(イントロダクション)おしんレース誕生まで
先ずはじめに今日ここにお集まりいただきました皆さまはじめ、
数多くの方々に支えられて、おしんレースが30年も継続して
開催できましたことに感謝いたします。
そしてその感謝の気持ちを持ちつつ、
大会30回の歩みを振り返ってみたいと思います。
その前にトライアスロンの歴史を簡単にひもといてみましょう。
今から42年前、1974年にアメリカのサンディエゴで、
世界で始めてトライアスロンのレースが開催された記録があります。(写真)
そしてなんといってもトライアスロンの名を一躍有名にしたのが、
その4年後の1978年に誕生しましたハワイのアイアンマンレースです。(写真)
いわゆる「鉄人レース」という名前の由来になりました。
そのレースの発端は、アメリカ海兵隊員が酒の席で語った
「マラソンと遠泳とサイクルロードレースのうちどれがもっとも過酷か?」
という話から始まったと言われています。
第1回目の大会には15人が出場。
水泳3.9km、自転車180km、そして42.195kmのマラソン。
そのときは「狂気のチャレンジ」といわれた
トライアスロンの歴史が始まった瞬間でした。
さらに4年後の1981年、
ハワイアイアンマンに8人の日本人が初めて挑戦しました。

日本人初のアイアンマンの誕生です。
そしてその先人たちにアドバイスを求めながら
温泉地の町おこしとして鳥取県で開催されたのが、
国内初のトライアスロン大会、皆生トライアスロンでした。
おしんレースが始まる5年前のことです。(写真)

このとき初代チャンピオンに輝いたのがフォークシンガーの高石ともやさんでした。

高石さんは当時トライアスロンのパイオニアの1人として活躍していました。
そしてこの頃高石ともやさんに憧れてフォークソングを歌い、
ホノルルマラソンを完走し、トライアスロンを始めた若者が酒田にいました。
本日ももちろん出席していただいております。
株式会社カスタムエージェント社長の今井和彦さんです。(写真)
当時、酒田市に提言する市民の会「酒田みらい50人協議会」
のメンバーであった今井さんは、酒田の活性化のために、
全く新しいスポーツ、トライアスロンの開催を提案しました。
その熱意と努力がみのり30年前の1986年
「酒田トライアスロン第1回おしんレース全国大会」
が開催されることになりました。(写真)
ちなみにこの前の年には、国内では宮古島大会やびわ湖アイアンマンなど、
次々と新しい大会が誕生しました。
山形県では9月に蒲生会長のお膝元長井で
県内では初めてのトライアスロン大会が誕生しています。(写真)
そして第1回おしんレースのわずか1週間前には、
県内では2つめの大会として温海町で
トライアスロン大会が産声を上げました。(写真)
長井大会、温海大会、そして酒田おしんレースと
30年以上も継続して開催されているトライアスロン大会が
3つもある都道府県は、おそらく山形県以外には例をみません。
あらためて各大会の関係各位の、
長年に渡るご努力に敬意を表するものでございます。
1986年(昭和61年)第1回大会
今井和彦さんと彼の熱意に動かされた十数人のスタッフが、
およそ3ヶ月間奔走して、なんとか開催にこぎつけた第1回大会でした。
スタッフの中でも初代審判長その後競技委員長として
活躍されたのが当時酒田市議会議員の斎藤幸彦さんです。
セレモニーでの斎藤さんのたいへん歯切れのよい進行ぶりには、
初心者の私はとても安心感を持ったものです。
斎藤様どうもありがとうございました。
第1回大会には、全国から133名の参加がありました。
まだまだ数えるほどしか大会がなかった時期です。
参加選手のおよそ6割がトライアスロンが初体験のチャレンジャーでした。
8月10日大会当日、ご覧のように絶好の海水浴日和に恵まれました。
コースは浜中海水浴場でのスイム1.7km、
田園地帯の農道を走りぬけるバイクが50km、
そして砂丘地の松林を駆けるランニングが11.3kmでした。
このコースは第5回大会までの基本コースとなりました。
ちなみにこのおしんレースという名前。
これは言うまでもなく皆さまご存知のとおり、
世界的に大ヒットしたNHKの朝の連続ドラマ
「おしん」にちなんでおります。
そのドラマの舞台であった酒田で、
究極の耐久レースともいえるトライアスロンと
「おしん」=「耐える」というイメージがマッチしました。
ハワイの完走者はアイアンマン、宮古島はストロングマン、
そして酒田おしんレースの完走者は遊び心をもって
「おしんマン」ということで称えられたのです。
トライアスロンがまだまだ知られていなかったこの時代、
レースを目撃した人たちはそれぞれ海では遠泳大会、
農道では自転車の大会、そして土門拳記念館周辺では
マラソン大会がたまたま同じ日に開催されていたと思ったそうです。
気温30度を越える炎天下を選手は力走。
ゴールでは「OSHINMAN」のロゴが入った完走Tシャツと一緒に冷えた缶ビール、
そして地元酒田宅の店の銘菓「辛抱」が選手に手渡されました。
こうして酒田の地に131人のおしんマンが誕生したのです。
優勝はバイクからトップにたった埼玉県の富田典行選手。
優勝者には、スポンサーから協賛いただきましたお米一俵や
オートバイ1台など目玉賞品がたくさん用意されていました。
女子の完走は4名。優勝はお隣秋田県西目出身の遠藤栄子選手でした。
当時の国内女子最強選手です。
遠藤選手は「ハワイよりうれしい!おしんが一番!手づくりの味がたまらない」
とコメントしています。
選手も大会側も初心者で手づくり感あふれる第1回大会は、
このように大好評で131人のおしんマンの笑顔とともに大成功に終わったのでした。
1987年(昭和62年)第2回大会
スタッフが一新されました第2回大会は、
酒田21会の八柳宏栄会長はじめ徳田国明実行委員長のもと
準備が進められ8月9日に開催されました。
しかしご覧のようにあいにくの高波でスイムは中止。
変わりに砂浜を500m走るランニングに変更されました。
スイム中止は国内ではじめての判断になりました。
おしんレース第2回大会は国内のトライアスロン大会では初めて、
スイムが中止になった大会として記録に残っています。
この判断が後日たいへん評価されました。
日本トライアスロン協会の当時副会長であった永田峻さんが
「前例として一つの判断の基準になる。日本のトライアスロンシーンのひとつのエポックだった。よく決断した」とおっしゃっています。
大会は富田選手と遠藤選手が男女とも連覇を果たしました。
1988年(昭和63年)第三回大会
迎えた第3回大会。
大会プログラムを見ると、
大会副会長にタレントの由美かおるさんのお名前があります。(写真)
残念ながら大会にはお越しいただけませんでしたが、
次のような祝辞を寄せてくださっています。
「美しい酒田、人情豊かな酒田、私は酒田短期大学の講師として酒田を訪れ、
酒田の皆さんに接し、ますます酒田が大好きになりました。
私にとって酒田は心の故郷です」
由美かおるさんありがとうございました。
今からでも間に合います。ぜひ今年は酒田にいらっしゃってください。
この年は海のコンディションが良く2年ぶりにスイムから3種目行われました。
トライアスロンをとりまく機材やグッズの開発も進みました。
選手がオーダーメイドのウエットスーツを着用したり、
空気抵抗を考えたDHバーハンドルを装着した自転車が
数多く登場したのもこの年からです。
またトライアスロン人気から定員を上回る多数の応募がありました。
トライアスロンをやってみたいのだけれど、
なかなか出場通知がもらえない。
そんな悩みをもった選手がいた時期でもありました。
大会は富田選手が3連覇。新たなおしんマンも続々と誕生しました。
しかしつらい出来事も報告しなければなりません。
地元の選手が1人がゴール手前で倒れ救急搬送されましたが、
対処及ばず心不全で亡くなりました。
あまりにも残念で悲しい幕切れでした。
1989年(平成元年) 第4回大会
前の年に発生した事故のため、
開催が危ぶまれました第4回大会でしたが、
徳田実行委員長はじめ酒田21会の方々の、
大会を続けたいという強い熱意と努力のおかげで、
おしんレースは途切れることなく今日まで続いております。
あらためて心より感謝申し上げます。
安全対策がよりいっそう強化されたこの大会。
しかしこの年もあいにくスイムは中止。
海はべた凪でしたが、ダシ風により潮の流れが沖出し状態なことから、
選手の安全確保が難しいという判断でした。
砂浜のミニランから始まったこのレース。
バイクからトップに立った遊佐町の今野正一選手が
地元選手として初優勝を飾りました。
1990年(平成2年) 第5回大会
前年の優勝者、今野選手も実行委員に加わった第5回大会。
スタッフには地元の競技経験者も大勢加わりました。
しかし海はまたしても大荒れ。
残念ながら2年連続してスイムは中止になってしまいました。
1991年(平成3年) 第6回大会
翌第6回大会。実質的に庄内トライアスロン協会の主管となり、
おしんレースが生まれ変わりました。

名前が変わりました。
ゆくゆくは日本を代表する大会に成長して欲しいという願いをこめて、
「日本海トライアスロンおしんレース全国大会」になりました。
会場が変わりました。
それまで5回開催して結果的に2回しかスイムが出来なかった
浜中海水浴場から、会場を酒田北港に移しました。
そして競技距離は全国的にもスタンダードだった、
スイム1.5km、バイク40km、ラン10kmの
トータル51.5kmの現在でいうオリンピックディスタンスに変更になりました。

そしてこの大会に限ってですが、メインスポンサーとして
結婚情報会社OMMGの協賛が決まりました。
トライアスロンが人と人とのふれあいがあるスポーツであるということで、
おしんレースを含めた国内11の大会がOMMGトライアスロンシリーズとして選定されました。
前年の3倍近い385人の選手が参加した第6回大会。
当日の6月30日はあいにくの梅雨空で時折強い雨が降りました。
そのためスイムは距離を500m短縮されました。
全国から強豪選手が集まり、優勝争いは熾烈を極めました。
優勝したのは秋田の新鋭、新号和政選手。
東海大学時代は箱根を4回走った実力ランナーです。
最後のラン10kmのタイムは32分01秒。
おそらく大会史上最速です。
ちなみにこの新号選手。この年の秋には、
バイアスロン大会のシリーズ最終戦で優勝して全国チャンピオンになりました。
そして副賞としてなんとBMWを1台獲得しています。
OMMGの協賛といい、BMWを提供したスポンサーといい、
世はまさにバブルの時代だったと思います。
1992年(平成4年) 第7回大会
内容を一新して生まれ変わったおしんレース。
人気はさらに高まって第7回大会の参加者は450名まで増加しました。
そしてこの大会はYBC山形放送でテレビ中継されて、
ますます市民の関心を引きました。
海外注目選手が招待されました。
若干20歳、ニュージーランドのキャメロン・ブラウン。
チームエプソンの選手としてこの前の年から、
日本国内を転戦して活躍していました。
レースはキャメロン・ブラウンがスイムからトップを独走。
トップ選手の群を抜いたスピードはたいへん見ごたえのあるものでした。
キャメロン・ブラウン選手には面白いエピソードがあります。
(ボランティアフェスティバルの写真)
おしんレースがよほど楽しかったのでしょう。
レースの後のボランティアフェスティバルで日本酒を飲みすぎて、
翌日はひどい二日酔。やっとの思いで飛行機に乗り込んだのでした。

しかしこの後このキャメロンが世界的に大活躍します。
ハワイアイアンマンでは準優勝が2回。
そして母国のニュージーランドアイアンマンでは
前人未到の11連覇を成し遂げて、
40歳を過ぎた今、レジェンドと呼ばれています。
そんなトライアスロン界の英雄の、若き日の思い出が日本、
とりわけおしんレースの酒田にあるのではないでしょうか。
ぜひまたおしんレースを駆けるキャメロンの勇姿を見てみたいものです。
1993年(平成5年) 第8回大会
キャメロン・ブラウンが再びやってきた第8回大会。
大会ポスターもキャメロンをモチーフにデザインされました。(写真)
一説には昨年の好印象から、キャメロンがこの年
日本で一番楽しみにしていた大会が、
酒田のおしんレースだったといわれています。
さらに招待選手として国内のトッププロの1人、
チームケンズのリーダー飯島健二郎選手が参戦。
大会を大いに盛り上げてくださいました。(写真)
この大会をきっかけに、チームケンズからは毎年
おしんレースに選手を派遣していただいております。
そのなかには、後半のスライドにも登場しますが、
今年のリオデジャネイロ・オリンピックの
代表有力候補であります佐藤優香選手もいらっしゃいます。

彼女は高校生のときからおしんレースには何回も出場しています。
酒田に所縁のある佐藤優香選手、
今後のさらなる活躍を期待して応援したいものです。
レースはキャメロン選手が連覇しましたが、
夜のお酒はかなり控えめにしていました。
1994年(平成6年) 第9回大会
第9回大会では男子でチームケンズ所属の選手が表彰台を独占しました。
(1位遠藤亮造、2位西川公人、3位小林幸人)
そして会場ではタレントの八波一起さんがMCとして
大いに盛り上げてくださいました。(写真)
酒田まつりで神輿を担ぐ八波会と、
名前が同じというご縁で交流があった八波一起さん。
八波さんは第6回大会から、何年も続けて応援にいらしてくださいました。
464人が参加したこの大会。
「スイムが泳ぎやすいし、バイク、ランもコースが広くて走りやすい」
とおしんレースはすっかり全国でも人気の大会に成長しました。
1995年(平成7年) 第10回大会
第10回大会からメイン会場が現在の北港緑地公園になりました。
べにばな国体のラグビー会場として造成されたグラウンドでしたが、
運営サイドからいえば、トイレが付いた管理棟があり、
電気、水道が使えて、駐車スペースを広く確保できる
緑地公園はたいへんありがたいものでした。
しかし選手にとっては、スイムを上がってから緑地のバイクラックまでの、
およそ800mのミニランが新たなおしんの名物になりました。
そしてこのころからスイム会場のスタッフとして、
マリーンレイダースの方々にご協力いただくようになりました。
海の上でたいへん機動力のあるマリーンジェットの存在は、
スイムの安全確保の面でたいへん心強いものになりました。
どうぞ今後ともご協力よろしくお願いしたいと思います。
第10回記念大会、
優勝はチームエプソンの若手、前年に学生選手権を制した鈴木隼人選手。
女子は星圭子選手が2連覇しました。
また県内の実力選手もぞくぞくと入賞しています。
東根の名取芳春選手、上山の佐藤恭久選手、
鶴岡の白幡美知夫選手、そして遊佐町出身われらが荒木茂選手たちが
しのぎを削るレース振りもたいへん見ごたえがありました。(記事写真)
ということでおしんレースの歴史後半の部は、
荒木茂さんにバトンタッチしたいと思います。
どうもありがとうございました。