龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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「田人の森に遊ぶ ARTMEETING」再論

2013年08月13日 10時45分22秒 | 大震災の中で

一昨日(8/11)「田人の森に遊ぶ ARTMEETING」に行ってきたことは既に書いた。
このブログにも作品の写真(これ、アップしてもいいんですかね?白昼堂々公共の場に置いてあるものだから、まあいいかな、ということで載せてありますけど、まずかったらすぐ削除します!)を載せてある。


基本的にはとっても素敵で、楽しんで観させてもらった。
と同時に、何か批評も加えるべきか、とも思って、
facebookのコメントに、こんな印象を書いた。

「山の中に放置されているビニールゴミって感じ」
になっているものもあるから、そこはお金とか企画とかもう少し充実させていくといい。

ところが、二日経って少し印象が変わってきたので、そのことを改めて書き留めておきたい。

確かにその前日(8/10)に観た越後妻有「大地の芸術祭」のオブジェたちは、質量ともに豊富で、素材もしっかりしていて、その地域全域に広がっている。展示される場所や美術館も継続的なものになっていて、さすが2000年から続いている積み重ねを感じる。
しかし、妻有と今回の田人のアートミーティングと、自分の中でどちらが「記憶」の中でイメージを強く醸成してくれるか、というと、簡単には
決められない。

山の斜面に下草を刈っただけでポツネンと置かれているオブジェは正直寂しかったりもして、もうちょっと強いテーマとか補助線があったら映えるのにと思ったし、学校の校庭の雑草の中に置かれた作品も、もう少し目立つように置いたらいいのに、と思ったりもしたのだが、記憶の中でそれをもう一度今なぞり直すと、「田人の自然の中で遊ぶ」という響き合いは、むしろこの田人の作品群の方が、フラジャイルなというか、まさにサリエントな形で自分と繰り返し出会っているのかもしれない。

局所的に散在するサリエントな刺激たち、という意味では、放射能汚染を底に抱えた豊かな自然という田人の「今」と、作品たちのある種の「弱さ」とは、欠如ではなくむしろその「帯域」にチューニングされている、と見立てることもできそうだ。

むろん、イベントとして公開されるのであれば、もう少しシステムというか構造としての強度がほしいという印象はある。
せっかく地元の田人から発信するのだから、継続もしてほしいし、たくさんの人の「交通」する結節点にもなってほしい。

行政・政治とお金の問題、生活空間、仕事の空間をアート化するという或る意味素っ頓狂な振る舞いに対する説得と理解、イベントに伴う困難を考えると、本当に頭が下がる想いがする。

どうか、この「ARTMEETING」を続けていってほしい。
応援できることはしたいと思う。
そういうチャンネルもどんどん開いてほしい。
相互に「大切な」イベント同士の回路を開いていくことは、実践的な「政治」の力を持つことにもなるだろう。それを「政治」とか「権力」と手垢の付いた言葉で呼ぶのは、最初は躊躇われるかもしれないけれど、そういうことが大切なのかもしれない。

とりとめなく、でも、メモしておきます。