先日の出張の際途中下車した京都。
京都は40年前に、学生時代を過ごした町でもあります。
その学校があった伏見区深草界隈を、
実に30数年ぶりに歩いてみました。
当然ながら40年の歳月で町は様変わりしていました。
そんな中にもほんの少し当時の痕跡を見つけることが出来ました。
今日はそのレポートを。
地下鉄南北線で「くいな橋駅」下車。
この地下鉄は昭和63年開業なので、
当時まだこの駅はありません。
ちなみに水鶏橋(くいな橋)とは、
ここのすぐ西を流れる鴨川にかかる橋の名前だそうです。
地名としてはあまり浸透していなかったと思うのですが、
駅名は公募で決まったそうです。
駅を出て道路を挟んで北側にあるのが職業訓練校。
当時、友人のサクライがここに住み込みで夜間警備のバイトをしていました。
校舎は建て替えられて新しくなっています。
大学がある東方面に進みます。
周辺にはスーパーやホームセンターが出来て
明るい雰囲気の町に変わっていました。
竹田久保町の交差点から南進車線。
南東の一角には大学の新しいキャンパスが広がっていました。
正門をくぐって大学の深草キャンパスを覗いてみましょう。
うーん、なんだか新しくて立派な建物が林立しているぞ。
右手(東側)には当時あった図書館の面影が・・・
学園祭ではこの辺に特設ステージが組まれて、
ワンダーフォーゲル部ではにわか作りの劇団「マタンキ座」公演をやったっけ。
この池も当時ありました。
夏合宿前のトレーニング打ち上げ時には、
トレーナー(部員の互選)を感謝をこめて(?)この池に皆で投げ入れました。
(3年時にはトレーナーだったので被害者に)
奥(北側)の方に進んでいきます。
深草キャンパスの北隣は警察学校です。
北東方面には京阪電車の深草駅からの連絡通路があったはず・・・
ありました!
駅方面とキャンパスを繋ぐ歩道橋は昔のままみたい。
ただしキャンパス内の入り口にスタバがあったのにはびっくり。
お洒落だなあ。
正門に戻って、道路南側に見覚えのある建物がありました。
クラブのBOX(部室)が入っている紫朋館(しほうかん)が残っているではないですか。
紫朋館西側の入り口も当時のままです。
ここから建物に入ってすぐ右側に事務室があります。
2回生の時はクラブ選出で事務当番(アナウンスなど)をやったことがあります。
ワンゲルのBOXは2階だったか3階だったか北側にありました。
今でもあるのだろうか?
いや何年か前にワンゲル自体活動していない(廃部?)
という話を耳にしたこともありました。
ちょっと入ってみて警備員の人に聞けばよかったなあ。
紫朋館裏手(南側)にこれまた懐かしい公園がありました。
砂川児童公園です。
当時ワンゲルの部活でここでテント設営の訓練をやったことがあります。
ポールを組んでペグ(杭)を打つ旧式の家形テントです。
一心不乱にテントを建てたり撤収したりしていたら、
近所のおばちゃんから、
「あんたたち、ここでキャンプしたらアカンよ」
と注意されたのを覚えています。
紫朋館から東に進みます。
当時この辺にはたしかラーメン「どさん娘」があったような・・・
師団街道の交差点。
当時住んでいた学生アパートがあったのはこのすぐ先なので、
この交差点の横断歩道はおそらく何百回も渡ったことでしょう。
その前に師団街道を南側に回り込んでみましょう。
深草西浦町です。
そうしたら・・・
・・・むむむー、この2階のシェードが張られた間取りには見覚えがあるぞ・・・
この階段はもしかして・・・!
1階の不動産屋から出てきた、気さくそうなご主人に尋ねてみました。
「あのー、だいぶ前に学生だったんですが、
ここの2階は喫茶店でしたよね?」
「そうそう喫茶店でしたよ。お店は3回変わったかな」
「ヒマール(という)」
「ヒマールは2回目のお店やった。一番長く営業してたんとちゃう。
宮本さん亡くならはったもんね」
ヒマールは当時ワンゲル部員が入り浸っていた喫茶店。
オーナーの宮本さんは現役をちょっと退いた感じの女性登山家でした。
姉御肌で気っ風が良く、僕らみたいな甘っちょろい学生にもビシバシと
意見して叱咤激励してくれました。
初夏、祇園祭の宵山になると、ワンゲルの部員を総勢引き連れて、
四条の東華菜館でビールを振舞ってくれたりもしました。
残念ながら四十路を過ぎて間もなく亡くなったと風の便りに聞いていました。
ヒマールの宮本さんのことはいつかまた書こうと思っています。
「ここ1階はたしか内装屋さんでしたよね?」
オホーツクのマサと一緒に内装のバイトをしたことがありました。
「そう、今でもこの建物の裏手に会社があるよ」
なんだか次々と昔のことが解ってきて嬉しくなりました。
さあいよいよ深草綿森町にあった学生アパート跡地を訪ねてみましょう。
プラタナスの街路樹の坂道を登ってすぐ右手です。
ここのプラタナスはある有名な歌に出てきます。
深草の住人だったフォークシンガーはしだのりひこが、
名曲「風」で、
「プラタナスの枯れ葉舞う 冬の道で
プラタナスの散る音に 振り返る」
と歌っています。
(と勝手に思い込んでいるのですが・・・)
この路地の向こうがそう。
当時、路地入り口には喫茶ケントンがありました。
インベーダーゲームが流行ったころです。
ここです。
ここに当時住んでいた学生アパート「大誓寮(たいせいりょう)」がありました。
大誓寮はトイレ、炊事場が共同ながら新築の快適な2階建てアパートでした。
1、2階とも6畳間で10部屋ずつあった寮の、
私たちは1期生になります。
ここで一緒になったメンバーにはなぜかお寺の息子が多く、
北海道のアベちゃんや広島のクマガイなどとは
いまでも親交が続いています。
なにより学校まで至近距離だったこともあり、
よく学校帰りの悪友たちのたまり場になりました。
その敷地に今はなんと4件の住宅が建っています。
北隣に接していたママチャップのおばさん宅は残っていました。
しかし洗濯干し場として開いていたわずかのスペースさえも
跡形もありません。
おばさん(お元気でしょうか?)の家は左右の
新築建築物に挟まれて窮屈そうです。
藤ノ森のダイエーに買い物に行くとき通った路地。
この路地の正面は南向きで日当たりが良く、
2階の部屋は大誓寮でも一番の人気部屋でした。
1期生ではマツミヤさんという先輩が入居していて
フロアに自前で畳を敷いていたのを羨ましく見ていました。
プラタナスの坂道に戻って東に進んでみましょう。
坂の頂上は橋になっていて、下を深草疎水が流れています。
よく考えたら顕著な天井川です。
橋の手前には立派なフィットネスジムが。
向かいには当時中華料理屋(ラーメン屋)がありました。
名前は満腹亭?
そのほか坂の途中には居酒屋の志ら川や、
1皿いくらの定食屋、○○食堂などが学生の胃袋を満たしてくれました。
京阪深草駅方面。
疎水に沿って走っているのが京阪電車です。
大阪淀屋橋から京都の繁華街三条を結んでいました。
(現在は七条手前から線路は地中化して叡山電鉄と接続する出町柳まで路線は伸びています)
橋(坂の頂上)から西(大学方面)を振り返る。
疎水沿いを南下します。
疎水の流れは意外と幅がありました。
この流れはどことどこを結んでいるのか?
琵琶湖疎水の流れのひとつ?
もしかして秀吉の伏見城築城の際の町割りにも関係している?
またまた懐かしいものを見つけました。
疎水沿いに建つアパート「サンソイル」です。
ここにはクラスメイトの九州福岡出身ササエがが住んでいました。
宮崎都城のキョウヤマもいたなあ。
彼らはその後、大誓寮に引っ越してきます。
疎水から東に下って南北に延びる直違橋(すじかいばし)通りに出ました。
ここは以前活気ある商店街でした。
またまた懐かしい物件を発見!
当時もあった居酒屋「近善(ちかぜん)」です。
代替わりはしたはずだろうけど、まだやっていたんだ。
一杯やりたいなあ。
この角のお菓子屋も昔からやっていた風情です。
しかし通りに以前のような賑わいはありませんでした。
お店が少なくなったのも時代の流れなのでしょう。
(逍遥はさらに続く)