龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

『理不尽な進化』吉川裕満(朝日出版社)を読み始める。

2015年01月02日 15時32分01秒 | メディア日記
第一章は、進化論を、99.9%の絶滅種側から見たらどうなるか。
ちょっと前フりが長い嫌いはあるけれど、時代の気分にに寄り添った「比喩」として今は「進化論」より「絶滅」でしょう、という方向性(そう明示的には書いてないけど)には納得。

第二章以降は、素人の思い込みだけではなく、専門家の議論が紛糾する理由についても触れた上で、歴史と自己認識を巡る問題を論じる……のだそうです。

とりあえずヒッチコックの映画かなにかに用いられていた「トーナメント理論」をふと思い出す。


上橋菜穂子『鹿の王(下)』読了。

2015年01月02日 14時09分07秒 | メディア日記
物語的にグイグイ引っ張る謎と、それ巡って展開される活劇、そして医学の丁寧な描写と政治の権謀術数、さらには文化人類学的というか様々な人々の風習や環境、習俗、自然、文化、宗教などの多様性etc.魅力満載。とくに前半は世紀の傑作に近い。

後半、お店をたたむのがいささか足早になってしまったのではないか、と感じるのは、この作者に「物語」だけを求めてしまう「過ち」を犯しているから、だろうか。
しかし、それほどに魅力的な「世界観」なのだ。後半どうすれば良かったのか、というと難しいが、説明が先に立った感じが微妙にある。もっと長編になるべき内容かと。

物語派としては、もう少し展開の中で滅びゆく者たち、それを観るもの、政治の中での位置付けを読みたかった。それにしてもまあ、必読の一冊でしょう。

2014年に読んだファンタジーでは、
ガース・ニクスの傑作ダークファンタジー
『アブホーセン』『サブリエル』『ライラエル』3部作と並んで推奨すべき作品です。

上橋菜穂子の別の文庫本が未読なら、そっちを先に読みつつ、こちらの文庫化を待つ手もありますかね。




明けましておめでとうございます。

2015年01月02日 13時55分27秒 | 大震災の中で
ブログを始めてから10年ぐらい経ちました(たぶん)。その間サーバーも4回ほど引っ越ししました。それでもデータを引き継ぎつつ、メモ代わりにアップし続けている理由は、ほぼ一つ。

(最近はFacebookに書くネタの中で、メディア日記に残しておいた方がいいものをこちらに書く使い方になっていますが)

とにかく書き続けているのは 自分のハードディスクやクラウドだと結局いつの間にか散逸してしまったり、参照しないまま埋もれてしまうから、です。

お読みいただくのも申し訳ないぐらいですが、言葉はそれでも読まれることを期待して書かれるので、ありがたく「読ませ」させていただいております。

今年もよろしくおねがいします。


G-SHOCK GULFMASTERを買ってしまった件。

2015年01月02日 13時38分11秒 | ガジェット


G-SHOCK GULFMASTERを購入。
30%引きが安いか高いかは措くとしても、必要か必要でないかを考えれば間違いなく要らないに決まっている。
まあ、「オモチャ」とはそういうものです……。

高度、潮の干満、気圧、温度が計測でき、しかも時間まで解る。
しかし、温度とか、体温計と気温計の間を指してるから、気温をはかるときには30分ぐらいはずしておかねばなりません。
もちろん山に出掛けるとか、本当に必要な人にとっては便利なのでしょうが、私には猫に小判。

い つの間にか釦が押し下げられていて、肝心なときに何が表示されているのからずパニックということがすでに3回もあり、重くてかさばるし、何がいいんだか、という話。

でもなんか楽しいんですよねぇ(^_^;)



千葉雅也×岡嶋隆佑の対談 「思弁的実在論と新しい唯物論」 を読む。

2015年01月02日 12時24分28秒 | メディア日記
雑誌「現代思想」2015年1月号の中の

千葉雅也×岡嶋隆佑の対談
「思弁的実在論(Speculative Realism)

新しい唯物論New Materialism)」

を読む。
細かいところが全然分からない(笑)
メイヤスーもマラブーもハーマンも読んでいないから、まあ当然。

極めて大雑把に流し読みして、
「SRやNMは、突き放して見るならば、文学的なもののポスト・デリダ的なアップデートであると言えそうです」

「SRの方には、ニヒリスティックに人間のいない世界を考えてみたいという徹底的な人間疎外への欲望があるようにみえる」
「NMの方では人間と間が『共に』どうこうする、という『共』の求心力が強い」

とかをフムフムと読んでおしまい。

個人的には、いきなり世界が根底からズドンと変わり、神の不在から神の到来に次元が移ってしまうメイヤスーの「あられもない」設定にとりあえず魅力を感じる。

それはあるいは千葉雅也氏が指摘するように、現代における「不安バブル」的な心性が、身も蓋もない「神の到来」を求めてしまうのかもしれない。

もちろんその神さまの到来は、この世界内の「変化」の話しの次元ではない。世界それ自体が変わる話だ。

「メイヤスーが面白いのは、突然の理由なき変化という、まあ身も蓋もない話を、宗教的・神秘的にではなく言っているところです。その身も蓋もなさを手早く批判するのではなく、何らかの角度から積極的に『味わう』のでなければ、現代文化におけるメイヤスーの位置付けを考えることはできないねしょう」(千葉)


ってことなんだけど、普通の日常的なレベルで言うと、
「何をバカなことを考えてんだ、哲学者たちは」
ってことになるんだろうね。

でも、面白い。

NMが、人間から動物へ、動物からモノへ、と配慮の対象を広げるのは、
カルスタ→ポスコロ→クィア
の延長線上で、「ものごとを一つ一つ大切にしましょう」という「やさしさの人文学」的態度だから、しばらく続くだろう、といういささか皮肉な見通しもとりあえず納得(笑)

「永遠の相の下」で見れば、なんて言っちゃうスピノザもかなりなものだが、哲学者たちの考えることは、いつだって「あられもない」ものであったり、「身も蓋もない」ものであったりする。

この世界とこの世界を認識するその根底について思考するってことは、そうゆうことなのだろう。
子供みたいな感想だが、哲学のテキストを読むときはいつも子供みたいになることができるのが、いいわけで。

政治とか社会とかを考えたり語ったりするときには、そうはいかないもんなあ。