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農村ライフ 日々是好日

山形・庄内平野でお米を作る太ももの会広報部長の農村日記

高橋昌彦のトライアスロンウエア

2016-11-28 19:51:44 | トライアスロン
どうも目がしょぼしょぼすると思ったら、
昨夜のトライアスロン協会の納会(忘年会)のダメージでした。
そんなに量を飲んだわけではありませんが、
年末のお酒はほどほどにしましょうね。


さて昨日のクイーンズ駅伝(実業団女子駅伝)。
創部3年目の日本郵政グループが初優勝を成し遂げました。
前半型のオーダーかなと思っていましたが、
5区で好走してトップに立った鍋島選手がいい働きをしましたね。

若き駅伝チームを率いた優勝監督が高橋昌彦さん。
かつて積水化学やリクルートAC、UFJ銀行などで
コーチ、監督として高橋尚子、有森裕子、大南姉妹など
ビッグネームを育てた指導暦があります。

でも彼がかつてトライアスロンやデュアスロンの
トップアスリートとして活躍していたことを知る人は
もう多くはないのでしょうか。

私がトライアスロンに熱中していた20数年前、
長井トライアスロンでダントツのタイムで優勝していた
若者が高橋昌彦選手でした。

当時は新潟県の神林村で中学の教員をしていました。
日本体育大学時代にどんな競技に取り組んでいたのかは知りませんが、
陸上長距離の素養があるのは間違いないと思います。

新しいスポーツ、トライアスロンの素質を開花させていった高橋選手。
全国組織のクラブチーム「チーム・サラナ」に所属しながら
国内のメジャー大会にチャレンジしていきます。

1989年に始まったロングレース、佐渡国際トライアスロン
Aタイプでは城本、磯野選手に続いて3位に入っています。

また翌年始まった国内のラン・バイク・ランのデュアスロン
(当時はバイアスロンと呼んでいた)のシリーズ。
その最終戦カナヤ・チャンピオンシップで優勝。
スポンサーから賞品としてなんとBMW一台を獲得しています。

当初、トライアスリートが冬場に練習の一環として行うような、
トライアロンの亜流のイメージだったデュアスロン。
しかしアメリカではまったく新しい別のスポーツ
としての人気が高まっていました。

やがて高橋選手は本格的にデュアスロンに軸足を移していきます。
単身渡米して本場のデュアスロン大会を転戦。
その活躍ぶりは当時購読していたトライアスロンジャパン誌に
よく掲載されていました。

高橋昌彦選手は日本におけるデュアスロンのパイオニアになりました。
その頃(株)ピープルの契約社員だった関係で、
会社が運営するスポーツクラブ「XAX」のロゴが胸に入った
ランニングウエアでレースに出ていました。
(当時グレン・マンガム選手も着ていました)


そのとき高橋選手が身に着けていたウエアが、
なぜか私の手元にあります。

それはなぜか?
94年頃にトライアスロンジャパン誌に掲載された企画記事、
「トライアスロン・カルトクイズ選手権」で堂々(?)2位
になった賞品として戴いたのが、
高橋昌彦選手のサイン入りのウエアなのでした。



高橋選手とは一度面識があります。
第3回目のカナヤカップの前夜、ランナーズが主催した
前夜祭で一緒に写真を撮らせていただきました。
その時は長井大会などの話をした記憶がありますが、
当然彼は覚えていないでしょうね。

なにしろこの年の話題は、賞品のBMW効果で、
アメリカのデュアスロンキング、ケン・スーザが参戦したのですから。

プロを目指してアメリカで武者修行をいていた頃、
高地トレーニングのメッカ、コロラドのボウルダーで働いていて
そこで出会ったのが当時高橋尚子選手を指導していた小出監督。

監督との出会いが、後に陸上の指導者としての道を
歩むようになるきっかけとなったそうです。

とにかくトライアスロンをしていた若き高橋昌彦さんを
知る者としては、彼の現在の活躍は喜ばしい限りです。

日本郵政グループ駅伝部、今後ますますの飛躍を期待していますよ。


新しいおしんレース

2016-10-17 21:54:20 | トライアスロン
今晩行われたトライアスロンおしんレース実行委員会では、
おしんレースをめぐる情勢が大きく変わりつつあるという報告が
富樫実行委員長からありました。

まず4年後の東京オリンピック。
酒田市ではトライアスロン競技のホストタウンとして名乗りを上げて、
ニュージーランドの選手団を招く準備を進めています。

これにはニュージーランドにたいへん造詣が深い
公益大の協力が大きいとのことです。

ニュージーランドのトライアスリートといえば、
レジェンドと呼ばれるキャメロン・ブラウン。
彼は二十歳前後の若き日に、おしんレースに3回出場、
優勝しています。

またハミッシュ・カーターという世界チャンピオンも
輩出しているのがニュージーランドです。

ぜひ実現して欲しい。

そして市を挙げて海外のトライアスロンチームを
招聘するという流れを受けて、
31年続いたおしんレースに酒田市が主催者として
参画する見込みになりました。

これはとても画期的なことです。
いまや体協にも加盟していますトライアスロン協会ですが、
もともとは民間の愛好者が手弁当で継続してきた大会がおしんレース。
その運営を行政が引き継いでくれるわけですから。

つまり大きな負担となっていた大会運営業務、
とりわけ事務局の作業を行政が肩代わりしてくれるなら、
私たち協会は競技や安全対策に専念できるわけです。
その分、市にはどんどん提言していかなければなりません。

そして市の協力を得て、
来年度から競技コースが変わる見通しになりました。
光ヶ丘の陸上競技場が総合フィニッシュの会場になります。

大浜海岸でスイム、
バイクは従来どおりの北港湾岸道路と
新たに光ヶ丘の陸上競技場を含めたコースの周回。
さらにランは競技場周辺の周回コースとなる公算です。

酒田北港というクローズされたエリアから、
市街地に近づくことでより市民の皆さまに
トライアスロン競技を身近に感じていただけるチャンスと考えます。

さらにいずれはつや姫マラソンのように街の中心部を、
選手のバイクがそしてランが駆け抜けるという構図が
妄想ではなくなるかも知れません。

まずはこれから酒田市との協議が始まります。
そしてその結果折り合いが付いたなら、
来年から大会の運営体制が大きく変わります。

なによりも大会がまたしばらくは継続できる、
先の見通しが明るくなったのはなによりです。

32年目のおしんレース、
また一歩前進です。

会場設営前日

2016-06-11 21:23:31 | トライアスロン

正午よりスイム競技説明&講習会。

「3年ぶりにスイムができますねー」
海のコンディションの良さにスタッフの
口元もほころびます。


第一トランジション(スイムからバイク)エリアに置く
選手用トランジションケース(要するに着替え入れ箱)。
選手のナンバーシールを貼ります。


その作業風景。


スポーツタイマー(大時計)の管理も私の仕事。
電池を入れてスイッチオン。
動作を確認します。

スポーツタイマーはスイム会場と、
ゴールゲートで使用します。


浜では夕方まで試泳する選手の姿が見えました。
天気がいいので浜で遊ぶ人、
キスやスズキを釣る人で賑わっていました。


明日一日穏やかでいてください。
スイム会場は決戦を待つのみ。


スポーツアシストのブースには、
五輪4大会連続出場の田山選手のユニフォームが。


そして事務局お手製の大きなてるてる坊主。

「明日 天気に なーあれ!」

大会前夜の緊張感は、20数年スタッフをやっていても
薄れることはありません。

「明日 いい大会に なーあれ!!!」

会場設営

2016-06-10 22:19:53 | トライアスロン

天気回復、陽射しが強まりました。

おしんレースの会場準備です。

快晴。
海はベタ凪。

今日が大会当日だったらいいのになあ。
もったいないほどいい天気です。

海のコースロープも張り終わっています。
陸上ではスイムからバイクへのトランジットエリアを
中心に設営作業を行いました。

週末の天気が気にかかる

2016-06-09 19:15:52 | トライアスロン
週末が近づいてくると気になるのが日曜日のお天気です。

12日の日曜はトライアスロンおしんレース。

木曜の今日雨降ったから、明日から回復。
土曜日は快晴で真夏日の予報が。
どうやら日曜日まで天気が持ちそうです。

今年はなんとしても海でのスイムを行いたい。
明日から本格的に会場準備に取り掛かります。

おしんレースは12日

2016-06-01 21:40:19 | トライアスロン
6月になりました。
季節の区分は夏なのですが、風が強く
時折時雨れる肌寒い天気になりました。

北海道では雪の予報も。
この寒い気温は明日まで続きます。
どうぞ風邪など引かぬようご用心ください。

第31回みなと酒田トライスロンおしんレースの実行委員会がありました。
今年の開催は12日の日曜日。
つまりあと10日しかありません。

昨年一昨年とよもやの2年続けてスイム中止。
なんとしても今年はこの事態は避けたい。

したがってスイム会場の変更と、
開催日程の前倒しを行いました。
どうか当日は晴れますように。

今回はU23の選手権という特別レースは行わず、
レギュラーとスプリント、
そして前日のアクアスロンの3本立てになります。

ただし今年からトライアスロンが正式種目になる
岩手国体の山形県選手選考会を兼ねます。

以下今大会の注意点、変更点など。
・医療技術代表、緊急対策委員長の新設
・前日の現場でのスイム競技説明会と試泳会の開催
・ペナルティBOXを使った罰則の適用
・前夜祭でのアルコール提供の中止
・審判員のドレスコードの徹底
・ボランティアフェスティバルの当日開催(何年ぶり?)

さあ今週末から運搬作業など準備が粛々と進められます。
はりきって臨みましょう!

第31回みなと酒田トライスロンおしんレース

看板設置

2016-05-22 23:17:04 | トライアスロン
田植が済んで久しぶりにゆったりと過ごした休日でした。
午前中はたまった事務をこなして。


午後はトライアスロンの看板設置作業に
トラック持参で参加しました。

第31回おしんレースは6月12日に開催されます。
看板は大会の予告や交通規制時間帯をお知らせするものです。

陽射しは強かったものの、海風はけっこう涼しく感じました。
大浜海岸で浜遊びしている人たちも多かったですね。

夜は早めに休みたかったのですが、
サッカー部のホームページに載せる写真の選別と掲載に手間取りました。
フジイさん、たくさんの写真の提供ありがとうございました。

IWAKIスノートライアスロン

2016-03-09 19:03:43 | トライアスロン
「わー乗ってみたい、面白そう」とアイちゃん。
テレビで雪の上をすいすいと走る自転車を見ました。

マウンテンバイクのようですが、
ファットバイクというのだそうです。
幅が10cmもある太いタイヤが特徴です。

私も乗ってみたい。
そういえば昔、雪の上をMTBで走る
トライアスロンがあったことを思い出しましたよ。


第1回IWAKIスノートライアスロン大会。
青森県弘前市岩木山の麓、百沢スキー場で開催されました。
日付は3月8日、ちょうど今頃でしたね。
バルセロナ五輪の年だから、もう24年前のことです。

雪上トライアスロンは長井市や小海町でも開催されていましたが、
それらは種目に必ずクロスカントリースキーが含まれていました。
スキーは当然経験者に敵うはずがありません。

ところがこの岩木大会には冬の大会なのに、
スキーの種目がありませんでした。

要項をみると、
1種目めがスノーラッセル2km、
 つまり深雪こぎです。
2種目めがバイク4km、
3種目めがラン6km。
とあります。

これは自分にも出来るかもしれない・・・

しかも参加料が3000円と安いのに、
優勝賞品がなんと「ハワイ旅行」!
という破格の賞品に目がくらみ(?)
すぐさま出場を申し込みました。

弘前は同じ東北でも酒田から300kmほど離れています。
雪の国道7号線を北上するのに、
所要時間を片道5時間と見て
当日は早朝3時ごろ出発しました。
秋田あたりで夜が明けた記憶があります。

初めての青森弘前。
りんごロードをぬけて岩木山に到着しました。
幸い天気が良くて日が差していたと思います。

参加者は100名ほどでそれほど多くなかった印象が。
ただしその中に知っている顔がいました。

新号和政、秋田を代表するランナーでトライアスリート。
第6回おしんレース優勝者。
そしてバイアスロンのチャンピオンシップ
カナヤカップで日本チャンピオンになり、
BMWを獲得したのは前年の秋だったでしょうか。

そんな強豪も参戦していました。
ハワイ旅行がかかっ大会だから当然ですよね。

(新号か・・・強敵だな・・・)
とにかくベストを尽くそうとスタートラインにつきました。
そうです、この日私はマジで優勝を狙っていたのです。

第1種目ラッセル。
学生時代、雪山の深い新雪の斜面を先頭きって
テンポよく登り、ラッセルマンと異名を取った身。
ラッセルに苦手意識はありません。

と思ったら、やっぱり春近いスキー場。
期待した(?)深い雪がないじゃないですか。

コースは2基ほど上部のリフトの柱を回り込んで戻ってくるもの。
しかし雪が浅くて足首ほどしか埋まりません。

なんとか10人ほどのトップグループで折り返しまで行きましたが、
新号選手が余裕をもって折り返し、
下りでスピードを上げたのがわかります。

「くそっ!」
必死で追いかけましたが集団の後ろの方でラッセルもどきが終了。

第2種目は雪上バイク。
さあ得意のバイクで上位進出だー、
と勇んでMTBにまたがりました。

コースはスキー場の中の特設周回コースで、上りと下りが連続します。
しかし気温の上昇とともに、雪の表面が解けて柔らかくなっていました。
いわゆるやっかいな「ざくざく雪」です。

したがって上りではサドルに跨ることができすに、
ずっと自転車を押しっぱなし。
そして走るものものだから心拍数が上がりっぱなし。

そして下りではざくざく雪にハンドルを取られ、
転倒しないようにコントロールするのが精一杯。
スピードに乗れる局面なんかありゃあしません。

周回ごとに地元弘前の看護士さんで、
おしんレースの戦友マセさんが応援してくれるのが
なにより嬉しかった。
マセさんお元気かなあ。

そんなこんなの苦しい我慢のバイクがようやく終わり、
順位はほとんど変わらず。

第三種目はスキー場下部の林道のランニング。
中間の3キロ地点の折り返しまでは下りです。

「ゼーゼーハーハー」
口から心臓が飛び出るような激しい息づかいです。

バイクでMAX上がりっぱなしの心拍数が
落ちずに苦しみ抜きました。

ランでは間隔が空いて前の走者が見えません。
これまたひたすら我慢の走りになりました。

しかも折り返したら帰りは当然上り勾配。
残り1kmくらいで1人の若者が颯爽と抜いていきました。

昨年開催された第1回学生選手権で、
ミスターなんとかに選ばれた矢島選手です。

もう付いていく気力はありません。

精根尽き果ててフィニッシュ。
順位はたしか8位だったような・・・

「ナイスナイス、素質あるよ」とマセさん。
ありがとうマセさん。でも優勝を狙っていたんですよー、
とは言えず、はにかんで青空を見上げていました。

優勝はやはり本命新号選手。
ちなみに賞品のハワイ旅行は「旅行には行けない」
ということで代わりに賞金10万円を獲得したようでした。


今となっては懐かしい思い出の雪上運動会。
このときは第1回大会とありますが、
その後何年開催されていたのでしょうかね。

こんど青森をゆっくり旅してみたいものです。
心拍数をあまり上げないで。

おしんレースの歴史(プレゼン前半)

2016-02-18 20:32:37 | トライアスロン
(イントロダクション)おしんレース誕生まで

先ずはじめに今日ここにお集まりいただきました皆さまはじめ、
数多くの方々に支えられて、おしんレースが30年も継続して
開催できましたことに感謝いたします。
そしてその感謝の気持ちを持ちつつ、
大会30回の歩みを振り返ってみたいと思います。

 その前にトライアスロンの歴史を簡単にひもといてみましょう。
今から42年前、1974年にアメリカのサンディエゴで、
世界で始めてトライアスロンのレースが開催された記録があります。(写真)

そしてなんといってもトライアスロンの名を一躍有名にしたのが、
その4年後の1978年に誕生しましたハワイのアイアンマンレースです。(写真)
いわゆる「鉄人レース」という名前の由来になりました。
そのレースの発端は、アメリカ海兵隊員が酒の席で語った
「マラソンと遠泳とサイクルロードレースのうちどれがもっとも過酷か?」
という話から始まったと言われています。
第1回目の大会には15人が出場。
水泳3.9km、自転車180km、そして42.195kmのマラソン。
そのときは「狂気のチャレンジ」といわれた
トライアスロンの歴史が始まった瞬間でした。

 さらに4年後の1981年、
ハワイアイアンマンに8人の日本人が初めて挑戦しました。

日本人初のアイアンマンの誕生です。
そしてその先人たちにアドバイスを求めながら
温泉地の町おこしとして鳥取県で開催されたのが、
国内初のトライアスロン大会、皆生トライアスロンでした。
おしんレースが始まる5年前のことです。(写真)


 このとき初代チャンピオンに輝いたのがフォークシンガーの高石ともやさんでした。

高石さんは当時トライアスロンのパイオニアの1人として活躍していました。

 そしてこの頃高石ともやさんに憧れてフォークソングを歌い、
ホノルルマラソンを完走し、トライアスロンを始めた若者が酒田にいました。 

 本日ももちろん出席していただいております。
株式会社カスタムエージェント社長の今井和彦さんです。(写真)

 当時、酒田市に提言する市民の会「酒田みらい50人協議会」
のメンバーであった今井さんは、酒田の活性化のために、
全く新しいスポーツ、トライアスロンの開催を提案しました。
その熱意と努力がみのり30年前の1986年
「酒田トライアスロン第1回おしんレース全国大会」
が開催されることになりました。(写真)

 ちなみにこの前の年には、国内では宮古島大会やびわ湖アイアンマンなど、
次々と新しい大会が誕生しました。
山形県では9月に蒲生会長のお膝元長井で
県内では初めてのトライアスロン大会が誕生しています。(写真)

 そして第1回おしんレースのわずか1週間前には、
県内では2つめの大会として温海町で
トライアスロン大会が産声を上げました。(写真)
長井大会、温海大会、そして酒田おしんレースと
30年以上も継続して開催されているトライアスロン大会が
3つもある都道府県は、おそらく山形県以外には例をみません。

あらためて各大会の関係各位の、
長年に渡るご努力に敬意を表するものでございます。


1986年(昭和61年)第1回大会

 今井和彦さんと彼の熱意に動かされた十数人のスタッフが、
およそ3ヶ月間奔走して、なんとか開催にこぎつけた第1回大会でした。
スタッフの中でも初代審判長その後競技委員長として
活躍されたのが当時酒田市議会議員の斎藤幸彦さんです。
セレモニーでの斎藤さんのたいへん歯切れのよい進行ぶりには、
初心者の私はとても安心感を持ったものです。
斎藤様どうもありがとうございました。
 
 第1回大会には、全国から133名の参加がありました。
まだまだ数えるほどしか大会がなかった時期です。
参加選手のおよそ6割がトライアスロンが初体験のチャレンジャーでした。

8月10日大会当日、ご覧のように絶好の海水浴日和に恵まれました。 
コースは浜中海水浴場でのスイム1.7km、
田園地帯の農道を走りぬけるバイクが50km、
そして砂丘地の松林を駆けるランニングが11.3kmでした。
このコースは第5回大会までの基本コースとなりました。

 ちなみにこのおしんレースという名前。
これは言うまでもなく皆さまご存知のとおり、
世界的に大ヒットしたNHKの朝の連続ドラマ
「おしん」にちなんでおります。
そのドラマの舞台であった酒田で、
究極の耐久レースともいえるトライアスロンと
「おしん」=「耐える」というイメージがマッチしました。

 ハワイの完走者はアイアンマン、宮古島はストロングマン、
そして酒田おしんレースの完走者は遊び心をもって
「おしんマン」ということで称えられたのです。

 トライアスロンがまだまだ知られていなかったこの時代、
レースを目撃した人たちはそれぞれ海では遠泳大会、
農道では自転車の大会、そして土門拳記念館周辺では
マラソン大会がたまたま同じ日に開催されていたと思ったそうです。

気温30度を越える炎天下を選手は力走。
ゴールでは「OSHINMAN」のロゴが入った完走Tシャツと一緒に冷えた缶ビール、
そして地元酒田宅の店の銘菓「辛抱」が選手に手渡されました。
こうして酒田の地に131人のおしんマンが誕生したのです。

 優勝はバイクからトップにたった埼玉県の富田典行選手。
優勝者には、スポンサーから協賛いただきましたお米一俵や
オートバイ1台など目玉賞品がたくさん用意されていました。

女子の完走は4名。優勝はお隣秋田県西目出身の遠藤栄子選手でした。
当時の国内女子最強選手です。
遠藤選手は「ハワイよりうれしい!おしんが一番!手づくりの味がたまらない」
とコメントしています。

 選手も大会側も初心者で手づくり感あふれる第1回大会は、
このように大好評で131人のおしんマンの笑顔とともに大成功に終わったのでした。



1987年(昭和62年)第2回大会

 スタッフが一新されました第2回大会は、
酒田21会の八柳宏栄会長はじめ徳田国明実行委員長のもと
準備が進められ8月9日に開催されました。

しかしご覧のようにあいにくの高波でスイムは中止。
変わりに砂浜を500m走るランニングに変更されました。

 スイム中止は国内ではじめての判断になりました。
おしんレース第2回大会は国内のトライアスロン大会では初めて、
スイムが中止になった大会として記録に残っています。

 この判断が後日たいへん評価されました。
日本トライアスロン協会の当時副会長であった永田峻さんが
「前例として一つの判断の基準になる。日本のトライアスロンシーンのひとつのエポックだった。よく決断した」とおっしゃっています。

 大会は富田選手と遠藤選手が男女とも連覇を果たしました。



1988年(昭和63年)第三回大会

 迎えた第3回大会。
 大会プログラムを見ると、
大会副会長にタレントの由美かおるさんのお名前があります。(写真)
残念ながら大会にはお越しいただけませんでしたが、
次のような祝辞を寄せてくださっています。

「美しい酒田、人情豊かな酒田、私は酒田短期大学の講師として酒田を訪れ、
 酒田の皆さんに接し、ますます酒田が大好きになりました。
 私にとって酒田は心の故郷です」
 由美かおるさんありがとうございました。
今からでも間に合います。ぜひ今年は酒田にいらっしゃってください。

この年は海のコンディションが良く2年ぶりにスイムから3種目行われました。

トライアスロンをとりまく機材やグッズの開発も進みました。
選手がオーダーメイドのウエットスーツを着用したり、
空気抵抗を考えたDHバーハンドルを装着した自転車が
数多く登場したのもこの年からです。

またトライアスロン人気から定員を上回る多数の応募がありました。
トライアスロンをやってみたいのだけれど、
なかなか出場通知がもらえない。
そんな悩みをもった選手がいた時期でもありました。

 大会は富田選手が3連覇。新たなおしんマンも続々と誕生しました。

しかしつらい出来事も報告しなければなりません。
地元の選手が1人がゴール手前で倒れ救急搬送されましたが、
対処及ばず心不全で亡くなりました。
あまりにも残念で悲しい幕切れでした。



1989年(平成元年) 第4回大会

 前の年に発生した事故のため、
開催が危ぶまれました第4回大会でしたが、
徳田実行委員長はじめ酒田21会の方々の、
大会を続けたいという強い熱意と努力のおかげで、
おしんレースは途切れることなく今日まで続いております。
あらためて心より感謝申し上げます。

 安全対策がよりいっそう強化されたこの大会。
しかしこの年もあいにくスイムは中止。
海はべた凪でしたが、ダシ風により潮の流れが沖出し状態なことから、
選手の安全確保が難しいという判断でした。

 砂浜のミニランから始まったこのレース。
バイクからトップに立った遊佐町の今野正一選手が
地元選手として初優勝を飾りました。

 


1990年(平成2年) 第5回大会

 前年の優勝者、今野選手も実行委員に加わった第5回大会。
スタッフには地元の競技経験者も大勢加わりました。

 しかし海はまたしても大荒れ。
残念ながら2年連続してスイムは中止になってしまいました。


 
1991年(平成3年) 第6回大会

 翌第6回大会。実質的に庄内トライアスロン協会の主管となり、
おしんレースが生まれ変わりました。


名前が変わりました。
ゆくゆくは日本を代表する大会に成長して欲しいという願いをこめて、
「日本海トライアスロンおしんレース全国大会」になりました。

会場が変わりました。
それまで5回開催して結果的に2回しかスイムが出来なかった
浜中海水浴場から、会場を酒田北港に移しました。
そして競技距離は全国的にもスタンダードだった、
スイム1.5km、バイク40km、ラン10kmの
トータル51.5kmの現在でいうオリンピックディスタンスに変更になりました。


そしてこの大会に限ってですが、メインスポンサーとして
結婚情報会社OMMGの協賛が決まりました。
トライアスロンが人と人とのふれあいがあるスポーツであるということで、
おしんレースを含めた国内11の大会がOMMGトライアスロンシリーズとして選定されました。

前年の3倍近い385人の選手が参加した第6回大会。
当日の6月30日はあいにくの梅雨空で時折強い雨が降りました。
そのためスイムは距離を500m短縮されました。


全国から強豪選手が集まり、優勝争いは熾烈を極めました。
優勝したのは秋田の新鋭、新号和政選手。
東海大学時代は箱根を4回走った実力ランナーです。
最後のラン10kmのタイムは32分01秒。
おそらく大会史上最速です。

ちなみにこの新号選手。この年の秋には、
バイアスロン大会のシリーズ最終戦で優勝して全国チャンピオンになりました。
そして副賞としてなんとBMWを1台獲得しています。

OMMGの協賛といい、BMWを提供したスポンサーといい、
世はまさにバブルの時代だったと思います。



1992年(平成4年) 第7回大会

内容を一新して生まれ変わったおしんレース。
人気はさらに高まって第7回大会の参加者は450名まで増加しました。

そしてこの大会はYBC山形放送でテレビ中継されて、
ますます市民の関心を引きました。

海外注目選手が招待されました。
若干20歳、ニュージーランドのキャメロン・ブラウン。
チームエプソンの選手としてこの前の年から、
日本国内を転戦して活躍していました。

レースはキャメロン・ブラウンがスイムからトップを独走。
トップ選手の群を抜いたスピードはたいへん見ごたえのあるものでした。

キャメロン・ブラウン選手には面白いエピソードがあります。
(ボランティアフェスティバルの写真)
おしんレースがよほど楽しかったのでしょう。
レースの後のボランティアフェスティバルで日本酒を飲みすぎて、
翌日はひどい二日酔。やっとの思いで飛行機に乗り込んだのでした。


しかしこの後このキャメロンが世界的に大活躍します。
ハワイアイアンマンでは準優勝が2回。
そして母国のニュージーランドアイアンマンでは
前人未到の11連覇を成し遂げて、
40歳を過ぎた今、レジェンドと呼ばれています。

そんなトライアスロン界の英雄の、若き日の思い出が日本、
とりわけおしんレースの酒田にあるのではないでしょうか。
ぜひまたおしんレースを駆けるキャメロンの勇姿を見てみたいものです。



1993年(平成5年) 第8回大会

キャメロン・ブラウンが再びやってきた第8回大会。
大会ポスターもキャメロンをモチーフにデザインされました。(写真)
一説には昨年の好印象から、キャメロンがこの年
日本で一番楽しみにしていた大会が、
酒田のおしんレースだったといわれています。

さらに招待選手として国内のトッププロの1人、
チームケンズのリーダー飯島健二郎選手が参戦。
大会を大いに盛り上げてくださいました。(写真)

この大会をきっかけに、チームケンズからは毎年
おしんレースに選手を派遣していただいております。

そのなかには、後半のスライドにも登場しますが、
今年のリオデジャネイロ・オリンピックの
代表有力候補であります佐藤優香選手もいらっしゃいます。

彼女は高校生のときからおしんレースには何回も出場しています。
酒田に所縁のある佐藤優香選手、
今後のさらなる活躍を期待して応援したいものです。

レースはキャメロン選手が連覇しましたが、
夜のお酒はかなり控えめにしていました。



1994年(平成6年) 第9回大会

第9回大会では男子でチームケンズ所属の選手が表彰台を独占しました。
(1位遠藤亮造、2位西川公人、3位小林幸人)

そして会場ではタレントの八波一起さんがMCとして
大いに盛り上げてくださいました。(写真)
酒田まつりで神輿を担ぐ八波会と、
名前が同じというご縁で交流があった八波一起さん。
八波さんは第6回大会から、何年も続けて応援にいらしてくださいました。

464人が参加したこの大会。
「スイムが泳ぎやすいし、バイク、ランもコースが広くて走りやすい」
とおしんレースはすっかり全国でも人気の大会に成長しました。



1995年(平成7年) 第10回大会

 第10回大会からメイン会場が現在の北港緑地公園になりました。
 べにばな国体のラグビー会場として造成されたグラウンドでしたが、
運営サイドからいえば、トイレが付いた管理棟があり、
電気、水道が使えて、駐車スペースを広く確保できる
緑地公園はたいへんありがたいものでした。

 しかし選手にとっては、スイムを上がってから緑地のバイクラックまでの、
およそ800mのミニランが新たなおしんの名物になりました。

 そしてこのころからスイム会場のスタッフとして、
マリーンレイダースの方々にご協力いただくようになりました。
海の上でたいへん機動力のあるマリーンジェットの存在は、
スイムの安全確保の面でたいへん心強いものになりました。
どうぞ今後ともご協力よろしくお願いしたいと思います。

 第10回記念大会、
優勝はチームエプソンの若手、前年に学生選手権を制した鈴木隼人選手。
 女子は星圭子選手が2連覇しました。

また県内の実力選手もぞくぞくと入賞しています。
東根の名取芳春選手、上山の佐藤恭久選手、
鶴岡の白幡美知夫選手、そして遊佐町出身われらが荒木茂選手たちが
しのぎを削るレース振りもたいへん見ごたえがありました。(記事写真)

ということでおしんレースの歴史後半の部は、
荒木茂さんにバトンタッチしたいと思います。
どうもありがとうございました。