりの作業姿、尾州岡船「奈川牛」の道中姿が人形によって再現されています。
 また、レトロな写真や野麦街道や工女達、尾州岡船についての展示もあって、勉強になりました。尚、隣に「ふるさと体験館」が併設されています。

(5)松本市歴史の里<長野県松本市>
 ここには、飛騨から信州へ向かう製糸工女が、旅の途中泊まった工女宿「宝来屋」が移築復元されています。元は南安曇郡奈川村川浦にありましたが、民間の手によってここに移されました。
 昔の面影が色濃く残り、工女達が暖をとり、その周りで食事をしたいろり、20人以上が一つに集まって雑魚寝したこたつなど、当時の工女達が使ったものが展示されています。
 また、隣接して、座繰り製糸工場も移築復元されていて当時の工場の様子を見ることができ、レストハウス内には、『あゝ野麦峠』の著者山本茂実の記念展示室もでき、関連資料も展示してあります。

(6)岡谷蚕糸博物館<長野県岡谷市>
 岡谷は、当時の製糸業の中心地で、明治初期は水車を利用し、その後蒸気機関を動力としてたくさんの工場がありました。昭和初期の最盛期には4万人近くが働いていたといわれ、飛騨から来た工女の多くもここにいました。
 この博物館では、当時の製糸工場で使われていた座繰機が展示され、製糸業の発展の様子をうかがうことが出来、大変勉強になります。隣接している宮坂製糸所で、実際の製糸の仕事場を見学することもできます。
 また、市内にはゆかりの建物や史跡などがいくつか残されていて、当時の繁栄を偲ぶことができます。

☆細井和喜蔵著『女工哀史』(抜粋)

第五 労働条件 十三

 凡そ紡績工場くらい長時間労働を強しる処はない。大体に於ては十二時間制が原則となつて居るが先ずこれを二期に分けて考えねばならぬ。
 第一期は工場法発布以前であつて、此の頃は全國の工場殆ど紡績十二時間織布十四時間であつた。而して第二期に当たる工場法後から今日へかけては、紡績十一時間、織布十二時間というのが最も多数を占める。

(中略)

 東京モスリンでは十一時間制が原則となつて居り、織部は昼業専門だと、公表している。而し乍ら實際では十二時間制の上に夜業がある。だから凡ての労働事情は官省の調査や、第三者の統計などで決して真相が判るものではない。しからば同社は十一時間制を公表して如何なる方法によつて十二時間働かせているかと言えば、後の一時間は「残業」という名目であり、夜業は自由にその希望者のみにやらせるのだと言ひ逃れてゐる。一年三百有余日残業するところがはたして欧米にあるだろうか?

(後略)

第十七 生理並に病理的諸現象 六十二

(前略)

 女工の子供は實によく死ぬる。即ち千人中三百二十人はその年中に死亡して了ふのであつて、一般死亡率の二倍といふ高率になつてゐるのだ。独逸に於ける富裕階級の乳児死亡率が出産百に對し僅々八であった抔に比較して、貧兒のあはれを痛切に感じる。此の如く資本主義の無情は罪なき幼な兒にまでふりかゝらねばならなかつた。

(中略)

 それからまた女工には流産や死産が甚だ多い。これは説明するまでもなく母性保護の行き届かざるに依るのであつて、最少限度を示した工場法の規定も、労働組合が活動して職工自身厳重な監督機関とならざる限りは到底實行を期し難い。
 流産および死産は農村に於て總妊娠中の二割、女教員が三割以上だと言われてゐる。これより推定すれば女工は四割以上にも當たるだらう。
 女工總数三百人中有夫通勤女工八十人を出でぬ小工場で、五年間私がゐた間に大おりといふのが六人あつた。殊に織布部の某女工の如きは體が全く動けなくなるまで工場へ出勤した為、作業中に機間へぶつ倒れて機械から仕掛品から床面まで、あたり一面血の海と化して了つた。こんな鹽梅だから人に知れぬ程度の流産がどれ丈け多いことか。
 紡績工の兒童には又発育不良、醜兒、低能兒、白痴、畸形兒、盲唖などが可成り多い。私の歩いた大小工場で其の保育場を見廻はるに、何れへ行つても強く賢こさうな美しい兒供は一人としてゐず、胎毒で瘡蓋だらけな頭のでつかい醜兒ばかりであつた。さうして社宅から出る學齢兒童中には屹度低能兒が数人まじつて居り、其のほか通學さえも出来ぬ白痴や盲唖がゐるのだつた。現にいま本稿を書く為生活を支へている小工場中にでも、跛で白痴なる少年一人、唖の少女一人、生後一ヶ年にて體は生後二ヶ月にも足らぬ大きさしかなく、頭は大人より多きいところの福助一人、低能兒が數人いるのである。
 普通統計によれば畸形兒や白痴は千人に對して二人くらひしかゐない。しかし紡績工の兒童は尠くともその三倍以上だと推断することができる。

附録 女工小唄
  
  篭の鳥より監獄よりも 寄宿住いはなお辛い。
  工場は地獄で主任が鬼で 迴る運転火の車。
  糸は切れ役ゆしゃつなぎ役 そばの部長さん睨み役。
  定則出来なきや組長さんの いやなお顔も身にゃならぬ。
  わしはいにますあの家さして いやな煙突あとに見て。
  偉そうにするお前もわしも 同じ會社の金もらう。
  偉そうにする主任じゃとても もとは枡目のくそ男工。
  世話婦々々々と威張って居れど もとを糺せば柿のたね。
  此処を抜けだす翼がほしや せめてむこうの陸までも。
  主任部長と威張って居れど 工務の前にゃ頭ない。
  男工串にさして五つが五厘 女工一人が二十五銭。
  男もつならインヂ(エンヂン)か丸場 枡目男工は金が無い。
  會社男工の寝言をきけば 早く勘定来い金が無い。
  主とわたしはリング(輪具の精紡機)の糸よ つなぎやすいが切れやすい。
  主とわたしや二十手(二十番手)の糸よ つなぎやすいが切れやすい。
  余所の會社は仏か神か こゝの會社は鬼か蛇か。
  こゝの會社は女郎屋と同じ 顔で飯食ふ女郎ばかり。
  親のない子は泣き泣き育つ 親は草葉のかげでなく。
  うちさ行き度いあの山越えて 行けば妹もある親もある。
  會社づとめは監獄づとめ 金の鎖が無いばかり
  男工なにする機械のかげで 破れたシャツの虱とる。
  女工々々と軽蔑するな 女工は會社の千両箱。
  紡績職工が人間なれば 電信柱に花が咲く。
  女工々々と見さげてくれるな 国へ帰れば箱娘。
  嬉し涙を茶碗にうけて 親に酒だと飲ませたい。
  娘いまかと言はれた時にゃ わが見こゝろは血の涙。
  国を発つときゃ涙で出たが 今じゃ故郷の風もいや。
  いつも工場長の話を聴けば 貯金々々と時計のよだ。
  工場しまつて戻れば寄宿 蛙なく夜の里おもひ。
  早くねんあけ二親様に つらい工場の物語り。
  會社男工に目をくれたなら 末は篠巻まるはだか。
  こんな會社へ来るのぢゃないが 知らぬ募集人にだまされて。
  此処の會社の規則を見れば 千に一つの徒が無い。
  うちが貧乏で十二の時に 売られて来ました此の會社

                細井和喜蔵著『女工哀史』より

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旅の豆知識「自由民権運動」

2017年07月28日 | 旅の豆知識
 近年、日本が近世から近代へと向かう、明治維新期の歴史に目を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、明治維新期の跡を追いかけてみるのも良いかと思います。
 明治維新によって、いくつかの改革が行われましたが、庶民の願いとはほど遠いもので、年貢が地租に代わっただけで、重い農民の負担は軽減されませんでした。西南戦争で士族の反乱は終息しますが、農民の一揆は激化して、政府は地租を引き下げざるをえなくなります。
 今日は、日本が近代へと変わっていく「自由民権運動」の史跡を訪ねてみたいと思います。「自由民権運動」は、明治時代前期に薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げた運動でした。
 その足跡を訪ねてみると、日本が近世から近代へと向かう移行期の状況が伝わってきて、結構新たな発見があるものでなので、ぜひ巡ってみることをお勧めします。

〇「自由民権運動」とは?
 明治時代前期、1874年(明治7)の板垣退助等による民撰議院設立建白書の提出を契機に自由民権運動が始まりました。
 それ以降、薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げて運動が行われました。
 しかし、政府の集会条例や保安条例による徹底弾圧と自由党への懐柔策によって、運動は沈滞していきます。
 その中で、農民等が主役となった、福島事件や秩父事件などの自由民権運動の激化事件がおきることになりました。

<☆「自由民権運動」の関係地
 
(1)喜多方事件関係地<福島県喜多方市>
 明治時代前期の1882年(明治15)2月に、自由党撲滅を豪語して福島県令となった三島通庸が、県会の議決を無視して会津三方道路開設の夫役(15歳以上60歳以下の会津地方の住民男女は2か年間毎月1日の夫役が課せられ、服役負担を怠ると1日男子15銭、女子10銭の代夫賃納入が義務付けられた)を農民に強制、彼の圧政に反抗する福島県の自由党員・農民を弾圧した事件を福島事件と呼んでいます。
 その中で、同年11月、佐治幸平らの逮捕をきっかけに、28日午後6時山刀・棍棒・熊手を手に千数百人の農民が弾正ヶ原に集まり、隊列を整え喜多方警察署におしかけ、警察官は抜刀し農民たちに切りかかり無理やり解散させ、「兇徒聚衆罪」の罪名で反対者が多数検挙された喜多方事件が起こりました。また、この事件を口実に河野広中ら県下の自由党員も一斉に捕らえられ、その結果、農民323名が罰金刑に、指導者層57名は 国事犯として東京で裁判にかけられたのです。
 現在は、喜多方市内の出雲神社社殿の右裏に、ここで自由民権運動の政談演説会が、度々催されたのを記念して“自由民権発祥地”と書かれた石碑があり、1982年(昭和57)の喜多方事件百周年を記念して、喜多方市立厚生会館前に“喜多方事件百周年記念顕彰碑”が建てられ、農民たちが集結した弾正ヶ原には、“弾正ヶ原事件百年祭記念碑”が建てられています。また、道の駅「喜多の郷」に隣接した蔵の里の旧東海林家酒造蔵の1階に自由民権運動喜多方事件資料展示があります。

(2)「自由民権記念館」<福島県田村郡三春町>
 「三春町歴史民俗資料館」に併設された施設で、ここが自由民権運動発祥の地として、県内はもとより東北の民権運動をリードした河野広中をはじめとする多くの民権家を輩出したことにより建設されました。
 また、三春町役場から歴史民俗資料館へ向かう坂の途中には、「自由民権ひろば」があり、河野広中の銅像や「自由民権運動発祥の地」の記念碑があります。
 また、近くの紫雲寺境内には、河野広中の遺髪塚があり、その前の道路脇に加波山事件「自由の魁」の碑が立っています。

(3)秩父事件関係地<埼玉県秩父市>
 埼玉県秩父地方では、米や生糸相場の暴落、多額の負債のため生活が疲弊し、明治時代前期の1884年(明治17)、困民党のもとに農民たちがやむにやまれず立ち上がりました。
 しかし、明治政府による徹底した弾圧によって押さえ込まれ、厳罰に処せられました。秩父地方を巡ると音楽寺、椋神社、田代栄助の墓などにその足跡を見い出し、自由民権の先駆けになって処刑された人々のことを考えずにはおられませんでした。
 この事件については、2004年(平成16)公開の映画「草の乱」(神山征二郎監督)に描かれています。その撮影の時に使用されたオープンセットの一部が、吉田町の「龍勢会館」に隣接して残されていて、その井上伝蔵邸が「秩父事件資料館」になり、貴重な資料を見ることができます。

(4)五日市憲法草案関係地<東京都あきるの市>
 “五日市憲法草案”は、明治時代前期に作られた私擬憲法の一つで、東京都西多摩郡五日市町(現在の東京都あきる野市)の深沢家土蔵から発見されたためこの名前で呼ばれています。
 全204条からなり、そのうち150条を基本的人権について触れ、国民の権利保障に重きをおいたもので、当時の自由民権運動の影響を受けたものだと考えられています。国民の権利などについて、当時としては画期的な内容が含まれ、現日本国憲法に近い内容もみられる先進的なものです。
 現在、「あきる野市五日市郷土館」には、“五日市憲法草案”についてのコーナーが設けられていますし、五日市中学校敷地内に五日市憲法草案の碑が立てられています。また、これが発見された深沢家土蔵は保存されていて、深沢家屋敷跡として、1983年(昭和58)に東京都指定の史跡となっています。

(5)「町田市立自由民権資料館」<東京都町田市>
 この資料館は、町田市が1986年(昭和61)に設立したもので、明治時代前期の1883年(明治16)に、自由民権活動家村野常右衛門が青年民権家の育成のために開いた凌霜館の跡地に建っています。
 富農が多かった多摩、神奈川では自由民権運動が、1877年(明治10)頃以降から活発化し、町田では石阪昌孝や青木正太郎などの指導により、多くの青年民権家も生まれました。
 この資料館では、自由民権運動及び町田の歴史に関する資料の収集、保管、閲覧、また常設展示「武相の民権/町田の民権」のほか年2回の企画展開催などを行っています。系統的な展示がなされているので、この地域の自由民権運動を知る上では、とても貴重な施設で、とても勉強になります。
 また、近くのぼたん園(石阪家跡)には、自由民権の碑や石阪昌孝の墓もあり、薬師池公園には、自由民権の像が立っています。

(6)「高知市立自由民権記念館」<高知県高知市>
 この記念館の正面には「自由は土佐の山間より」と書かれていて、さすがに自由民権運動の嚆矢となった立志社の設立された発祥の地であり、板垣退助や植木枝盛などが活躍したところだけあって、展示は充実していました。
 若い女性の館員が、展示解説をしてくれたのですが、いくつか質問したことにも一生懸命に答えてくれて好感が持てました。しかし、明治時代前期に山間地の村々に至るまで、自由民権の旗が押し立てられ、草の根から活動していたことに驚かされました。
 それにしても、時の明治政府の弾圧のすさまじいこと、多くの犠牲者が出ていることも心に刻み込まれたのです。また、植木枝盛の憲法草案「東洋大日本国国憲案」には、主権在民の思想が貫かれていて、当時としては画期的なものだったと感心しました。
 また、高知城内に板垣退助像と「板垣死すとも自由は死せじ」の碑もあります。

☆自由民権運動の推移
<1874年(明治7)>
 (1月)板垣退助らが愛国公党を結成する
 (1月)板垣退助らが民撰議院設立の建白書を提出する
 (2月)江藤新平が佐賀で乱を起こす(佐賀の乱)
 (4月)板垣退助らが立志社を設立する

<1875年(明治8)>
 (5月)樺太・千島交換条約が結ばれる
 (6月)讒謗律・新聞紙条例が制定される

<1876年(明治9)>
 (2月)日朝修好条規が締結される

<1877年(明治10)>
 (2月)西南戦争が起きる

<1878年(明治11)>
 (11月)大久保利通が暗殺される

<1879年(明治12)>
 (12月)琉球処分が行われ、琉球藩を沖縄県とする

<1880年(明治13)>
 (3月)国会期成同盟が結成される
 (4月)集会条例を定めて、言論や集会を取りしまる
  このころから、自由民権運動が高揚しはじめる

<1881年(明治14)>
 (7月)北海道開拓使官有物払下げ事件が起こる
 (10月)明治十四年の政変で、大隈重信らが罷免される
 (10月)国会開設の勅諭が出される
 (10月)板垣退助らが自由党を結成する
  このころ、憲法制定論議が活発化し、各種の私擬憲法がつくられる

<1882年(明治15)>
 (3月)伊藤博文ら、憲法調査のためヨーロッパへ行く
 (3月)大隈重信が立憲改進党を結成する
 (11月)福島事件(福島県)が起こる

<1883年(明治16)>
 (3月)高田事件(新潟県)が起こる

<1884年(明治17)>
 (5月)群馬事件(群馬県)が起こる
 (9月)加波山事件(栃木・茨城県)が起こる
 (10月)自由党が解党する
 (10月)秩父事件(埼玉県)が起こる
 (12月)名古屋事件(愛知県)が起こる
 (12月)飯田事件(長野県)が起こる

<1885年(明治18)>
 (11月)大阪事件(大阪府)が起こる

<1886年(明治19)>
 (6月)静岡事件(静岡県)が起こる

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旅の豆知識「戊辰戦争」

2017年07月27日 | 旅の豆知識
 近年、日本が近世から近代へと向かう、幕末明治維新期の歴史に目を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として、幕末明治維新期の跡を追いかけてみるのも、また面白いものです。
 江戸幕府による封建支配は、寛政の改革や天保の改革などの度重なる改革や安政の大獄のような弾圧によっても矛盾を広げるばかりで、農村での百姓一揆、都市での打ちこわしを激化させ、幕府の支配体制を揺るがしました。外圧や西南諸藩による討幕運動もあって、ついに、1867年(慶応3)に大政奉還が行われ、江戸幕府による支配を終わらせることになります。
 江戸幕府に代わって出来た明治新政府も薩摩藩や長州藩などの西南諸藩連合の色合いを強く持ち、諸改革も不徹底で、政治体制の変革を願った庶民の思いとは、かけ離れたものとなってしまいます。また、戊辰戦争による人的、経済的被害も大きなものでした。
 今日は、この近世から近代への変わり目となった「戊辰戦争」の史跡を訪ねてみたいと思います。「戊辰戦争」は、1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および「奥羽越列藩同盟」が戦った内戦で、新政府軍が勝利しましたが、主に近畿・中部から東日本にかけて激戦が展開され、各地にその史跡が残されているのです。
 その足跡を訪ねてみると、日本の近世から近代へと向かう激動期の状況が伝わってきて、結構思いを新たにすることがあるものなのです。

〇「奥羽越列藩同盟」とは?
 幕末明治維新期の戊辰戦争中に東北地方(25藩)と越後(6藩)の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成された軍事同盟です。最初は、奥羽諸藩が会津藩、庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的として結んだ同盟でしたが、赦免嘆願が拒絶された後は、新たな政権の確立を目的とした軍事同盟に変化しました。これに、江戸などから落ち延びてきた旧幕府勢力が加わって、薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と対峙することになりました。

〇「戊辰戦争」とは?
 幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦で、鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となりました。
 名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来しています。これにより、明治政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになります。

☆「戊辰戦争」の関係地
 
(1)五稜郭<北海道函館市>
 五稜郭は、北方防備のための洋式城郭として造られ、1866年(慶応2)に完成しましたが、1868年(慶応4)から翌年にかけて、戊辰戦争最後の闘いである箱館戦争が行われたことで有名です。これで、旧幕府勢力による抵抗は終焉しました。現在、五稜郭跡は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、「五稜郭公園」として保存されていて、巡ることができます。また、公園内に、2010年(平成22)に「箱館奉行所」が木造で復元されて、一般公開されています。

(2)会津若松<福島県会津若松市>
 1868年(慶応4)の戊辰戦争最大の激戦地で、城下町は灰燼に帰し、多くの人材が喪われました。少年藩士が集団自決した、白虎隊の悲劇はこのとき、飯盛山で起こりました。市内には、多くの墓石が残り、その戦闘の激しさを今に伝えていますが、まず、会津若松城の天守閣へと向かいました。戊辰戦争の時は、この城を巡って壮絶な戦いが行われたのです。今でも堀は深く、石垣は高く、再建されたものとはいえ天守閣もそびえています。最上階からは市内が一望の下に見渡され、飯盛山もうかがうことができました。次は、旧滝沢本陣跡に向かいました。ここは、戊辰戦争の時白虎隊が出陣して行った所で今でも当時の弾痕が生々しく残されています。ここからは、徒歩で妙國寺を訪ねました。白虎隊士が埋葬されたところで、なんでも、戦後埋葬が許されず、野晒しになっていたところ密かに夜な夜な運んで埋葬したとのことです。さらに歩いて、西軍墓地へも行きました。ここは、訪れる人もほとんどなく、ひっそりとしていました。西軍十余藩174柱が眠ると記されていて、多くの墓標が立っています。東西両軍とも犠牲が多かったことが知られました。

(3)二本松<福島県二本松市>
 ここには、二本松城跡があり、1868年(慶応4)の戊辰戦争二本松の戦いの激戦地となりました。二本松少年隊の悲劇があったところで、二本松藩主・丹羽氏の菩提寺でもある大隣寺に戦死者16名の墓所があります。また、二本松城跡(霞ヶ城公園)には群像彫刻や二本松少年隊顕彰碑が立っています。二本松市役所近くにある「二本松市歴史資料館」では、戊辰戦争に関する展示がされています。

(4)白河<福島県白河市>
 ここには、白河小峰城跡がありますが、1868年(慶応4)の戊辰戦争白河口の戦いの激戦地で、東軍と西軍の主力間での攻防戦があり、落城しています。その時、三重櫓は焼失し、建物はすべて壊され、石垣と堀を残すのみとなっていましたが、1991年(平成3)120余年ぶりに、三重櫓が史実に基づいて木造復元されました。現在では、みごとな石垣の上に白と黒の勇姿を見ることが出来、内部も見学できます。戊辰戦争白河口の戦いでは、約100日間にわたる戦いがあって、千名を超える死傷者がありましたが、戦後白河の人々は、敵味方問わず戦没兵士を葬り、碑を建てました。市内には両軍合わせて30ほどの碑が残り、今も香華を手向けているそうです。

(5)長岡<新潟県長岡市>
 ここには、長岡城跡があり、1868年(慶応4)の戊辰北越戦争の舞台となった所ですが、戊辰戦争後城跡は徹底破壊され、駅前の厚生会館脇に石碑が建っているだけです。しかし、旧城下には、長岡藩の本陣となった光福寺や“米百俵の碑”、“明治戊辰戦跡顕彰碑”、“河井継之助開戦決意の地記念碑”などの記念碑、八丁沖古戦場パーク、榎峠古戦場、朝日山古戦場、関係者の墓石等が散在していて当時を偲ぶことがことが出来ます。継之助の墓も市内の栄涼寺にあります。また2006年(平成18)、河井継之助の生家跡に、「越後長岡河合継之助記念館」が建てられ、幕末関係の貴重な資料を見ることができるようになりました。

(6)鳥羽・伏見<京都府京都市南区・伏見区>
 戊辰戦争の端緒となった、鳥羽・伏見の戦いのあったところです。1868年(明治元)1月に、新政府軍五千人と旧幕府軍一万五千人が激突しましたが、新政府軍の勝利となりました。それで、前将軍徳川慶喜は海路、江戸へ逃れたため、討幕派の主導権が確定し、その後、慶喜追討の東征軍が組織され、東山道・東海道・北陸道に分かれ2月初旬には東進を開始することとなったのです。この戦いに関する史跡としては、長円寺(正門前に「戊辰役東軍戦死者之碑」、境内に「新撰組ゆかりの閻魔王」「戊辰役東軍戦死者埋骨地」がある)、伏見奉行所跡(旧幕府軍が駐屯したが、石碑のみ残る)、御香宮神社(新政府軍の陣所)、東本願寺伏見別院(会津藩の陣所だったが、石碑のみ残る)、文相寺(「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の碑がある)、妙教寺(境内に「史跡淀古城戊辰役砲弾貫通跡」の碑と「戊辰役東軍戦死者之碑」、本堂に「東軍戦死者の位牌」を残す)、戊辰役東軍西軍激戦之地碑(府道124号線脇にある)、鳥羽伏見戦跡の碑(旧小枝橋)などがあります。

☆戊辰戦争の推移

<1868年(慶応4/明治元)>
 ・1月3日 「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる
 ・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる
 ・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
 ・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される
 ・4月11日 江戸城が無血開城される
 ・5月3日 奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する
 ・5月6日 長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる
 ・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日でやぶる
 ・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する
 ・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する
 ・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する
 ・9月8日 明治に改元される
 ・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える
 ・9月10日 仙台藩が降伏する
 ・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる
 ・10月25日 榎本武揚軍が箱館を占領する

<1869年(明治2)>
 ・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する
 ・5月11日 箱館総攻撃が始まる
 ・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる


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旅の豆知識「近代化産業遺産」

2017年07月26日 | 旅の豆知識
 近年、明治時代以降の歴史に目を向ける人も多くなってきていますが、『テーマのある旅』として日本の近代史の跡を追いかけてみるのも、また面白いものです。
 近代史は、日本が資本主義国へと発展していく過程のもので、近代化へと向かう、各種の工場や産業機械・施設、鉄道や道路、港湾などの交通関係のもの、農業関係の用水路等の灌漑施設、棚田、果樹園などの産業関係の遺産にもを注目が集まってきています。
 明治維新以後、富国強兵政策がとられ、西欧列強に追いつけと、官営工場などが造られて、産業の近代化が進められました。それらの工場跡や炭鉱跡等の建造物は、日本の近代化を知る上では、とても貴重なものなので、近年脚光をあびるようになり、一部が、国の重要文化財や史跡に指定されて、保存されるようになりました。
 また、2007年(平成19)には、経済産業省による近代化産業遺産の認定も行われ、さらに、2014年(平成26)には「富岡製糸場と絹産業遺産群」が、2015年(平成27)には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界遺産(文化遺産)に登録され、注目されています。

〇「近代化産業遺産」とは?
 日本の経済産業省が認定している文化遺産の分類で、2007年11月30日に33件の「近代化産業遺産群」と575件の個々の認定遺産が公表されました。さらに、2009年2月6日に近代化産業遺産群・続33として、新たに33件の「近代化産業遺産群」と540件の個々の認定遺産が公表されました。
 幕末・明治維新から戦前にかけての工場跡や炭鉱跡等の建造物、画期的製造品、製造品の製造に用いられた機器や教育マニュアル等は、日本の産業近代化に貢献した産業遺産としての価値を持っているので、その保全・活用の取組みを進めるために認定したとのことです。

☆「近代化産業遺産」のお勧め
 
(1)ニッカウヰスキー余市蒸留所<北海道余市郡余市町>
 ここは、昭和時代前期の1934年(昭和9)3月、寿屋(現・サントリー)を退社し大日本果汁を設立した竹鶴政孝が、当地に蒸溜所を製造拠点として建設したものです。2005年(平成17) に、工場内の建物9棟が国の登録有形文化財に登録され、2007年(平成19)には、経済産業省により、近代化産業遺産にも認定されています。内部を見学させてもらうことができますが、受付で手続きをすると、ガイドが付いて無料で説明してくれ、試飲もさせてくれるのです。特に、広い敷地に石造りの建物が並ぶ様は、北海道ムードが漂いなかなか良いのです。ウヰスキー博物館の展示も充実していて、ウヰスキーの製造過程や歴史などの新たな知見を得ることも出来ました。

(2)足尾銅山<栃木県日光市>
 この銅山は、室町時代に発見されたと伝えられていますが、江戸時代に幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになりました。銅山は大いに繁栄し、江戸時代のピーク時には、年間1,200トンもの銅を産出していたとのことです。その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけては、ほぼ閉山状態となっていました。しかし、1877年(明治10)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し、数年後に有望鉱脈が発見され、生産量が増大しました。1905年(明治38)に古河鉱業の経営となり、急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の約40%の生産を上げるまでになりました。ところが、この鉱山開発と製錬事業の発展のために、周辺の山地から坑木・燃料用として、樹木が大量伐採され、製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染が広がることになります。禿山となった山地を水源とする渡良瀬川は、度々洪水を起こし、製錬による有害廃棄物を流出し、下流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、鉱毒問題を引き起こしました。1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起をして、鉱毒事件の闘いの先頭に立ったことは有名です。1973年(昭和48)に閉山しましたが、今でも銅山跡周辺に禿山が目立っています。尚、現在は足尾銅山観光などの観光地となりました。2007年(平成19)には、経済産業省により、近代化産業遺産にも認定されています。

(3)旧富岡製糸場<群馬県富岡市>
 明治政府の富国強兵策に基づいて、明治時代前期の1872年(明治5)に造られた官営工場の一つで、開業当時の繰糸所、繭倉庫などの建物が残され、2005年(平成17)「旧富岡製糸場」として国の史跡に指定されました。そして、2006年(平成18)には1875年(明治8)以前の建造物が国の重要文化財に、2007年(平成19)には、経済産業省により、近代化産業遺産に認定され、2014年(平成26)にはその一部が国宝に指定されたのです。さらに、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として、2014年(平成26)に世界遺産(文化遺産)に登録されました。見学すると、当時の製糸工場の様子がよくうかがえ、とても勉強になります。

(4)富士屋ホテル<神奈川県足柄下郡箱根町>
 箱根の宮ノ下温泉にあり、明治時代前期の1878年(明治11)に開業した日本のホテルの草分けです。外国人専門の洋式ホテルとして、箱根を国際観光地として発展させる先駆的役割を果たしました。開業時の建物は木造3階建てで、疑洋風建築でしたが、惜しくも1883年(明治16)の宮ノ下大火にあって全焼してしまいます。翌年には本格的な洋風建築として立て替えられ、その後、移築や内部改装されたものの現存して、営業を続けているのです。箱根には旧東海道沿いに古来から温泉が湧いていて、湯治場としてにぎわっていました。江戸時代には箱根7湯といわれて、繁栄していましたが、明治の文明開化以後、街道から鉄道へ交通体系が変わりつつあり、諸分野で、近代化が求められるようになってきました。その中、日本にたくさん来るようになってきた外国人に目をつけ、7湯のひとつ宮ノ下温泉に、外国人専門の洋式ホテルとして開業したものです。尚、1997年(平成9)に、主要な建物が国の登録有形文化財になり、2007年(平成19)には、近代化産業遺産群「富士屋ホテルと箱根観光関連遺産」に認定されました。

(5)韮山反射炉<静岡県伊豆の国市>
 幕府の韮山代官江川英龍(坦庵)は、1853年(嘉永6)6月、ペリーが来航して開港をせまり、江戸湾の防備が急務となったおり、国防の重要性を幕府に建議し、許可を得て大砲鋳造に必要な反射炉を築造したのです。これは佐賀藩に次いで2番目に築造されたもので、品川沖に設置された台場(砲台)用の大砲を製造しました。幕末期に、全国にいくつかの反射炉が作られましたたが、現存するものは韮山と萩のみで、完全な形で現存するここだけとのことです。炉は高さ16m程のもの2基ですが、 良質の耐火レンガと共にその精巧さは今日の溶鉱炉にも匹敵するそうです。その煉瓦造りの炉を見上げ、周囲に復元されて置いてある24ポンドカノン砲などを見ていると、幕末期の世相が見えてくるようにも思われました。ここは、1922年(大正11)に敷地も含めて国の史跡に指定されました。また、2007年(平成19)、経済産業省により、近代化産業遺産にも認定されています。さらに、2015年(平成27)、韮山反射炉を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界遺産(文化遺産)に登録されました。近くに、韮山代官だった江川家住宅が残され、1958年(昭和33)に国の重要文化財になっていて、韮山反射炉についての展示もされていますので、併せて見学することをお勧めします。

(6)マルキン醤油記念館・醬油蔵<香川県小豆郡小豆島町>
 丸金(マルキン)醤油は、明治時代後期の1907年(明治40)に香川県の小豆島に設立された醤油会社で、2000年(平成12)に忠勇株式会社と合併して、マルキン忠勇株式会社となり、2013年(平成25)に盛田株式会社に吸収合併され、“マルキン”の名称は社名からはなくなってしまいます。しかし、その小豆島工場として醤油の生産は続けられていました。現在でも大正時代に建てられたレトロな建物が多く残り、昔ながらの工場の雰囲気を湛えていて、興味をそそられるのです。「マルキン醤油記念館」は、1987年(昭和62)に丸金醤油の創業80周年を記念して、大正初期に建てられた工場のひとつを記念館として改装開館したものでした。入館は有料ですが、記念に小型の醤油を1本プレゼントしてくれるので、徳をした気分になります。内部には、江戸時代から伝わる醤油醸造の道具など貴重な資料が数多く展示されており、醤油の製造工程がよくわかり、圧搾工場だけは、窓越しにのぞくことも出来て、良い勉強になりました。この建物は、1996年(平成8)には国の登録有形文化財に登録されていますし、2009年(平成21)には、マルキン忠勇醤油蔵群が近代化産業遺産群・続33に認定されています。

(7)端島<長崎県長崎市>
 この島は、南北に約480m、東西に約160mで、面積は約6.3haの小さな島ですが、明治時代から昭和時代にかけては海底炭鉱によって栄え、最盛期の1960年(昭和35)には5千人以上の人口があり、東京以上の人口密度を有していました。炭鉱施設・住宅のほか、小中学校・店舗・病院・寺院・映画館・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していました。しかし、1974年(昭和49)の閉山にともなって島民が島を離れてからは、無人島となっています。遠景が軍艦に似ていることから、軍艦島とも呼ばれています。また、2007年(平成19)、経済産業省により、近代化産業遺産に認定され、さらに、2015年(平成27)、端島を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界遺産(文化遺産)に登録されています。長崎港から数社によるクルーズ船が就航していて、上陸して見学することも可能です。

(8)旧集成館<鹿児島県鹿児島市>
 島津斉彬(薩摩藩第28代当主)は、西欧諸国のアジア進出に対応し、軍事のみならず産業の育成を進め、富国強兵を真っ先に実践しました。それら事業の中心となったのが、磯に建てられた工場群「集成館」です。その中で、1865年(慶応元)に竣工した機械工場は、日本で初めてアーチを採用した石造洋風建築物で、国の重要文化財となっており、現在内部は島津家の歴史・文化と集成館事業を語り継ぐ博物館「尚古集成館」として公開されています。また、2007年(平成19)、経済産業省により、近代化産業遺産に認定されています。さらに、2015年(平成27)、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を構成する「旧集成館」の機械工場として世界遺産(文化遺産)にも登録されました。

☆「近代化産業遺産」一覧

<近代化産業遺産群33>
1.黎明期
・水戸藩による事業の関連遺産
・幕末の造船関連遺産
・江川代官所による事業の関連遺産(韮山反射炉等)
・幕末の戸田村における事業の関連遺産
・長州藩による事業の関連遺産(郡司鋳造所等)
・佐賀藩による事業の関連遺産
・長崎の幕末造船関連遺産(小菅修船場跡等)
・薩摩藩による事業の関連遺産(集成館事業)

2.造船 函館市の造船関連遺産(第1号乾ドック等)
・旧横須賀製鉄所関連遺産(横須賀造船所)
・横須賀市浦賀の造船関連遺産(浦賀艦船工場)
・横浜市の造船関連遺産(日本丸メモリアルパーク、ドックヤードガーデン)
・大阪市の造船関連遺産(名村造船所跡地)
・神戸市の造船関連遺産(川崎造船神戸工場第1号ドック等)
・旧呉海軍工廠関連遺産(呉海軍工廠造船船渠大屋根、呉市海事歴史科学館の所蔵物等)
・長崎市の造船関連遺産(小菅修船場跡等)
・旧佐世保海軍工廠関連遺産(第2・第3・第4・第5・第6船渠等)

3.鉄鋼 釜石の製鉄関連遺産(釜石鉱山等)
・八幡製鐵所関連遺産

4.赤煉瓦
・喜多方市の赤煉瓦製造関連遺産と建造物(登り窯・煉瓦建造物群)
・野木町の赤煉瓦製造関連遺産(旧下野煉化製造会社)
・碓氷峠鉄道施設群(群馬県安中市)
・深谷市の赤煉瓦製造関連遺産(旧日本煉瓦製造会社)
・春日部市の赤煉瓦建造物(倉松落大口逆除)
・東京都千代田区の赤煉瓦建造物(東京駅)
・東京都葛飾区の赤煉瓦建造(閘門橋)
・松戸市の赤煉瓦建造物(柳原水閘)
・近江八幡市の赤煉瓦製造関連遺産(旧中川煉瓦製造所)
・舞鶴市の赤煉瓦製造関連遺産(旧神崎煉瓦)と建造物(舞鶴赤レンガ倉庫群)
・竹原市の赤煉瓦製造関連遺産
・山陽小野田市のセメント製造関連遺産(旧小野田セメント)

5.観光
・日光金谷ホテルと日光観光関連遺産(JR日光駅等)
・ホテルニューグランドと横浜観光関連遺産(横浜郵船ビル)
・富士屋ホテルと箱根観光関連遺産
・志賀高原ホテル関連遺産
・万平ホテルと軽井沢観光関連遺産(旧三笠ホテル等)
・奈良ホテルと奈良観光関連遺産
・六甲山ホテルと六甲観光関連遺産(六甲ケーブル山上駅、神戸ゴルフ倶楽部等)
・甲子園ホテル関連遺産
・蒲郡プリンスホテル関連遺産
・雲仙観光ホテルと雲仙観光関連遺産
・川奈ホテルと川奈観光関連遺産
・十和田ホテル関連遺産
・豊平館関連遺産
・越中屋ホテル関連遺産
・大湊ホテル関連遺産
・帝国ホテル関連遺産(博物館明治村の所蔵物等)
・琵琶湖ホテル関連遺産(旧琵琶湖ホテル(現琵琶湖大津館))

6.北海道石炭
・夕張炭田

7.北海道食品
・札幌農学校、ニッカウヰスキー北海道工場

8.製紙業
・王子製紙苫小牧工場

9.東北鉱山
・小坂鉱山、細倉鉱山、尾去沢鉱山

10.常磐鉱工業
・常磐炭田、日立鉱山

11.北日本石油
・豊川油田関連遺産
・院内油田関連遺産
・金津油田関連遺産
・尼瀬油田関連遺産
・相良油田関連遺産

12.足尾
・足尾銅山

13.製糸
・富岡製糸場、グンゼ記念館、グンゼ博物苑

14.横浜港
・横浜赤レンガ倉庫、横浜税関、横浜市開港記念会館、横浜開港資料館、氷川丸、50トン定置式電気起重機(ハンマーヘッドクレーン)

15.両毛織物
・桐生織物記念館

16.醤油
・髙梨氏庭園、キノエネ醤油工場群、利根運河

17.京浜工業
・京浜工業地帯のインフラ施設(鶴見線、川崎河港水門等)
・京浜工業地帯に関連する保存建築物・展示物(日産自動車横浜工場1号館、日本ビクター第一工場ファサード、味の素資料展示室の資料群、昭和電工川崎事業所本事務所、東芝科学館の収蔵物群、川崎市市民ミュージアムの展示物(トーマス転炉)、沼田記念館・ミツトヨ博物館の収蔵物群)

18.ワイン
・牛久醸造関連遺産(シャトーカミヤ)、メルシャンワイン資料館、旧山梨田中銀行

19.金山
・佐渡鉱山関連遺産、鯛生金山関連遺産

20.中部電源
・黒部川(黒部峡谷鉄道・黒部川第三発電所・仙人谷ダム)、庄川(小牧ダム)、長良川(長良川発電所)、木曽川(読書発電所・桃介橋・大井ダム)

21.繊維・機械
・豊田式木製人力織機

22.北陸絹
・勝山市旧機業場、ケイテー資料館

23.窯業
・ノリタケ旧製土工場

24.琵琶湖疏水
・琵琶湖疏水関連遺産、理化学機器製造関連遺産、西陣織関連遺産

25.生野鉱山
・生野鉱山、生野鉱山寮馬車道

26.阪神工業
・阪神工業地帯の製造業関連遺産(ユニチカ記念館等)、阪神工業地帯のインフラ施設(北堀運河等)

27.神戸港
・神戸港の港湾施設群(新港、メリケン波止場)
・神戸税関本館
・旧居留地煉瓦造下水道
・中央区海岸通の商業ビル群
・海岸ビル、神港ビル、神戸朝日ビルディング(旧神戸証券取引所)、旧居留地十五番館)
・神戸港周辺の銀行ビル群
(旧横浜正金銀行神戸支店(現:神戸市立博物館)、
・旧三菱銀行神戸支店(現:ファミリアホール)、
・旧ナショナル・シティバンク神戸支店(現:大丸神戸店南第1別館)、
・旧第一銀行神戸支店(現:みなと元町駅))

28.醸造業
・灘五郷の日本酒醸造関連遺産 - 白鶴酒造資料館、沢の鶴資料館、菊正宗酒造記念館、宮水発祥之地石碑、宮水庭園、白鹿記念酒蔵博物館、旧辰馬喜十郎邸、白鷹禄水苑と展示物、今津灯台
・伏見の日本酒醸造関連遺産 - 月桂冠大倉記念館と所蔵物、月桂冠旧本社、月桂冠昭和蔵、松本酒造酒蔵
・伏見の淀川舟運関連遺産 - 三十石船(復元)、十石船(復元)、三栖閘門、三栖閘門資料館(旧操作室)

29.西日本綿産業
・旧倉敷紡績所(倉敷アイビースクエア)
・大阪市の綿産業関連遺産 - 綿業会館
・熊取町の綿産業関連遺産 - 旧中林綿布工場(熊取交流センター煉瓦館)、同汽罐室、同受電室、同事務所棟、同機械類ランカシャーボイラー
・田尻町の綿産業関連遺産 - 田尻歴史館・旧谷口家吉見別邸
・尼崎市の綿産業関連遺産 - ユニチカ記念館(旧尼崎紡績本館事務所)、同所蔵物写真・模型・文書・絵画等
・洲本市の綿産業関連遺産 - 旧鐘紡洲本第2工場(洲本市立図書館)、旧鐘紡洲本第2工場汽缶室(洲本アルチザンスクエア)、旧鐘紡洲本第3工場汽缶室(淡路ごちそう館「御食国」)、旧鐘紡洲本工場原綿倉庫
・有田市の綿産業関連遺産 - 旧和歌山紡績箕島工場倉庫

30.瀬戸内銅
・別子銅山関連遺産、笹畝坑道、ベンガラ館

31.北九州炭鉱
・高島炭鉱関連遺産(端島(軍艦島))
・筑豊炭田からの石炭輸送・貿易関連遺産(旧大阪商船ビル
・旧門司三井倶楽部、旧門司税関、門司港駅、九州鉄道記念館、旧松本家住宅、堀川運河等)
・筑豊炭田関連遺産(田川市石炭・歴史博物館 炭鉱住宅(復元)
・旧奥野医院等)
・志免鉱業所関連遺産
・三池炭鉱関連遺産
・三池炭鉱からの石炭輸送・貿易関連遺産(三角旧港(三角西港)施設)
・佐賀県の炭鉱関連遺産
・宇部炭鉱関連遺産

32.南九州
・大口市の水力発電関連遺産(旧曽木第2発電所)
・諸塚村の水力発電関連遺産(九州電力塚原ダム)
・延岡市の化学工業関連遺産(旭化成ケミカルズ㈱愛宕事業場「カザレー記念広場」の保存物、旭化成せんい㈱ベンベルグ工場内の保存物、旭化成せんい㈱旧レーヨン工場跡地の保存物)
・物資輸送関連遺産(肥薩線(坂本駅、真幸駅、矢岳第一トンネル、嘉例川駅等))

33.沖縄
・糸満市の製糖関連遺産(高嶺製糖工場跡)
・南大東村の製糖関連遺産(大東糖業南大東事業所の砂糖運搬専用軌道)
・燐鉱石採掘関連遺産(旧東洋製糖北大東出張所跡)
・西表島の炭鉱関連遺産(宇多良炭鉱跡)

<近代化産業遺産群 続33>

1.工作機械・精密機器 日本工業大学工業技術博物館所有の工作機械群
2.内燃機関 太平洋セメント所有の蒸気機関
3.自動車産業 トヨダ・AA型乗用車
4.航空機産業 零式艦上戦闘機、三式戦闘機(飛燕)
5.家電製造業 松下二股ソケット
6.化学工業 造幣博物館、ダイセル化学工業網干異人館
7.耐火煉瓦工業 若松鉱山跡、中小坂鉄山
8.鉄道建設 笹子トンネル、関門鉄道トンネル、板谷峠のスイッチバック跡
9.鉄道連絡船 八甲田丸、摩周丸、門司港駅
10.鉄道施設 旧豊後森機関区転車台、嘉例川駅、津山扇形機関庫
11.森林鉄道 木曽森林鉄道跡、雨宮21号蒸気機関車
12.私鉄沿線文化圏 関西学院建築群、宝塚音楽学校旧校舎、一橋大学建築物群
13.鉄橋・鋼橋 清洲橋、勝鬨橋、末広橋梁、名古屋港跳上橋
14.港湾土木技術 三国港エッセル堤、小樽港北防波堤
15.治水・砂防 旧岩淵水門
16.灯台 犬吠埼灯台、観音埼灯台、清水灯台、経ヶ岬灯台、友ヶ島灯台、出雲日御碕灯台、角島灯台、室戸岬灯台
17.電気通信技術 門司電気通信レトロ館、依佐美送信所記念館
18.近代水道 旧三井用水取入口、笹流ダム、男山配水池、牛田浄水場
19.近代娯楽産業 旧横浜競馬場、横浜公園、山手公園
20.大衆観光旅行 こうや花鉄道線内の各駅、一畑電車出雲大社前駅、国鉄旧大社駅、高松琴平電気鉄道1000形電車、竹瓦温泉、道後温泉本館
21.都市娯楽・消費文化 伊勢丹本店本館、三越日本橋本店本館、日比谷公会堂
22.技術者教育 工部大学校跡碑、東京大学工学部1号館、九州工業大学関連遺産、九州大学工学部関連遺産、大阪市立工芸高等学校本館
23.北海道赤煉瓦製造 北海道庁旧本庁舎、旧国鉄旭川工場
24.道北・道東開発 タウシュベツ川橋梁、根釧台地の格子状防風林
25.東北開発 十六橋、山形県旧庁舎、松山人車軌道車両
26.東京近代化 日本橋、日本銀行本店本館、靖国通り
27.東海木材加工 旧田口鉄道モハ14型、初期型ヤマハグランドピアノ
28.中部・近畿食品製造業 ミツカン工場群、カクキュー本社、江崎グリコの製品パッケージ
29.大阪近代化 御堂筋、淀屋橋、大阪市中央公会堂
30.関西鉄道 京阪60形電車、近鉄旧生駒トンネル、南海浜寺公園駅
31.瀬戸内灌漑施設 高梁川東西用水酒津樋門、豊稔池ダム
32.瀬戸内近代化 マルキン忠勇醤油蔵、賀茂鶴酒造洋館
33.九州北部窯業 門司麦酒煉瓦館、志田焼の里博物館、香蘭社本社

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旅の豆知識「千町歩地主」

2017年07月25日 | 旅の豆知識
 『テーマのある旅』で日本の歴史の跡を追いかけてみるのも、また楽しいものです。江戸時代や戦国時代の史跡を巡る人は結構いると思いますが、近年、明治時代以降の歴史に目を向ける人も多くなってきています。
 近代史は、日本が資本主義国へと発展していく過程のもので、近代化へと向かう、各種の工場や産業機械・施設、鉄道や道路、港湾などの交通関係のもの、農業関係の用水路等の灌漑施設、棚田、果樹園などの産業関係の遺産にもを注目が集まってきています。
 その中で今日は 「千町歩地主」を取り上げてみます。明治時代から大正時代にかけて、寄生地主による土地集積が進み、その下で多くの小作人が働く農業生産関係になっていきます。
 その中で、裏日本の平野部中心に千町歩地主と呼ばれる大地主が出現します。新潟県では五家(市島家、伊藤家、斎藤家、田巻家、白勢家)に及び、東北三大地主( 山形県の本間家、宮城県の齋藤家、秋田県の池田家)などが誕生します。そして、天皇を中心とした戦前の日本の支配体制を明治期以降に勃興してきた産業資本を中心とした財閥と共に支える両輪になったと言われているのです。
 これらの地域を旅してみると、大地主の旧邸宅や庭園跡が残されていて、見学できるところも結構多いのです。そんなところに立ち寄って、いろいろと当時の大地主と小作農のことを考えてみるというのはいかがでしょうか。

〇「小作農」とは?
 自らは土地をほとんどもたないで、土地所有者(地主)から借りて耕作し、小作料を支払う農民をいいます。明治時代前期の地租改正・松方デフレ政策を経て、自作農から没落して増えていき、1888年(明治21)には95万戸(全農家の20.6%)、1908年(明治41)には149万戸(全農家の27.6%)にまで増加し、以後も大正中期まで漸増したものの、その後少し減少しました。これら農民の生活水準は低く、日本資本主義の低賃金構造を支えるものとなったのです。そして、第二次大戦後の農地改革によって、大幅に減少し、全農家の数%にまでなりました。

〇「寄生地主」とは?
 農民に土地を貸し付けて、高額な現物小作料を取り立てるだけで、自らは農業に従事しない土地所有者のことです。地主は、主に二種類に大別され、対象となる農村に居住し、自らも耕作しながら、小作から地代も受け取る“在地地主”と、別の所に居住し、所有する農地から地代だけを受け取る“不在地主”とに分けられますが、一般に“不在地主”のことを寄生地主と呼んでいました。これは、明治時代前期の地租改正・松方デフレ政策後に急成長し、1923年(大正12)には5,000戸にも及んで頂点に達し、中には、千町歩地主と呼ばれる巨大地主も登場しました。小作地の割合も5割近くに達しましたが、その後少し減少したものの、第二次大戦後の農地改革で解体されるまで存続しました。

☆「千町歩地主」の関係地
 
(1)旧池田氏庭園・私設図書館<秋田県大仙市>
 池田家は、山形県の本間家、宮城県の齋藤家と共に、東北三大地主の一つに数えられ、13代当主池田文太郎の頃の最盛期には、耕地1,046町歩を所有していました。本家の約42,000平方メートル(12,700坪)の広大な屋敷地は、池田氏の家紋にならって亀甲の平面形を成していて、周囲は石垣を伴う堀や土塁で囲まれています。その中に、明治時代後期 ~ 大正時代に、池泉廻遊式の庭園が作庭され、巨大な雪見灯籠、1922年(大正11)竣工の洋館(私設図書館)が配されているのです。2004年(平成16)には、国の名勝にも指定され、初夏、夏期、秋期の一定期間に特別公開されています。また、池田家の旧払田分家敷地に残る池泉回遊式の日本庭園も、2008年(平成20)に名勝として追加指定を受けました。

(2)本間家旧本邸・本間美術館<山形県酒田市>
 本間家は、戦後の農地解放までは、日本一の大地主といわれ、最大時約3;000町歩(3,000ha)の農地を保有し、およそ3,000人の小作人を抱えていたと言われています。本間家初代の原光は、1689年(元禄2)に酒田市本町に「新潟屋」を開業し、関西方面の豪商らと、瀬戸物や薬、小判、米など様々な商品取引を通じて、台頭していきました。そして、二代目・光寿、三代目・光丘と繁栄を重ね、江戸時代中期には25万石もの豪農であったそうです。「本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に・・・・」と歌まで読まれたと言われています。明治維新後も繁栄を重ねて、昭和時代前期まで興隆していったのです。本間家旧本邸は、1768年(明和5)年に三代目・光丘が藩主酒井家のため、幕府巡見使用宿舎として、旗本2,000石の格式をもつ書院造りを建造したものです。その後、拝領し、本間家代々の本邸として使用されてきましたが、本屋は22の間数で、桁行(南北)33.6m、梁間(東西)16.5m、敷地1,322平方メートルあります。本邸の敷地には大きな長屋門と東側に薬医門があり、桟瓦ぶきの平屋建てとなっていて、旧本邸と長屋門は、1953年(昭和28)に山形県指定有形文化財になっています。周囲には樹木をうえ、北側に4棟の蔵を配置し、土塀がめぐらされていて、豪壮な構えです。1982年(昭和57)から有料で一般公開されています。また、車で10分ほどの場所に本間美術館がありますが、ここは、四代目・光道が、藩主酒井侯の領内巡検宿泊施設として造った別荘(京風の純和風建築「清遠閣」、庭園「鶴舞園」)を中心に1947年(昭和22)に開館したもので、本間家に伝わる庄内藩酒井家・米沢藩上杉家など東北諸藩からの拝領品を中心に展示しています。1968年(昭和43)には、創立20周年を記念して美術展覧会場が建設されました。

(3)齋藤氏庭園・宝ヶ峯縄文記念館<宮城県石巻市>
 齋藤家は、山形県の本間家、秋田県の池田家と共に、東北三大地主の一つに数えられ、山形県の酒田本間家に次ぐ全国第2位の地主でした。その齋藤家九代当主、善右衛門が、明治後期に造成したのが現在の庭園です。邸宅から背後の丘陵地まで、一体感のある空間は見るものを圧倒します。2005年(平成17)に国の名勝にも指定されており、近代庭園として学術上も高く評価されています。庭園内にある、「宝ヶ峯縄文記念館」には、宝ヶ峯遺跡から発掘された縄文時代後期の土器等を保存・展示していて、見学することができます。

(4)市島邸<新潟県新発田市>
 市島家は戦前の越後千町歩地主五家(市島家、伊藤家、斎藤家、田巻家、白勢家)の一つで、丹波に発する家系であり、1598年(慶長3)に越後新発田藩主に任ぜられた溝口家に伴って、加賀大聖寺から現在の新発田市近辺に移住し、薬種問屋を営む傍ら回船や酒造、金融で富を蓄え、福島潟の干拓による新田開発で北陸でも屈指の大地主となったとのことです。現在の建物は、明治初期に建てられたもので、敷地面積8,000余坪、延床面積600余坪、これを囲む回遊式の庭園は、自然の風致に富み、広い池を取り巻く樹木はそれぞれの四季を映しています。1962年(昭和37)に、邸内の12棟1構が新潟県の有形文化財に指定され、一般公開されるようになりました。また、市島邸内の資料館には、市島家にゆかりの深い会津八一に関する資料などが展示され、庭園内に点在する屋敷の至る所には、歴史を感じさせる美術品などを見ることができ、千町歩地主の豪壮さを感じることができます。

(5)北方文化博物館(旧伊藤邸)<新潟県新潟市江南区>
 伊藤文吉家は戦前の越後千町歩地主五家(市島家、伊藤家、斎藤家、田巻家、白勢家)の一つで、江戸時代中期以降、豪農として富を築き、越後随一の大地主となった伊藤一族は、1908年(明治41)には、所有地が1,384.7町歩(1,385ha)となります。現在の建物は、1882年(明治15)から8年の歳月をかけて造られたもので、敷地8,800坪、建坪1,200坪、部屋数65の純日本式住居で、広大なものです。まわりには、土塁を築き塀を建て、濠をめぐらし、土蔵造りの門、総けやき造り唐破風の大玄関、正三角形の茶室兼書斎の三楽亭など、豪壮さを備えています。敷地内には、多数の古美術品が収蔵される集古館、回遊式庭園などがあり、庭園は松の緑におおわれ、春はサクラ、フジ、サツキ、秋の紅葉と、四季折々に趣があります。1946年(昭和21)に遺構保存のため、『財団法人 北方文化博物館』が創設され、これに全部寄付されたことにより、これらの建物が守られることになります。その後、2000年(平成12)に、主屋をはじめとした主要建造物計26件について、国の登録有形文化財に登録されました。館内には、全国から買い集めた陶磁器や装飾品、エジプトのミイラのマスクまであります。隣の民家園に移築されている土間しかない茅葺きの小作農住宅と比べると、その差を強く感じます。

(6)孝順寺(旧斉藤邸)<新潟県阿賀野市>
 ここは、真宗大谷派の寺として、また親鸞聖人にまつわる越後七不思議の一つ“保田の三度栗”の寺として知られています。開基は1207年(承元2)で、親鸞の法弟専念坊の創建とのことです。現在の本堂と境内の敷地は、越後の千町歩地主五家(市島家、伊藤家、斎藤家、田巻家、白勢家)の一つとして有名な斉藤家の邸宅を農地解放後の1950年(昭和25)に孝順寺が買い取ったものです。この建物は、1931年(昭和6)に建てられたもので、瓦ぶきの大屋根をのせた豪邸で、本宅は紫檀、黒檀、タガアサン材等を多用し、離れ別館は欅材が多用された総縁側の二階建てで、随所に銘木が採用されています。また、建物と一体となった見事な池泉回遊式の日本庭園があります。これらを巡ってみると、当時の千町歩地主の生活の様子を垣間見ることができます。

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旅の豆知識「足尾鉱毒事件」

2017年07月24日 | 旅の豆知識
 一人旅にしても、グループ旅行にしてもどこかの旅行会社のパックツアーに参加したり、旅行ガイドブックのコースどうりに行くというのでは、なんか物足りなくありませんか?
 「でも、その方が簡単だし、結構楽しめるよ。」と言う方もいるでしょう。確かに、時刻表を調べたり、宿を取ったりするのは、めんどうだし、慣れないと間違いも起こしかねません。だから、最初のうちはそれでも良いでしょう。でも何度か旅行に出ているうちに、必ず物足らなく感じてくるはずです。そうなった方は、ほんとうの、旅の楽しさを模索しはじめている方です。
 そこで、『テーマのある旅』をすることを提案します。といっても、なにも難しいことを言っているわけではありません。旅行のプランニングの時に何かにこだわってみようということです。その中身は「露天風呂ツアー」でも良いし、「ラーメン食べ歩き」「紅葉を見にいく」でも良いでしょうし、「織田信長」「陶芸の旅」「仏像を訪ねて」「関ヶ原の戦い」などちょっと知的な内容でも良いでしょう。テーマも一つでも、二つでもかまいません。そのことにこだわって、プランの全体を見直してみようということです。そうすると、たとえ、旅行ガイドブックのモデルコースを使っていても、違ったものに 見えてくるはずです。
 その中で今日は、「足尾鉱毒事件」を取り上げてみます。この事件は、明治時代前期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山を原因とする公害事件です。
 銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起したことは有名です。衆議院議員だった田中正造は、1891年(明治24)、第2回帝国議会において足尾銅山の鉱毒に対して、鉱業停止要求をしてから、何度も議会での追及をしてきました。それによって、政府の対応や政党に絶望した結果、1901年10月に議員を辞職し、最後の手段として天皇に直訴することを決断したのです。そして、幸徳秋水が直訴状の草案を起草、田中正造が加除修正を加え、1901年(明治34)12月10日の議院開院式の帰途の明治天皇に直訴しようとしましたが捕らえられて果たすことができませんでした。しかし、この事件は社会に衝撃を与え、これを契機に、ジャーナリズム、学生、キリスト教徒、仏教徒らの被害民支持が高まったのです。
 足尾銅山の精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でも影響が残っています。
 その足跡を訪ねてみると、日本の近代史の中の闇の部分が浮かび上がってきて、結構いろいろと発見があるものなのです。

〇{田中正造}とは?
 明治時代に活躍した政治家で、1841年(天保12)に、小中村(現在の栃木県佐野市)名主の家に生まれました。 その後、父の跡を継いで小中村名主となりましたが、領主に村民と共に政治的要求を突き付けたことが元になって、投獄されています。
 1870年(明治3)、江刺県花輪支庁(現在の秋田県鹿角市)の官吏となったものの、翌年、上司殺害の容疑者として逮捕、投獄されました。冤罪に終わりましたが、その後小中村に戻り、再び政治に関わるようになります。
 1880年(明治13)に、栃木県議会議員になり、1890年(明治23)、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、初当選(以後6回当選)しました。この年に渡良瀬川で大洪水があり、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。そして、この足尾銅山鉱毒事件に深くかかわっていくことになりました。
 1901年(明治34)には、明治天皇に足尾銅山鉱毒事件について直訴を行なおうとしています。1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立てたのです。紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになり、この村の将来に危機を感じた田中正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住みました。
 そして、村民と共に反対運動に取り組みましたが、1907年(明治40)、政府は土地収用法の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなったのです。
 その後も、田中正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)9月4日に71歳で没しました。尚、「佐野市郷土博物館」には、田中正造展示室があり、関係資料約1万点を収蔵しています。

〇「足尾銅山」とは?
 足尾銅山は、室町時代に発見されたと伝えられていますが、江戸時代に幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになりました。銅山は大いに繁栄し、江戸時代のピーク時には、年間1,200トンもの銅を産出していたとのことです。その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけては、ほぼ閉山状態となっていました。
 しかし、1877年(明治10)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し、数年後に有望鉱脈が発見され、生産量が増大しました。1905年(明治38)に古河鉱業の経営となり、急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の約40%の生産を上げるまでになりました。
 ところが、この鉱山開発と製錬事業の発展のために、周辺の山地から坑木・燃料用として、樹木が大量伐採され、製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染が広がることになります。禿山となった山地を水源とする渡良瀬川は、度々洪水を起こし、製錬による有害廃棄物を流出し、下流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、鉱毒問題を引き起こしました。
 1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起をして、鉱毒事件の闘いの先頭に立ったことは有名です。1973年(昭和48)に閉山しましたが、今でも銅山跡周辺に禿山が目立っています。
 尚、現在は足尾銅山観光などの観光地となりました。

☆「足尾鉱毒事件」の関係地
 
(1)「佐野市郷土博物館」<栃木県佐野市>
 栃木県佐野市にある歴史系博物館ですが、足尾鉱毒事件に生涯を捧げた政治家田中正造の関係資料約1万点を収蔵し、田中正造展示室を設けています。展示室の中央には、田中正造立像がありますが、1910年(明治43)の秋に、洪水被害地を調査した当時の姿を表現したものです。また、「政治の道を志す」の資料、鉱毒被害写真、明治天皇への直訴状、谷中村復活を期する請願書、数々の遺品などが展示してあって、田中正造の生涯について学ぶことができます。

(2)田中正造の生家跡<栃木県佐野市>
 田中正造は、1841年(天保12)に、小中村名主であったこの家で生まれました。 その後、父の跡を継いで小中村名主となりましたが、領主に村民と共に政治的要求を突き付けたことが元になって、投獄されています。1870年(明治3)、江刺県花輪支庁(現在の秋田県鹿角市)の官吏となったものの、翌年、上司殺害の容疑者として逮捕、投獄されました。冤罪に終わりましたが、その後小中村に戻り、再び政治に関わるようになります。1880年(明治13)に、栃木県議会議員になり、1890年(明治23)、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、初当選しました。この年渡良瀬川で大洪水があり、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。そして、この足尾銅山鉱毒事件に深くかかわっていくことになるのです。この生家跡は、南側の県道に面して表門が、その右側に2階建ての隠居所があり、その奥に母屋と土蔵があります。1957年(昭和32)に栃木県指定史跡となりましたが、田中正造の波乱にとんだ人生を考えるうえでは、ぜひ立ち寄りたいところです。

(3)足尾銅山跡<栃木県日光市>
 この銅山は、室町時代に発見されたと伝えられていますが、江戸時代に幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになりました。銅山は大いに繁栄し、江戸時代のピーク時には、年間1,200トンもの銅を産出していたとのことです。その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態となっていました。しかし、1877年(明治10)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し、数年後に有望鉱脈が発見され、生産量が増大しました。1905年(明治38)に古河鉱業の経営となり、急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の約40%の生産を上げるまでになりました。ところが、この鉱山開発と製錬事業の発展のために、周辺の山地から坑木・燃料用として、樹木が大量伐採され、製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染が広がることになります。禿山となった山地を水源とする渡良瀬川は度々洪水を起こし、製錬による有害廃棄物を流出し、下流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、鉱毒問題を引き起こしました。今でも、銅山跡周辺に禿山が目立っています。

(4)旧谷中村遺跡<栃木県栃木市>
 明治時代の谷中村は、渡良瀬川が氾濫するたびに足尾鉱毒事件により大きな被害を受けたため、鉱毒反対運動の中心地となっていました。1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立てたのです。紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになり、この村の将来に危機を感じた田中正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住みました。そして、村民と共に反対運動に取り組みましたが、1907年(明治40)、政府は土地収用法の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなったのです。その後も一部村民(田中正造を含む)が残って、抵抗を続けたものの、1917年(大正6)頃には、ほぼ全村民が移転し、無住となりました。現在は、渡良瀬遊水地内に谷中村役場跡、雷電神社跡などの遺構があり、見学することが可能です。

(5)雲龍寺<群馬県館林市>
 この寺は、足尾銅山鉱毒事件で公害闘争の先駆者となった田中正造が闘争の拠点としたところで、墓もあります。1896年(明治29)10月、雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所を設けました。さらに、足尾銅山鉱業停止請願事務所として栃木、群馬、埼玉、茨城の4県鉱毒被害民の闘争本部ともなったのです。また、三ヶ所作られた足尾鉱毒被害者救済施療所「救現堂」の一つが、この寺にも設けられました。1900年(明治33)2月、鉱毒被害民はこの寺に集結し、請願のため上京する途中、利根川を渡ろうとして川俣村(現明和町)で、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕されたのです。また、1913年(大正2)9月4日に没した田中正造の密葬はこの寺で行われ、墓も作られました。(分骨されたので、惣宗寺(佐野厄除け大師)や田中家の菩提寺の浄蓮寺などにも墓があります)

(6)川俣事件関係地<群馬県邑楽郡明和町>
 1900年(明治33)2月、鉱毒被害民は雲龍寺に集結し、請願のため上京する途中、利根川を渡ろうとして川俣村(現明和町)で、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕されたのです。その内、51名が兇徒聚集罪などで起訴されましたが、1902年(明治35)、仙台控訴審で起訴無効という判決が下り、実質的に全員不起訴という形で決着しました。その後、1999年(平成11)に、歴史的事件である「川俣事件」の風化を防ごうと、当時の事件の発生場所を「川俣事件衝突の地」として明和町指定史跡に指定し、碑が建てられました。また、事件発生100年後の2000年(平成12)に、事件発生現場に、川俣事件記念碑が建立されたのです。

☆田中正造の直訴状 (全文)

謹奏

田中正造

草莽ノ微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首謹テ奏ス。
 伏テ惟ルニ臣田間ノ匹夫敢テ規ヲ踰エ法ヲ犯シテ鳳駕ニ近前スル其罪実ニ万死ニ当レリ。而モ甘ジテ之ヲ為ス所以ノモノハ洵ニ国家生民ノ為ニ図リテ一片ノ耿耿竟ニ忍ブ能ハザルモノ有レバナリ。伏テ望ムラクハ陛下深仁深慈臣ガ至愚ヲ憐レミテ少シク乙夜ノ覧ヲ垂レ給ハンコトヲ。
 伏テ惟ルニ東京ノ北四十里ニシテ足尾銅山アリ。近年鉱業上ノ器械洋式ノ発達スルニ従ヒテ其流毒益々多ク其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ毒水ト毒屑ト之レヲ澗谷ヲ埋メ渓流ニ注ギ、渡良瀬河ニ奔下シテ沿岸其害ヲ被ラザルナシ。加フルニ比年山林ヲ濫伐シ煙毒水源ヲ赤土ト為セルガ故ニ河身激変シテ洪水又水量ノ高マルコト数尺毒流四方ニ氾濫シ毒渣ノ浸潤スルノ処茨城栃木群馬埼玉四県及其下流ノ地数万町歩ニ達シ魚族斃死シ田園荒廃シ数十万ノ人民ノ中チ産ヲ失ヒルアリ、営養ヲ失ヒルアリ、或ハ業ニ離レ飢テ食ナク病テ薬ナキアリ。老幼ハ溝壑ニ転ジ[壮者ハ去テ他国ニ流離セリ。如此ニシテ二十年前ノ肥田沃土ハ今ヤ化シテ黄茅白葦満目惨憺ノ荒野ト為レルアリ。
 臣夙ニ鉱毒ノ禍害ノ滔滔底止スル所ナキト民人ノ痛苦其極ニ達セルトヲ見テ憂悶手足ヲ措クニ処ナシ。嚮ニ選レテ衆議院議員ト為ルヤ第二期議会ノ時初メテ状ヲ具シテ政府ニ質ス所アリ。爾後議会ニ於テ大声疾呼其拯救ノ策ヲ求ムル茲ニ十年、而モ政府ノ当局ハ常ニ言ヲ左右ニ托シテ之ガ適当ノ措置ヲ施スコトナシ。而シテ地方牧民ノ職ニ在ルモノ亦恬トシテ省ミルナシ。甚シキハ即チ人民ノ窮苦ニ堪ヘズシテ群起シテ其保護ヲ請願スルヤ有司ハ警吏ヲ派シテ之ヲ圧抑シ誣テ兇徒ト称シテ獄ニ投ズルニ至ル。而シテ其極ヤ既ニ国庫ノ歳入数十万円ヲ減ジ又将ニ幾億千万円ニ達セントス。現ニ人民公民ノ権ヲ失フモノ算ナクシテ町村ノ自治全ク頽廃セラレ貧苦疾病及ビ毒ニ中リテ死スルモノ亦年々多キヲ加フ。
 伏テ惟ミルニ陛下不世出ノ資ヲ以テ列聖ノ余烈ヲ紹ギ徳四海ニ溢レ威八紘ニ展ブ。億兆昇平ヲ謳歌セザルナシ。而モ輦轂ノ下ヲ距ル甚ダ遠カラズシテ数十万無告ノ窮民空シク雨露ノ恩ヲ希フテ昊天ニ号泣スルヲ見ル。嗚呼是レ聖代ノ汚点ニ非ズト謂ハンヤ。而シテ其責ヤ実ニ政府当局ノ怠慢曠職ニシテ上ハ陛下ノ聡明ヲ壅蔽シ奉リ下ハ家国民生ヲ以テ念ト為サヾルニ在ラズンバアラズ。嗚呼四県ノ地亦陛下ノ一家ニアラズヤ。四県ノ民亦陛下ノ赤子ニアラズヤ。政府当局ガ陛下ノ地ト人トヲ把テ如此キノ悲境ニ陥ラシメテ省ミルナキモノ是レ臣ノ黙止スルコト能ハザル所ナリ。
 伏シテ惟ルニ政府当局ヲシテ能ク其責ヲ竭サシメ以テ陛下ノ赤子ヲシテ日月ノ恩ニ光被セシムルノ途他ナシ。渡良瀬河ノ水源ヲ清ムル其一ナリ。河身ヲ修築シテ其天然ノ旧ニ復スル其二ナリ。激甚ノ毒土ヲ除去スル其三ナリ。沿岸無量ノ天産ヲ復活スル其四ナリ。多数町村ノ頽廃セルモノヲ恢復スル其五ナリ。加毒ノ鉱業ヲ止メ毒水毒屑ノ流出ヲ根絶スル其六ナリ。如此ニシテ数十万生霊ノ死命ヲ救ヒ居住相続ノ基ヘヲ回復シ其人口ノ減耗ヲ防遏シ、且ツ我日本帝国憲法及ビ法律ヲ正当ニ実行シテ各其権利ヲ保持セシメ、更ニ将来国家ノ基礎タル無量ノ勢力及ビ富財ノ損失ヲ断絶スルヲ得ベケンナリ。若シ然ラズシテ長ク毒水ノ横流ニ任セバ臣ハ恐ル其禍ノ及ブ所将サニ測ル可ラザルモノアランコトヲ。
 臣年六十一而シテ老病日ニ迫ル。念フニ余命幾クモナシ。唯万一ノ報効ヲ期シテ敢テ一身ヲ以テ利害ヲ計ラズ。故ニ斧鉞ノ誅ヲ冒シテ以テ聞ス情切ニ事急ニシテ涕泣言フ所ヲ知ラズ。伏テ望ムラクハ聖明矜察ヲ垂レ給ハンコトヲ。臣痛絶呼号ノ至リニ任フルナシ。
  明治三十四年十二月

 草莽ノ微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首

                           「田中正造全集 第三巻」より

 <現代語訳>

  謹奏

 田中正造

在野のとるにたらない人間である田中正造が、恐れ多くも平伏して明治天皇に申し上げます。
 謹んで考えますに、田畑で暮らす身分に低い男である私が、あえて道理を越え、法を犯して、陛下の乗り物の前に接近するという罪は、実に命を投げ出す行為であります。しかも、本意でないながらも、このようにする分けは、まことに国や民のためを思って活動してまいったものの、一片の私の忠心がついに耐え忍びがたくなったからであります。謹んで望みを述べさせていただくことは、いつくしみ深い陛下が、愚かな私を憐れんでくださり、少しでもこの直訴状にお目を通していただければということでございます。
 謹んで考えますに、東京から北に40里(約160km)離れた場所に足尾銅山があります。近年、鉱業用機械が洋式化して発達したのに伴って、流出される鉱毒の量はますます多くなっており、銅を掘り出し精錬する時に生じる有毒排水と有毒鉱滓は谷間を埋め、渓流に流れ出し、渡良瀬川を流れ下って、沿岸でその被害を受けない地域はありません。さらに、近年山林を乱伐し、煙毒によって水源を禿山としてしまったために川の流れが激しく変化して洪水となり、また水かさが数尺(30cmの数倍)も高くなり、有毒水が四方に氾濫し、有毒鉱滓が地下へ浸透した地域は、茨城・栃木・群馬・埼玉の四県とその下流の数万町歩(数万ha)に達し、魚類は野垂れ死に、田園は荒廃し、数十万の人民の中には財産をなくしてしまうものもあり、栄養失調に陥ってしまうものもおり、あるいは、失業してしまい、飢えても食物もなく、病気となっても薬もない者がおります。老人・子供は飢え死にし、元気な者はこの地を去り、他国に流出しています。このような有様で、20年前の肥沃な田畑は、今となっては見渡す限り荒れ果てて痩せた土地となり、痛ましくて見ていることができないような荒野と化してしまっています。
 私は、早くから鉱毒災害が広い範囲に及んで、止まることを知らず、住民の苦痛が限界に達していることを見て、思い悩んで苦しんで居ても立ってもいられない状態でした。以前、衆議院議員に選ばれると、第二回帝国議会の時に初めて書状によって、政府に問いただすことをしました。その後も、帝国議会において、声を大にして激論を交わし、救済策を要求して、20年に及びますが、それなのに政府当局はいつも言を左右にして、これに適切な措置を施すことはありませんでした。さらに、地方政府の要職に就く者も、また平然として省みることもありません。はなはだしいことは、住民が困窮に堪え切れず、集団で立ち上がって、保護を請願すると、役人は警察官を派遣して、これを抑圧し、事実を歪曲して重大犯だといって、監獄に入れるに至っていることです。こうした極みとして、すでに国庫の歳入を数十万円減少させ、また確実に数億千万円に達することになるでしょう。現に、人民で公民権を失うものも数え切れないくらい多く、町村の自治は完全に崩れて荒廃してしまい、貧苦や疾病および中毒死する者も、また年々増大しております。
 謹んで考えますに、陛下は不世出な資質をお持ちになって、天皇の地位を継承され、その徳は四海に溢れ、威厳は世界中に展開しておみえになります。多くの人民は、世の中が平和でよく治まっていることを謳歌していないものはおりません。しかし、首都からの距離がそんなに遠くない場所で、数十万の見捨てられた生活困窮者は、空しく広大な恵みを期待して天空に向かって号泣しているのを見るのです。ああ、これは陛下の御代の汚点ではないといえるものでしょうか。そして、その責任はまさに政府当局の職務を果たさないことによる怠慢であって、上の役人は陛下の聡明を覆って隠し、下の役人は国家民生を念頭に置かない有様です。ああ、四県(茨城・栃木・群馬・埼玉の各県)の地域もまた陛下の一家とはみなしてもらえないのでありましょうか。四県の住民もまた陛下の子供とはみなしてもらえないのでありましょうか。政府当局が陛下の土地と人民をこのような悲しい境遇に陥らしめて、反省しようとしないことを、私は黙って見過ごすことはできません。
 謹んで考えますに、政府当局に対して、その責任を徹底させ、そして陛下の子供ともいうべき四県の住民に、自然界の恩恵を行き渡らせる道は他にはありません。それは、渡良瀬川の水源を清めることが一番目です。川の流れを修築して、その自然の状態に復旧すことが二番目です。はなはだしく汚染した土を取り除くことが、三番目です。沿岸にある計り知れない天然資源を復活させることが四番目です。多くの衰退している町村を元に戻すことが五番目です。毒を排出している鉱業(足尾銅山)を操業停止にし、有毒排水・有毒鉱滓の流出を根絶することが六番目です。このようにして、数十万という住民の生命を救済し、居住し続けられる基盤を回復し、その人口が減少することを防いで、かつ、わが大日本帝国憲法および法律を正当に実施して、その権利を保って持続させ、さらに国家の将来の基盤となる限りない力と財産の喪失を断ち切れるようにする必要があります。もし、そうしないで長期間に渡り、有毒排水を垂れ流したままにするならば、私はその被害地域はまさに推測できないほどに増えることを恐れるのです。
 私は61歳という年齢で、さらに老いと病が日に日に進んでおります。余命もそれほどないと考えております。ただ、万に一つの功を立て恩にむくいたいと期して、あえて一身を投げ打つつもりで、自らの損得を計算してはおりません。ゆえに極刑をもいとわず、直訴いたしました。状況は急迫しており、涙なくして語ることはできない状況です。謹んでお願い申し上げることは、陛下が思いやりをお示しいただきたいことであります。そうしていただけるなら私は、感動の涙で泣き叫ぶことに違いありません。

 明治34年12月 

 在野のとるにたらない人間 田中正造、恐れ多くも平伏して

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旅の豆知識「千曲川のスケッチ」

2017年07月23日 | 旅の豆知識
 明治時代後期から、昭和時代前期に活躍した文豪島崎藤村は、長野県に深いかかわりを持っていて、長野県に取材した小説や随筆、詩などがいくつも残され、長野県内に多くの文学碑が建てられています。
 したがって、長野県内を旅する時は、どこかで島崎藤村の足跡に巡り合うことも少なくないのです。中でも、小諸市はとてもゆかりの深いところで、1899年(明治32)に、小諸義塾の塾長木村熊二の招きで英語教師として長野県小諸町(現在の小諸市)に赴任しまています。その年にここで冬と結婚し、小諸町馬場裏に居を構えることになりました。以後6年間過ごす中で、第4詩集「落梅集」を刊行し、随筆「千曲川のスケッチ」を書いたのです。その後1905年(明治38)に上京し、小説『破戒』を出版、文壇からは本格的な自然主義小説として評価されることになりますが、小諸滞在中に信州を巡ったことがこの小説のベースになっていると考えられています。
 その中でも、初期の随筆『千曲川のスケッチ』は、島崎藤村が小諸にいた時の体験を元にして、書かれているので、長野県東部を中心とした、当時の情景がよく描かれていて、足跡を訪ねて旅をすることができるものです。

〇{島崎藤村}とは?
 明治時代後期から昭和時代前期にかけて活躍した詩人・小説家で、本名は島崎春樹といい、1872年(明治5)筑摩県第八大区五小区馬籠村(現在の岐阜県中津川市)に生まれ、明治学院普通部本科に学びました。
 卒業後、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となり、翌年、雑誌『文学界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表しました。
 1896年(明治29)、東北学院教師となり、仙台に赴任、ロマン主義詩人として第一詩集『若菜集』を発表して文壇に登場することになります。1899年(明治32)、小諸義塾の英語教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年間過ごす中で、随筆「千曲川のスケッチ」を書きました。
 その後上京し、小説『破戒』を出版、文壇からは本格的な自然主義小説として評価されることになります。以後、『春』『家』『新生』『夜明け前』などの小説を発表、1935年(昭和10)には、日本ペンクラブを結成し、初代会長に就任しましたが、1943年(昭和18)8月22日に71歳で、神奈川県大磯町にて没しました。

〇随筆『千曲川のスケッチ』とは?
 明治時代後期に島崎藤村が小諸義塾に赴任した際、信州小諸を中心として、千曲川流域の自然や農村生活の断面を記録したもので、その内容は、1900年(明治33)頃から書かれ始めたと考えられています。
 のち、『中学世界』に1911年(明治44)6月号から9月号に連載し、翌年12月に刊行されました。
 藤村が詩人から小説家に移行する中間にある作品と思われます。実際の現地の様子を描いているので、訪れてみてもその場面を彷彿とさせる場合が少なくないのです。

☆随筆『千曲川のスケッチ』の関係地
 
(1)田沢温泉「ますや旅館」<長野県小県郡青木村>
 信州の鎌倉と呼ばれる塩田平から西方の山際に分け入った標高700mの山間にあるのが田沢温泉です。今でも、昔ながらの湯治場の風情を残し、木造の旅館が軒を接するように坂道の両側に4,5軒固まっていて、まるで50年も時が止まっているかのような感じさえします。その中でも、ひときわ大きく、古めかしい木造3階建が、「ますや旅館」です。
 1899年(明治32)8月に、小諸塾で教鞭をとっていた島崎藤村が3日間逗留し、その時の印象が、以下に掲載した、随筆『千曲川のスケッチ』の中の「山の温泉」になったと言われています。今でも、当時のままの建物で、藤村が泊まった3階の一室は「藤村の間」として、彼が使った机や茶だんすもそのままに残されていて、宿泊することもできます。高楼からの眺望は今も変わることなく、当時の情景が彷彿としてくる、希有な旅館です。廊下、階段、手すり、障子戸などにも歴史が感じられ、もてなしも良くて、ほんとうに「昔の湯治場に来たなあ」という感慨に浸れるのです。
 その古風なたたずまいが、その後映画のロケ地として選ばれる理由となったのでしょう。昔では、映画「はなれ瞽女おりん」(1977年作品、篠田正浩監督、岩下志麻主演)、最近では、映画「卓球温泉」(1998年作品、山川元監督、松坂慶子主演)、のロケが行われたとのことです。浴室は、新しくなった男女別内湯と露天風呂があり、地階には家族風呂が2ヶ所有ります。また、目の前に新装なった共同浴場「有乳湯」があって宿泊者割引料金100円(通常200円)で入ることができます。ちょっとぬるめですが、源泉掛け流しで、硫黄臭のする無色透明の湯に浸かっていると、旅の疲れが抜けていくような気分となるのです。夕食も部屋に運んでくれて、とても美味しくいただけました。
 これほど由緒とムードの有る旅館なのに、料金はとてもリーズナブルで、藤村ファンならずとも、静かな温泉地でのんびりしたい方にはお奨めできるのではないかと思います。

「升屋というのは眺望の好い温泉宿だ。湯川の流れる音が聞こえる楼上で、私達の学校の校長の細君が十四五人ばかりの女生徒を連れて来ているのに逢った。この娘達も私が余暇に教えに行く方の生徒だ。
 楼上から遠く浅間一帯の山々を望んだ。浅間の見えない日は心細い、などと校長の細君は話していた。
 十九夜の月の光がこの谷間に射し入った。人々が多く寝静まった頃、まだ障子を明るくして、盛んに議論している浴客の声も聞こえた。
「身体は小さいけれど、そんな野蛮人じゃねえ」 
 理屈ッぽい人達の言いそうな言葉だ。
 翌日は朝霧の籠った谿谷に朝の光が満ちて、近い山も遠く、家々から立登る煙は霧よりも白く見えた。浅間は隠れた。山のかなたは青がかった灰色に光った。白い雲が山脈に添うて起るのも望まれた。国さんという可憐の少年も姉娘に附いて来ていて、温泉宿の二階で玩具の銀笛を吹いた。
 ・・・・・・・・」 随筆『千曲川のスケッチ(山の温泉)』より

(2)中棚温泉「中棚荘」<長野県小諸市>
 ここは、小諸城跡から下った、千曲川を見下ろす丘の中腹にあり、1898年(明治31)創業の「中棚荘」だけの1軒宿の温泉です。そして、島崎藤村ゆかりの温泉として、広く知られていました。
 藤村は、1899年(明治32)4月、旧師木村熊二の招きで小諸義塾へ赴任し、英語・国語教師として、1905年(明治38)3月に退職するまで、6年間この地で過ごしました。その間、たびたびこの中棚温泉を訪れています。
 その時の様子が、下記のように随筆『千曲川のスケッチ』の中の「中棚」に描かれています。また、『千曲川旅情の詩』の一節「千曲川いざよう波の 岸近き宿にのぼりて 濁り酒濁れる飲みて……」の岸近き宿は、この「中棚荘」を詠ったものと言われています。現在でも、大正時代の客室が現存し、昔ながらの湯宿の情景を思い起こさせてくれます。
 尚、当初は温度の低い鉱泉でしたが、近年600m掘削して、新源泉の湧出に成功し、露天風呂も造られています。10月~4月は、内湯にリンゴが浮かべられ、「初恋リンゴ風呂」として親しまれています。ぷかぷかと浮かぶたくさんのリンゴからは、とてもいい香りが漂っていましたし、露天風呂からは、千曲川や北アルプスまで眺望でき、とても気分良く入浴できる温泉です。

「この連中と一緒に、私は中棚の温泉の方へ戻って行った。沸し湯ではあるが、鉱泉に身を浸して、浴槽の中から外部の景色を眺めるのも心地が好かった。湯から上がっても、皆の楽しみは茶でも飲みながら、書生らしい雑談に耽ることであった。林檎畠、葡萄棚なぞを渡って来る涼しい風は私達の興を助けた。
「年をとれば、甘い物なんか食いたくなくなりましょうか」
 と一人が言い出したのが始まりで、食慾の話がそれからそれと引出された。
「十八史略を売って菓子屋の払いをしたことも有るからナア」
「菓子もいいが、随分かかるネ」
「僕は二年ばかり辛抱した……」
「それはエラい、二年の辛抱は出来ない。僕なぞは一週間に三度と定めている」
「ところが、君、三年目となると、どうしても辛抱が出来なくなったサ」
「此頃、ある先生が──諸君は菓子屋へよく行そうだ。私はこれまでそういう処へ一切足を入れなかったが、一つ諸君連れてってくれ給え、こう言うじゃないか」
「フウン」
「一体諸君はよく菓子を好かれるが、一回に凡そどの位食べるんですか、と先生が言うから、そうです、まあ十銭から二十銭位食いますって言うと、それはエラい、そんなに食ってよく胃を害さないものだと言われる。ええ、学校へ帰って来て、夕飯を食わずにいるものも有ります、とやったさ」
「そうだがねえ、いろいろなのが有るぜ、菓子に胃酸をつけて食う男があるよ」
 三人は何を言っても気が晴れるという風だ。中には、手を叩いて、躍り上がって笑うものもあった。それを聞くと、私も噴飯さずにはいられなかった。
 やがて、三人は口笛を吹き吹き一緒に泊っている旅舎の方へ別れて行った。
・・・・・・・・」 随筆『千曲川のスケッチ(中棚)』より

(3)揚羽屋<長野県小諸市>
 小諸市内にある「揚羽屋」は、1883年(明治16)の創業で、小諸義塾の英語教師時代の島崎藤村も度々立ち寄り、食事をしたという店で、その時の印象が、下記のように随筆『千曲川のスケッチ』の中の「一ぜんめし」に描かれています。
 私も名物の一善めしを注文して食べたことがありますが、揚げ出し豆腐やめし、汁などのとてもシンプルなもので気に入りました。今でも、リニューアルして営業を続けているそうです。

「私は外出した序に時々立寄って焚火にあてて貰う家がある。鹿島神社の横手に、一ぜんめし、御休処、揚羽屋とした看板の出してあるのがそれだ。
 私が自分の家から、この一ぜんめし屋まで行く間には大分知った顔に逢う。馬場裏の往来に近く、南向の日あたりの好い障子のところに男や女の弟子を相手にして、石菖蒲、万年青などの青い葉に眼を楽ませながら錯々と着物を造える仕立屋が居る。すこし行くと、カステラや羊羹を店頭に並べて売る菓子屋の夫婦が居る。千曲川の方から投網をさげてよく帰って来る髪の長い売卜者が居る。馬場裏を出はずれて、三の門という古い城門のみが残った大手の通へ出ると、紺暖簾を軒先に掛けた染物屋の人達が居る。それを右に見て鹿島神社の方へ行けば、按摩を渡世にする頭を円めた盲人が居る。駒鳥だの瑠璃だのその他小鳥が籠の中で囀っている間から、人の好さそうな顔を出す鳥屋の隠居が居る。その先に一ぜんめしの揚羽屋がある。
 揚羽屋では豆腐を造るから、服装に関わず働く内儀さんがよく荷を担いで、襦袢の袖で顔の汗を拭き拭き町を売って歩く。朝晩の空に徹る声を聞くと、アア豆腐屋の内儀さんだと直に分る。自分の家でもこの女から油揚だの雁もどきだのを買う。近頃は子息も大きく成って、母親さんの代りに荷を担いで来て、ハチハイでも奴でもトントンとやるように成った。
 揚羽屋には、うどんもある。尤も乾うどんのうでたのだ。一体にこの辺では麺類を賞美する。私はある農家で一週に一度ずつ上等の晩餐に麺類を用うるという家を知っている。蕎麦はもとより名物だ。酒盛の後の蕎麦振舞と言えば本式の馳走に成っている。それから、「お煮掛」と称えて、手製のうどんに野菜を入れて煮たのも、常食に用いられる。揚羽屋へ寄って、大鍋のかけてある炉辺に腰掛けて、煙の目にしみるような盛んな焚火にあたっていると、私はよく人々が土足のままでそこに集りながら好物のうでだしうどんに温熱を取るのを見かける。「お豆腐のたきたては奈何でごわす」などと言って、内儀さんが大丼に熱い豆腐の露を盛って出す。亭主も手拭を腰にブラサゲて出て来て、自分の子息が子供相撲に弓を取った自慢話なぞを始める。
 そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところだ。こういう暗い屋根の下も、煤けた壁も、汚れた人々の顔も、それほど私には苦に成らなく成った。私は往来に繋いである馬の鳴声なぞを聞きながら、そこで凍えた身体を温める。荒くれた人達の話や笑声に耳を傾ける。次第に心易くなってみれば、亭主が一ぜんめしの看板を張替えたからと言って、それを書くことなぞまで頼まれたりする。
」 随筆『千曲川のスケッチ(一ぜんめし)』より

(4)小諸義塾記念館<長野県小諸市>
 小諸義塾は、キリスト教牧師であった木村熊二が小山太郎らの要請に応えて、1893年(明治26)11月に開設した私塾です。1906年(明治39)に閉鎖されるまでキリスト教による近代教育を実践しました。
 塾長は木村熊二で、教師には小説家として有名になった島崎藤村らがいました。この建物の一部の「小諸義塾本館校舎」は、懐古園(小諸城跡)の脇に、移築復元されていて、内部には、当時の教育に関する資料が展示されています。
 校舎の印象については、下記のように随筆『千曲川のスケッチ』の中の「青麦の熟する時」に描かれています。

「学校の小使は面白い男で、私に種々な話をしてくれる。この男は小使のかたわら、自分の家では小作を作っている。それは主に年老いた父と、弟とがやっている。純小作人の家族だ。学校の日課が終って、小使が教室々々の掃除をする頃には、頬ほおの紅い彼の妻が子供を背負ってやって来て、夫の手伝いをすることもある。学校の教師仲間の家でも、いくらか畠のあるところへは、この男が行って野菜の手入をして遣る。校長の家では毎年可成な農家ほどに野菜を作った。燕麦なども作った。休みの時間に成ると、私はこの小使をつかまえては、耕作の話を聞いてみる。
 私達の教員室は旧士族の屋敷跡に近くて、松林を隔てて深い谷底を流れる千曲川の音を聞くことが出来る。その部屋はある教室の階上にあたって、一方に幹事室、一方に校長室と接して、二階の一隅を占めている。窓は四つある。その一方の窓からは、群立した松林、校長の家の草屋根などが見える。一方の窓からは、起伏した浅い谷、桑畠、竹藪などが見える。遠い山々の一部分も望まれる。
 粗末ではあるが眺望の好い、その窓の一つに倚りながら、私は小使から六月の豆蒔の労苦を聞いた。地を鋤くもの、豆を蒔くもの、肥料を施すもの、土をかけるもの、こう四人でやるが、土は焼けて火のように成っている、素足で豆蒔は出来かねる、草鞋を穿いて漸くそれをやるという。小使は又、麦作の話をしてくれた。麦一ツカ――九十坪に、粉糠一斗の肥料を要するとか。それには大麦の殻と、刈草とを腐らして、粉糠を混ぜて、麦畠に撒くという。麦は矢張小作の年貢の中に入って、夏の豆、蕎麦なぞが百姓の利得に成るとのことであった。
 南風が吹けば浅間山の雪が溶け、西風が吹けば畠の青麦が熟する。これは小使の私に話したことだ。そう言えば、なまぬるい、微な西風が私達の顔を撫でて、窓の外を通る時候に成って来た。」 随筆『千曲川のスケッチ(青麦の熟する時)』より

(5) 懐古園[小諸城跡]<長野県小諸市>
 懐古園(小諸城跡)へは、小諸駅から歩いて跨線橋を渡って行きます。国の重要文化財に指定されている三ノ門をくぐり、徴古館、藤村記念館、千曲川旅情の歌の碑と巡り、不開門跡の水の手展望台からの眺めてみると、すばらしい景色が展開します。千曲川のゆったりとした流れと遠方の山並みがとてもマッチしているので、しばしたたずんで、詩情に浸ることができます。
 島崎藤村もしばしば懐古園を訪れていたようで、下記のように随筆『千曲川のスケッチ』の中の「古城の初夏」に描かれています。

「・・・・・・・・
 奇人はこの医者ばかりでは無い。旧士族で、閑散な日を送りかねて、千曲川へ釣に行く隠士風の人もあれば、姉と二人ぎり城門の傍に住んで、懐古園の方へ水を運んだり、役場の手伝いをしたりしている人もある。旧士族には奇人が多い。時世が、彼等を奇人にして了った。
 もし君がこのあたりの士族屋敷の跡を通って、荒廃した土塀、礎ばかり残った桑畠なぞを見、離散した多くの家族の可傷しい歴史を聞き、振返って本町、荒町の方に町人の繁昌を望むなら、「時」の歩いた恐るべき足跡を思わずにいられなかろう。しかし他の土地へ行って、頭角を顕すような新しい人物は、大抵教育のある士族の子孫だともいう。
 今、弓を提げて破壊された城址の坂道を上って行く学士も、ある藩の士族だ。校長は、江戸の御家人とかだ。休職の憲兵大尉で、学校の幹事と、漢学の教師とを兼ねている先生は、小諸藩の人だ。学士なぞは十九歳で戦争に出たこともあるとか。
 私はこの古城址に遊んで、君なぞの思いもよらないような風景を望んだ。それは茂った青葉のかげから、遠く白い山々を望む美しさだ。日本アルプスの谿々の雪は、ここから白壁を望むように見える。
 懐古園内の藤、木蘭、躑躅、牡丹なぞは一時花と花とが映り合って盛んな香気を発したが、今では最早濃い新緑の香に変って了った。千曲川は天主台の上まで登らなければ見られない。谷の深さは、それだけでも想像されよう。海のような浅間一帯の大傾斜は、その黒ずんだ松の樹の下へ行って、一線に六月の空に横わる光景が見られる。既に君に話した烏帽子山麓の牧場、B君の住む根津村なぞは見えないまでも、そこから松林の向に指すことが出来る。私達の矢場を掩う欅、楓の緑も、その高い石垣の上から目の下に瞰下すことが出来る。
 ・・・・・・・・」 随筆『千曲川のスケッチ(古城の初夏)』より

☆随筆『千曲川のスケッチ』の冒頭部分

 敬愛する吉村さん――樹しげるさん――私は今、序にかえて君に宛あてた一文をこの書のはじめに記しるすにつけても、矢張やっぱり呼び慣れたように君の親しい名を呼びたい。私は多年心掛けて君に呈したいと思っていたその山上生活の記念を漸ようやく今纏まとめることが出来た。

 (後略)

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旅の豆知識「暗夜行路」

2017年07月22日 | 旅の豆知識
 明治時代後期以降の日本の近代小説を読んでいると、作者が直接に経験したことがらを素材にして書かれた私小説や心境小説と呼ばれる作品があり、日本の文学史上にも大きな役割を果たしています。
 これらの小説は、作者が直接に経験したことを素材として、創作されていますので、作者の実際に住んだところや生活の様子がよく描かれ、成長過程をたどることもでき、足跡を訪ねてみると、小説の場面とマッチしている所も多く、なかなか感動できるのです。
 その中で、志賀直哉著の長編小説『暗夜行路』は、作者の住んだところや行った場所、成長過程がよくたどれて、足跡を訪ねる旅には、うってつけの作品なのです。

〇{志賀直哉}とは?
 明治時代後期から昭和時代に活躍した小説家で、1883年(明治16)2月20日に宮城県石巻市に生まれ、学習院から東京帝国大学文学部に学びました。
 1910年(明治43)に武者小路実篤、有島武郎、有島生馬、里見弴らと『白樺』を創刊して、リアリズムとヒューマニズムに基づく小説を発表し、注目されるようになります。その後、色々な文学者に影響を与え、日本的私小説の完成者とされています。
 『網走まで』『和解』『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『灰色の月』などの作品で知られていますが、代表作は『暗夜行路』です。
 戦後も活躍しましたが、1971年(昭和46)10月21日に88歳で亡くなりました。

〇小説『暗夜行路』とは?
 志賀直哉の唯一の長編小説で、長期の構想を経て、大正時代の1921年(大正10)から雑誌『改造』に連載され、1937年(昭和12)に完結するまで17年の歳月が費やされました。
 序詞、第1~4部に分かれていますが、主人公時任謙作の苦悩とそれを克服していく生き方が描かれています。
 苦悩に直面したときに出かける旅のシーンが印象的ですが、最後に山陰の大山へ向かう旅が強烈です。小説全体のテーマを込めたもので最後に光明を見いだすのです。
<『暗夜行路』時任謙作最後の旅の行程>
(1日目)
 ・京都の花園駅から山陰本線に乗り、城崎駅へ
 ・城崎温泉「三木屋」に泊まる
 ・城崎温泉「御所の湯」へ入浴にいく
(2日目)
 ・城崎駅から山陰本線で香住駅へ
 ・香住駅から人力車で、大乗寺(応挙寺)を見学する
 ・鳥取へ泊まる
(3日目)
 ・鳥取駅から山陰本線で大山駅へ
 ・車窓に湖山池を見て、長者伝説を思う
 ・車窓から東郷池を見る
 ・大山駅から人力車と徒歩で大山に登る、途中分けの茶屋で休む
 ・蓮浄院の離れへ逗留する
(4日目~)
 ・蓮浄院に逗留しながら、阿弥陀堂など周辺を散策し、思索しながらすごす
 ・大山の山頂に登ろうとし、山中を彷徨し、九死に一生を得る
 ・蓮浄院で重病となって寝込む
 ・妻の直子が看病に来て、光明を見いだす

☆小説『暗夜行路』の関係地
 
(1)東京<東京都>
 志賀直哉は宮城県石巻の出生ですが、その後、東京で少年期から青年期を過ごすことになります。父の直温は、総武鉄道や帝国生命保険の取締役を経て、明治期の財界で重きをなした人物で、直哉が、14歳から住んだ東京麻布三河台町(現在の東京都港区六本木4-3-13 )の邸宅は、敷地1,682坪(5,550.6㎡)、建坪300坪もあり、雑木林の趣さえうかがえる広大なものでした。しかし、学習院から東京帝国大学文学部に入学後、いろいろと葛藤しながらも、放蕩生活の末に大学を中退することになります。そして、1912年(大正元)には、文学上の悩みや父との仲違いから東京を離れ、広島県尾道に移りました。また、1913年(大正2)年に、尾道から帰京した後は、山手線の電車にはねられ重傷を負い、しばらく兵庫県の城崎温泉で療養し、その後の落ち着き先が、 東京府下大井町鹿島谷(現在の東京都大田区)だったのです。
 小説『暗夜行路』には、この間の経緯や自身の体験が投影されているものと考えられ、また、東京の繁華な様子が、随所に表現されています。直哉が青少年期に住んでいた邸宅は、1945年(昭和20)の東京空襲で全焼し、今はブリジストンアパートとなっています。跡地には、説明板があるだけで、二本の欅の木を除いて往時を偲ぶものはなにもありません。没後、志賀直哉は、青山霊園にある志賀家一族の墓所に葬られました。

(2)尾道<広島県尾道市>
 志賀直哉は、1912年(大正元)11月、文学上の悩みや父との仲違いから東京を離れ、友人が賞していた尾道の地に移住しました。住んだのは、三軒棟割長屋の東のはじの一軒で、6畳と3畳の2部屋と土間の台所だけの平屋で、1913年(大正2)11月まで、1年間いました。ここで代表作である『暗夜行路』の構想を練り起稿したと言われています。現在は、近くにある文学記念室(国登録文化財)、志賀直哉旧居、文学公園、中村憲吉旧居の4施設を「おのみち文学の館」として有料で公開し、内部には、林芙美子、中村憲吉、行友李風、高垣眸、横山美智子、山下陸奥、麻生路郎の書籍・原稿や遺品等を展示公開するなど、尾道ゆかりの文学者たちの顕彰をしています。
 小説『暗夜行路』の中にも、主人公時任謙作が移り住んだ地として登場し、下記のように、尾道の町並み、特に、千光寺のことが詳しく書かれています。千光寺公園の文学のこみちには、「暗夜行路」の一説を刻んだ石碑が立っています。

「・・・・・・・・
 六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。ゴーンとなるとすぐゴーンと反響が一つ、また一つ、また一つ、それが遠くから帰つて来る。そのころから、昼間は白い島の山と山との間にちよつと頭を見せてみる百貫島の燈台が光り出す。それはピカリと光つてまた消える。造船所の銅を熔かしたやうな火が水に映じ出す。
 十時になると多度津通いの連絡船が汽笛をならしながら帰って来る。舳の赤と緑の灯り、甲板の黄色く見える電燈、それらを美しい縄でも振るように水に映しながら進んでくる。もう市からはなんの音も聞こえなくなって、船頭たちのする高話の声が手に取るように彼の所まで聞こえてくる。
 ・・・・・・・・」小説『暗夜行路』より

(3)京都<京都府京都市>
 志賀直哉は、若いころから京都を何度も訪れているとのことですが、最初に住んだのは、上京区南禅寺町で、1914年(大正3)のことでした。その年に、勘解曲小路康子(武者小路実篤の従妹)と結婚、翌年には、一条御前通西五丁の方へ転居しています。その後、群馬県の赤城、千葉県の安孫子と転々とし、1923年(大正12)に再び京都に住み、その年の10月から山科村(現在の京都市東山区山科竹鼻立原町)に転居し、1年半ほど暮らしていました。
 そんなわけで、志賀直哉の作品「山科の記憶」「痴情」「晩秋」「瑣事」などにもいろいろと登場し、小説『暗夜行路』後篇の主要な舞台ともなっています。下記のように、特に、銀閣寺、法然院、南禅寺、円山公園、祇園、高台寺、清水などの地名が出てきて、その周辺を巡っている雰囲気というか、愛着が伝わってくるのです。現在では、山科の居宅跡だけは、家屋は無くなっているものの、旧居跡の碑が立っています。

「南禅寺の裏から疏水を導き、又それを黒谷に近く流し返してある人工の流れについて帰って行った。並べる所は並んで歩いた。並べない所は謙作が先に立って行ったが、その先に立っている時でも彼は後から来る直子の身体の割にしまった小さい足が、きちんとした真白な足袋で褄をけりながら、すっすっと賢気に踏み出されてくるのを眼に見るように感じ、それが如何にも美しく思われた。そういう人が――そういう足がすぐ背後からついてくることが、彼には何か不思議な幸福に感ぜられた。
 小砂利を敷いた流れに逆らって、一匹の亀の子が一生懸命にはっていた。いかにも目的ありげに首を延ばしてはっている様子がおかしく、二人はしばらく立ってながめていた。
 ・・・・・・・・」小説『暗夜行路』より

(4)城崎温泉<兵庫県豊岡市>
 城崎温泉の「三木屋」は、1913年(大正2)電車事故で重傷を負った志賀直哉が養生に訪れ、名作『城崎にて』を執筆したことで知られている、江戸時代から続く老舗旅館です。
 後の代表作『暗夜行路』の中にも、下記のように描かれていて、主人公時任謙作が泊まって、すぐ前の“御所の湯”に入ったとあります。この外湯は、堀河天皇の皇女安嘉門院が入浴したことにちなんで名付けられた美人の湯とのことで、とても立派な造りとなっていて、大理石で囲われた 湯船で旅の疲れを癒すことができ、志賀直哉を偲んでみることも可能です。
 また、この温泉地には古来より、多くの文人墨客が訪れていますが、そんな風情を感じられる文学碑が各所に建てられています。その中に、志賀直哉の文学碑も城崎文芸館前にあり、小説「城崎にて」の一説が刻まれていますし、「城崎文芸館」内には、志賀直哉に関する展示があります。

「城崎では彼は三木屋というのに宿った。俥で見て来た町のいかにも温泉場らしい情緒が彼を楽しませた。高瀬川のような浅い流れが町のまん中を貫ぬいている。その両側に細い千本格子のはまった、二階三階の湯宿が軒を並べ、ながめはむしろ曲輪の趣に近かった。また温泉場としては珍しく清潔な感じも彼を喜ばした。一の湯というあたりから細い道をはいって行くと、桑木細工、麦藁細工、出石焼き、そういう店々が続いた。ことに麦藁を開いてはった細工物が明るい電燈の下に美しく見えた。
 宿へ着くと彼はまず湯だった。すぐ前の御所の湯というのに行く。大理石で囲った湯槽の中は立って彼の乳まであった。強い湯の香に、彼は気分の和らぐのを覚えた。
 出て、彼はすぐ浴衣が着られなかった。ふいてもふいても汗がからだを伝わって流れた。彼は扇風機の前でしばらく吹かれていた。そばのテーブルに山陰案内という小さな本があったので、彼はそれを見ながら汗のひくのを待った。
 ・・・・・・・・」小説『暗夜行路』より

(5)大乗寺<兵庫県香美町>
 この寺は、行基菩薩が聖観世音菩薩立像を祀ったのが始まりといわれる古い寺で、戦乱の余波で一時衰退しましたが、安永年間、密蔵法印が伽藍を再建したとのことで、西国薬師霊場第二十八番札所に選ばれています。しかし、なによりも有名なのは、円山応挙とその弟子達による165面の障壁画(国重要文化財)があることで、俗に応挙寺と呼ばれているのです。
 小説『暗夜行路』の中では、下記のように主人公時任謙作は城崎の次に立ち寄り、丸山応挙一門のふすま絵におおいに興味を示し、その様子が詳述されています。寺は現在もそのままで、障壁画も見学することができますので、それらを見ながら、志賀直哉の感動を追体験することも可能です。

「十時ころの汽車で応挙寺へ向かう。香住駅から俥で行った。
 応挙の書生時代、和尚が応挙に銀十五貫を与えた。応挙はそれを持って江戸に勉強に出た。その報恩として、後年この寺ができた時に一門を引き連れ、寺全体の唐紙へ揮毫したものだという。
 応挙がいちばん多く描いていた。その子の応瑞、弟子の呉春、蘆雪もあり、それぞれおもしろかった。
 応挙は、書院と次の間と仏壇の前の唐紙を描いていた。書院の墨絵の山水がことによく思われた。いかにも律気な絵だった。次の間は郭子儀、これには濃い彩色があり、もうひとつは松に孔雀の絵だった。
 ・・・・・・・・」小説『暗夜行路』より

(6)大山<鳥取県西伯郡大山町>
 志賀直哉は、1914年(大正3)7月に、大山寺を訪れ、塔頭寺院の一つ蓮浄院に10日間滞在し、大山にも中腹まで登山したらしく、その後、8月初めに山を下っています。
 小説『暗夜行路』の中では、主人公時任謙作は、最後のところで、大山の山頂への登山を試みますが、途中から引き返し、下記のように、すばらしい朝日を見るものの、疲労して、病気となるのです。そこに、妻直子が看病に来て、妻への憎悪が薄らいでいくところで、小説は終わっています。しかし今でも、雄大な自然が残り、小説の情景を彷彿とさせてくれるところです。

「・・・・・・・・
 中の海の彼方から海へ突き出した連山の頂が色づくと、美保の関の白い燈台も陽を受け、はっきりと浮かび出した。まもなく、中の海の大根島にも陽が当たり、それが赤鱏を伏せたように平たく、大きく見えた。村々の電燈は消え、そのかわりに白い煙がところどころに見え始めた。しかし、麓の村はまだ山の陰で、遠いところよりかえって暗く、沈んでいた。謙作はふと、今見ている景色に、自分のいる大山がはっきりと影を映していることに気がついた。影の輪郭が中の海から陸へ上ってくると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気づいたが、それは停止することなく、ちょうど地引き網のように手繰られて来た。地をなめて過ぎる雲の影にも似ていた。中国一の高山で、輪郭に張り切った強い線を持つこの山の影を、そのまま、平地にながめられるのを稀有のこととし、それから謙作はある感動を受けた。」小説『暗夜行路』より

☆小説『暗夜行路』の冒頭部分

 私が自分に祖父のあることを知ったのは、私の母が産後の病気で死に、その後ふた月ほどたって、不意に祖父が私の前に現れて来た、その時であった。私の六つの時であった。
 ある夕方、私は一人、門の前で遊んでいると、見知らぬ老人がそこへ来て立った。目の落ちくぼんだ、猫背のなんとなくみすぼらしい老人だった。私はなんということなくそれに反感を持った。

 (後略)

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旅の豆知識「二十四の瞳」

2017年07月21日 | 旅の豆知識
 古来から、離島は隔絶したところとして、独特の文化や習慣が息づいてきました。それは、現在でも残されている所も多く、そういうところを旅すると、妙に感慨深いものを得たりするのです。
 小説の中にも、離島を舞台としたものには、その島独特の雰囲気や習俗みたいなものが織り込まれていて、とても詠んでいて、面白いものです。そういった離島の「文学紀行」をしてみるのも、お勧めだと思います。
 例えば、三重県鳥羽市の神島を舞台にした三島由紀夫著の小説『潮騒』、鹿児島県加計呂麻島を舞台にした島尾敏雄著の『出発は遂に訪れず』、新潟県佐渡島を舞台にした太宰治著の『佐渡』などの独特の雰囲気を持ったものです。
 その中で、壺井栄著の小説『二十四の瞳』は、1954年(昭和29)に、木下恵介監督で映画化されて大ヒットし、1987年(昭和62)に朝間義隆監督により、再映画化されましたし、何度もテレビドラマ化されていますので、見たことがある人も多いのではないでしょうか。現在でも、モデルとなった小豆島をあげて、『二十四の瞳』を宣伝しています。

〇{壺井栄}とは?
 昭和時代に活躍した小説家・童話作家で、1899年(明治32年)8月5日に、香川県小豆郡坂手村(現在の小豆島町)の醤油樽職人岩井藤吉の五女として生まれました。内海高等小学校卒業後,郵便局や村役場などで働きながら、同郷の黒島伝治,壺井繁治らの影響を受けます。1925年(大正14)に上京後、プロレタリア詩人だった壺井繁治と結婚し、プロレタリア文学運動を通じて宮本百合子、佐多稲子を知るようになりました。創作活動を始めて、38歳のとき処女作『大根の葉』を発表、以後小説と童話の多彩な作品を作ります。代表作として、小説に『暦』、『妻の座』、『柿の木のある家』、『母のない子と子のない母と』などがあり、『二十四の瞳』は、戦後反戦文学の名作として、後に映画化され大ヒットしました。童話集に『海のたましひ』、『十五夜の月』などがあり、童話風、民話風の作品で認められることになります。しかし、1967年(昭和42)6月23日に、67歳で亡くなっています。

〇小説『二十四の瞳』とは?
 壺井栄著の長編小説で、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、キリスト教系の青年雑誌『ニュー・エイジ』に連載され、同年光文社から刊行されました。
 瀬戸内海のある岬の分教場に勤める若い女性教師大石先生と12人の教え子とのふれあいを描きながら、戦争に突入してから敗戦に至る時代をみつめた作品です。
 1954年(昭和29)に、木下恵介監督で映画化され、大ヒットし、1987年(昭和62)に朝間義隆監督により、再映画化されました。小豆島には、再映画化時のオープンセットを活用した「二十四の瞳映画村」があります。

☆小説『二十四の瞳』の関係地
 
(1)岬の分校跡<香川県小豆郡小豆島町>
 小豆島の岬の分校は、壺井栄著の小説『二十四の瞳』の舞台となったと考えられている所です。小説には、「瀬戸内海べりの一寒村」としか書かれていませんが、「細長い岬の、そのとっぱなにあった」と描かれていて、この分校をモデルにしたと思われているのです。小説の中では、対岸の町から片道5キロの道のりをおなご先生は、自転車で岬に向かって、走ったと描写されています。そこで、私もレンタサイクルを借りて走ってみましたが、海は青く、すばらしい景色で、分校もよく保存されていて、小説の場面を彷彿とさせ、感激しました。1972年(昭和47)に廃校となっていますが、分校の建物はよく保存されていて、見学可能です。

(2)二十四の瞳映画村<香川県小豆郡小豆島町>
 小豆島の岬の分校から800m先にあり、1987年(昭和62)公開の映画「二十四の瞳」(朝間義隆監督による再映画化)の小豆島ロケのオープンセットを活用した施設群(有料)です。瀬戸内海に面する約1万m2の敷地内には、映画で使用されたオープンセットが立ち並び、原作者である小説家壺井栄の「壺井栄文学館」や「ギャラリー松竹座映画館」、「キネマの庵」(1950年代日本映画黄金期資料や各映画会社の代表作予告編映像の上映など)、二十四の瞳天満宮などもあっていろいろと楽しめます。

(3)壷井栄文学碑の道<香川県小豆郡小豆島町>
 小豆島町坂手は壺井栄の生誕地で、「壷井栄文学碑の道」というのがあります。坂手港~観音寺~壷井栄文学碑~生田春月詩碑~荒神社~坂手港とぐるっと回って、約1.5kmの道のりで、壺井栄文学碑は「岬の分教場」を見下ろす向が丘に建っているのです。少女時代の壺井栄がよく遊んだ丘とのことで、碑文には、壺井栄が生前に好んで色紙に書いたことわざである「桃栗三年 柿八年 柚の大馬鹿十八年」が刻まれています。

(4)土庄港(平和の群像)<香川県小豆郡土庄町>
 「平和の群像」は、庄港の入り口(香川県小豆郡土庄町)にある群像(女性教師と12名の生徒から成る)です。
 この群像は、戦争での教訓から、平和を願う気持ちを込め、『二十四の瞳』の原作と映画をモデルにして、1956年(昭和31)に建てられましたが、最初の映画が公開された2年後のことでした。
 彫塑家 矢野秀徳(香川県丸亀市出身)の作で、題字の揮毫は鳩山一郎で、像の正面に「平和の群像 内閣総理大臣 鳩山一郎」と書かれていて、小豆島バスによって建立され、1956年(昭和31)11月10日に除幕されたのですが、1997年(平成9)には、土庄町に寄贈されたのです。

(5)金毘羅神社<香川県仲多度郡琴平町>
 小説の中では、子供たちと大石先生等が修学旅行へ行った場所の一つとして、描かれていますが、船で多度津へ着き、そこから汽車で金刀比羅へ行き、長い石段を登っていったと書かれています。そんな中で、大石先生は体調を崩してしまうのです。
 文中の記述は、そんなに長いものではありませんが、映画の中ではとても印象的に撮られていて、記憶に残っています。現在も長い階段と門前町の風情はよく残されていて、歩いてみたくなるところです。

☆小説『二十四の瞳』の冒頭部分

 十年をひと昔というならば、この物語の発端は今からふた昔半もまえのことになる。世の中のできごとはといえば、選挙の規則があらたまって、普通選挙法というのが生まれ、二月にその第一回の選挙がおこなわれた、二か月後のことになる。昭和三年四月四日。農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女の先生が赴任してきた。
 百戸あまりの小さなその村は、入り江の海を湖のような形にみせる役をしている細長い岬の、そのとっぱなにあったので、対岸の町や村へゆくには小舟で渡ったり、うねうねとまがりながらつづく岬の山道をてくてく歩いたりせねばならない。交通がすごくふべんなので、小学校の先徒は四年までが村の分教場にゆき、五年になってはじめて、片道五キロの木村の小学校へかようのである。手作りのわらぞうりは一日できれ た。それがみんなはじまんであった。毎朝、新らしいぞうりをおろすのは、うれしかったにちがいない。………」

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旅の豆知識「放浪記」

2017年07月20日 | 旅の豆知識
 自伝的小説の中には、自らの日記をもとにして、創作を加えながらも、時系列に沿って描かれたものが、少なくありません。そのような小説には、作者が住んでいた場所や行ったところが詳細に描かれていて、その状況を彷彿とさせることがあります。
 こういう小説の足跡をたどってみると作者の成長とともに、周辺の状況をどのように感じ、どう行動したかが、よく伝わってきて、なかなか面白いのです。
 その中でも、昭和時代前期に書かれた林扶美子著の小説『放浪記』は、作者自身が各地を転々として、生活していたこともあって、その成長と共に、いろいろな場所や情景が描かれていて、足跡をたどってみても面白いのです。
 当時のベストセラーとなっただけに人気も高く、各地に文学碑が建てられ、資料館やゆかりの場所なども残されていて、小説『放浪記』を片手に巡ってみるのも良いと思います。

〇{林扶美子}とは?
 昭和時代に活躍した小説家で、本名は、林フミコといい、1903年(明治36)12月31日に、福岡県門司市(現在の福岡県北九州市門司区)で行商人の娘として生れたといわれますが、はっきりしないそうです。
 その後、各地を転々と放浪しながら育ち,1922年(大正11)に、尾道高等女学校を卒業後上京し、事務員・露天商・女工・女給などの職を遍歴しながら詩や童話を書き始めました。
 日記をつけるようにもなり、アナーキストの詩人や作家との交流の中で影響をうけるようになったのです。1926年(昭和元)、画学生の手塚緑敏と内縁の結婚をし、生活が安定しました。
 1928年(昭和3)、『女人藝術』に「秋が来たんだ――放浪記」の連載を開始し、1930年(昭和5)に改造社から刊行した自伝的小説『放浪記』がベストセラーとなったのです。他に「風琴と魚の町」「清貧の書」「牡蠣」『稲妻』『浮雲』等があり、戦後に渡って、第一線の女流作家としての活躍を続けましたが、1951年(昭和26)6月28日に47歳で急逝しました。

〇小説『放浪記』とは?
 作家の林芙美子が自らの日記をもとに放浪生活の体験を書き綴った自伝的小説で、昭和時代前期の1928年(昭和3)、長谷川時雨主宰の『女人藝術』に、10月から翌々年10月まで20回、「秋が来たんだ――放浪記」として掲載されました。そして、1930年(昭和5)に改造社から刊行した『放浪記』と『続放浪記』が好評を博し、ベストセラーとなったのです。この小説は、昭和恐慌下の暗い東京で、貧困にあえぎながらも、向上心を失わず強く生きる一人の女性の姿が多くの人々をひきつけたものと思われます。1939年(昭和14)、「決定版」を謳って新潮社から刊行された際、大幅な改稿が行われました。さらに、戦後になって1946年(昭和21)5月からは、「日本小説」に第三部の連載が始まり、1949年(昭和21)『放浪記第三部』として刊行されました。そして、1979年(昭和54)には、これら全てを含めた『新版 放浪記』が新潮社から刊行され、これが実質上の定本となりました。また、1935年(昭和10)に木村壮十二監督(P.C.L.映画製作所)、1954年(昭和29)に久松静児監督(東映)、1962年(昭和37)に成瀬己喜男監督(東邦)と3度にわたり映画化されていますし、テレビドラマとしても何回か放送されています。さらに、女優・森光子が1961年(昭和36)に主役で、東京の芸術座で初演した舞台版「放浪記」は、同一主演者により2009年(平成21)まで2017回の上演を記録しました。

☆小説『放浪記』の関係地
 
(1)下関<山口県下関市>
 林芙美子は、1903年(明治36)に下関市田中町の五穀神社入口にあったブリキ屋の2階で生まれたと言われています。この五穀神社に、林芙美子生誕地の碑があります。自叙伝でもある「放浪記」にも下関のことが書かれており、第一学年から第四学年まで在籍していた名池小学校の資料室には彼女の学籍簿が展示されています。また、亀山八幡宮には、林芙美子文学碑があり、「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」と刻んであり、その脇の銅板には、「……私が生まれたのはその下関の町である」と「放浪記」の冒頭の部分が書いてあります。

(2)古里温泉<鹿児島県鹿児島市>
 多目的広場を備えた古里公園内には、小説「放浪記」「浮雲」などの名作を残した女流作家・林芙美子の文学碑があります。林芙美子の母親林キクは桜島の出身で、兄の経営する古里温泉を手伝っているとき知り合った泊り客(行商人)の宮田麻太郎との間にできたのが林芙美子で、本籍地もここになっています。その後、11歳の時に芙美子が本籍地に預けられ、当地で一時期を過ごしました。この母の出身地である古里町に、林芙美子の幼少期と大人の和服姿の銅像2体と「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」と刻んだ文学碑が建てられています。

(3)直方<福岡県直方市>
 作家の林芙美子は、12歳のころ直方の旧大正町の木賃宿「大正町の馬屋」に泊まり両親と行商を行いました。小説『新版 放浪記』の冒頭部分に、下記のように「直方の炭坑町」が描かれており、12歳のころの直方時代が林芙美子文学の原点になった、ともいわれています。また、「このころの思い出は一生忘れることはできない」とも記されています。現在、商店街の北側に位置する須崎町公園には、「放浪記」文学碑があり、「私は古里を持たない 旅が古里であった」と刻まれています。また、山部の西徳寺には林芙美子滞在地記念文学碑もあります。

(4)尾道<広島県尾道市>
 1916年(大正5)5月に、林芙美子は尾道に両親とともに降り立ちました。そして、しばらく落ち着くことになり、翌年、市立尾道小学校(現在の尾道市立土堂小学校)を2年遅れで卒業できたのです。1918年(大正9)、文学の才能を見出した教員の勧めで、尾道市立高等女学校(現在の広島県立尾道東高等学校)へ進みました。夜間や休日は働きながら、図書室の本を読み耽けったとのことです。教諭も文才を延ばすように努め、友人にも恵まれ、18歳頃から、地方新聞に詩や短歌を投稿しました。1922年(大正13)、女学校卒業直後、上京するまで尾道にとどまり、故郷としての印象を深く刻ませ、後年もしばしば「帰郷」することになります。小説『新版 放浪記』の中にも、主人公が居住した地として登場し、尾道の町並みや千光寺のことが詳しく書かれています。現在市内には、文学記念室(国登録文化財)、志賀直哉旧居、文学公園、中村憲吉旧居の4施設を「おのみち文学の館」として有料で公開した施設があり、内部に、林芙美子、中村憲吉、行友李風、高垣眸、横山美智子、山下陸奥、麻生路郎の書籍・原稿や遺品等を展示公開するなど、尾道ゆかりの文学者たちの顕彰をしています。千光寺公園の文学のこみちには、下記の「放浪記」の一説を刻んだ石碑が立っていますし、本通り商店街入口には、和服姿でかがんだ林芙美子像もあります。また、像の近くの商店街に「おのみち林芙美子記念館」があり、その奥には芙美子が14歳の頃暮らした旧居が残されていて見学できます。

(5)東京<東京都>
 1922年(大正11)に上京して以来、事務員・露天商・女工・女給などの職を転々とし、多くの苦労を重ねてきた林芙美子は、1930年(昭和5)に落合の地(現在の東京都新宿区)に移り住み、1939年(昭和14)12月にはこの土地を購入し、新居を建設しはじめました。そして、1941年(昭和16)8月から1951年(昭和26年)6月28日に死去するまで住んでいたのです。現在、この家は改築・整備され、「新宿区立林芙美子記念館」として公開されています。旧家部分の立ち入りは不可ですが、生前林芙美子が生活していた茶の間、書斎、小間などの様子を庭先から見ることができます。画家であった夫の林緑敏の旧アトリエは、展示室となっていて、そこは見学できます。また、そこから徒歩20分ほどの万昌院功運寺に林芙美子の墓があります。

(6)因島<広島県尾道市>
 ここは、林芙美子の初恋の相手岡野軍一の生まれ故郷です。林芙美子が、市立尾道小学校(現・尾道市立土堂小学校)6年生の頃、当時忠海中学の生徒だった岡野軍一と出会い、付き合うようになりました。岡野軍一が、明治大学商科進学のため上京すると、林芙美子も同じく、尾道市立高等女学校(現在の広島県立尾道東高等学校)卒業と共に、恋人を追って上京したのです。そして、雑司が谷で一年ほどいっしょに暮したものの、大学を卒業した岡野軍一は故郷に戻り、日立造船所因島工場に勤めました。しかし、岡野軍一は家族の反対で芙美子との婚約を解消することとなったそうです。そういうわけで因島は、芙美子の恋人岡野軍一の故郷として度々訪れ、小説『新版 放浪記』の中にも、下記のように舞台として登場しています。たまたまあった、造船所のストライキの様子を詩にして挿入していますが、とても印象的です。また、因島公園には、林芙美子の文学碑が建てられ、「海を見て 島を見て 只茫然と 魚のごとく あそびたき願い」と刻まれています。

(7)直江津<新潟県上越市>
 林芙美子は、1924年(大正13)頃に、東京の上野駅から信越本線経由で直江津駅に降り立ったとのことで、駅前のいかや旅館(現在のホテルセンチュリーイカヤ)に泊まりました。そして、周辺を散策し、三野屋菓子店で、"継続団子"を買って食べたとのことです。その体験が、後年の小説『放浪記』の第三部に、下記のように描かれています。それを記念して、2011年(平成23)11月にJR直江津駅前に記念碑が立てられました。これは、「放浪記」の舞台女優として知られる森光子さんから送られてきた直筆の色紙を元に、林芙美子が好んだ「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」が刻まれています。碑は高さ70cm、幅90cmで、上越市出身の彫刻家、岡本銕二さんが制作したもので、上部に森光子と林芙美子をイメージしたブロンズ像が付いています。また、小説に登場する"継続団子"は、今でも三野屋菓子店で売っていて、賞味できました。

☆林芙美子の青春期までの放浪の軌跡
 1903年(明治36) 0歳
 ・福岡県門司市大字小森江で生まれる(下関説もあり)
 1904年(明治37) 1歳
 ・山口県下関市に転居し、父は「軍人屋」という店を構えた
 1910年(明治43) 7歳
 ・母キクは、芙美子を連れて店員の沢井と家を出て、長崎に転居
 ・芙美子は、長崎市勝山尋常小学校へ入学
 ・芙美子は、佐世保市八幡女児尋常小学校(現在の佐世保市立清水小学校)へ転校
 1911年(明治44) 8歳
 ・沢井は、下関市で古物商を営む
 ・芙美子は、下関市名池尋常小学校(現在の下関市立名池小学校)へ転校
 1914年(大正3) 11歳
 ・沢井の店が倒産し、両親は行商に出る
 ・芙美子は、一時鹿児島の叔母に預けられる
 ・その後、芙美子は祖母に預けられる
 ・芙美子は、鹿児島市山下尋常小学校(現在の鹿児島市立山下小学校)5年へ編入
 1915年(大正4) 12歳
 ・この頃、養父沢井と母キクの行商に従って、九州各地を転々とする
 1916年(大正5) 13歳
 ・一家で広島県尾道市へ転居
 ・芙美子は、第二尾道尋常小学校(現在の尾道市立土堂小学校)5年へ編入
 1917年(大正6) 14歳
 ・因島から忠海中学校に通っていた岡野軍一と親しくなる
 1918年(大正7) 15歳
 ・芙美子は、第二尾道尋常小学校を卒業
 ・芙美子は、尾道市立高等女学校(現在の広島県立尾道東高等学校)へ入学
 ・学費のため夜は帆布工場に勤める
 1922年(大正11) 19歳
 ・芙美子は、尾道市立高等女学校を卒業
 ・明治大学に通う恋人岡野軍一を頼って上京
 ・東京市小石川区雑司ヶ谷に住む
 ・風呂屋の下足番や株屋の事務員などの仕事を転々とする
 ・両親が上京し、露天商として生計を立てる

☆『放浪記』関係文学碑・像一覧

・「放浪記」文学碑(福岡県直方市須崎町18 須崎町公園) 1981年秋建立
 【碑文】私は古里を持たない 旅が古里であった
・林芙美子滞在地記念文学碑(福岡県直方市山部540 西徳寺) 1993年5月建立
 【碑文】梟と真珠と木賃宿 林芙美子
  定まった故郷をもたない私は
  きまったふる里の家をもたない私は
  木賃宿を一生の古巣としている
  雑草のやうな群達の中に
  私は一本の草に育まれて来た
・林芙美子文学碑(福岡県中間市垣生 垣生公園) 1971年3月23日建立
 【碑文】私達三人は、直方を引きあげて、折尾行きの汽車に乗った。毎日あの道を歩いたのだ。汽車が遠賀川の鉄橋を越すと、堤にそった白い路が暮れそめていて、私の眼に悲しくうつるのであった。白帆が一ツ川上へ登っている、なつかしい景色である。汽車の中では、金鎖や、指輪や、風船、絵本などを売る商人が、長いことしゃべくっていた。父は赤い硝子玉のはいった指輪を私に買ってくれたりした。
  (「新版 放浪記」の一説)
・父に宛てた手紙の石碑(愛媛県西条市三津屋444-2 JR壬生川駅前) 2000年2月建立
 【碑文】何もかも忘れ、この不幸な私を、父上は愛して下さるでしょう
         芙美子
  父上様
  (西条市は実父宮田麻太郎の出身地)
・林芙美子詩碑(愛媛県西条市 佐々久山) 2000年2月建立
 【碑文】 帰郷
  古里の山や海を眺めて泣く私です
  久々で訪れた古里の家
  昔々子供の飯事に
  私のオムコサンになつた子供は
  小さな村いつぱいにツチの音をたてゝ
  大きな風呂桶にタガを入れてゐる
  もう大木のやうな若者だ。
  崩れた土橋の上で
  小指をつないだかのひとは
  誰も知らない国へ行つてゐるつてことだが。
  小高い蜜柑山の上から海を眺めて
  オーイと呼んでみやうか
  村の人が村のお友達が
  みんなオーイと集つて来るでせう。
   林芙美子の詩集より
・林芙美子生誕地の碑(山口県下関市田中町 五穀神社) 1966年建立
 【碑文】 林芙美子生誕地
・林芙美子文学碑(山口県下関市中之町1-1 亀山八幡宮) 1966年建立
 【碑文】 花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき
      林芙美子
  (「私が生まれたのはその下関の町である」を刻んだ陶板の副碑あり)
・林芙美子生誕地記念文学碑(福岡県北九州市門司区羽山2丁目 小森江浄水場跡) 1974年建立
 【碑文】いづくにか 吾古里はなきものか 葡萄の棚下に よりそひて
     よりそひて 一房の甘き実を食(は)み 言葉少なの心安けさ
     梢の風と共に よし朽ち葉とならうとも
     哀傷の楽を聴きて いづくにか 吾古里を探しみむ
     (掌 草紙の詩)
・林芙美子文学碑(鹿児島県鹿児島市古里町 古里公園) 1952年建立
 【碑文】花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき
・『放浪記』記念碑(新潟県上越市中央 JR直江津駅前) 2011年11月建立
 【碑文】花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき
・林芙美子碑(広島県尾道市西土堂町19 千光寺公園)
 【碑文】海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海にさしかかると煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がってくる。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海の向こうにドックの赤い船が帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。
  林芙美子  放浪記より
・林芙美子碑(広島県尾道市東久保町12-1 尾道東高校内) 1957年6月28日建立
 【碑文】巷に来れば憩ひあり。人間みな吾を慰さめて、煩悩滅除を歌ふなり
・林芙美子像(広島県尾道市東御所町 本通り商店街入口) 1984年7月22日建立
 【碑文】海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい。
・林芙美子碑(広島県尾道市土堂 うず潮小路) 1964年11月建立
 【碑文】林芙美子が多感な青春時代を過ごした林文学の芽生えをはぐくんだ家の跡です
・林芙美子文学碑(広島県尾道市因島土生町 因島公園内) 1981年5月建立
 【碑文】海を見て 島を見て 只茫然と 魚のごとく あそびたき願い

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旅の豆知識「潮騒」

2017年07月19日 | 旅の豆知識
 小説は、ある特定の地域やモデルを基に創作されたものがあり、その地域を巡ってみると、小説の場面が浮かび上がってきて、なかなか面白いものですが、中でも離島を舞台とした小説には、その島独特の雰囲気や習俗みたいなものが織り込まれていて、とても興味深いものです。
 そういった離島の「文学紀行」をしてみると、とたても印象深いものになったりします。
 例えば、香川県小豆島を舞台にした壺井栄著の小説『二十四の瞳』、鹿児島県加計呂麻島を舞台にした島尾敏雄著の『出発は遂に訪れず』、新潟県佐渡島を舞台にした太宰治著の『佐渡』など独特の雰囲気を持った作品がそれです。
 その中で、昭和時代中期に書かれた三島由紀夫著の小説『潮騒』は、大きな話題となり、何度も映画化されたこともあって、全島が小説の舞台になっていると言っても過言ではないところです。
 島内一周徒歩3時間くらいで、遊歩道も整備されていますので、小説『潮騒』を片手に巡ってみるのも良いのではないでしょうか。

〇{三島由紀夫}とは?
 昭和時代に活躍した小説家で、本名は平岡公威といい、1925年(大正14)1月14日に東京市四谷区(現在の東京都新宿区)に生まれ、学習院から東京大学法学部に学びました。
 戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家です。
 しかし、1970年(昭和45)11月25日に、45歳で自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込んで割腹自殺しました。
 代表作は小説では、『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『憂国』、『豊饒の海』など、戯曲では、『鹿鳴館』、『近代能楽集』、『サド侯爵夫人』などがあります。

〇小説『潮騒』のモデルとは?
 『潮騒』は、1954年(昭和29)に刊行された、三島由紀夫の10作目の長編小説で、三島の代表作の一つです。
 三重県鳥羽市に属する歌島(現在の神島の古名)を舞台にして、純粋な若い恋人同士の新治(漁師)と初江(海女)が、多くの障害や困難を乗り越えながら、その恋を成就するまでを描いた純愛小説です。
 この神島は伊勢湾の入口に浮かぶ、周囲約4km、人口500人余の小さな離島で、標高170mの灯明(とうめ)山を中心として全体が山地状で、集落は季節風を避けるように北側斜面に集まっています。
 とても風光明媚なところで、小説『潮騒』のモデルになったことで、有名になり、何度も映画化されました。

☆小説『潮騒』の関係地
 以下は、いずれも三重県鳥羽市の神島内にあります。

(1) 洗濯場
 神島のような離島の生活の中では、生活用水の確保が重要な問題でした。昔は、貴重な水資源を守るために洗濯は、島の中央部を流れる川の水を使用していたとのことです。小説「潮騒」の中では、以前の洗濯場の様子が、生活の中の風景として描かれていて、島の女たちの井戸端会議の場所となっていました。

(2) 八代神社
 集落の東側にある八代神社へは、真っ直ぐ伸びた214段もの階段を登らなくてはならず、閉口しました。ここで、元旦の夜明けにゲーター祭りと呼ばれる奇祭が行われるといいます。夜明け前にグミの木で太陽をかたどった直径2m程のアワと呼ばれる白い輪を島中の男たちが竹で刺し上げ、落とす神事で、県指定無形民俗文化財になっていると聞きました。小説「潮騒」の中では、新治が村の平穏と美しい花嫁を授かるように祈った場所として、また、初江が新治の航海の無事を祈った場所として描かれています。

(3) 灯台職員宿舎跡
 ここも小説の中に登場し、重要な役割を果たしています。青山京子、吉永小百合、山口百恵、堀ちえみ等の主演によって、5回にわたって映画化されていますが、灯台周辺でのロケもありました。その中でも新治、初江が、灯台職員宿舎(退息所)を訪ねるシーンが印象的ですが、退息所は1995年(平成7)からの無人化に伴い撤去されていて空き地となっていました。その奥に白亜の灯台が立っていて、小説「潮騒」の案内板がありますが、そこからの眺望はすこぶるよく、小説の場面を彷彿とさせるのです。

(4) 神島灯台
 神島灯台は、三重県志摩半島の沖、伊良湖水道に浮かぶ神島のシラヤ崎に立つ白亜の中型灯台です。周辺は、伊勢志摩国立公園に指定され、伊良湖岬・渥美半島から伊勢湾、太平洋を望む風光明媚の地です。また、「日本の灯台50選」にも選ばれています。神島の東側は「安房の鳴門か 音頭の瀬戸か 伊良湖度合いが恐ろしや」と船頭歌に歌われ、日本三海門の一つと言われる伊良湖水道で、昔から海の難所とされてきました。1908年(明治41)7月、軍艦「朝日」がここで接礁したのを期に、軍事上の要請と名古屋、四日市港の貿易振興上から航路標識の設置について建議されたのです。その結果、1909年(明治42)に灯台の建設が始まり、翌1910年(明治43)5月1日に初点灯しました。当時は灯台光源に、石油ランプを使うのが普通でしたが、ここでは自家発電による電気灯(尻屋埼に次ぐ第2号)を用い、32Wのタングステンフィラメントの白熱電球使用は日本初で、7千カンデラの光を出したとのことです。その後、1927年(昭和2年)10月に光源を500ワット電球,第4等フレネル式レンズに変更しています。また、建設当初は鉄造の灯台でしたが、1967年(昭和42)3月に鉄筋コンクリート造に改築されました。しかし、1994年(平成6)4月には自動化され、翌年には滞在業務も解消されて現在に至っています。小説「潮騒」が書かれた当時は、鉄造灯台で、光源は500ワット電球で第4等フレネル式レンズを使用していましたが、その様子も描かれています。また、ラストシーンで灯台内部に案内された新治と初江が眺望のすばらしさに感嘆しながらのやりとりはとても印象的でした。

(5) 監的哨跡
 神島灯台から、遊歩道を進むと木製の階段となり、アップダウンしながら監的哨跡へと至ります。ここは、旧陸軍省が砲弾の着弾点を観測した施設で、小説「潮騒」では、主人公とヒロインがクライマックスを迎える場所であり、映画の情景を思い浮かべながら見学しました。コンクリート造の2階建となっており、屋上に上ることも出来て、眺めもすばらしいのです。おりしも、西に夕焼けが広がっていて、その幻想的な雰囲気に何十回もシャッターを切りました。現在では、監的哨跡は耐震補強を施され、文学碑や公園も整備され、2013年(平成25)6月2日に完成記念式典が行われています。

(6) ニワの浜
 監的哨跡からさらに歩いていくと、神島小中学校のあるニワの浜へ出ますが、冷たい風が風が吹き抜けていました。切り立った石灰岩のカルスト地形が眼前にそびえ立ち、紺碧の海の広がりと共にとても美しい場所なのです。ここは、小説「潮騒」で海女が集まって漁をしていた所で、そのダイナミックな景色と共に印象に残りました。

(7) 神島の町並み
 この島は、標高171mの灯明山を中心として島全体が山地となっていて、平坦地は少なく、漁港周辺の北側斜面に民家が密集していて、坂が多いのです。小説「潮騒」の中では、そんな町並みがいろいろな角度から描かれていて、とても興味深いのです。

(8) 神島港
 ここは,鳥羽とを結ぶ連絡船の唯一の発着場であり、小説「潮騒」の中では、島外から訪れる人や島外へ去る人との歓迎や別れの場として登場します。また、漁船の発着場ともなっていて、重要な場所でした。新治の弟が修学旅行へ行くときの見送りや帰って来た時の歓迎の様子もここを舞台に描かれていますし、燈台長の娘千代子が帰省したり、上京するときの場面もここでした。

☆小説『潮騒』の冒頭部分
 歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である。
 歌島に眺めのもっとも美しい場所が二つある。一つは島の頂きちかく、北西にむかって建てられた八代神社である。
 ここからは、島がその湾口に位いしている伊勢湾の周辺が隈なく見える。北には、知多半島が迫り、東から北へ渥美半島が延びている。西には宇治山田から津の四日市にいたる海岸線が隠見している。

(後略)

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旅の豆知識「田舎教師」

2017年07月18日 | 旅の豆知識
 小説は、ある特定の地域やモデルを基に創作されたものがあり、その地域を巡ってみると、小説の場面が浮かび上がってきて、なかなか面白いものです。そういう旅を「文学紀行」などと言ったりもします。
 しかし、その小説が書かれた年代が古ければ古いほど、現在の状況と相違していて、がっかりすることもしばしばです。
 その中で、明治時代後期に書かれた田山花袋著の小説『田舎教師』は、大きな話題となったことから、書かれたゆかりの地に文学碑や資料館が建てられ、その小説を追想することが可能です。
 あまり観光地化されていないところなので、のんびりゆかりの田園地帯を巡りながら、小説を読んでみるのも良いのではないでしょうか。

〇{田山花袋}とは?
 明治時代後期から昭和時代前期に活躍した小説家で、本名は田山録弥といい、1872年1月22日(明治4年12月13日)、旧館林藩の下級武士の家の次男として生まれました。父鋿十郎は上京し、警視庁巡査となりましたが、1877年(明治10)の西南戦争に従軍し戦死しています。以後、田山家は困窮した生活を続け、花袋も丁稚奉公に出されたこともありました。しかし、館林東学校に通いつつ、旧館林藩儒学者の吉田陋軒に漢学を学び、この頃から漢詩や和歌に興味を持ち、雑誌に投稿するようになります。14歳の1886年(明治19)に一家で、東京に移り住んだ花袋は、1891年(明治24)、尾崎紅葉を訪れ、小説家を志します。西欧文学に刺激されて、日本での新しい文学にチャレンジ、日露戦争の時は従軍記者にもなりました。1907年(明治40)『蒲団』の発表により、日本の自然主義の確立者として、文壇に地位を得ました。続いて、『生』、『妻』、『縁』の三部作や、『田舎教師』を発表して注目されます。紀行文にも定評があり、晩年には歴史小説や、心境小説にも取りくみましたが、1930年(昭和2)5月13日、58歳で亡くなっています。

〇小説『田舎教師』のモデルとは?
 小説『田舎教師』は、妻の兄に当たる当時の建福寺(文中では成願寺)住職太田玉茗(文中では山形古城)から、肺結核のため、21歳で亡くなった青年教師小林秀三(文中では林清三)の話を聞いたことがきっかけになったそうです。彼は、埼玉県第二中学校(現熊谷高等学校)卒業後、弥勒高等小学校に準教員として3年間勤務し、建福寺にも下宿したことがありました。死後残された日記を読んで、丹念に実地踏査をし、5年の歳月を経て、1909年(明治42)に出版されました。その結果、当時の埼玉県北部(熊谷、行田、羽生等)の様子を彷彿とさせる記述となっていて、実在の場所や建物がたくさん登場します。特に、農村の風景を描いた描写は秀逸で、のどかな田野の情景を垣間見るような気になります。

☆小説『田舎教師』の関係地

(1) 田山花袋記念文学館と旧居<群馬県館林市>
 田山花袋は、旧館林藩主の次男として生まれ、14歳までこの地で暮らしました。その功績を湛えて、1987年(昭和62)4月に市立の「田山花袋記念文学館」が開館し、道路をはさんで向かい側の第二資料館に田山花袋の旧居が移築されています。田山花袋の文学と経歴を知る上では、重要な施設で、小説『田舎教師』を執筆した前後の状況なども学ぶことが出来ます。

(2) 水城公園<埼玉県行田市>
 文中、羽生へ移る前の林清三の実家が、行田の古城跡の方にあったと書かれています。現在、古城跡(忍城跡)は、水城公園と変わり、市民の憩いの場になっていますが、その一角に田山花袋の文学碑(田舎教師の碑)が立てられています。そこには、「絶望と悲哀と寂寞とに 堪へ得られるやうな まことなる生活を送れ 運命に従ふものを勇者といふ」と刻まれていて、清三の志のようなものを感じ、胸が熱くなります。

(3) 建福寺<埼玉県羽生市>
 文中の主人公、林清三が最初に下宿した成願寺は、この建福寺のことで、モデルとなった小林秀三もここの旧本堂に下宿していました。当時の住職太田玉茗は、田山花袋の妻の兄に当たり、小林秀三の死後残された日記を読んで、この小説を書くきっかけとなったそうです。小林秀三の墓もここにあり、羽生市の史跡となっています。また、1938年(昭和13)、新感覚派の作家、川端康成、片岡鉄兵、横光利一の3人は、「田舎教師遺跡巡礼の旅」として、熊谷、行田、羽生を訪ね、羽生では「田舎教師巡礼記念」と題して連名の句「山門に木瓜 吹きあるる 羽生かな」を宿の扇子に書き記しました。それを1977年(昭和52)2月に石碑として、旧本堂の前に建てられています。さらに、2003年(平成15)9月22日に、小林秀三の百回忌に、建立田舎教師研究会の記念碑が、墓の脇に建てられ、「運命に従ふものを勇者といふ」と刻まれています。

(4) 弥勒高等小学校跡<埼玉県羽生市>
 モデルとなった小林秀三が3年間務めていた学校のあったところで、今では建物もなくなっていますが、一画に田舎教師文学碑が立ち、「絶望と悲哀と寂寞とに堪へ得られるやうな まことなる生活を送れ 運命に従ふ者を勇者といふ」と刻まれています。この碑は、1954年(昭和29)に建てられた初代の碑が古くなって字も見えなくなったので、2009年(平成21)10月に建て替えられたものです。また、道路を挟んで、田舎教師の銅像が建っています。そののどかな農村のたたずまいと共に、小説の場面を思い出させてくれます。

(5) 円照寺<埼玉県羽生市>
 弥勒高等小学校跡から少し行ったところにあり、文中、小川屋のお種さんとして出て来るモデルの小川ネンさんの墓があります。境内にそのゆかり品々を展示した「お種さん資料館」があって、『田舎教師』関係の資料が見られます。

(6) 利根川松原跡<埼玉県羽生市>
 文中、林清三が、しばしば子供たちを連れていったところで、当時は土手にみごとな松がたくさん生えていたそうですが、今はありません。その跡に、文中に出てくる詩が、碑となって立っています。「松原遠く日は暮れて 利根のながれのゆるやかに ながめ淋しき村里の 此処に一年かりの庵 はかなき恋も世も捨てゝ 願ひもなくて唯一人 さびしく歌ふわがうたを  あはれと聞かんすべもがな」と刻まれていて、なにか清三のセンチメンタルな気分が伝わってくるような感じがします。

(7) 羽生市立図書館・郷土資料館<埼玉県羽生市>
 羽生市立郷土資料館は、1986年(昭和61)年に図書館と併設してオープンしました。羽生市に関する古文書をはじめ、民俗資料や考古資料などを収蔵し、田山花袋の小説『田舎教師』に関する資料も蒐集しています。152㎡の展示室には、普段は、通常展示として「田舎教師と明治期の羽生」を開催していますが、企画展・特別展の開催により展示内容が変わる場合もありますので、確認が必要です。また、建物の前には、田舎教師の文学碑が立てられていて、小説『田舎教師』の冒頭部分が刻まれています。

☆小説『田舎教師』関係文学碑・像一覧
・田山花袋の文学碑(埼玉県行田市 水城公園)1961年10月建立
 【碑文】絶望と悲哀と寂寞とに 堪へ得られるやうな まことなる生活を送れ 運命に従ふものを勇者といふ
・発戸松原跡文学碑(埼玉県羽生市発戸 利根川発戸松原跡)1981年8月建立
 【碑文】松原遠く日は暮れて 利根のながれのゆるやかに ながめ淋しき村里の 此処に一年かりの庵
     はかなき恋も世も捨てゝ 願ひもなくて唯一人 さびしく歌ふわがうたを  あはれと聞かんすべもがな
・田舎教師文学碑(埼玉県羽生市弥勒 弥勒高等小学校跡)2009年10月27日建立
 【碑文】絶望と悲哀と寂寞とに堪へ得られるやうなまことなる生活を送れ
     絶望と悲哀と寂寞とに堪へ得らるるごとき勇者たれ
     運命に従ふものを勇者といふ
・田舎教師の像(埼玉県羽生市弥勒 弥勒高等小学校跡)1977年5月建立
 【碑文】「四里の道は長かった」の書き出しで始まる田山花袋の名作「田舎教師」は、羽生を舞台として展開する。その主人公 林清三は弥勒高等小学校に勤務し、志を得ずしてこの地に没した青年教師 小林秀三がモデルである。この像は加須市在住の彫刻家法元六郎先生の制作で、文学散歩の道しるべとしてここ田舎教師のふる里に建立する。
・田舎教師の文学碑(埼玉県羽生市下羽生 羽生市図書館・郷土資料館前)2004年9月1日建立
 【碑文】四里の道は長かつた。其間に青縞の市の立つ羽生の町があつた。
     田圃にはげんげが咲き、豪家の垣からは八重櫻が散りこぼれた。
・田舎教師の碑(埼玉県羽生市南1-3-21 建福寺境内)1934年建立
【碑文】田舎教師 花袋翁作中の人ここに眠る(碑文は小杉放庵の筆)
・田舎教師巡礼記念句碑(埼玉県羽生市南1-3-21 建福寺境内)1977年2月建立
 【碑文】山門に木瓜 吹きあるる 羽生かな
 (1938年(昭和13)、新感覚派の作家、川端康成、片岡鉄兵、横光利一の3人は、「田舎教師遺跡巡礼の旅」として、熊谷、行田、羽生を訪ね、羽生では「田舎教師巡礼記念」と題して連名の句を宿の扇子に書き記したもの)
・田舎教師研究会の記念碑(埼玉県羽生市南1-3-21 建福寺境内)2003年9月22日建立
【碑文】運命に従ふものを勇者といふ
 (小林秀三の百回忌に建てられたもの)

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旅の豆知識「十六夜日記」

2017年07月17日 | 旅の豆知識
 鎌倉時代には、そんなに旅行ができたわけではありませんが、目的に応じて、旅をした記録が残されています。
 当時は、鎌倉幕府へつながる“鎌倉道”というのがいくつかあって、旅人が多く利用するところとなっていました。江戸時代以降に比べると街道や宿場などが十分整備されていたとはいえないところもありますが、街道沿いには、宿泊施設もあり、旅人の助けとなっていたようです。
 その中でも、鎌倉時代の紀行文として、、『東関紀行』、『海道記』、『十六夜日記』が中世三大紀行文として、有名ですので、その内でも最も知られている『十六夜日記』を取り上げてみました。
 この足跡をたどれるところは、とても限られていますが、一部に以前の“鎌倉道”が残されているところもあり、いくつかゆかりの地に『十六夜日記』関係の石碑が建てられていたりもします。
 そんな中世の旅の様子をたどってみるのも面白いかと思います。

〇{阿仏尼}とは?
 阿仏尼(あぶつに)は、鎌倉時代中期の女流歌人です。平度繁(たいらののりしげ)の養女でしたが、安嘉門院(後高倉院皇女)に仕え、安嘉門院四条とも言われていました。
 しかし、若くして失恋の痛手から一時出家したのです。その後、世俗との関わりを断ち切れず、30歳頃に藤原為家の側室となり、京都の嵯峨に住んで、冷泉為相・為守らを産むことになります。
 1275年(建治元)の為家没後、出家して北林禅尼と称します。それから、播磨国細川荘の遺産相続をめぐって為家の嫡子為氏と争うことになり、1279年(弘安2)10月に、幕府に上訴するため鎌倉に下りました。
 鎌倉では、極楽寺の近くの月影の谷に住んでいましたが、1283年(弘安6)頃、60余才で亡くなったとされています。
 訴訟の方は、没後6年目の1289年(正応2)に採決が下り、阿仏尼側の勝利でした。
 阿仏尼には、文学的な才あり、代表作の『十六夜日記』以外に、『夜の鶴』、『仮名諷誦』、『うたたねの記』、『安嘉門院四条百条』等の著作があります。また、歌人としてもすぐれ、いろいろな歌合に出詠し、『続古今集』以下の勅撰集に48首入集しています。
<代表的な歌>
「山川を 苗代水に まかすれば 田の面にうきて 花ぞながるる 」(風雅和歌集)
「色々に ほむけの風を 吹きかへて はるかにつづく 秋の小山田」(玉葉和歌集)


〇『十六夜日記』の旅とは?
  『十六夜日記』は、藤原為家の側室である阿仏尼(あぶつに)によって記された紀行文・日記で、『東関紀行』、『海道記』と共に、中世三大紀行文の一つと言われています。
 旅行記、鎌倉滞在記、鶴岡八幡宮奉納長歌の3部から成っていて、1282年(弘安5)ころ成立したと考えられています。
 為家の没後、実子為相(ためすけ)と為家の嫡子為氏との間に播磨国細川荘をめぐる遺産相続争いが起きました。その訴訟のため、1279年(弘安2)に、阿仏尼が京から鎌倉へ旅立つことになったのです。
 その出立が、10月16日(陰暦)だったところから、「いさよひの日記」と呼ばれるようになったとのことです。特に、紀行文の部分は、実際の旅に基づいて書かれており、中世の旅の様子や街道風景を知る上でとても興味深いもので、足跡をたどることも可能です。また、当時の訴訟の様子を伝える資料としても貴重なものです。

☆1279年(弘安2)の『十六夜日記』の旅の行程

・10月16日 (新暦:11月21日)
 京を出立する
   ↓
 粟田口で車を返す
   ↓
 逢坂の関を越える
   ↓
 守山(現:滋賀県守山市)泊
   ↓
・10月17日 (新暦:11月22日)
 野洲川を渡る
   ↓
 小野(現:滋賀県彦根市)泊
   ↓
・10月18日 (新暦:11月23日)
 醒ヶ井を通る
   ↓
 関の藤川を渡る
   ↓
 不破の関を過ぎる
   ↓
 笠縫(現:岐阜県大垣市)泊
   ↓
・10月19日 (新暦:11月24日)
 雨の振る中、平野を過ぎる
   ↓
 洲俣で浮橋を渡る
   ↓
 尾張国の一宮を過ぎる
   ↓
 下戸(現:愛知県稲沢市)泊
   ↓
・10月20日 (新暦:11月25日)
 熱田の宮に詣でる
   ↓
 鳴海潟で浜千鳥を見る
   ↓
 二村山を越える
   ↓
 八橋(現:愛知県知立市)泊
   ↓
・10月21日 (新暦:11月26日)
 宮地の山の紅葉を見る
   ↓
 渡津(現:愛知県豊川市)泊
   ↓
・10月22日 (新暦:11月27日)
 高師の山を越える
   ↓
 浜名の橋でかもめを見る
   ↓
 引馬(現:静岡県浜松市)泊
   ↓
・10月23日 (新暦:11月28日)
 天中の渡り(天竜川)で船に乗る
   ↓
 見附の国府(現:静岡県磐田市)泊
   ↓
・10月24日 (新暦:11月29日)
 昼に小夜の中山を越える
   ↓
 事任神社の紅葉に感心する
   ↓
 菊川(現:静岡県島田市)泊
   ↓
・10月25日 (新暦:11月30日)
 大井川を渡る
   ↓
 宇津の山を越え、山伏に会う
   ↓
 手越(現:静岡県静岡市)泊
   ↓
・10月26日 (新暦:12月1日)
 藁科川を渡る
   ↓
 興津の浜に出る
   ↓
 清見が関を過ぎる
   ↓
 富士山を見る
   ↓
 波の上(現:静岡県庵原郡?)泊
   ↓
・10月27日 (新暦:12月2日)
 富士川を渡る
   ↓
 田子の浦に出る
   ↓
 三島明神に詣でる
   ↓
 伊豆の国府(現:静岡県三島市)泊
   ↓
・10月28日 (新暦:12月3日)
 箱根路を通る
   ↓
 湯坂を下る
   ↓
 早川を見る
   ↓
 海岸に出て、伊豆大島を見る
   ↓
 鞠子川を渡る
   ↓
 酒匂(現:神奈川県小田原市)泊
   ↓
・10月29日 (新暦:12月4日)
 海岸線を歩いて行く
   ↓
 鎌倉に到着する

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