龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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改めて、柏崎刈羽原発再稼動に反対する。

2015年01月04日 11時44分56秒 | 大震災の中で
毎日新聞(ヤフーニュースより)に、こんなニュースがあった。

<柏崎刈羽原発>再稼働・管理強化へ原電技術者受け入れ検討

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150104-00000002-mai-bus_all
再稼働は、本当にやめた方がいい。

私は福島の住民として反対しなければならない義務を背負った。

決してNIMBY(not in my backyard:必要なのは分かるけど、自分の家の近くじゃないところでやってね、という迷惑施設のこと)問題としてではなく。

私は福島に住む住民として、原発施設はいわゆる私たちが付き合ってきた世界(自然、とも呼ばれたりするけど)との関係、人と人との関係、自分自身との関係を、お金との関係を、メチャメチャにしちゃうものだということを知ったから。

もちろん地元の高校教師として、東電に教え子が合格•入社した時、工業高校の進路係として、また担任としておめでとうをいったし、嬉しかった。彼女の人生にとっては疑いなくプラスだと感じたから。そして彼女が大震災の時どうしているかに心を痛めもした。安否がわかって元気にいわき市で子育てをしていると知った時、深く安堵した。
そんなこと一つをとっても感情は単純ではない。

そのことを含めて(つまりは感情を捨象した計算可能性の理性ではなく)、私の直観は原発再稼働を認めてはいけない、と答えを出す。

立場や権力は、人間の自然権を最終的に奪えはしない。

安倍晋三が「解釈改憲」の非常時を宣言して「この道しかない」というのは、そうだろうな、と思う。のんびりはしていられない、という「計算可能性」の限界がそこにきているからだ。

それでもなお、その計算を止めるわけにはいかない、という者達は、どこかで理性を自分の計算の範囲だけで停止してはいないか?

スピノザが偏見や感情(第1種認識)をほぼ間違っている、と嘆きつつもそれもまた人間の認識だと言い、だから理性(第2種認識)が必要だ、と主張しつつもそれが最も高いところに位置しているわけではないとして、なお第3種認識としての直観を手放さないのは、まさしくそこに係る。

みんな、もう少しスピノザを読もうよ。『神学政治論』(光文社文庫から新訳が出てます)は実用書(訳者の吉田量彦による)ですよ(笑)

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