私が太宰治の話をしたいと思ったのは、三島由紀夫が、女々しい男だとして嫌っていたと知ったからです。
三島由紀夫は、太宰治に面と向かって、「私は、あなたが嫌いだ」と、はっきり言った事もあったそうです。
そこで、私は今まで出会った女々しい男の話をしたくなりました。
その第一の理由は、普通の男性は女々しい男の実態をあまり知らないと思ったからです。
どうやら、女々しい男は自分では、周りにそれと知られるのを恐れて隠しているみたいですよ。(笑)
とは言え、私自身、これまで実生活で、女々しい男に出会った事はありませんでした。
いいえ、出会っていたかも知れないのですが、気づかなかったと言った方がいいかも知れません。
では、どうやって、私が女々しい男と知り合ったのか?から書きたいと思います。
私が彼らと出会ったのは、ブログを通じてです。
私が書いているこのブログはフェイスブックと違って、匿名性が高いので、彼らは半ば安心して、本性を見せてくれているように思われます。
私がブログで出会った女々しい男は5人以上にのぼります。
初めのうち、私はそうした男性を、変わってるな、女性っぽいなとしか思っていなかったのですが、数が集まった事で、彼らの特徴が見えてきたのです。
ここでお断りしておきますが、今、女々しい男は私のブログを読んではいません。
少なくとも、コメントはきていませんので、私のいつもの読者は安心して下さって結構です♪
なぜ、今、いないのかと言いますと、最初のうちは女々しい男も、私のブログに興味を持つのですが、付き合いが長引くに連れ、だんだん苦痛を覚えて、様々な抵抗を示したのち、絶望して逃げ出してしまうからです。
そう、なぜか、私のブログは女々しい男に向かないらしいのです。
その理由も、あわせて検証してみたいと思います。
まず、女々しい男は女々しいというくらいですから、女性的なものに非常に関心が高いみたいです。
だから、女々しい男を見分けるひとつの方法として、彼らのブログは女性的なものをメインにしている人が多いです。
たとえば、いかにも女性が好みそうな歌とか、書物や映像作品などを書いてたりします。
でも、詳しい感想は書かずに、単なる紹介に終わっているものが多いです。
そして、まるっきり女性的かというと、そうでもなく、時々は男性的なものも書いています。
私は、最初、彼らが女性的なものに惹かれる理由を、女性ホルモンが多いとか、女性になりそこなった男性なのではないかと思っていました。
実際、彼らの中にも、そう思っている人がいて、女性みたいに当たりがソフトで優しい印象を受けますので、私も彼らが嫌いではなく、出来たら力になりたいとさえ思うほどなのです。
しかし、そのうち子供時代の悲しい出来事を教えたり、弱音を吐いたり、いかにも同情してくれと言わんばかりの事を書いてくるようになるのです。
そして、だんだんあら探しをするようになります。
たとえば、冨田勲さんの「冨」を、私が誤って、「富」と書いてしまい、メチャクチャ激怒した人がいました。
その人は、私が書いた「悲しみ」を「哀しみ」の間違いだろ!と、食ってかかったりもしました。
確かに間違いでしょうけど、そんな細かな事に、いちいち激怒する男性なんかいません。
天地を揺るがすほど激怒して、その人にとって、それがそんなに大きい事なのでしょうか?
また、こんな事を書いた女々しい男もいました。
あなたのブログには、女性からのコメントがないので、つまらない。
この人は、私の文章を気に入ってというより、女性からのコメントを期待して読んでいたのでしょうか?
(ここで説明しますと、私のブログは最初は女性ばかりがコメントしていたのですが、そのうち彼女らはみなブログをやめてしまい、私も男性が興味を持つような記事を書くようになったため、次第に男性ばかりになってしまった経緯があります。そういう女性のブログは結構、多いです。)
ところで、その女々しい男が、私のブログに女性からのコメントがないのにこだわった理由も分かりました。
私のブログのように、男らしい人とのコメントにまじると、自分の女々しさが際立つので嫌がっていたんです。(笑)
そうした抵抗を示したのち、彼らは私の文章におびえて、絶望し、突然、去っていくのです。
私は、なぜ、彼らと順調に関係を築けないのでしょう?
そこで、私は彼らの行動を分析し、ある結論に達したのです。
彼らが女性的なものを書くのは、女性の気を引くためで、紹介だけに終始して、感想を書かなかったり、文章が短いのは、女々しい男と突っ込まれるのを避けるのが目的で、逃げ道を確保する意味がある。
そう、彼らは非常に臆病で、男性との争いを出来るだけ回避しようとする傾向があります。
そのために、卑屈なまでに男性を褒めちぎったり、あたかも好意を持っているかのように振る舞ったりします。
しかし、彼らは臆病を恥とせず、むしろ弱さを武器にして、同情を買って、女性に近づこうとします。
しかも、女性の気を引こうとする手段が、極めて女性的なものを使う傾向にあります。
では、なぜ、彼らは私のブログに苦痛を覚えるのでしょう?
それは私のブログが自分をよく見せようとばかりせずに、男性らしい生き方を追求しているという側面を持っているからではないでしょうか?
私のブログには男らしい素敵な男性が何人も読んだり、コメント下さっているのですが、それは取りも直さず、私が男性が興味を持つ書物や映画を通して、男の生き方を書いているからに違いないと思います。
それに、私の場合、映画や書物の単なる紹介だけじゃなく、感想も書いてますので、逃げ道を用意するためにどうにでも受け取れる短い文章を書いている女々しい男の劣等感を著しく刺激するのではないでしょうか。
結論づけると、女々しい男とは、女性的なものに関心が高く、臆病で、すぐに同情を買おうとし、異常なまでに女性が好きな一方で、女性に平気で悪態をつく事が出来る人物を指します。
だけど、女々しい男って、自分ではそうだと認めたくない困ったちゃんが、ほとんどなんです。だから、余計に始末が悪い。
ほら、どうにでも受け取れるような短い文章しか書かなくて、すぐ同情を買おうとし、こそこそしていて、女性が好きな一方で、平気で女性に悪態をつく。
自分で、女々しい男だと気づきません?(笑)
さあ、それでは、私が出会った女々しい男のお話をしたところで、いよいよ太宰治に移らせていただきますね。
太宰治も、女々しい男に当てはまるのでしょうか?
三島由紀夫が嫌悪したように、弱さを武器にした卑怯な男性であると、女性も受けとめているのでしょうか?
ところが、女性で、太宰治が好きだと公言している人って、案外多いですよね?
そこが男性と女性の受け取り方の違いだと思うのですが、私は積極的に太宰治が好きだとは言いませんが、太宰治が女性に好かれる理由が少しはわかるのです。(笑)
とくに、「斜陽」という女性の視点から書いた小説を読むと、どうして太宰治はここまで女性の気持ちがわかるのだろうと不思議に思えて、感動せずにはいられないです。
「斜陽」は戦後、没落した貴族の女性の翻弄される運命を、か弱く、美しく愛情深く書いてくれていて、素晴らしいとしか言いようがありません。
太宰治が自分の弱さを見せつけるというのでは、「人間失格」に、こんな文章があります。
これは、主人公がアパートの部屋の近くで、妻と娘の会話を立ち聞きした場面の描写です。
「なぜ、お酒を飲むの?」
「お父ちゃんはね、お酒を好きで飲んでいるのでは、ないんですよ。あんまりいいひとだから、だから、・・・」
「いいひとは、お酒を飲むの?」
「そうでもないけど、・・・」
「お父ちゃんは、きっと、びっくりするわね」
「おきらいかもしれない。ほら、ほら、箱から飛び出した」
「セッカチピンチャンみたいね」
「そうねえ」
シヅ子の、しんから幸福そうな低い笑い声が聞こえました。
自分が、ドアを細くあけて中をのぞいてみますと、白兎の子でした。ぴょんぴょん部屋中を、はね廻り、親子はそれを追っていました。
(幸福なんだ、この人たちは。自分という馬鹿者が、この二人のあいだにはいって、いまに二人を滅茶苦茶にするのだ。つつましい幸福。いい親子。幸福を、ああ、もし神様が、自分のような者の祈りでも聞いてくれるなら、いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、祈る)
このくだりは、太宰治の娘の太田治子さんが、父親とは、こういうものなのだろうかと思い、いつも遠くから暖かく見守ってくれてる気がして泣きたくなるそうで、私もここまで書かれたら、太宰治の女々しさを非難する気には到底なれないです。
しかし、私は昔、自殺未遂した人の家族から、刑事さんに、「太宰治に心酔した人に自殺する人が多い」と言われたと聞いた事があって、太宰治に深入りするのは危険だなという印象を拭えないのです。
そういえば、太宰治を嫌いだという三島由紀夫も自ら命をたっていますが、その受け止め方は太宰治とは対局にあるような気がします。
なぜなら、三島由紀夫のファンの男性は、三島の死を、生きる上でのメッセージを受け取ったと捉えている人が多いようだからです。
たとえるなら、死ぬ気でやれば何も恐くないと言いますか、命懸けでやる事の大切さみたいなものを教わったような気が、私自身するからです。
今回は、私が出会った女々しい男から、三島由紀夫と太宰治の違いなど、いろいろ書いちゃいましたが、男らしさと女らしさをわけるのもとは何なのか、あらためて興味深いなと思いました。
三島由紀夫は、太宰治に面と向かって、「私は、あなたが嫌いだ」と、はっきり言った事もあったそうです。
そこで、私は今まで出会った女々しい男の話をしたくなりました。
その第一の理由は、普通の男性は女々しい男の実態をあまり知らないと思ったからです。
どうやら、女々しい男は自分では、周りにそれと知られるのを恐れて隠しているみたいですよ。(笑)
とは言え、私自身、これまで実生活で、女々しい男に出会った事はありませんでした。
いいえ、出会っていたかも知れないのですが、気づかなかったと言った方がいいかも知れません。
では、どうやって、私が女々しい男と知り合ったのか?から書きたいと思います。
私が彼らと出会ったのは、ブログを通じてです。
私が書いているこのブログはフェイスブックと違って、匿名性が高いので、彼らは半ば安心して、本性を見せてくれているように思われます。
私がブログで出会った女々しい男は5人以上にのぼります。
初めのうち、私はそうした男性を、変わってるな、女性っぽいなとしか思っていなかったのですが、数が集まった事で、彼らの特徴が見えてきたのです。
ここでお断りしておきますが、今、女々しい男は私のブログを読んではいません。
少なくとも、コメントはきていませんので、私のいつもの読者は安心して下さって結構です♪
なぜ、今、いないのかと言いますと、最初のうちは女々しい男も、私のブログに興味を持つのですが、付き合いが長引くに連れ、だんだん苦痛を覚えて、様々な抵抗を示したのち、絶望して逃げ出してしまうからです。
そう、なぜか、私のブログは女々しい男に向かないらしいのです。
その理由も、あわせて検証してみたいと思います。
まず、女々しい男は女々しいというくらいですから、女性的なものに非常に関心が高いみたいです。
だから、女々しい男を見分けるひとつの方法として、彼らのブログは女性的なものをメインにしている人が多いです。
たとえば、いかにも女性が好みそうな歌とか、書物や映像作品などを書いてたりします。
でも、詳しい感想は書かずに、単なる紹介に終わっているものが多いです。
そして、まるっきり女性的かというと、そうでもなく、時々は男性的なものも書いています。
私は、最初、彼らが女性的なものに惹かれる理由を、女性ホルモンが多いとか、女性になりそこなった男性なのではないかと思っていました。
実際、彼らの中にも、そう思っている人がいて、女性みたいに当たりがソフトで優しい印象を受けますので、私も彼らが嫌いではなく、出来たら力になりたいとさえ思うほどなのです。
しかし、そのうち子供時代の悲しい出来事を教えたり、弱音を吐いたり、いかにも同情してくれと言わんばかりの事を書いてくるようになるのです。
そして、だんだんあら探しをするようになります。
たとえば、冨田勲さんの「冨」を、私が誤って、「富」と書いてしまい、メチャクチャ激怒した人がいました。
その人は、私が書いた「悲しみ」を「哀しみ」の間違いだろ!と、食ってかかったりもしました。
確かに間違いでしょうけど、そんな細かな事に、いちいち激怒する男性なんかいません。
天地を揺るがすほど激怒して、その人にとって、それがそんなに大きい事なのでしょうか?
また、こんな事を書いた女々しい男もいました。
あなたのブログには、女性からのコメントがないので、つまらない。
この人は、私の文章を気に入ってというより、女性からのコメントを期待して読んでいたのでしょうか?
(ここで説明しますと、私のブログは最初は女性ばかりがコメントしていたのですが、そのうち彼女らはみなブログをやめてしまい、私も男性が興味を持つような記事を書くようになったため、次第に男性ばかりになってしまった経緯があります。そういう女性のブログは結構、多いです。)
ところで、その女々しい男が、私のブログに女性からのコメントがないのにこだわった理由も分かりました。
私のブログのように、男らしい人とのコメントにまじると、自分の女々しさが際立つので嫌がっていたんです。(笑)
そうした抵抗を示したのち、彼らは私の文章におびえて、絶望し、突然、去っていくのです。
私は、なぜ、彼らと順調に関係を築けないのでしょう?
そこで、私は彼らの行動を分析し、ある結論に達したのです。
彼らが女性的なものを書くのは、女性の気を引くためで、紹介だけに終始して、感想を書かなかったり、文章が短いのは、女々しい男と突っ込まれるのを避けるのが目的で、逃げ道を確保する意味がある。
そう、彼らは非常に臆病で、男性との争いを出来るだけ回避しようとする傾向があります。
そのために、卑屈なまでに男性を褒めちぎったり、あたかも好意を持っているかのように振る舞ったりします。
しかし、彼らは臆病を恥とせず、むしろ弱さを武器にして、同情を買って、女性に近づこうとします。
しかも、女性の気を引こうとする手段が、極めて女性的なものを使う傾向にあります。
では、なぜ、彼らは私のブログに苦痛を覚えるのでしょう?
それは私のブログが自分をよく見せようとばかりせずに、男性らしい生き方を追求しているという側面を持っているからではないでしょうか?
私のブログには男らしい素敵な男性が何人も読んだり、コメント下さっているのですが、それは取りも直さず、私が男性が興味を持つ書物や映画を通して、男の生き方を書いているからに違いないと思います。
それに、私の場合、映画や書物の単なる紹介だけじゃなく、感想も書いてますので、逃げ道を用意するためにどうにでも受け取れる短い文章を書いている女々しい男の劣等感を著しく刺激するのではないでしょうか。
結論づけると、女々しい男とは、女性的なものに関心が高く、臆病で、すぐに同情を買おうとし、異常なまでに女性が好きな一方で、女性に平気で悪態をつく事が出来る人物を指します。
だけど、女々しい男って、自分ではそうだと認めたくない困ったちゃんが、ほとんどなんです。だから、余計に始末が悪い。
ほら、どうにでも受け取れるような短い文章しか書かなくて、すぐ同情を買おうとし、こそこそしていて、女性が好きな一方で、平気で女性に悪態をつく。
自分で、女々しい男だと気づきません?(笑)
さあ、それでは、私が出会った女々しい男のお話をしたところで、いよいよ太宰治に移らせていただきますね。
太宰治も、女々しい男に当てはまるのでしょうか?
三島由紀夫が嫌悪したように、弱さを武器にした卑怯な男性であると、女性も受けとめているのでしょうか?
ところが、女性で、太宰治が好きだと公言している人って、案外多いですよね?
そこが男性と女性の受け取り方の違いだと思うのですが、私は積極的に太宰治が好きだとは言いませんが、太宰治が女性に好かれる理由が少しはわかるのです。(笑)
とくに、「斜陽」という女性の視点から書いた小説を読むと、どうして太宰治はここまで女性の気持ちがわかるのだろうと不思議に思えて、感動せずにはいられないです。
「斜陽」は戦後、没落した貴族の女性の翻弄される運命を、か弱く、美しく愛情深く書いてくれていて、素晴らしいとしか言いようがありません。
太宰治が自分の弱さを見せつけるというのでは、「人間失格」に、こんな文章があります。
これは、主人公がアパートの部屋の近くで、妻と娘の会話を立ち聞きした場面の描写です。
「なぜ、お酒を飲むの?」
「お父ちゃんはね、お酒を好きで飲んでいるのでは、ないんですよ。あんまりいいひとだから、だから、・・・」
「いいひとは、お酒を飲むの?」
「そうでもないけど、・・・」
「お父ちゃんは、きっと、びっくりするわね」
「おきらいかもしれない。ほら、ほら、箱から飛び出した」
「セッカチピンチャンみたいね」
「そうねえ」
シヅ子の、しんから幸福そうな低い笑い声が聞こえました。
自分が、ドアを細くあけて中をのぞいてみますと、白兎の子でした。ぴょんぴょん部屋中を、はね廻り、親子はそれを追っていました。
(幸福なんだ、この人たちは。自分という馬鹿者が、この二人のあいだにはいって、いまに二人を滅茶苦茶にするのだ。つつましい幸福。いい親子。幸福を、ああ、もし神様が、自分のような者の祈りでも聞いてくれるなら、いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、祈る)
このくだりは、太宰治の娘の太田治子さんが、父親とは、こういうものなのだろうかと思い、いつも遠くから暖かく見守ってくれてる気がして泣きたくなるそうで、私もここまで書かれたら、太宰治の女々しさを非難する気には到底なれないです。
しかし、私は昔、自殺未遂した人の家族から、刑事さんに、「太宰治に心酔した人に自殺する人が多い」と言われたと聞いた事があって、太宰治に深入りするのは危険だなという印象を拭えないのです。
そういえば、太宰治を嫌いだという三島由紀夫も自ら命をたっていますが、その受け止め方は太宰治とは対局にあるような気がします。
なぜなら、三島由紀夫のファンの男性は、三島の死を、生きる上でのメッセージを受け取ったと捉えている人が多いようだからです。
たとえるなら、死ぬ気でやれば何も恐くないと言いますか、命懸けでやる事の大切さみたいなものを教わったような気が、私自身するからです。
今回は、私が出会った女々しい男から、三島由紀夫と太宰治の違いなど、いろいろ書いちゃいましたが、男らしさと女らしさをわけるのもとは何なのか、あらためて興味深いなと思いました。