龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

相聞歌2019年(8/20~8/25)

2019年06月17日 20時37分22秒 | 相聞歌
8/20(月)

96
院内に顔見知りが増えてゆく死も病も日常の一コマとなる(た)


97
気づかいをメカで表現する現代日本カーナビに誕生日祝われ戸惑う私(た)


98
マーカーが下がったという一言で未来が見えるような気がする(ま)



8/21(火)

99
7時間点滴の長さに慣れていくひたすら眠るこれまでを取り戻す如く(た)


100
甲子園決勝戦に立つエース金足農業笑顔も眩し(ま)



8/22(水)

101
施設への入居の補助にと渡す金手切れ金かと母が笑いぬ(ま)


102
同じ病だからこそ心に響く言の葉になる若い夫婦の涙とほほえみ(た)



8/23(木)

103
くたくたとくず折れるようにまどろんで虚しき一日が今日も過ぎゆく(た)


104
眠り浅く何ができるかなすべきか思いあぐねて朝が近づく(ま)



8/24(金)

105
鴎外の「じいさんばあさん」さながらに生きていこうか指切り甘し(た)


106
あったこと話したことを漏らさずに石に刻んで残しておきたい(ま)



8/25(土)

107
夏休み最後の土日は四十年新学期の準備に追われたものを(た)


108
スピノザと中動態の関係を語る機会が持てる不思議さ(ま)


109
「する」でなく「される」でもなき中動態妻の病いで経験していく(ま)


110
わかるとき分かるということが分かっている自分自身で疑いも無く(ま)


96,99,102,103
は、入院中(抗ガン剤投与のため二泊三日の入院を繰り返していた)の歌。
96,102は、同じく入院している人たちとのやりとりの中でうまれたものか。
99,103は、長時間の点滴をしているときのやるせなさが滲んでいる。
105は森鴎外の歴史小説『じいさんばあさん』のこと。仕事を辞めると決めてから、当時の二人の合い言葉になっていった。
大学二年の小説演習で、妻は『魚玄機』私は『じいさんばあさん』のレポーターだった。

ちらほら出てくる 「中動態」は、8/25にもう一つの読書会(こちらは専ら読む方)で國分功一郎『中動態の世界』について報告したので、この時に何度か出てくることになった。
福祉や医療といったケアの現場で 「中動態」という考え方はとても有効だと、妻の看護というか世話をしながら考えていた(今も考えている)。
能動と受動の2つに分けると見えなくなってしまうものがあるのではないか?実はギリシャの昔には 「中動態」というものが、まだ残っていて、そのころは能動/受動という二分法はなかった、という文法のお話しなのだが、色々なものの見方や考え方を汲み上げることができる 「有用な概念」だと感じる。
107は妻が8/26に退職する、そのときの気持ちが出ている。この次には退職についての歌がたくさん出てくる。
妻は再発が分かった直後に退職を決断しているのだが、本人がいちばんやりたかったことを手放さざるを得ない、苦しい選択だった。
大切だからこそ、クオリテイを保持できない自分は要らない、というのはいかにも彼女らしい振る舞いなのだが、本当に無念だったろうと思う。
私を残して先に逝くのは確かに心配ではあったろうが(笑)、本人がやりたかったこと、この世でもっとも重要だったことは、明らかに中学校教師として生きることだった。
それを辞めることは、生きることを終えるのに等しい。それほど仕事が好きだったのだと思う。

101は、これから続くだろう子供夫婦の病気療養の場所を提供するためにサービス型高齢者住宅に入居を決めた我が母らしいブラックジョーク。これも、記録しておこうとおもった。