龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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相聞歌2019年7月31日

2019年06月06日 21時20分52秒 | 相聞歌
③スーパーと病院通いは週一度病の身体が日常となる(た)

④頬杖のまま振り向く妻に 「仮面が落ちるよ」とからかうカモメ館(ま)

3月に60才で退職した後も再任用でがっちり働いていた妻だったけれど、癌再発の話を聞いた瞬間に「仕事を辞める」と決断していた。幸い夏休みに入っていて、仕事に大きな支障はない。管理職が次の講師の人を探すためにも早く決めるべきという判断だったのだろう。また癌との長いつきあいが始まる……このときは二人ともそんな風に考えていた気がする。
④の歌も、いつものやりとり。彼女はよく頬杖をついたまま顔を両手で引っ張り、しわを伸ばして平面的にする癖があった。その時私はいつも
「そんなに顔の筋肉を引っ張るとお面みたいだね、顔がとれて正体がばれるよ」
とからかっていた。
このあたりはまだ、妻の気紛れに付き合う感が強かったかもしれない。
※「カモメ館」とは、海沿いの喫茶店。震災で海沿いにあったお店の多くは 再開できないままだったが、ここはまた始めてくれたのを知り、このとき病院帰りにドライブがてら寄ったのだった。

相聞歌2019年7月29日、31日

2019年06月06日 18時42分02秒 | 相聞歌

①夫(つま)が笑み指の重みを我が魂に刻みつけたる病床の夕(た)


②病妻を気遣い先に転ぶ我を 「年ね」と笑う横顔愛(かな)し(ま)


(た)は亡妻、(ま)は夫の私。
4年半前に手術した卵巣癌が、もうすぐ5年というところでマーカーが急激に上がり、検査をしている時の歌。
思えばこの最初の一首から、妻の不安というか 「魂」の揺らぎが感じられる。その時は 「気弱になった」というよりは 「無理をしなくてよくなった」というような表情として受け止めていた。
両方の感情があったのかもしれない。私の歌は、日常の二人のやりとりを写したもの。


(島貫妙子の)相聞歌に寄せて(前説)

2019年06月06日 16時59分49秒 | 相聞歌
去年(2018年)の夏に卵巣癌が再発し、治療を続けていた妻(島貫妙子)が5/26(日)の夕刻に亡くなりました。

先週葬儀と納骨を終え、事務的な手続きも一段落して、ふと我に返ると、家の中のもの全てがあたかも強い磁場に引きつけられた羅針盤ででもあるかのように亡妻を指し示していることに気づきはじめました。

カップでコーヒーを飲もうとして、お風呂の順番を家族で声かけしようとして、 「もうそろそろ寝ようか」と声を出そうとして、妻の不在に家中が満たされているのを思い知らされます。
そのたびごとに心は「あくがれいづる」のですが、行き場を持たないそれは、涙にならない溜め息としてふわふわと漂いながら床に転がっていきます。部屋の掃除をいくらしてみても、全てが亡妻の思い出と結びついていますから、溜め息はそこいら中に積み重なっていきます。

さて、このままでは身じろぎするのも億劫になってしまいかねない状態になりそうです。
一方そんな風に感傷的な気分を掻き立てる家の中からとりあえず待避しようと試みても、旅に出てそれを楽しむほほどのエネルギーが湧いて来ず、荷物をクルマに詰め込んでみたものの結局どこへもいけずじまい。

ではどうする?

と思ったときに思い出したのが、メモ用紙をやりとりしながら妻と書いた短歌(のようなもの)でした。

妻は8月に、私は9月に仕事を辞め、2人で残りの人生を共に生きる選択をしました。その闘病生活が始まってから、妻は短歌をメモ帳に書き始めます。私もまた、妻が何か書いているのを見て、それに倣って短歌(のようなもの)を付け返すようになりました。

拙いなりに 「表現」が持つ持続性は、今私が身の回りのモノやコトに感じている ふわふわとした 「あくがれいづる魂」に対する一つの 「アンカー(錨〈いかり〉」のような役割を果たしてくれるのでなないか、と考え、毎日少しずつここに書いていこうと思います。

表現とかいうのもをこがましい話ですが、2人が短歌のやりとりをしたその道を辿り直すことは「作業による悲哀の仕事」療法めいた意味ぐらいは持てるのかもしれません。

 自分では完結しようのない想いをなんとかくぐり抜けるために、ここに書き記しておきます。

もし万一お時間があればゆっくりお付きあいくださいませ。