(平成13年夏 鳥海笙ヶ岳にて
右より原眞さん エリザベスさん 今野先生)
原眞さん急逝の報を、奥様のエリザベスさんからいただきました。
3月20日未明、脳梗塞でお亡くなりになりました。
故人の強い希望で、葬儀、告別式は行わず、ご家族で内々に見送られたそうです。
突然の訃報にただただ驚いております。
原眞さんは名古屋在住の医師で登山家です。
ご自身の輝かしい登攀歴もさることながら、低圧酸素室による高所順応法を開発。
高山研究所からはヒマラヤを無酸素で攀る多くのクライマーが輩出されました。
そんな中、弟正明が原さんから一方ならぬお世話になりました。
当時岩登りをしながら世界を放浪していた正明を、原さんはたいそう気に入ってくれたのでした。
1985年暮れ、南米への原さんの家族旅行に正明は同行しました。
その後、原さんと遠藤(晴行)さんと正明はフィッツロイに挑んでおります。
そのときの様子は、原さんの著書「還らざる者たち」(悠々社)に詳しく書いておられます。
今からもう4半世紀前のことです。
「フィッツロイからの撤退に、渋谷が不満を持っていたのは当然であろう。暴風がこようがこまいが、とにかく彼は突き進みたかったのだ。フィッツロイからは、私の一存で撤退したような形になっていたいたから、口には出さなくても渋谷の内心は穏やかではなかったはずだ。一匹狼のはずの渋谷が、計画書に高山研究所などど添え書きしてくるのは妙な気がした。
もし渋谷が、もう一度フィッツロイに行くなら、財政援助はしてやると約束していた。金だけを渡すわけにもゆくまいから、渋谷には仕事をさせて謝礼だけは破格の率で与えることにした。窓拭きとか庭木切りとか、穴掘りとか、いろんな労働を彼はやった。私としては、渋谷の才能を愛したからそうしたのであった。当分は岩登りはやれるだけやれ。いずれはヒマラヤに行く男である。岩登りだけで満足する人間ではない。渋谷は高所に対して不必要な不安を持っているようにも見受けられたが、私の訓練システムで育てればヒマラヤ登山で頭角を現すはずだと私は予測していた。」
(フィッツロイに挑む 正明とマルコの死より抜粋)
正明の死後、原さんは三度酒田を訪れてくださいました。
1度目は86年夏の終わり、正明の葬式の時です。
一家総出(まだまだ小さい子どもさんもたくさんいらっしゃいました)で、名古屋から800km夜通し車を飛ばして駆けつけてくれました。
その時は所用でトンボ帰りされるといことで、残念ながらゆっくりお話をすることができませんでした。
2、3年のち原さんがおひとりで訪ねてくださいました。
座敷でささやかな宴を囲みながら、今度はゆっくりと正明の想い出話をお聞きすることができました。
3度目が8年前の夏です。
ご夫婦でキャンピングカーでバカンスを楽しみながら、東北を北上中立寄ってくれました。
そのとき一緒に笙ヶ岳に登ったのが、上の写真です。
名古屋に遊びにいらっしゃいと何度もお誘いいただきました。
そして正明の追悼集を出そうと、いつもおっしゃってくださいました。
昨年電話でお話した時は、また酒田に行きたいとおっしゃっていましたね。
それが叶わなくなってしまい、とても残念です。
(同年 十里塚の浜で夕日を眺めるご夫妻)
謹んでご冥福をお祈りいたします。