龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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千葉雅也×岡嶋隆佑の対談 「思弁的実在論と新しい唯物論」 を読む。

2015年01月02日 12時24分28秒 | メディア日記
雑誌「現代思想」2015年1月号の中の

千葉雅也×岡嶋隆佑の対談
「思弁的実在論(Speculative Realism)

新しい唯物論New Materialism)」

を読む。
細かいところが全然分からない(笑)
メイヤスーもマラブーもハーマンも読んでいないから、まあ当然。

極めて大雑把に流し読みして、
「SRやNMは、突き放して見るならば、文学的なもののポスト・デリダ的なアップデートであると言えそうです」

「SRの方には、ニヒリスティックに人間のいない世界を考えてみたいという徹底的な人間疎外への欲望があるようにみえる」
「NMの方では人間と間が『共に』どうこうする、という『共』の求心力が強い」

とかをフムフムと読んでおしまい。

個人的には、いきなり世界が根底からズドンと変わり、神の不在から神の到来に次元が移ってしまうメイヤスーの「あられもない」設定にとりあえず魅力を感じる。

それはあるいは千葉雅也氏が指摘するように、現代における「不安バブル」的な心性が、身も蓋もない「神の到来」を求めてしまうのかもしれない。

もちろんその神さまの到来は、この世界内の「変化」の話しの次元ではない。世界それ自体が変わる話だ。

「メイヤスーが面白いのは、突然の理由なき変化という、まあ身も蓋もない話を、宗教的・神秘的にではなく言っているところです。その身も蓋もなさを手早く批判するのではなく、何らかの角度から積極的に『味わう』のでなければ、現代文化におけるメイヤスーの位置付けを考えることはできないねしょう」(千葉)


ってことなんだけど、普通の日常的なレベルで言うと、
「何をバカなことを考えてんだ、哲学者たちは」
ってことになるんだろうね。

でも、面白い。

NMが、人間から動物へ、動物からモノへ、と配慮の対象を広げるのは、
カルスタ→ポスコロ→クィア
の延長線上で、「ものごとを一つ一つ大切にしましょう」という「やさしさの人文学」的態度だから、しばらく続くだろう、といういささか皮肉な見通しもとりあえず納得(笑)

「永遠の相の下」で見れば、なんて言っちゃうスピノザもかなりなものだが、哲学者たちの考えることは、いつだって「あられもない」ものであったり、「身も蓋もない」ものであったりする。

この世界とこの世界を認識するその根底について思考するってことは、そうゆうことなのだろう。
子供みたいな感想だが、哲学のテキストを読むときはいつも子供みたいになることができるのが、いいわけで。

政治とか社会とかを考えたり語ったりするときには、そうはいかないもんなあ。

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1 コメント

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接続と切断 (foxydog)
2015-01-03 18:52:13
千葉雅也氏の
「非意味的接続と非意味的切断」
というキーワードを思い出した。
メイヤスー読解に関するところで千葉さんが、神の到来についての論が先にあったらメイヤスー受容がもう少しやりにくかったかもしれないという意味のことを書いていて、それもちょっと面白かった。
そういえば、國分さんが自分のことを「一元論的」といって千葉さんは「二元論だからね」と笑っていっていたのともちょっと響き合う。
とりあえずだから何、ということはない。メモ的に。
まあただ、スピノザに魅かれる身としては神さまを巡る話は何にせよ興味深い。
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