40年前の1976年(昭和51年)、
私は酒田市内の学校に通う高校2年生でした。
その日10月29日は冬型の気圧配置だったのでしょう、
猛烈に強い北西の季節風が吹いていました。
自転車通学していた私は、余りの強風に恐れをなして
帰宅のルートを変更しました。
そんなことはめったにありません。
最上川を渡る際ふだん利用していた両羽橋は避けて、
下流の出羽大橋をなんとか渡り切り、
砂丘地の山際を風除けに使いながら帰宅したのです。
日もとっぷりと暮れた午後6時ごろだったでしょうか。
「酒田で家事だどー」という大声はいったい誰の声だったのか。
なんでも映画館グリーンハウスが燃えているらしい。
(えっ!グリーンハウスが・・・)
映画館グリーンハウス。
当時の酒田周辺に暮らす人だったら知らない人はいない、
老舗の洋画専門館です。
当時の私は毎週のようにグリーンハウスに通っていました。
グリーンハウスには大きなスクリーンの劇場のほかに、
シネサロンという座席わずか10席の、
試写室みたいなこじんまりとした名画座があったのです。
うれしいことにシネサロンは映画の料金が1本200円で、
高校生のこずかいでもなんとか捻出できました。
私は前日の28日にもシネサロンで映画を観ていました。
たしかチャールズ・ブロンソンの映画だった記憶があったのですが、
資料を見たら「狼よさらば」じゃなくて「軍用列車」だったのですね。
そんな愛着のあった映画館が今まさに燃えている・・・
驚きとともに心底がっかりしましたが、
よもやこれが翌朝まで燃え続ける記録的大火の序章だとは
この時点では夢にも思っていません。
私は村はずれまで、酒田の町の様子を見に行きました。
中1の弟も一緒だったかも知れません。
ところが村の外れに出るのも一苦労。
北風が強すぎて体が前に進まないのです。
遠目に見える見慣れた酒田の町の灯。
しかしこの日は明らかに様子が違っていました。
火事に違いない異様な赤い線が、
町の中心部に確認できました。
父親は晩飯をとる余裕もなく、
消防団員として出動していきました。
(なんでも風が強すぎて、火事は燃え広がっているらしい)
NHKテレビの7時の全国ニュースの最後に、
「酒田で火災発生、現在延焼中」のニュースが流れました。
そこでようやく私たちは、
これはただ事ではないと思わざるをえませんでした。
これは昨日の新聞に載っていた酒田大火の延焼の方向とエリア、
そして時間帯の記録です。
懸命の消火活動及ばず、火の手は次々と風下の東側に燃え広がり、
結果鎮火が翌朝の5時。
中央商店街を含む類焼家屋が1700戸を超える
戦後最大の都市火災になってしまったのでした。
その要因はなんといっても強い風。
後日父親に聞いた話ですが、消防車から放水する水を高笑うかのように
大きな火の玉がそのさらに上を飛んでは延焼が広がっていったそうです。
強風に煽られて高く飛び散る数多の炎の塊に、
消化活動がほとんど太刀打ちできなかった。
グリーンハウスから風下に隣接する高層の大沼デパートに
火が燃え移ったのが、延焼の範囲を拡大したかも知れません。
中町商店街が誇る近代的なアーケードの下を炎が走ったそうです。
アーケードがいわば横長の煙突のような役割で、
延焼の速度を助長したかも知れません。
テレビでは夜通し火災の様子を生で全国に伝えていました。
テロップに表示される焼け落ちてしまった馴染みある商店の名前の数々。
昨日まで、いえ今日さっきまであそこにあったものが今は焼けてない?
そんな現実はとうてい容易には受け入れられません。
そのころ現場は大混乱していたと思います。
迫り来る火の手を予測して、
観念して住み慣れた我が家を後にする思いはどんなだったでしょう。
しかしその行動が早め早めに行われた結果として、
幸い酒田大家では一般住民に犠牲者は出ませんでした。
火の手は1番町の通りを東に越えます。
消防団はじりじりと後退を余儀なくされました。
消防は新井田川で何としても延焼を食い止めようと
必死の防火活動を行いました。
ここで火災を阻止できなかったら、
炎は家屋のある限り燃え尽くしてしまうだろう。
川の土手に沿って一列に並んだ酒田近隣中から集まった消防ポンプ。
空に向けて一斉の放水が始まりました。
すなわち川に沿って横に長い水のカーテンを張ることで、
飛んでくる火の玉を撃退する作戦です。
その甲斐あって火の手は川を渡ることはありませんでした。
長い長い夜でした。
夜明けごろ、ようやく酒田の大火は鎮火したのです。
朝になりました。
学校に通う道すがらに見た酒田の町なか、
その一面の焼け野原の光景は忘れることができません。
焦げた匂い、
くすぶる煙。
どこまでもが焼けていました。
(酒田は町じゅうが焼けてしまったのだ・・・)
そんな強烈な喪失感でいっぱいでした。
新井田川の東岸にクラスメイトの家がありました。
生々しい現場の体験談を聞きました。
彼は家族と一緒に、風下から川を越えて飛んでくる火の玉を、
夜通し箒で叩き落していたそうです。
なんとも壮絶な一夜でした。
ほとんど寝ていないのに彼は登校してきました。
ほっとしたのか睡魔と闘い机に突っ伏していました。
私は激しく後悔しました。
(どうしてオレは手助けに行かなかったのか・・・)
その時心配しながらも私は布団でぬくぬくと寝ていたのですから。
「お前たちは帰っていいぞ」
担任の先生は、火事場に近い生徒たちを早々家に帰るように促しました。
次の日曜の朝、
私は大火の様子を記録にに残そうと、
カメラを持って焼け跡の町を歩きました。
その写真の一部を40年前にあった
故郷の記録として掲載したいと思います。
なお酒田大火の様子は、作家のねじめ正一さんが
小説「風の棲む町」で書き表してくれております。
作中出てくる本屋の息子も同じ高校の同級生でした。