うれしい!
半年ぶりにブラタモリが再開します。
ブラタモリ第二部もスタイルがまったく変わらないのがうれしい。
しかも番組は5分間延長!しました。
「築地」をブラタモリ
昨晩放送の1回目は「築地」でした。
市場の町として知られています築地。
しかし築地は意外にも、激変を遂げてきた街でありました。
(江戸時代)海が埋め立てられた寺町
江戸時代、築地界隈は海でした。
江戸初期の大火事で、浅草にあった本願寺が焼失。
幕府から再建のためにと、代わりに与えられた土地が海でした。
「埋め立てられて築いた土地」が築地の名前のルーツです。
当時の築地は本願寺を中心に58ものお寺がひしめく寺町でありました。
海が埋め立てられた寺町。
それが築地の最初の町の顔です。
現在の築地本願寺は関東大震災後立て替えられた、
古代インド様式の当時としては奇抜な建物でした。
毎週末には無料コンサートも開かれている、開放的な雰囲気のお寺です。
(明治~大正)海軍の町
さて築地市場の片隅に神社があり、その境内に大きな石碑が。
「旗山」と彫られた石碑こそ、ここが日本海軍発祥の地なのでありました。
幕末、黒船の来航にあわてた幕府は、
築地に軍艦操練所を開き、海軍省を置きます。
後の海軍の前身です。
江戸城から近く、海に面していて広大な敷地があったのがその理由です。
その後明治から大正にかけて、
築地は海軍一色の町になりました。
現在もその名残として。海上保安庁がおかれ、
海図を作る仕事をしているそうです。
(明治~)外国人居留地
現在の明石町界隈は、外国人居留地として賑わった町です。
学校や宗教の西洋化が図られ、
当時としては東京一ハイカラな町だったそうです。
どうしてここに聖路加病院が・・・と思っていましたが、
こんな歴史の背景があったのですね。
(大正~昭和) 震災後魚河岸の町に
もともとは魚市場は日本橋にありました。
関東大震災後、仲卸業の人々が築地に移り、まず場外市場ができました。
そして昭和10年、広大な敷地がある築地に中央卸売市場ができたのだそうです。
寺町から海軍の町へ、そして魚市場の町へ。
こんなに大きな変化を遂げてきた町は、
東京では例がないそうです。
それは築地が埋立地であったこと、
そして海に近いため如何様にも転用できる自由さを持った
地理的条件があったからだと考えられます。
海に面した地形に沿って湾曲した形の中央市場を
上から眺めて、タモリが言います。
「時間経過を見て歩くと、街が何層にも見えてくる」
まさに街歩きの楽しみを言い表した言葉ですね。
ブラタモリ、次回は「丸の内」です。
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