龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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小学校のときの恩師が亡くなった。

2010年09月05日 15時22分19秒 | インポート
享年82歳。
私は今52歳で、教師30年目だ。小学三年生、10歳で出会ったとき、恩師は40歳になったところだった計算になる。

40歳と言えば、仕事人としては「旬」の時期だろう。

私はかれに出会って人生が変わったと思っている。彼がいなかったら、間違いなく私は教師にならなかった。
彼のような教師に、私は今までたった一人も会ったことがない。それほどに彼はユニークな存在だった。

何せ、授業をやらないのだ。

時間割通りにやらないのはもちろんのことだが、半日つぶして数学ばかりやったり、ずーっと自分が旅行してきた土地の話をしたり。

あるいは、男の子に女の子を選ばせて隣同士で座らせて授業をしたり、問題が出来た順から校庭で自由に遊ばせたり。
宿題を忘れると、宿題のノートに押すはずの真っ赤で大きな検印を額や頬にペタリと押したりもする。もうどちらがいたずらっ子か分からないではないか。

なんにしてもおよそ教育とか授業とは思えないことばかりだった。先生のめちゃめちゃ面白い言動をおもしろがりつつ、そのついでに授業を受ける、という印象だった。

加えて、今ならADHDかつLD児と言われるに違いない「多動児」の私を、彼は
「速度」
の才能として認めてくれたのだ。
担任が彼でなかったら、私はおそらく問題児として排除されていたに違いない。事実、一年生と二年生のときは、授業中着席することの意味が全くわからない私を、先生方は壊れた製品を見るようにみていたのではなかったか。
優しい先生方もおられたし、厳しいせんせいもいたが、彼らは皆、私を動かさないことが、教室のためでもあり、私自身のためでもあり、当然教師自身の価値でもある、と信じていたようだった。
ばかでも、そのぐらいは分かる。
ただ、自分にはじっとしていることの意義がわからず、授業中に出歩いたり、友達にちょっかいをかけたりしつづけていたのだ。

ところが新しく小3で出会ったその恩師は違っていた。

「君には速度がある」

と、
彼は繰り返し私にそういってくれた。彼が私の考えやきもちを理解してくれたのではない。
ここは強調しておきたいのだが、彼は私の考えや心情を理解したから、私が影響を受けたのではない。
彼は、私が集団の中で明らかに異質であることを承知しつつ、それを排除するのではなく、上手に認めたのだ。

まあ、それはベテラン教師が問題児を軽く「転がした」ということであったのかもしれない。
だが私はそのやり方、姿勢に感銘を受けたのだ。

いろいろいた方が面白い、彼の中には、仕事を面白がる姿勢が伝わってきた。なにより、へんてこりんな私を面白がってくれている、そのことが、私を勇気づけ、調子をこかせてくれた。

「その速度を緩めることはない、どこまでも進んで行けよ」

という、信号は、もしかすると彼自身に向けた思いでもあったのかもしれない、と今にして思う。

残念ながらどこまでも進んで行く、なんて素敵なことにはならず、ただの平穏な退職を祈るばかりの初老の教師になっただけだ。
でも、10年ぐらい前に彼の家を訪ねた時のことを、私は今でも懐かしく、ある意味では誇らしく思い出す。

そのとき、恩師はなんで教師なんかになったのさ、と私に問うた。
私は
「だって、先生がいたから、先生に出会ったからですよ。そうでなくちゃ教師にこれほど向いてないオレが先生稼業なんてやるはずないじゃないですか」
と答えた。
そのときの恩師の表情は全く覚えていない。
彼とは、気持ちが通じていたともおもわない。

たぶん、彼にとっても私にとっても、気持ちよりも大事なものがあって、それが、メチャクチャな彼を教育の現場にとどめていたのだと思うし、私もそこに感応して彼の弟子になったのだとおもう。

その大事なものは、言葉にしてしまえば簡単なのだが、だからといってそれは簡単には伝わらないことでもあるのだろうとも思う。

異質なもの、自分の理解を超えたものへの好奇心の速度を称揚する態度。
どこまでも人間を面白がれる懐の深さ。

型にはめることが教育だとおもっていたり、本当は違うとつぶやきつつ、仕事だからと定型化を生徒に求める輩には最後までつうじないはなしだ。
教師ヅラをしたヤツは、そんなことはわかっている、って顔をすぐするのだろうけれど。

小3から小6まで四年間担任だった彼は、卒業式直前に病気で倒れ、代わりの先生は彼のあまりの授業進度のおそさにめまいをしながら毎日ノルマをこなしていた。私は真面目な普通の授業を受けながら(その頃は私も椅子にすわっていられるようになっていたらしい)、彼のことを慕って相変わらず夢想にふけっていたのを覚えている。
卒業後、彼が退院してから、中学生になった私たちをもう一度小学校の教室に呼んで、彼は二度目の卒業式を行った。まあ、今にして思えばそれもやりたい放題の話だよねえ。
でも、多分全員近く集まったんじゃなかったかな。

そこでかれは、自分がクリスチャンであることを始めて告白する。

そのときはただへんなの、としか思わなかった。だって、
「この世界を誰が作ったか、と考えたら、神様しかいないだろう?」
と言われても、当時のただうすら生意気な中学生になったばかりのぼくらは、ぽかんとするだけだった。
だが、今なら、彼の言いたいことが分かるような気がする。
それはおそらく、やはり単なる共感、というのではない。
彼はあの時、この世界を支える根本的な公的基盤の話をしたのだ、と今の私は理解している。

だからこそ、教師としてたったひとりだけ、秩序から逸脱した子供をおもしろがってくれたのではないか。
自分では全く宗教を持たないにもかかわらず、宗教的な基盤を欠いた教育について疑問を持ち続けていたことも、今日、恩師のことをふりかえってみて納得がいく。

もう一度彼と話が出来たら、
教育と神様についてゆっくり話し合いたかった。

今はただ、佐藤典夫先生のご冥福を祈る。






入院体験記(17)終わりに。

2010年09月05日 00時43分32秒 | インポート
退院して、無事毎日仕事をしている。

まだ小さな声で、かつちょうじかんの会話を避ける、ように、と医師から制限の
指示があった、というこたもあり、無茶な大声は、ださなくなった。

声は、意外に小さくても話は届くモノなのだ、と初めて知った。
もしかすると、今まで大声で喋っていたのは全く余計なことだったのではないか、という疑問が湧いてくる。
小声でも、十分話はつうじるのだ。
あるいは私が以前から大声だったのは、自分自身を鼓舞するためにすぎなかったのかも、といささか愕然。


どれだけの量をどれだけのおおきさでしゃべるのか。
必要もないのに喋らずにはいられない自分の中の「語りへの欲望」は、何を求めて蠢くのか?

しゃべることの意味・意義について、改めて考えさせられます。