龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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相聞歌2019年(8月8日)

2019年06月11日 22時27分41秒 | 相聞歌
8/8(水)

49
「理想はね目が覚めるとあなたがいて」本音ようやく顔のぞかせる(た)


50
「娘に産まれて着物を着るの」しま爺が私をあやすおとぎ話(た)


51
看病にてやつれていく夫(つま)見るやるせなさ苦しみはらうはずの自分が重荷(た)


52
旅したい場所を数えて日が暮れる英国湖沼かマダガスカルか(ま)


53
旅に出て他愛ないこと語り合うクルマの中の時を惜しみつ(ま)


54
どうしたい?ほんとは何がほしいの?とずっと尋ねて来た気がしている(ま)


55
これからはいつも二人で生きようと誓う四十二年目の夏(ま)


56
限りある命を重ね生きむとすただそこにいてただともにいて(ま)

49の歌について。
私たち夫婦はずっと三世代三世帯2住宅同居を続けてきた。去年の時点で、妻も私も自分の母親と同居して生活していた。、たから夜家の仕事を終えると二人でドライブしたり、週末は買い出しと称してよく道の駅やアウトレットに出かけ、二人の時間を確保してきた。
計画では、順番に二人の母親を見送ってから、その後で隠居所として設計した私の家に夫婦が合流する予定だった。

ところが妻=娘=嫁が先に再発癌となり、私たちの同居が先になった。
その結果91の妻の母は独居となり、86才の私の母は急遽施設に入居し、私たち夫婦が同居していくことになるのである。

その途中、私の母が施設に引っ越すまでの間、妻は2カ月ほど姉の家に居候することになった。姉と姉の家族はよくしてくれたし、姉妹で過ごすことができた2ヶ月は、姉にとっても大切な時間になったと思う。

妻の中には、病身になって周囲に様々な迷惑をかけるのを潔しとしないという矜持と、同時に何も考えずに素直かつ単純に生きるシンプルな動物性とが同居していたようにも思う。その中で自分の思いは深いところに押し隠されていたのかもしれない。
そういえば彼女は 「自分の中に三つのキャラクターがいる」といつも語っていた。

下女で生活を支える門番
戦闘能力抜群のガーディアン
そしてその二つに支えられたお姫様

「本音」というのは  
①生活を営むということと
②家族たちを守るということ

に紛れて押し隠していた思い、ということになるだろうか。しかしこのお姫様、結構傍若無人だったりもするのであるが。

50は、新たな命となって甦る、というファンタジーを歌ったものか。佐藤正午の近作(妻は読んでいない)のようなお話し。
リアルに換算すれば、私の代わりに孫の世話でもしなさいよ、という下命、とも読める。

51は、夫としての私は看護=介護 「ハイ」になっているので、痩せていくのもむしろ心地よかったりするのだが、世話をしてもらう側はその身を重荷と感じてしまうことがある、ということか。

この後私自身、介護依存が生じ、次第に親戚や肉親でも妻を触らせたくない、という 「我有化」の症状が起こってくる。お互いに相手を思う気持ちに嘘はないのだが、それでもいろいろ様々苦しくなる、ということはあるものだ、と知らされていく、その一つ。

52,53は暇があるとお互いにあそこが良かった、今度はどこに行きたい、と旅行のことを話すのが楽しみだった、そんな折のことを詠んだものだ。
50才頃、子供の大学が終わった頃から二人で旅行することが多くなった。とは言っても実際は国内のドライブが主で、英国湖沼は妻の、マダガスカルは私の、退職後の旅行希望地だった。

54~56は、ようやく事態の重さを実感し始めた私の、それでもまだ命のやりとりになるという切迫感を持っていない述懐の歌。
ただ、やはり19才のとき知り合ってから42年間なんだかんだと言いながら続いてきたその時間の長さが、自分と妻との関係の重さ・大きさとして底流に流れている実感はそれなりにあったのだろう。
それを本当に切実に感じるのは、ここではなくもう少し後のことだったが。



相聞歌2019年(8月7日)

2019年06月11日 09時03分24秒 | 相聞歌
43
生きるのが仕事になってしまったと静かに笑う妻の手を取る(ま)


44
車中にて「ごめん」と「感謝」を口にする走りなじんだ渡辺の道(ま)

45
シーツやカバー二人でたたむ日曜の夜の儀式も今はなつかし(ま)


46
大木が長い歴史を語りたる人の栄華は紅花の赤(た)


47
新婚のごとくよりそい死に方の相談をするホテルのベッド(た)


48
旅の間23℃が続くなりこれは神様のちょっとしたごほうび(た)

公立中学教師という仕事は、彼女にとって疑いなく 「天職」だった。
夫婦で同じ教師の仕事をしていても、その姿勢・覚悟が全く別次元
で、いつも
「教師は常に生徒の側にいて見ていなきゃ。生徒が変わる瞬間にいなかったら意味がないでしょ。生徒が動き出そうとするそのときに支えになるのが私たちの仕事なんだから」
が口癖だった。
自分の健康は二の次、というのとはちょっと違っていて、自分に身体のあるのがもどかしいといった感じだった。
「なんでモノなんて食べなきゃいけないの」
「眠るのが苦手なのよね」
そうもいっていた。
そんな彼女が仕事を奪われたのだから、それだけでいきる意味を疑うに十分だったろうし、その上で身体のことを考えるのは相当なストレスでもあっただろう。
43の 「静かに笑う」表情の中には、ある種の虚無感(というと大げさだが)のようなものをうっすらと感じていた、それを詠んだもの。

44の 「渡辺の道」というのは、彼女が好きでいつも日々のドライブをしていたコースのことだ。
夕食を終えた後のひととき、日曜の夜一週間分の洗濯物をコインランドリーの乾燥機に入れるとき(45)の待ち時間、どちらからともなくドライブに誘い、その時に選ぶのが 「渡辺の道」だった。
最期まで妻はドライブに行きたがり、その時 「どこを走る?」と尋ねると決まって言うのが「渡辺の道」。私たち二人のドライブにおける 「ホーム」コースである。
46は涼しい夏の1日に訪れた 「河北町紅花資料館」のことを詠んだもの。妻はホテルでも相聞歌2019年のメモ帳に時間があると書き込んでいた。

47は実に様々なことを話した。
病状のこと、これからどう推移するか、それとの関連でどこで抗がん剤を止めるか、が当時の主なテーマ立ったが、お葬式の時には天井からつるし雛を下げてほしいとか、あの着物は誰に、あの指輪はあの子にとか、誰に知らせて誰に知らせるなとか、そんな話もこのころからしていたような記憶がある。
48からは逆にやはり夏の暑さが身にこたえていたのだろう、と想像できる。抗がん剤治療をしているうちは長い旅行をするのはスケジュール的にも難しかったし、体力的にも次第にしんどくなっていった。来年こそは紀伊路に、と言ってはいたが、難しいかもしれない、と二人ともぼんやり思っていた。
後で主治医には
「(中途半端な?)知識かある人はすぐにそういうことを考える」
としかられることにもなるのだが(笑)。