8/11(土)
74
二度の癌ロイター板のごとくなり常識のバー軽々越えて(た)
75
彼女連れ帰省したいと息子の声会いたくもあり会いたくもなし(ま)
76
結婚をしたいと息子が語るときまず正規職に就けという妻(ま)
8/12(日)
77
焼き肉のトングを息子に渡すこれからの道を創りゆく君へ(た)
78
抗がん剤効いているのかいないのか見えないものと向き合う残暑(ま)
8/13(月)
79
姑の静かな決意と優しいほほえみ秋の湖面のごとき団らん(た)
80
盆の入りお墓の草をむしりつつふと来年の夏を思いぬ(ま)
74
最初のガンから四年半、正直ここまで来たらもう大丈夫かな、二人ともそう思い始めた夏だった。
また本人が24才の時、半年のうちに父と弟を連続して心臓発作で亡くし、自分自身もその頃急病(病名は不明のまま)で入院していたため、
「自分の人生は長くない」
と思い定めていた節がある。
「私の人生はあの時終わっていてもおかしくなかったのよ」が口癖だった。
「死ぬなら心臓で一瞬ね」
それもまた彼女のファンタジー、といえばそうたったのかもしれない。
最初の 「常識のバー」を越えたときのことは覚えている。四年半前、検査後半日待たされて、婦人科の待合室には男の人が入れないので遠いところで待っていると、声を掛けられて妻と診察室に入った。そのときに
「卵巣腫瘍です。かなり大きくなっています。すぐに手術が必要です」
良性か悪性かは手術してみないと分からないが、腹水の細胞診の結果から見て厳しいのでは
ということを、告げられた。
妻の紅潮した顔が目に焼き付いている。側にいながらどんな顔をしたらいいのか分からない。どんなことを話せばいいのか分からない。(手術の出来る)専門の病院を紹介する、と言われた後、病院を出て車に戻ったとき、妻に
「ゴメンね」
と一言言われた。一瞬意味が分からず固まった。
これは妻が「先に死ぬかもしれない」と考え、まず私にそのことをいったのか、と考えると身体中の血液が逆流しそうなショックを受け、更にとう返事すれば言えばいいのか分からず、そのときどういう会話をその後したのかも覚えていない。とにかく早く手術をしてもらおう、心配しないでとでも言ったのだろうか。
それに対して二度目の今回は少し違っていた。再発したらなかなか完治は望みにくく、ガンと上手に付き合っていくことが求められるということを学習していたから、症状や数値に一喜一憂せず、側に寄り添うことが一番だ、という心構えのようなものはあったから、 「抽象的」には準備していた、といえる。
だが、実際に抗がん剤治療が始まってみると、体力的に前回と同じと言うわけにはいかないし、精神的にも一度目の戦い方とは違ってくるし、 「抽象的」な心の準備はそれほど役には立たなかった。
ただ、一つだけ心に決めていたことがある。
「悲しむのは、そして泣くのは全てが終わってから。それまでは感情に振り回されて大切な時間を絶対に浪費しない。彼女の望むものを提供し続ける」
そう思い定めていた。
残りの歌はお盆で帰省してきた息子、お墓参り、施設に行こうと考えてある母のことについて。
78で詠んだ抗がん剤への思いは、この後妻の体力が落ちていくに連れて、様々な葛藤へと変化していく。
74
二度の癌ロイター板のごとくなり常識のバー軽々越えて(た)
75
彼女連れ帰省したいと息子の声会いたくもあり会いたくもなし(ま)
76
結婚をしたいと息子が語るときまず正規職に就けという妻(ま)
8/12(日)
77
焼き肉のトングを息子に渡すこれからの道を創りゆく君へ(た)
78
抗がん剤効いているのかいないのか見えないものと向き合う残暑(ま)
8/13(月)
79
姑の静かな決意と優しいほほえみ秋の湖面のごとき団らん(た)
80
盆の入りお墓の草をむしりつつふと来年の夏を思いぬ(ま)
74
最初のガンから四年半、正直ここまで来たらもう大丈夫かな、二人ともそう思い始めた夏だった。
また本人が24才の時、半年のうちに父と弟を連続して心臓発作で亡くし、自分自身もその頃急病(病名は不明のまま)で入院していたため、
「自分の人生は長くない」
と思い定めていた節がある。
「私の人生はあの時終わっていてもおかしくなかったのよ」が口癖だった。
「死ぬなら心臓で一瞬ね」
それもまた彼女のファンタジー、といえばそうたったのかもしれない。
最初の 「常識のバー」を越えたときのことは覚えている。四年半前、検査後半日待たされて、婦人科の待合室には男の人が入れないので遠いところで待っていると、声を掛けられて妻と診察室に入った。そのときに
「卵巣腫瘍です。かなり大きくなっています。すぐに手術が必要です」
良性か悪性かは手術してみないと分からないが、腹水の細胞診の結果から見て厳しいのでは
ということを、告げられた。
妻の紅潮した顔が目に焼き付いている。側にいながらどんな顔をしたらいいのか分からない。どんなことを話せばいいのか分からない。(手術の出来る)専門の病院を紹介する、と言われた後、病院を出て車に戻ったとき、妻に
「ゴメンね」
と一言言われた。一瞬意味が分からず固まった。
これは妻が「先に死ぬかもしれない」と考え、まず私にそのことをいったのか、と考えると身体中の血液が逆流しそうなショックを受け、更にとう返事すれば言えばいいのか分からず、そのときどういう会話をその後したのかも覚えていない。とにかく早く手術をしてもらおう、心配しないでとでも言ったのだろうか。
それに対して二度目の今回は少し違っていた。再発したらなかなか完治は望みにくく、ガンと上手に付き合っていくことが求められるということを学習していたから、症状や数値に一喜一憂せず、側に寄り添うことが一番だ、という心構えのようなものはあったから、 「抽象的」には準備していた、といえる。
だが、実際に抗がん剤治療が始まってみると、体力的に前回と同じと言うわけにはいかないし、精神的にも一度目の戦い方とは違ってくるし、 「抽象的」な心の準備はそれほど役には立たなかった。
ただ、一つだけ心に決めていたことがある。
「悲しむのは、そして泣くのは全てが終わってから。それまでは感情に振り回されて大切な時間を絶対に浪費しない。彼女の望むものを提供し続ける」
そう思い定めていた。
残りの歌はお盆で帰省してきた息子、お墓参り、施設に行こうと考えてある母のことについて。
78で詠んだ抗がん剤への思いは、この後妻の体力が落ちていくに連れて、様々な葛藤へと変化していく。