龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

相聞歌2019年(8/14)

2019年06月14日 12時35分13秒 | 相聞歌

8/14(火)

81
何本もジブリ作品再生すその時々の自分重ねて(た)


82
大ぶりのスイカをかかえ家路(みち)急ぐ立(たち)葵(あおい)咲く路地に吹く風(ま)


81同年代の人には多いのではないか。自分が観た記憶と、子どもと観た記憶とが重なっている。
宮崎駿は、漱石のような「国民文学」だ、と高橋源一郎が言ってたけど、納得。
スタジオジブリの作品の中で妻と初めて一緒に見たのは『風の谷のナウシカ』だった。
劇場で妻と一緒に観たのは『もののけ姫』。

82は、妻が実家から出て姉の家に行っている時期(8,9月)に、果物を持って坂道を下りていった記憶を書いたもの。夏の終わりの風景が病床にあった妻(この頃から抗がん剤治療の副作用でしんどくなっていく)の記憶と重なって思い起こされる。
書いておいて良かった、と思う風景の一つ。

相聞歌2019年(8/11,8/12,8/13)

2019年06月13日 22時44分18秒 | 相聞歌
8/11(土)

74
二度の癌ロイター板のごとくなり常識のバー軽々越えて(た)


75
彼女連れ帰省したいと息子の声会いたくもあり会いたくもなし(ま)


76
結婚をしたいと息子が語るときまず正規職に就けという妻(ま)



8/12(日)

77
焼き肉のトングを息子に渡すこれからの道を創りゆく君へ(た)


78
抗がん剤効いているのかいないのか見えないものと向き合う残暑(ま)



8/13(月)

79
姑の静かな決意と優しいほほえみ秋の湖面のごとき団らん(た)


80
盆の入りお墓の草をむしりつつふと来年の夏を思いぬ(ま)

74
最初のガンから四年半、正直ここまで来たらもう大丈夫かな、二人ともそう思い始めた夏だった。

また本人が24才の時、半年のうちに父と弟を連続して心臓発作で亡くし、自分自身もその頃急病(病名は不明のまま)で入院していたため、
「自分の人生は長くない」
と思い定めていた節がある。
「私の人生はあの時終わっていてもおかしくなかったのよ」が口癖だった。

「死ぬなら心臓で一瞬ね」

それもまた彼女のファンタジー、といえばそうたったのかもしれない。

最初の 「常識のバー」を越えたときのことは覚えている。四年半前、検査後半日待たされて、婦人科の待合室には男の人が入れないので遠いところで待っていると、声を掛けられて妻と診察室に入った。そのときに
「卵巣腫瘍です。かなり大きくなっています。すぐに手術が必要です」
良性か悪性かは手術してみないと分からないが、腹水の細胞診の結果から見て厳しいのでは
ということを、告げられた。
妻の紅潮した顔が目に焼き付いている。側にいながらどんな顔をしたらいいのか分からない。どんなことを話せばいいのか分からない。(手術の出来る)専門の病院を紹介する、と言われた後、病院を出て車に戻ったとき、妻に
「ゴメンね」
と一言言われた。一瞬意味が分からず固まった。
これは妻が「先に死ぬかもしれない」と考え、まず私にそのことをいったのか、と考えると身体中の血液が逆流しそうなショックを受け、更にとう返事すれば言えばいいのか分からず、そのときどういう会話をその後したのかも覚えていない。とにかく早く手術をしてもらおう、心配しないでとでも言ったのだろうか。

それに対して二度目の今回は少し違っていた。再発したらなかなか完治は望みにくく、ガンと上手に付き合っていくことが求められるということを学習していたから、症状や数値に一喜一憂せず、側に寄り添うことが一番だ、という心構えのようなものはあったから、 「抽象的」には準備していた、といえる。
だが、実際に抗がん剤治療が始まってみると、体力的に前回と同じと言うわけにはいかないし、精神的にも一度目の戦い方とは違ってくるし、 「抽象的」な心の準備はそれほど役には立たなかった。

ただ、一つだけ心に決めていたことがある。
「悲しむのは、そして泣くのは全てが終わってから。それまでは感情に振り回されて大切な時間を絶対に浪費しない。彼女の望むものを提供し続ける」
そう思い定めていた。

残りの歌はお盆で帰省してきた息子、お墓参り、施設に行こうと考えてある母のことについて。

78で詠んだ抗がん剤への思いは、この後妻の体力が落ちていくに連れて、様々な葛藤へと変化していく。

相聞歌2019年(8/10)

2019年06月13日 22時13分11秒 | 相聞歌
8/10(金)


66
一日がただ平穏にすぎてゆくたゆたう心は像を結ばず(た)


67
教育は国生み神話と同じらしい泥かき回して居場所をつくる(た)


68
週末のホームセンターで探してる季節外れのラナンキュラスを(ま)


69
妻病めば織物のごと綾なしてみな動き出す家族模様よ(ま)


70
葬式はどうやりたいかと尋ぬれば「死ねばゴミ」との母の言やよし(ま)


71
娘病みて一人老母の残る家は酷暑にゆらぐ陽炎の如し(ま)


72
「そろそろ」と老母が眺めるタブレット入居の条件は要介護1(ま)


73
嘘をつく勇気も要ると妻は言うそれができてりゃ別の人生(ま)

69~72は、妻が治療のため実母のセワモデキナクなったため、母との同居生活を終えて、私と一緒に暮らす生活に変わることになり、私と同居していた私の母が施設に入居することになった。
本当は二人の母を見送ってからの同居が私たちの予定だったのだが、病気のため手順前後になった、そのことをしばらく歌に詠むことになる。

66は、旅行から帰っ手さて療養生活に戻った時の歌。心が像を結ばない、とはどういうことだろう。分かる気もするが、漠然としている。67と併せて考えると、仕事を終えた後、治療に専念する、という方向に焦点が合っていない心の状態を指しているのだろうか。

「仕事がないならもう帰るよ」
「どこにさ」
「柔らかくて、ふわっと包み込まれるような場所で寝てたんだよ。そしたら神様に起こされてね、行っておいでって。」
「それは天界ってこと?」
「そう」
「で、さびしいですっていったら、じゃあこれ、って首に鈴をつけてくれたの。」
「かみさまが?」
「うん」
「そりゃまた」
「それがね、貴方なの」
「なんじゃ、そりゃ」

戯れにそんな会話をよくしていた。
まるでライトノベルのファンタジーめいた御伽噺だが、ある水準ではおそらく本気で語っていたのだ。

役目が終えたら帰れる。あなたには悪いと思うけど、そうできてる、生きているとしたら、それだけの理由、、それだけの仕事があるはず、仕事がないなら私を帰してください…………

そんな言葉にならない信号をこの頃から受け取っていたのかもしれない。

73は高齢の母には言わなくてもいいことがある、ということか。
私はそういう嘘がつけない。還暦を過ぎて 「正直者」はバカか無責任の証しみたいなものだと言われそうだが、嘘が苦手だ。妻は、荒唐無稽な嘘をつける。完全に 「方便が衆生済度をもたらす」
ぐらいに思っているのかもしれない。
コトバなんて信用できない、ともいっていた。
だが、言葉の力をよく知っていたのも妻だったような気がする。前述のファンタジーめいた御伽噺も、それに力があるならそれがいい、ということだったか。
ことばにしがみついた 「ただしさ」を許さなかった人気でもあった。いささかとりとめなく…………。

相聞歌2019年(8月9日)

2019年06月12日 20時56分22秒 | 相聞歌
相聞歌2019年
(8/9)

57
同学年再任用の同僚に最後の仕事ほめられし待合室(た)

58
炎症が正常値ですよと良いニュース報告できるうれしさ抱いて(た)

59
きしみ音上げて歯車動き出す誕生と死が運命を廻す(た)

60
今までで一番良かった旅先は?問われて答える白神山地(た)

61
弘前の桜か阿蘇の草千里思い出指折り一番を探す(ま)

62
魂の限りと叫ぶ恋でなしただそばにいてみつめていたい(ま)

63
今まででどこがいちばん良かった?と共に旅した思いに和む(ま)

64
計画をしていた紀伊路の旅を止め近き温泉で妻と語らう(ま)

65
こんなにも静かな時があるのだ貴女の眠る傍らで流れるもの(ま)

57
プライドを持って、全能力を傾けて仕事をしていた妻にとっては、最期の仕事を認めてもらえるのは本当にうれしかったのだと思う。他人の評価を気にしている、というのとは少し違う。彼女は、自分の仕事の価値をよく知っていた。ただそれを認めてくれる同僚に恵まれなかった。

それにはもちろん理由がある。
一つには人間のコトバで説明するような領域をはみ出したところで仕事をしていたから、ということがあるだろう。
中学生というけものから人間にメタモルフォーゼしていく時期の彼らに通じるのは、大人たちのコトバの領域ではないエナジーのやりとりだったのだろう。少なくても妻にとっては、そういう種類の現場だった。
だから、理解者には、恵まれなかった。それは想像に難くない。
「放し飼い」として自由にはやっていても、その仕事は孤独の中にあったのだろう。
それでも、そんな動物の彼女を面白がってくれる人が時にはいてくれたはず。そんな数少ないシーンかと。

58
は今読んでも切ない。値が良くなると本当にうれしそうな表情をみせてくれた。私もうれしかったが、卵巣癌の再発(転移)は治療も完治か目的というより病気と付き合っていくことが主になる、ということも頭にあり、一喜一憂を越えて彼女を支えねば、という思いが強く、喜ぶ彼女と嬉しさを共有しつつも、どこかで 「覚悟」をしておかねば、という思いも抱えていた。
「覚悟」はある意味で強さではなく、フラジャイル(コワレモノ)であることの自覚なのかもしれない、と今ではそうも思う。
とにかくこの一首はなぜか読む度に泣きたくなる。オレと喜びを共有したいという彼女の正直な思いが垣間見えてしまうからだろうか。
彼女を失ってから読み直す全部の歌の中でも、もっとも切ないものの一つだ。

59の誕生ちさについては、本人と話したことがないのでわからない。
だが、姪がこの時期に結婚をしている。おそらく、自分の道の先に見える 「死」と、姪の道の先に見える 「生」を重ねた一首か。

60~64は、8月8日の部分でも書いた旅行ネタのやりとり。
50才から10年間、連休や長期休業の時は必ず一緒にクルマで旅行に出かけた。その10年間の旅行の記憶は、二人にとって大切な共有物になっている。
「覚えてる?」 「覚えてるよ」
そう言い合うだけで分かる。
もちろん42年間共に生きてきたのだから苦い思い出も嬉しいことも無数にあるわけだけれど、旅の話題は楽しいことだらけだから、いつも話題にしていた。
旅行しておいて良かった、とこのときもしみじみ思った。

65は、ある意味で今も妻は遠くで眠っている、という感がなくもないので、そういう意味では今に通じるイメージ、ともいえる。ただ、今はもう彼女の傍らではなく、遠く遠く離れてしまった。それを考えすぎるとヤになっちゃうので、そのころを思い出すので止めておく。ともあれ、眠る妻の脇で過ごすひとときの意味が身にしみて分かった一首。

相聞歌2019年(8月8日)

2019年06月11日 22時27分41秒 | 相聞歌
8/8(水)

49
「理想はね目が覚めるとあなたがいて」本音ようやく顔のぞかせる(た)


50
「娘に産まれて着物を着るの」しま爺が私をあやすおとぎ話(た)


51
看病にてやつれていく夫(つま)見るやるせなさ苦しみはらうはずの自分が重荷(た)


52
旅したい場所を数えて日が暮れる英国湖沼かマダガスカルか(ま)


53
旅に出て他愛ないこと語り合うクルマの中の時を惜しみつ(ま)


54
どうしたい?ほんとは何がほしいの?とずっと尋ねて来た気がしている(ま)


55
これからはいつも二人で生きようと誓う四十二年目の夏(ま)


56
限りある命を重ね生きむとすただそこにいてただともにいて(ま)

49の歌について。
私たち夫婦はずっと三世代三世帯2住宅同居を続けてきた。去年の時点で、妻も私も自分の母親と同居して生活していた。、たから夜家の仕事を終えると二人でドライブしたり、週末は買い出しと称してよく道の駅やアウトレットに出かけ、二人の時間を確保してきた。
計画では、順番に二人の母親を見送ってから、その後で隠居所として設計した私の家に夫婦が合流する予定だった。

ところが妻=娘=嫁が先に再発癌となり、私たちの同居が先になった。
その結果91の妻の母は独居となり、86才の私の母は急遽施設に入居し、私たち夫婦が同居していくことになるのである。

その途中、私の母が施設に引っ越すまでの間、妻は2カ月ほど姉の家に居候することになった。姉と姉の家族はよくしてくれたし、姉妹で過ごすことができた2ヶ月は、姉にとっても大切な時間になったと思う。

妻の中には、病身になって周囲に様々な迷惑をかけるのを潔しとしないという矜持と、同時に何も考えずに素直かつ単純に生きるシンプルな動物性とが同居していたようにも思う。その中で自分の思いは深いところに押し隠されていたのかもしれない。
そういえば彼女は 「自分の中に三つのキャラクターがいる」といつも語っていた。

下女で生活を支える門番
戦闘能力抜群のガーディアン
そしてその二つに支えられたお姫様

「本音」というのは  
①生活を営むということと
②家族たちを守るということ

に紛れて押し隠していた思い、ということになるだろうか。しかしこのお姫様、結構傍若無人だったりもするのであるが。

50は、新たな命となって甦る、というファンタジーを歌ったものか。佐藤正午の近作(妻は読んでいない)のようなお話し。
リアルに換算すれば、私の代わりに孫の世話でもしなさいよ、という下命、とも読める。

51は、夫としての私は看護=介護 「ハイ」になっているので、痩せていくのもむしろ心地よかったりするのだが、世話をしてもらう側はその身を重荷と感じてしまうことがある、ということか。

この後私自身、介護依存が生じ、次第に親戚や肉親でも妻を触らせたくない、という 「我有化」の症状が起こってくる。お互いに相手を思う気持ちに嘘はないのだが、それでもいろいろ様々苦しくなる、ということはあるものだ、と知らされていく、その一つ。

52,53は暇があるとお互いにあそこが良かった、今度はどこに行きたい、と旅行のことを話すのが楽しみだった、そんな折のことを詠んだものだ。
50才頃、子供の大学が終わった頃から二人で旅行することが多くなった。とは言っても実際は国内のドライブが主で、英国湖沼は妻の、マダガスカルは私の、退職後の旅行希望地だった。

54~56は、ようやく事態の重さを実感し始めた私の、それでもまだ命のやりとりになるという切迫感を持っていない述懐の歌。
ただ、やはり19才のとき知り合ってから42年間なんだかんだと言いながら続いてきたその時間の長さが、自分と妻との関係の重さ・大きさとして底流に流れている実感はそれなりにあったのだろう。
それを本当に切実に感じるのは、ここではなくもう少し後のことだったが。



相聞歌2019年(8月7日)

2019年06月11日 09時03分24秒 | 相聞歌
43
生きるのが仕事になってしまったと静かに笑う妻の手を取る(ま)


44
車中にて「ごめん」と「感謝」を口にする走りなじんだ渡辺の道(ま)

45
シーツやカバー二人でたたむ日曜の夜の儀式も今はなつかし(ま)


46
大木が長い歴史を語りたる人の栄華は紅花の赤(た)


47
新婚のごとくよりそい死に方の相談をするホテルのベッド(た)


48
旅の間23℃が続くなりこれは神様のちょっとしたごほうび(た)

公立中学教師という仕事は、彼女にとって疑いなく 「天職」だった。
夫婦で同じ教師の仕事をしていても、その姿勢・覚悟が全く別次元
で、いつも
「教師は常に生徒の側にいて見ていなきゃ。生徒が変わる瞬間にいなかったら意味がないでしょ。生徒が動き出そうとするそのときに支えになるのが私たちの仕事なんだから」
が口癖だった。
自分の健康は二の次、というのとはちょっと違っていて、自分に身体のあるのがもどかしいといった感じだった。
「なんでモノなんて食べなきゃいけないの」
「眠るのが苦手なのよね」
そうもいっていた。
そんな彼女が仕事を奪われたのだから、それだけでいきる意味を疑うに十分だったろうし、その上で身体のことを考えるのは相当なストレスでもあっただろう。
43の 「静かに笑う」表情の中には、ある種の虚無感(というと大げさだが)のようなものをうっすらと感じていた、それを詠んだもの。

44の 「渡辺の道」というのは、彼女が好きでいつも日々のドライブをしていたコースのことだ。
夕食を終えた後のひととき、日曜の夜一週間分の洗濯物をコインランドリーの乾燥機に入れるとき(45)の待ち時間、どちらからともなくドライブに誘い、その時に選ぶのが 「渡辺の道」だった。
最期まで妻はドライブに行きたがり、その時 「どこを走る?」と尋ねると決まって言うのが「渡辺の道」。私たち二人のドライブにおける 「ホーム」コースである。
46は涼しい夏の1日に訪れた 「河北町紅花資料館」のことを詠んだもの。妻はホテルでも相聞歌2019年のメモ帳に時間があると書き込んでいた。

47は実に様々なことを話した。
病状のこと、これからどう推移するか、それとの関連でどこで抗がん剤を止めるか、が当時の主なテーマ立ったが、お葬式の時には天井からつるし雛を下げてほしいとか、あの着物は誰に、あの指輪はあの子にとか、誰に知らせて誰に知らせるなとか、そんな話もこのころからしていたような記憶がある。
48からは逆にやはり夏の暑さが身にこたえていたのだろう、と想像できる。抗がん剤治療をしているうちは長い旅行をするのはスケジュール的にも難しかったし、体力的にも次第にしんどくなっていった。来年こそは紀伊路に、と言ってはいたが、難しいかもしれない、と二人ともぼんやり思っていた。
後で主治医には
「(中途半端な?)知識かある人はすぐにそういうことを考える」
としかられることにもなるのだが(笑)。




相聞歌2019年(8月6日)

2019年06月10日 22時12分57秒 | 相聞歌

36
七夕の大渋滞をくぐり抜けそば一盛りで仕舞いの仙台(た)


37
浴衣のまま畳に目覚め平安の姫が浮かんだ銀山温泉(た)


38
生きるとは可能性に対する取り決めらしい「とりあえずね」と前置きしながら(た)


39
昨日まで暑かったという銀山の露天の風呂で秋風を聴く(ま)


40
検査日を縫うようにして銀山温泉熊野と高野は来年の楽しみ(ま)


41
和モダンな隈研吾設計の宿足りないものは掃除ねと妻(ま)


42
いなければダメかと小声で聞く妻よ君喪くしての老後は長し(ま)

退院後すぐに温泉に宿泊した。途中仙台の骨董店に寄ろうとしたら七夕渋滞に巻き込まれ、結局居酒屋さんの蕎麦ランチを食べただけで、雨がポツポツ降り出したこともありそのまま仙台脱出、山形へ向かう。
銀山温泉についたときは雨は降っていなかった。
車が入れないので上の駐車場からでんわをして迎えに来てもらう。
古い建物が並ぶ伝統の温泉街、なのだが、なかなか続けるのは簡単ではないのかもしれない。
私たちが止まったのは、隈研吾設計の新しい建物。その、奥の方が昔からのもの、という。
8月なのにとても涼しく、抗がん剤で体が厳しい状態にある妻にとってはありがたい気候だった。
夜お風呂に入ったら、湯船の間接照明が余りに暗かったため、かみさんが、
「こんなに暗いのはおかしい、どこかに電灯のスイッチがあるはずだ」
と言いだして譲らない。
私はこの仄かな灯りが 「和モダン」の演出なんじゃないか、といくら説明しても、 「面倒くさがって探さないだけじゃん」と言い張る。
未だに真相は闇だ。

確かめるにはもう一度泊まってみるしかないが、今はそんなこと(センチメンタルジャーニー)をしたら号泣ものなので、しません(笑)。
お風呂だけでなく廊下も暗い。
部屋は明るくできるのだが、隅っこに埃が多少浮いていた。
主婦の目はごまかせない、というのが41の歌。

42は 「いなきゃだめ?」と妻がそっと呟いたそのコトバの響きを刻んで置くための一首。いまこの文章をかいているまさに 「今」の思いがこれである。
ただ、あの夏の私に今答えるとしたら、老後が長いのではない、と言ってやりたい。表現が甘かったね。

そうではなく、ただ、会いたいのです。

自分の中身を半ば以上持って行かれてしまったという感じで、老後という自分の人生が残っていてそれが長いという実感はありません。絶望しているのでもない。

どちらかというともっと手応えのない状態です。
重力によってこの世界に留められている感じがせず、フワフワした感触とでもいいましょうか。

会うなんてそんな荒唐無稽なことが叶うはずがない、とは思わない。そういう思考でなないところで、ただ、会いたいのです。

相聞歌2019年(8月5日)

2019年06月10日 00時16分00秒 | 相聞歌
8/5(日)

33
入院支度ほどいて旅の準備する服とバッグを華やかにして(た)


34
年ごとに花も虫も別物なれど花・虫という名のみ変わらぬ不思議(た)


35
先端の医療は他人の仕業にて食べて寝るだけが私の仕事(た)

この夏、高野山と熊野古道を廻る紀伊路の旅行を早くから予約していた。
この時もし検査をせず、再発癌に気づいていなければおそらく何の支障もなく旅行に行くことが出来ていただろう、と思う。
もちろんいつもスケジュール通りに検査は継続して受けていたし、マーカーが上がれば再発として治療開始するのは当然だ。
しかし、卵巣癌(なかんずく明細胞腺癌)再発の予後が良くないことは医師にも予め言われていたし、自分で調べてみても治療に限界があるという情報は出てくる。
そしてガン治療抗がん剤治療の強い副作用との闘いになる。それは体力的というよりも精神的に厳しい勝負だ。
彼女は、最初に抗がん剤治療を受けた四年半前から、もう抗がん剤治療はやりたくない、と言っていた。 「あんなものが続くのはイヤだ」と。
しかし、卵巣癌の再発の場合、手術はメリットとデメリットを考えると必ずしも推奨できない、と横隔膜転移の写真を前に説明を受けた。
様々な病院のサイトを見ても、論文を検索しても、その通りだ。
そうなると、なかなか完治の望めない再発卵巣癌では、化学療法(抗がん剤投与)が主療法となり、それは本人が望まないということになる……。
二度目の治療釜始まったときから、本人の心の中では、抗がん剤治療をどこまで続けるか、という主題を持っていた、のだろう。

35 「他人の仕業」 「食べて寝るだけ」というつつ、そういう自分の状況を見つめるもう一つの瞳を持っていた、といってもいいかもしれない。冷静というのでもない、論理的というのとも少し違う、客観的?……うーむ、なんと名付ければいいのかまだよく分からないが、複数の自分を束ねて、そういうものとしてある自分を受け止める自分とでもいう 「瞳」が奥底にある、という感触があった。

33は、その中止した紀伊半島の変わりに山形の銀山温泉にいく計画を入院中(一回目の抗がん剤治療)に立てており、退院後家に帰るとすぐに出かけることになっていた、そのことを描いている。

相聞歌2019年(8/4)

2019年06月09日 09時09分05秒 | 相聞歌
8/4(土)

24ひたすらにけだるい体扱いかねてチャンネル回す一日長し(た)

25七月二十六日まで最前線にいたはずが一転生きることだけが仕事になる(た)

26未提出生徒を呼び出す算段をしている自分を笑う最後の評価(た)


27姉と二人遙かな記憶をほりおこす今さら驚く事々もあり(た)

28妻の住む病室目指す日暮れ時平安貴族のごと和歌(うた)を手に(ま)

29真夜中にイヤな記憶の痛み来る結石(いし)は静かにしてくれるのか(ま)

30アーレント読みに田町に来たもののそれは果たして私の意志か(ま)


31ささやかなこの幸せは続くのか妻と笑いて老母と飲みて(ま)





24~26から、抗がん剤の辛さと仕事を失ったさびしさと、まだ残っている生徒への思いとが交錯している様子がうかがえる。

こうして 彼女の人生が「終わって」から読み直してみると、とても不思議な感じがする。

この、歌を詠みつつ病気と向き合う彼女もまた、あの、全力で仕事をしようとする彼女と同じエネルギーに突き動かされている、とも思えるし、他方で、あんなに強い彼女もまた、こんな風に切ないものを内に抱えていたのだ、とも読める。

できることなら、それを丸ごと捕まえておきたい、そんな風にも思い始める。この相聞歌に対応する仕事の側の彼女もまた、どんな形でか、語られねばなるまい。それはどんな形になるかわからないし、もう少し後で、ということになるだろうが。

27は、この時期(8月9月)姉の家で療養しつつ入退院を繰り返していた。そこで姉と昔の話をしながら
「そうだったんだ」
と気づくことが多かった、と言っていた。姉妹で同じものごとと出会っているはずなのに違ったものを見ているということは多いのかもしれない。

28は、相聞歌を紡ぐことに慣れてきたころの気分を書いたもの。この時、抗がん剤の点滴をするために二泊三日の入院を繰り返していた。

29は、今自分の身体が不調をきたすと、全てが回らなくなると言う不安に駆られて書いた。一度結石をやるとあの痛みは記憶に刻まれてしまう……。

30は、妻の治療の合間を縫って、東京にアーレント研究会を聴講しに行ったときに詠んだもの。多分國分功一郎さんのアーレントの意志論についての発表のときだったろうか。この頃 「意志」について考えるのが私の中で流行りだった。

相聞歌2019年(8/3続きその2)

2019年06月08日 23時32分32秒 | 相聞歌
相聞歌2019年
8/3(2018)続きその2

21涼やかな風鈴の音に包まれて午睡の妻の指先白し(ま)


22姉の家にて療養す妻のもと訪ねる午後やスイカぞ重き(ま)


23昼食はちゃんと食べたか聞く我に代わりに響く風鈴(すず)の音清し(ま)


8月9月の二ヶ月、事情あって妻は姉の家で療養していて、そこに私が訪ねていく 「妻問い」が続いていた。
私は私で歌を作り、妻は妻で書きためたものを数日ごとに見せ合ってメモに纏めていた。

妻は暑さと抗がん剤治療でしんどい様子だったが、後から考えればこの時点で胸水が少しずつ溜まってきていたのだろう。体も思うようでなく、慣れない家での療養ということもあり、仕事を手放した直後でもあり、少し元気がなくなっていたかもしれない。


相聞歌2019年8月3日(続き)

2019年06月08日 19時29分10秒 | 相聞歌
⑰先見えぬ日々に理性は疲れたる風に身まかす風鈴涼やか(た)


⑱身を飾る戒めのひもほどかれて何者でもない自分にもどる(た)


⑲素のままの自分を唯愛する人がいて本当の恋にたどりついたか(た)


⑳病にもお休みの日があるらしいこれからを考える自分がいたりする(た)

退職願を出し、自分を見つめ直す時間がはじまる。
しかしそれは同時に素の自分が病気と向き合うその開放感、戸惑い、寄る辺なさ、自分を見つめ直す時間でもあったのかもしれない。それは彼女だけのことではない。お互いに余計なものを脱ぎ去った もの同士が出会いなおしていく、、ということでもあった。
19の歌は、こういうと子どもじみているけれど、うれしかったのを覚えている。

そして再発癌の場合先が見えない恐怖と向き合うことが避けがたい。20の歌はそんななかで先のことを考えられる日もふと、訪れるという実感が感じられる。今振り返るとちょっと、切ないのだけれど。




相聞歌2019年8月3日

2019年06月08日 08時12分06秒 | 相聞歌
⑮もつれあう心の糸をほぐすなり夫と始めた相聞歌うれし(た)

⑯四十年続けた仕事を辞めた後この人は何して暮らすのか(ま)

※(た)は亡妻、(ま)は私。

夫と和歌(のようなもの)をやりとりすることを楽しく感じているという妻の気持ちを考えると、面と向かって言うのは躊躇われたり恥ずかしかったりすることも、短歌の形なら手渡せる(表現出来る)ということなのかな、と思う。

同時に、自分から表現を纏めるのが甚だ苦手ですぐとっちらかってしまう 「多動」の私にとって、 和歌(短歌)の相聞というフレームを妻から与えられたことは(結果として)とても有り難かった。

私にとって、仕事一本槍だった 「この人」を、そして 「この人」と 「私」の関係を、ゆっくり見つめ直す作業になっていた。

もちろん表現の上で 妻と 「対話」する機会を得られたことも大きな意義があった。その点では一首立ての短歌ではなく、やはり「相聞歌」と呼ぶべきものだったのだろう。

今改めていろいろ気づかされる。


相聞歌2019年8月2日(続き)

2019年06月07日 20時54分35秒 | 相聞歌
⑨いまだ見ぬ幼き子のため服を買う我につながる命のあれかし(た)


⑩旅先で買い集めたる器達日の目も見せずに逝くが悲し(た)


⑪教え子の末を見ずして二度の病「いつもどりますか」の問いが切ない(た)


⑫生き延びる苦しみ重くどうせなら眠るが如くと願う朝夕(た)


⑬教員は皆短命の家系なり定年まで走った自分をほめる(た)



⑭息子らの緊張した声に成長うれしき親が先に逝ってこその幸せ(た)

この日は堰を切ったように沢山歌が出来たようだ。

まだ見ぬ孫に思いを馳せては命がつながってほしいと願い、教え子のことばに切なさを覚え、買い揃えた趣味の食器を使う機会があるのかと憂い、苦しみの中で生きるならむしろ眠るようにいってしまいたいと述懐し、教師として精一杯やり切った手応えを感じつつ、息子らのことを思う……。

仕事に区切りをつけて、様々な思いが一度に溢れ出した夏の1日だったのだろうか。

相聞歌2019年8月2日

2019年06月07日 19時31分24秒 | 相聞歌

⑦退院後妻は「ふふふ」とよく笑う静かな余生の始まる音色(ま)

⑧いつまでも生きたいと願う癌と私命のゆがみの追いかけごっ(た)

※(た)は亡妻、(ま)はブログ子

⑦のように私が感じたのは、後から考えれば、仕事を辞めると決断したことが大きかったのかな、と思う。7/26に検査で癌がみつかり、その後数日で退職することを決めたと記憶している。残っている退職願の日付がこの日(8/2)。

教師として駆け抜けてきた40年近くの歳月がここで終わり、と言うホッとしたような、柔らかい表情を時折見せるようになったことを表現した。

しかし、同じ日の妻の一首⑧は 「命の闘い」に焦点を当てている。
たぶんNHKの番組でガン治療の最前線を取り上げていたのではなかったか。ここから翌年3月6日まで、「追いかけごっこ」は続くことになるのだった。

相聞歌2019年8月1日

2019年06月07日 11時17分14秒 | 相聞歌
8/1(水)

⑤夫(つま)に会い得たものは自由失ったものはない皆自分で捨てた(た)


⑥院内の風呂場で打ち明け話する「がんばりたくないねぇ」が合い言葉なり(た)


※(た)は亡妻、(ま)は夫の私

⑤は、 「何でオレみたいな面倒くさいヤツと結婚したの」徒尋ねた時の答えを歌にしたものかと。
24h一緒にいるとヒマだったりするので、色々昔のことを思い出して語ったりするんですよね。
そんなシーンからの一首です。
つまりオトコを選ぶというのはそいつがいいか悪いかというより、それ以外を捨てる、ぐらいの腹を括った選択だった、と言うことかもしれません。
結婚前、彼女も私も別の人との可能性がなかったわけではないのに(持てないなりに〈笑〉)、ここに落ち着いた、そんな流れも思い出させられました。

⑥は入院中、婦人科の病棟の人とお風呂で話したときのことです。
再発癌でステージが進むと、なかなか完治という先のイメージは持てない。その中で 「頑張って」と言われてもねえ……という彼女の、そして患者さんたちの本音の一部が聞こえてくる歌です。
もちろん辛い抗ガン剤を続けている以上、 「生きたい」と言う思いは強くないはずはありません。しかし、でも……なんですよね。