先月、テレビで、陰陽師・安倍晴明のお話をしていて、興味深く観ていました。
安倍晴明は映画や書籍で、ひと頃、大ブームになっていたので気にはしていたのですが
、創作が多かったので、まったくそうしたものに触れないでいたのです。
私が知りたかったのは真実の陰陽師であり、安倍晴明だったからです。
私に、そう思わせたのは以前、川端康成の「古都」の記事で、私が一番好きなところは
京都だと書いたことと関係あります。
ことに、私が京都に引かれるようになったのは、二年前の十月、京都の国宝・平等院鳳
凰堂を訪れたのが大きかったです。

満々と水をたたえた池の向こうに立つ平等院鳳凰堂、わけても朱塗りの柱が印象的で、
平安時代の栄華が鮮やかに蘇ってくるようでした。
しかも、私が訪れた時、金木犀の香りが辺り一面ほのかに漂い、雅びな雰囲気を一層、
かきたててくれたのでありました。
その時のお写真がこれです。




その感動は宮崎に帰ったあとも、ずっと余韻が残っていました。
そして、京都をもっと知りたくなり、本や映像ソフトをいくつも見入ったりしたのです
。
ところが、京都が、かの地に誕生した秘密を解説したものがあり、意外な事実を知って
驚いてしまったのです。
そういえば、京都のことを魔界都市と言う人っているでしょう?
その訳が明らかになったのです。
京都、当時は平安京と呼ばれていたのですが、桓武天皇が、平安京を作る時、中国の道
教思想・四神相応に基き、西暦七九四年に作ったとされるそうです。 四神とは、想像
上の生き物、青龍・白虎・朱雀・玄武のことで、それぞれが平安京の東西南北を護ってい
るのだとか。
そうして、桓武天皇は徹底した魔よけ封じを行い、悪霊や怨霊を退けるという思想はそ
の後も根強く残ったらしいのです。

例えば、京都御所の鬼門の壁は四角く切られ、塀の上には御幣を担いだ木彫りの猿が座
っているそうです。猿には魔除けの意味がある

東寺の鬼門の瓦には安倍晴明の紋章・五芒星が示され、魔物を封じていると言われてい
ます。

一条戻り橋
ここは、御所の北東にあり、鬼門と呼ばれ、この世とあの世の境目と言われているとか
。
つまり、鬼が出入りする不吉な方角と考えられてきたのです。
そのせいか、ここには茨木童子など、鬼にまつわる様々な伝説があり、また、橋の下に
は安倍晴明が、式神を置いていたとか。(式神とは、陰陽師が操る鬼神のこと。)
比叡山の延暦寺も、その例にもれず、鬼門除けの役目を果たしているそうです。
そう、当時の京都は悪霊や怨霊は言うに及ばず、鬼や妖怪など、魑魅魍魎が跋扈する魔
界都市で、それに祟られる事件や災害が数多く起き、それらに敢然と対抗する者、それが
安倍晴明を代表とする陰陽師だったのです。
だから、ちょっと怪しげな人というイメージが湧かないでもないですが、れっきとした
朝廷の役人で、中務省の陰陽寮に属し、天文・暦・時刻・占いを司っていたようです。
それにしても、平安京には、どうして、悪霊や怨霊などが、沢山いたのでしょう?
平安京があった平安時代は貴族社会で、和歌を詠んだり、蹴鞠、百人一首などの遊びが
流行し、平安京という言葉さながらに、優雅で、平和なイメージがあるのですが。
ところが、調べてみると、確かにそういう一面はあるものの、その陰で、皇族や貴族同士の血で血を洗う熾烈な権力闘争があったと判明したのです。
ここから、「安倍晴明の秘術」という本を参考に書きます。
平安京は七九四年(延暦12年)に時の天皇、桓武天皇の名により造営された。東西4
.5キロ、南北5.2キロの大きさを誇る、それまでの日本で造られた最大の都市であっ
た。そしてそれは華々しい王朝文化の始まりを告げる遷都だった、表向きは・・・。
まだ奈良に都があった頃、時の天皇は日々「怨霊」の攻撃に悩み抜いていた。それとい
うのも、皇位継承のために血みどろの、陰謀、謀略が争われ、多くの皇族、貴族、役人が
無念のうちに殺され、死んでいったからだ。その無念の思いの怨霊たちが、干ばつを起こ
し、毎夜、瓦石を屋根に降らせ続け、家族を呪い殺していった。桓武天皇が即位したとき
も、そうした怪異が続く時代だった。
桓武天皇自身も、父、光仁天皇から皇位を受け継ぐ時、弟の他戸(おさべ)親王と皇位
を争っている。他戸親王の母は聖武天皇の皇女、井上内親王という身分の高い女性で、当
然のように皇太子には他戸親王が立てられていた。兄として弟の皇位継承には歯ぎしりす
る思いがあったろう。そこに、接近してきたのが重臣、藤原百川であった。百川は謀略に
より他戸親王を失脚させる提案をもちかけたのだ。その陰謀のためか、天皇を呪詛した罪
で他戸親王、母の井上内親王の母子は大和国宇智に幽閉され、その後に殺される。
しかしこの後、地震、飢饉、疫病などの天災が襲い、父、光仁天皇も重病に伏し、桓武
天皇自身も病に倒れる。他戸親王母子の祟りと恐れた桓武は、母子の霊を手厚く弔ったが
、怪異はなおも続いたのだった。
天皇となった桓武天皇は七八四年に怨霊が跋扈する古い奈良を捨てて、今の京都の南西
に位置する「長岡京」に遷都すると詔を出す。ここで怨霊に脅かされることなく、何もか
も新しく再出発しようと考えたのであった。
しかし、桓武天皇には再び血で血を洗う皇位継承問題が残っていた。この時、父の遺言
で皇太子には弟の早良親王が立てられていたが、それを廃して息子の第一皇子・安殿親王
を次期天皇につけたいと考えたのである。ちょうど、その頃、長岡京の造営長官であり寵
臣の藤原種継(百川の甥)が暗殺される事件が起こった。真実かどうかは別に、桓武天皇
はこの事件の首謀者を早良親王として、皇太子を廃し幽閉した。幽閉後、早良親王は抗議
の絶食をし、十日後に非業の最期を遂げる。桓武天皇はこれにより望み通り自分の第一皇
子・安殿親王を皇太子にすることができたのだった。
しかし、非業の最期を遂げた早良親王の祟りはすぐに猛威を振るい始める。事件後3年
目、夫人の藤原旅子(百川の娘)と妃の一人・多治比真宗が病死、翌年母の高野新笠が亡
くなる。その翌年に皇后の藤原乙牟漏(百川の姪)、妃の坂上又子が死んだ。三年の間に
母と妻四人を亡くしたのだった。さらに、せっかく皇太子にした息子の安殿親王も病に倒
れた。これらを怨霊の祟りと怖れないわけがなかった。社会的にも干ばつ、天然痘の流行
、伊勢神宮の焼失と、天皇の権威を揺るがす禍々しいことが続いた。
ついに、桓武天皇は、未だ造営中の長岡京を捨て、さらに怨霊の手の届かない都を求め
ることにした。
それが、平安京なのである。
桓武天皇って、こう言っては何ですけど、すっごい悪党みたい・・・(苦笑)
これだけ悪さすれば、悪霊や怨霊に祟られるのも分かるような?
しかし、だからこそ、桓武天皇は悪霊や怨霊の侵入を防御すべく、平安京の四方を、中
国の道教思想に基づいた青龍・白虎・朱雀・玄武に守らせようとしたのですね。
そして、平安京を造営するのに、もっとも重用したのが、陰陽師だったようです。
では、安倍晴明はどんな人だったのでしょう。
安倍晴明が生きた時代(九二一年~一00五年)は、この遷都より一五0年ほど後で、
平安京のすべての呪術装置も完成し、陰陽道ももっとも隆盛した時代だったそうです。
だけど、それでも、数々の怨霊や鬼神が跳梁跋扈し、呪詛が横行していたようで、それ
だけに、より優れた陰陽師の出現を待ち焦がれる人が多かった。
そこに彗星のごとく現れたのが、今に語り継がれる安倍晴明だったのです!
まず、安倍晴明、生まれた時から普通じゃありません。
安倍晴明の父親は安倍保名という人ですが、母親はなんと人間じゃなく、葛の葉という
白キツネなんです!
そして、幼少の頃から、不思議な能力を持っていたみたいで、村上天皇が病で倒れた時
、柱の礎で蛇とカエルが争っているからだとピタリと言い当てるのです。しかも、それは
カラスが喋っているのを聞いて知ったというのです。
このことを上京して天皇に伝え、これにより晴明の名はあっという間に広まり、以後天
皇や貴族に関する様々な予見をし、国家の官僚として歩んでいったのだとか。
人間と白キツネの間から生まれた事からして、安倍晴明って、すごいなと思います。
しかも、ドリトル先生みたいに、動物の言葉が分かるなんて!
でも、それだけじゃないんです。
安倍晴明には、それ以外にも様々な伝説が伝えられています。
其の一
紫宸殿の陣の間の多くの殿上人が参内する中に、ひときわ美しい少将がいたそうです。
その少将が内裏へ入ろうとした時、頭上をかすめて、カラスが糞を落としていった。
これを見た晴明は少将に、「今夜はあなたの身に何かが起きます。私にはそれが見える
んです。さあ、一緒に来て下さい。」と声をかけた。少将は晴明の名に足を止め、それに
従った。その晩、晴明は少将を後ろからしっかり抱きしめ身固めの儀式を施し、一晩中一
睡もせずに祈り続けた。夜が明けると真実が明らかになった。少将の妻の相婿が、舅が少
将ばかり可愛がるので逆恨みをして、陰陽師に頼んで、少将の呪殺を謀ろうとしていたの
だった。それを知った少将はこの相婿をすぐに追い出した。また、相婿に手を貸した陰陽
師は自らが放った式神が戻って死んでいたとか。
其ノ貮
晴明がまだ少年だった頃、師匠である当代随一の陰陽師賀茂忠行を乗せた牛車に付き添
っていた。時は夜であった。晴明が前方を見ていると、口が裂け、牙を剥き出した異形の
姿が見えた。それは百鬼夜行の鬼だった。すぐさま、忠行を起こし危険を知らせると、忠
行はすぐに鬼から姿を隠すための呪を施し、間一髪で身を守ることが出来たのであった。
これ以降、忠行は晴明の並々ならぬ能力に感服し、陰陽道のすべてを伝授することにした
。
其ノ三
ある時、晴明は若い僧侶達に、カエルを殺して見せてくださいと頼まれた。
僧侶が頼んだのは晴明の能力に疑問を感じていたからだが、晴明は自分の力を無益なこ
とに使ったり、自分を試されるのが嫌であった。しかし、この時ばかりは一本の草の葉を
摘み取り、呪文を唱えて、草の葉をカエルに投げつけてみせた。すると、カエルはひしげ
て潰れ、僧侶達は恐れおののいてしまった。
其ノ四
ある時、晴明のパトロンである藤原道長が、法成寺の門を潜ろうとすると、飼い犬が突
然、吠えだし、中に入れまいとする。これは何かあると睨んだ道長は早速、晴明を呼びに
やった。すると、晴明は呪いをかけたものが埋まっていると見抜き、掘ってみたところ、
呪いがかかった土器が見つかった。そして、晴明は誰が呪いをかけたのか確かめようと、
懐から紙を取り出し、呪をかけ始めた。すると、不思議な事に紙は白鷺に姿を変え、南の
方に飛んでいった。そこから、左大臣顕光公の仕業と判明した。
其ノ五
物忌み時に、早瓜を献上された藤原道長は受納していいのか首をひねっていた。そこで
、ちょうど、お供をしていた晴明が吉凶を占うことになった。そして、毒気が見えた晴明
は加持祈祷すればいいでしょうと言い、側にいた観修僧正が祈祷を行った。すると、瓜が
ひとりでに動き出した。そこで、医者の丹波忠明が、瓜に針を二本刺すとピタリととまっ
た。この様子を見ていた源義家が、瓜を刀で割ると、中からとぐろを巻いた蛇が出てきた
。そして驚いたことに、忠明の二本の針はちょうど、蛇の両目を貫いていて、義家の太刀
筋は蛇の頭を見事に切り落としていた。
其ノ六
ある時、播磨の陰陽師智徳法師は式神を童子に変え、晴明の実力を試しに来た。晴明は
智徳法師と会話しながら、袖の中で印を結び、式神隠しの呪文を唱えつつ、表面上は何も
知らないふうを装った。その様子に智徳法師は勝ち誇った顔をして、晴明邸を後にした。
しかし、ふと気がつけば、いつの間にか童子に姿を変えた式神が二人ともいなくなって
いた。慌てた智徳法師が、晴明邸に戻ると晴明が口元に笑みを浮かべていて、自分の負け
を知って謝罪し、晴明の弟子になった。
其ノ七
988年6月23日、花山天皇が突然、出家した。理由は最愛の女性が亡くなって悲し
みの日々を送っていたからだ。この様子を見た藤原道兼は父、兼家と策謀し、花山天皇を
東山花山寺に連れ出した。その寺に向かう途中、晴明邸の前を通ると、どこからともなく
「天皇が譲位したようである。式神よ、ただちに確かめて参れ」という晴明の声が聞こえ
た。すると、目に見えぬものが、戸を押し開け、「ただいま、目の前を帝がお通りになり
ました」と答えた。
その出来事に、花山天皇は改めて晴明の力量に感心し、「さらばだ、晴明・・・」と呟
いたとか。
これらは、どれもにわかには信じがたい気がしますが、本当にあったのでしょうか?
でも、そうであってほしいような・・・
だけど、私は、以前、マンションの五階に住んでいて、百鬼夜行に悩まされ、お祓いし
てもらったと教えてくれた人が身近かにいたんです。
だから、怨霊や悪霊はもしかしたら、人の心の闇が作ったものかもしれませんが、その
一方で、こういう類いのものは確かに実在していて、見える人には見えるのかも知れないなという気もしているんです。
そして、それら異形のものを封印出来る安倍晴明みたいな摩訶不思議な能力を持った人
がいることも・・・。
あと、補足ですが、野村萬斎さん主演の映画と、岡野玲子さんの漫画版も見てみました。
漫画版は、絵の雰囲気が、美しく且つおどろおどろしく、遠い平安時代の雅びな雰囲気をよく描写しているなと思いました。
映画版は、野村萬斎さんや伊藤英明をはじめ、みな役のイメージにぴったりだと思いました。
ただ、映画版はドラマチック過ぎて、平安時代の雰囲気があまり出てない感じでした。
もう少しおどろおどろしい雰囲気が出せたらよかったかもなと思いました。
.
安倍晴明は映画や書籍で、ひと頃、大ブームになっていたので気にはしていたのですが
、創作が多かったので、まったくそうしたものに触れないでいたのです。
私が知りたかったのは真実の陰陽師であり、安倍晴明だったからです。
私に、そう思わせたのは以前、川端康成の「古都」の記事で、私が一番好きなところは
京都だと書いたことと関係あります。
ことに、私が京都に引かれるようになったのは、二年前の十月、京都の国宝・平等院鳳
凰堂を訪れたのが大きかったです。

満々と水をたたえた池の向こうに立つ平等院鳳凰堂、わけても朱塗りの柱が印象的で、
平安時代の栄華が鮮やかに蘇ってくるようでした。
しかも、私が訪れた時、金木犀の香りが辺り一面ほのかに漂い、雅びな雰囲気を一層、
かきたててくれたのでありました。
その時のお写真がこれです。




その感動は宮崎に帰ったあとも、ずっと余韻が残っていました。
そして、京都をもっと知りたくなり、本や映像ソフトをいくつも見入ったりしたのです
。
ところが、京都が、かの地に誕生した秘密を解説したものがあり、意外な事実を知って
驚いてしまったのです。
そういえば、京都のことを魔界都市と言う人っているでしょう?
その訳が明らかになったのです。
京都、当時は平安京と呼ばれていたのですが、桓武天皇が、平安京を作る時、中国の道
教思想・四神相応に基き、西暦七九四年に作ったとされるそうです。 四神とは、想像
上の生き物、青龍・白虎・朱雀・玄武のことで、それぞれが平安京の東西南北を護ってい
るのだとか。
そうして、桓武天皇は徹底した魔よけ封じを行い、悪霊や怨霊を退けるという思想はそ
の後も根強く残ったらしいのです。

例えば、京都御所の鬼門の壁は四角く切られ、塀の上には御幣を担いだ木彫りの猿が座
っているそうです。猿には魔除けの意味がある

東寺の鬼門の瓦には安倍晴明の紋章・五芒星が示され、魔物を封じていると言われてい
ます。

一条戻り橋
ここは、御所の北東にあり、鬼門と呼ばれ、この世とあの世の境目と言われているとか
。
つまり、鬼が出入りする不吉な方角と考えられてきたのです。
そのせいか、ここには茨木童子など、鬼にまつわる様々な伝説があり、また、橋の下に
は安倍晴明が、式神を置いていたとか。(式神とは、陰陽師が操る鬼神のこと。)
比叡山の延暦寺も、その例にもれず、鬼門除けの役目を果たしているそうです。
そう、当時の京都は悪霊や怨霊は言うに及ばず、鬼や妖怪など、魑魅魍魎が跋扈する魔
界都市で、それに祟られる事件や災害が数多く起き、それらに敢然と対抗する者、それが
安倍晴明を代表とする陰陽師だったのです。
だから、ちょっと怪しげな人というイメージが湧かないでもないですが、れっきとした
朝廷の役人で、中務省の陰陽寮に属し、天文・暦・時刻・占いを司っていたようです。
それにしても、平安京には、どうして、悪霊や怨霊などが、沢山いたのでしょう?
平安京があった平安時代は貴族社会で、和歌を詠んだり、蹴鞠、百人一首などの遊びが
流行し、平安京という言葉さながらに、優雅で、平和なイメージがあるのですが。
ところが、調べてみると、確かにそういう一面はあるものの、その陰で、皇族や貴族同士の血で血を洗う熾烈な権力闘争があったと判明したのです。
ここから、「安倍晴明の秘術」という本を参考に書きます。
平安京は七九四年(延暦12年)に時の天皇、桓武天皇の名により造営された。東西4
.5キロ、南北5.2キロの大きさを誇る、それまでの日本で造られた最大の都市であっ
た。そしてそれは華々しい王朝文化の始まりを告げる遷都だった、表向きは・・・。
まだ奈良に都があった頃、時の天皇は日々「怨霊」の攻撃に悩み抜いていた。それとい
うのも、皇位継承のために血みどろの、陰謀、謀略が争われ、多くの皇族、貴族、役人が
無念のうちに殺され、死んでいったからだ。その無念の思いの怨霊たちが、干ばつを起こ
し、毎夜、瓦石を屋根に降らせ続け、家族を呪い殺していった。桓武天皇が即位したとき
も、そうした怪異が続く時代だった。
桓武天皇自身も、父、光仁天皇から皇位を受け継ぐ時、弟の他戸(おさべ)親王と皇位
を争っている。他戸親王の母は聖武天皇の皇女、井上内親王という身分の高い女性で、当
然のように皇太子には他戸親王が立てられていた。兄として弟の皇位継承には歯ぎしりす
る思いがあったろう。そこに、接近してきたのが重臣、藤原百川であった。百川は謀略に
より他戸親王を失脚させる提案をもちかけたのだ。その陰謀のためか、天皇を呪詛した罪
で他戸親王、母の井上内親王の母子は大和国宇智に幽閉され、その後に殺される。
しかしこの後、地震、飢饉、疫病などの天災が襲い、父、光仁天皇も重病に伏し、桓武
天皇自身も病に倒れる。他戸親王母子の祟りと恐れた桓武は、母子の霊を手厚く弔ったが
、怪異はなおも続いたのだった。
天皇となった桓武天皇は七八四年に怨霊が跋扈する古い奈良を捨てて、今の京都の南西
に位置する「長岡京」に遷都すると詔を出す。ここで怨霊に脅かされることなく、何もか
も新しく再出発しようと考えたのであった。
しかし、桓武天皇には再び血で血を洗う皇位継承問題が残っていた。この時、父の遺言
で皇太子には弟の早良親王が立てられていたが、それを廃して息子の第一皇子・安殿親王
を次期天皇につけたいと考えたのである。ちょうど、その頃、長岡京の造営長官であり寵
臣の藤原種継(百川の甥)が暗殺される事件が起こった。真実かどうかは別に、桓武天皇
はこの事件の首謀者を早良親王として、皇太子を廃し幽閉した。幽閉後、早良親王は抗議
の絶食をし、十日後に非業の最期を遂げる。桓武天皇はこれにより望み通り自分の第一皇
子・安殿親王を皇太子にすることができたのだった。
しかし、非業の最期を遂げた早良親王の祟りはすぐに猛威を振るい始める。事件後3年
目、夫人の藤原旅子(百川の娘)と妃の一人・多治比真宗が病死、翌年母の高野新笠が亡
くなる。その翌年に皇后の藤原乙牟漏(百川の姪)、妃の坂上又子が死んだ。三年の間に
母と妻四人を亡くしたのだった。さらに、せっかく皇太子にした息子の安殿親王も病に倒
れた。これらを怨霊の祟りと怖れないわけがなかった。社会的にも干ばつ、天然痘の流行
、伊勢神宮の焼失と、天皇の権威を揺るがす禍々しいことが続いた。
ついに、桓武天皇は、未だ造営中の長岡京を捨て、さらに怨霊の手の届かない都を求め
ることにした。
それが、平安京なのである。
桓武天皇って、こう言っては何ですけど、すっごい悪党みたい・・・(苦笑)
これだけ悪さすれば、悪霊や怨霊に祟られるのも分かるような?
しかし、だからこそ、桓武天皇は悪霊や怨霊の侵入を防御すべく、平安京の四方を、中
国の道教思想に基づいた青龍・白虎・朱雀・玄武に守らせようとしたのですね。
そして、平安京を造営するのに、もっとも重用したのが、陰陽師だったようです。
では、安倍晴明はどんな人だったのでしょう。
安倍晴明が生きた時代(九二一年~一00五年)は、この遷都より一五0年ほど後で、
平安京のすべての呪術装置も完成し、陰陽道ももっとも隆盛した時代だったそうです。
だけど、それでも、数々の怨霊や鬼神が跳梁跋扈し、呪詛が横行していたようで、それ
だけに、より優れた陰陽師の出現を待ち焦がれる人が多かった。
そこに彗星のごとく現れたのが、今に語り継がれる安倍晴明だったのです!
まず、安倍晴明、生まれた時から普通じゃありません。
安倍晴明の父親は安倍保名という人ですが、母親はなんと人間じゃなく、葛の葉という
白キツネなんです!
そして、幼少の頃から、不思議な能力を持っていたみたいで、村上天皇が病で倒れた時
、柱の礎で蛇とカエルが争っているからだとピタリと言い当てるのです。しかも、それは
カラスが喋っているのを聞いて知ったというのです。
このことを上京して天皇に伝え、これにより晴明の名はあっという間に広まり、以後天
皇や貴族に関する様々な予見をし、国家の官僚として歩んでいったのだとか。
人間と白キツネの間から生まれた事からして、安倍晴明って、すごいなと思います。
しかも、ドリトル先生みたいに、動物の言葉が分かるなんて!
でも、それだけじゃないんです。
安倍晴明には、それ以外にも様々な伝説が伝えられています。
其の一
紫宸殿の陣の間の多くの殿上人が参内する中に、ひときわ美しい少将がいたそうです。
その少将が内裏へ入ろうとした時、頭上をかすめて、カラスが糞を落としていった。
これを見た晴明は少将に、「今夜はあなたの身に何かが起きます。私にはそれが見える
んです。さあ、一緒に来て下さい。」と声をかけた。少将は晴明の名に足を止め、それに
従った。その晩、晴明は少将を後ろからしっかり抱きしめ身固めの儀式を施し、一晩中一
睡もせずに祈り続けた。夜が明けると真実が明らかになった。少将の妻の相婿が、舅が少
将ばかり可愛がるので逆恨みをして、陰陽師に頼んで、少将の呪殺を謀ろうとしていたの
だった。それを知った少将はこの相婿をすぐに追い出した。また、相婿に手を貸した陰陽
師は自らが放った式神が戻って死んでいたとか。
其ノ貮
晴明がまだ少年だった頃、師匠である当代随一の陰陽師賀茂忠行を乗せた牛車に付き添
っていた。時は夜であった。晴明が前方を見ていると、口が裂け、牙を剥き出した異形の
姿が見えた。それは百鬼夜行の鬼だった。すぐさま、忠行を起こし危険を知らせると、忠
行はすぐに鬼から姿を隠すための呪を施し、間一髪で身を守ることが出来たのであった。
これ以降、忠行は晴明の並々ならぬ能力に感服し、陰陽道のすべてを伝授することにした
。
其ノ三
ある時、晴明は若い僧侶達に、カエルを殺して見せてくださいと頼まれた。
僧侶が頼んだのは晴明の能力に疑問を感じていたからだが、晴明は自分の力を無益なこ
とに使ったり、自分を試されるのが嫌であった。しかし、この時ばかりは一本の草の葉を
摘み取り、呪文を唱えて、草の葉をカエルに投げつけてみせた。すると、カエルはひしげ
て潰れ、僧侶達は恐れおののいてしまった。
其ノ四
ある時、晴明のパトロンである藤原道長が、法成寺の門を潜ろうとすると、飼い犬が突
然、吠えだし、中に入れまいとする。これは何かあると睨んだ道長は早速、晴明を呼びに
やった。すると、晴明は呪いをかけたものが埋まっていると見抜き、掘ってみたところ、
呪いがかかった土器が見つかった。そして、晴明は誰が呪いをかけたのか確かめようと、
懐から紙を取り出し、呪をかけ始めた。すると、不思議な事に紙は白鷺に姿を変え、南の
方に飛んでいった。そこから、左大臣顕光公の仕業と判明した。
其ノ五
物忌み時に、早瓜を献上された藤原道長は受納していいのか首をひねっていた。そこで
、ちょうど、お供をしていた晴明が吉凶を占うことになった。そして、毒気が見えた晴明
は加持祈祷すればいいでしょうと言い、側にいた観修僧正が祈祷を行った。すると、瓜が
ひとりでに動き出した。そこで、医者の丹波忠明が、瓜に針を二本刺すとピタリととまっ
た。この様子を見ていた源義家が、瓜を刀で割ると、中からとぐろを巻いた蛇が出てきた
。そして驚いたことに、忠明の二本の針はちょうど、蛇の両目を貫いていて、義家の太刀
筋は蛇の頭を見事に切り落としていた。
其ノ六
ある時、播磨の陰陽師智徳法師は式神を童子に変え、晴明の実力を試しに来た。晴明は
智徳法師と会話しながら、袖の中で印を結び、式神隠しの呪文を唱えつつ、表面上は何も
知らないふうを装った。その様子に智徳法師は勝ち誇った顔をして、晴明邸を後にした。
しかし、ふと気がつけば、いつの間にか童子に姿を変えた式神が二人ともいなくなって
いた。慌てた智徳法師が、晴明邸に戻ると晴明が口元に笑みを浮かべていて、自分の負け
を知って謝罪し、晴明の弟子になった。
其ノ七
988年6月23日、花山天皇が突然、出家した。理由は最愛の女性が亡くなって悲し
みの日々を送っていたからだ。この様子を見た藤原道兼は父、兼家と策謀し、花山天皇を
東山花山寺に連れ出した。その寺に向かう途中、晴明邸の前を通ると、どこからともなく
「天皇が譲位したようである。式神よ、ただちに確かめて参れ」という晴明の声が聞こえ
た。すると、目に見えぬものが、戸を押し開け、「ただいま、目の前を帝がお通りになり
ました」と答えた。
その出来事に、花山天皇は改めて晴明の力量に感心し、「さらばだ、晴明・・・」と呟
いたとか。
これらは、どれもにわかには信じがたい気がしますが、本当にあったのでしょうか?
でも、そうであってほしいような・・・
だけど、私は、以前、マンションの五階に住んでいて、百鬼夜行に悩まされ、お祓いし
てもらったと教えてくれた人が身近かにいたんです。
だから、怨霊や悪霊はもしかしたら、人の心の闇が作ったものかもしれませんが、その
一方で、こういう類いのものは確かに実在していて、見える人には見えるのかも知れないなという気もしているんです。
そして、それら異形のものを封印出来る安倍晴明みたいな摩訶不思議な能力を持った人
がいることも・・・。
あと、補足ですが、野村萬斎さん主演の映画と、岡野玲子さんの漫画版も見てみました。
漫画版は、絵の雰囲気が、美しく且つおどろおどろしく、遠い平安時代の雅びな雰囲気をよく描写しているなと思いました。
映画版は、野村萬斎さんや伊藤英明をはじめ、みな役のイメージにぴったりだと思いました。
ただ、映画版はドラマチック過ぎて、平安時代の雰囲気があまり出てない感じでした。
もう少しおどろおどろしい雰囲気が出せたらよかったかもなと思いました。
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