ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識「文学と岬」

2019年11月12日 | 旅の豆知識
 岬の先端に立って海を眺めていると、言いしれぬ感慨に襲われることがあります。最果ての地に来たという思いと、広大な海と岩礁や木々が造り出す自然の造詣への畏怖といった感じでしょうか。
 そういう岬に、少なからず文学碑が建っていたりします。先人もこの地に来て、突き動かされるものがあって、文学になったのでしょうか...。そういう所で、あらためて、文学作品を読み直してみるのもいいものです。どちらか言うと韻文の方が似つかわしいような気がしますが、口から自然と出てくるような情景とマッチした詩や短歌などは感慨を深めてくれます。
 そんな岬を訪れ、文学に心を馳せて感動したところを選んでみましたので、岬めぐりの参考にしていただければと思います。

〇近代文学に描かれたお勧めの岬

(1)犬吠埼 (千葉県銚子市) ――佐藤春夫著詩集『佐藤春夫詩集』の「犬吠岬旅情のうた」 

 犬吠埼は、千葉県銚子市にあり、太平洋に突き出した岬の先端です。犬吠埼灯台が有名で、上まで登ることができまが、99段の階段を上った、灯台上からの眺望は素晴らしものの、あまりの、高さに足がすくんでしまいました。しかし、周辺の岩礁には、大きな波が打ち寄せて、荒々しい景観を作っていて、君ヶ浜の眺望も素晴らしかったのです。
 この灯台後方の丘の上に佐藤春夫の「犬吠岬旅情のうた」の詩碑が立っていて、「ここに来て をみなにならひ 名も知らぬ草花をつむ。みづからの影踏むわれは 仰がねば 燈台の高きを知らず。波のうねうね ふる里のそれには如かず。ただ思ふ 荒磯に生ひて 松のいろ 錆びて黝きを。わが心 錆びて黝きを。」と書かれていましたが、なんだか暗い感じがしました。1911年(明治44)に、与謝野門下一同と来銚したときのものだそうですが、その時もこの絶景は変わらなかったのでは...。何か心に鬱するものでもあって、こんな吐露になったのでしょうか?それとも、天候が荒れたときには、暗く陰鬱な雰囲気が漂うのでしょうか?次回は、少し荒れた犬吠埼も見てみたいという気になりました。
 その近くには、尾張穂草の歌碑があり、階段を下りた海岸端には、高浜虚子の句碑もありました。犬吠埼を訪れ、作品を成す文学者が多いことがわかります。

(2)剱崎 (神奈川県三浦市) ――若山牧水著紀行文『岬の端』

 剱崎は、神奈川県三浦市の三浦半島の先端にある景勝地ですが、観光地化の進む三浦半島にあって、ここだけは取り残されたように静かでした。
 若山牧水が、1915年(大正4)に来訪して、紀行文『岬の端』の中で、「やがて柱の行列の尽きる所に来た。なるほど、この電線は、この岬端にある剣崎灯台(土地では松輪の灯台と呼んでいる)に懸っているものであったのだ。灯台は、今はただ白々と厳しい沈黙を守って日に輝いているのみである。そして、附近には人家らしいものも見えぬ。あちこちと見廻していると、すぐ眼下の崖下にそれらしい一端が見えて居る。私は勇んで坂を降りて行った。咽喉も渇き、腹も空いていた。・・・・・・・・」と書いていますが、その頃とほとんど変化していないのではと、思わせるくらいでした。こういうのどかな風情は、このままそっとしておいてほしいと願うのですが...。

(3)伊良湖岬 (愛知県田原市)――島崎藤村著詩集『落梅集』の「椰子の実」

 伊良湖岬は、愛知県田原市の渥美半島の先端に位置していて、恋路ヶ浜が有名です。かの民俗学者柳田国男が、1898年(明治31)夏、この恋路ヶ浜で椰子の実を発見し、東京に帰って親友の島崎藤村に話したところ、「椰子の実」の詩が誕生したと言われています。その後、1936年(昭和11)に大中寅二によって作曲され、国民歌謡として全国に放送されて、一躍有名になりました。それで、今でも伊良湖岬と言えば、「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実ひとつ 故郷の岸を離れて 汝はそも波に幾月 旧の樹は生いや茂れる 枝はなほ影をやなせる 我もまた渚を枕 孤身の浮寝の旅ぞ 実をとりて胸にあつれば 新なり流離の憂 海の日の沈むを見れば 激り落つ異郷の涙 思いやる八重の汐々 いずれの日にか国に帰らむ」の唄が連想されるようになりました。
 名所となっている日出の石門の近くに、島崎藤村の「椰子の実」の誌碑があり、由来が書いてありました。なんでも、椰子の実を島から流して、流れ着くかどうかの検証をしているとか...。その海側に、大中寅二作曲記念碑も立っていました。
 先端の伊良湖岬灯台近くの丘の上には、万葉歌碑も建立されています。

(4)安乗崎 (三重県志摩市) ――伊良子清白著詩集『孔雀船』の「安乗の稚児」

 安乗崎(あのりさき)は、志摩半島の中央部に深く切れ込んだリアス式海岸で有名な的矢湾(まとやわん)の入り口に位置し、伊勢志摩国立公園の一部を成しています。安乗埼灯台周辺からの眺めは秀逸で、そこに建てられた伊良子清白の「安乗の稚児」詩碑は、なんとも言えない哀愁を添えていました。しばし、風景に見とれながら、カメラのシャッターを切り続けていました。
 詩碑には、明治詩史に残る詩集『孔雀船』の中の一篇「安乗の稚児」の第三連、「荒壁の小家一村 こだまする心と心 稚児ひとり恐怖をしらず ほほゑみて海に対へり」と黒御影石に刻まれています。清白は鳥羽市小浜の漁村で、23年ほど開業医を営んでいました。この詩は、嵐に襲われた安乗の光景を歌ったもので、清白の代表作と言われていますが、なんとも言い難い雰囲気を持っています。

(5)神島シラヤ崎 (三重県鳥羽市) ――三島由紀夫著小説『潮騒』

 神島は伊勢湾の入口に浮かぶ、周囲約4km、人口500人余の小さな島で、標高170mの灯明(とうめ)山を中心として全体が山地状で、集落は季節風を避けるように北側斜面に集まっています。そして、なによりも三島由紀夫の小説『潮騒』のモデルになったことで、有名で、昔から一度来たいと思っていたのです。
 神島へ着いて、宿「山海荘」に荷物を置くと、さっそく島一周の散策に出かけました。ほんとうに急斜面にへばりつくように人家が密集して建っていて、歩道が急勾配でアップダウンしながらその間を縫っています。まず、集落の東側にある八代神社へと行ってみたのですが、真っ直ぐ伸びた214段もの階段を登らなくてはならず、閉口しました。ここで、元旦の夜明けにゲーター祭りと呼ばれる奇祭が行われると聞きました。
 社殿参拝後、時計回りに島を一周しようと、裏手の遊歩道を上っていったのですが、勾配がきつく、断崖絶壁になって海に落ち込むような細道を進んでいきます。しかし、伊勢湾、伊良湖岬から太平洋の景色はすばらしいのです。しばらく行くと、シラヤ崎に至り、神島灯台の門が見えてきました。
 小説『潮騒』の中でも、新治、初江が灯台職員宿舎(退息所)を訪ねるシーンが印象的ですが、退息所は無人化に伴い撤去されていて空き地となっていました。その奥に白亜の灯台が立っていて、小説『潮騒』の案内板がありますが、そこからの眺望はすこぶるよく、小説の場面を彷彿とさせるのです。また、灯台についての描写は特に秀逸で、新治、初江の前途とも重ねて描かれていて、脳裏に思い浮かべながら、見上げていました。
 この小説は、青山京子、吉永小百合、山口百恵、堀ちえみ等の主演により5回にわたって映画化されていますが、灯台周辺でのロケもありました。その映画の場面を思い出しながら、しばしたたずんでいました。

(6)足摺岬(高知県土佐清水市) ――田宮虎彦著小説『足摺岬』

 足摺岬は、高知県土佐清水市の南端で太平洋に突き出したところにあります。最果て感が募るところで、椿の林がトンネルのようになった自然遊歩道が続き、展望台からは、太平洋の黒潮が、岩壁に打ち寄せては砕け散っていて、南国ムードが漂っていました。ここは、花崗岩の断崖が蒼海にそそり立つ海食台で、岬の先端の絶壁上に、白亜の足摺岬灯台が立っていますが、モダンなロケット型をしていて意表を突きます。この断崖は、自殺の名所ともなっていて、「飛び込む前に電話をください」という立て札が立ち、無料電話が設置されていました。
 田宮虎彦著の小説『足摺岬』で有名になり、自殺志願者が多く訪れるようになったと聞きました。しかし、この小説の主人公は、この絶壁を前にして、思いとどまり、光明を求めて町へと戻っていったのです。そんな生死の境を漂わせるような、隔絶の地といったムードがあります。
 灯台下の園地には、田宮虎彦の石碑があって、かの小説『足摺岬』の一説「砕け散る荒波の飛沫が 崖肌の巨巌いちめんに 雨のように降りそそいでいた」が刻まれていて、私の好きな部分だけに、感慨深く眺め入っていたのです。遊歩道を巡ってから、四国八十八ヶ所札所の一つ金剛福寺にも参拝しました。

(7)都井岬 (宮崎県串間市) ――柳田国男著紀行文『海南小記』

 都井岬は、宮崎県串間市でにあり、日南海岸国定公園の南端にあたり、太平洋に突きだした風光明媚の地です。そして、野生動物の宝庫ともなっていて、猿や野兎、猪、狸などの姿を見ることが出来ることで知られてきました。
 しかし、なんといっても野生の「御崎馬(みさきうま)」が生息していることで有名です。その先端に、白亜の姿を見せるのが、都井岬灯台で、ここの観光のシンボルともなっています。雄大な太平洋を望む眺望と「御崎馬」は、格好の被写体となります。この馬は、体高は130㎝と小柄で、脚の割には胴長で、ずんぐりとした体つきです。馬が草をはんでいる姿を見ただけでほのぼのとした気分になれるのです。
 かの日本民俗学の樹立者といわれる柳田国男も、1920年(大正9)12月にわざわざこの馬を見に立ち寄ったことが、紀行文『海南小記』に「それから自分は都井の宮浦に上陸して、牧の野馬を見に岬の鼻まで行った。高鍋藩の経営した、これもいたって古い海の牧場で、いわゆる福島馬の故郷である。今や馬種の改良が盛んに行われている。御崎社内の野生ソテツとともに、「この山の猪捕るべからず」の制札をもって、天然記念物の野猪は保存せられているが、人作の福島馬のみはえらい虐待で、牡はことごとく二歳になる前に、牧から追われて試情馬などの浅ましい生活を送っており、これに代って異国の種馬が、来たって極端の幸福を味わっている。・・・・・・・・」と書かれています。