龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

それでも教育から経済を考える(6)

2010年09月18日 10時17分21秒 | インポート
教員の給料が下がっても、むしろ理想が自由に追えたりケツをまくりやすくなるならいいじゃないか的なことをかいたら、メールがあった。
そういう上品なことだけいっては話の半分にしかならないという指摘だ。
以下引用開始--------

僕は教育と教員対生徒の関係は特殊な領域だし関係だと思います。
こんなこと一般社会じゃ通用しないよとどんなに毒づかれようが その通り(特殊)ですと答えたい。
アーレントが言うように私的領域から市民的領域に移行する際に学びが絶対に必要で、現代においていくら衰えたとはいえ学びの公共空間として残されているのは学校空間です。諏訪哲二や樹ちゃんじゃないが、そこは市場的消費空間にしてはいけない。
ブログでの(foxydogの)発言は教員として上品な発言だと思いますが、教員の身分と給料は保証されなければならないとおもいます。僕らは現代システムの中にさらされつつ学校空間において名誉ある?地位を占めなければ生徒の学びの質は保証できないから。つまり僕らがお金に困ることなく本を買い勉強し生徒が憧れるくらいに知的で素敵な人間であるために必要な投資はされるべきだ。

引用終了------------

ほぼ同意、です。

ただ応答しておきたいのは、アーレントに言及した部分と内田樹や諏訪哲二の名前に係わるところ。

「私的領域から市民的領域に移行」

するというのだけれど、今私の考える「教育で行いたいこと」っていうのは、公共的な場所に「だだ漏れ」私的なものがひたすらあふれている、それを本来的に「私的なもの」として扱うための、前提としての公共的空間の確保、みたいなことなんですね。彼らを「市民」に仕立て上げることには心底熱心になる、というわけにはいきません。
私的は私的でいいから、「接して漏らさず」行こうよということです。

メールの指摘は、敢えてする啓蒙の方向だとすれば、私がやりたいのは不可能な啓蒙の方向かもしれません。

いずれにせよ啓蒙せずには教育は語れない。

だからその限りにおいては、内田や諏訪は「正しい」と思う。

諏訪や内田の言うとおり、今の児童や生徒、学生は、徹底的に市民消費社会の主体として既に形成されてしまっている。
だから、「敢えてする啓蒙」という暴力的装置によってその「だだ漏れ」状態の消費主体を食い止め、個人=「市民」として振舞い得るよう、既に書き込まれてしまった背中の書き込み(市民消費社会の主体としての「聖痕」)をリライトしてやらなければ……。

そうなんだけどね。

ただ、アーレントの「複数性」についての身振りでもいいし、柄谷行人の「命がけの跳躍」でもいいし、小室直樹の「擬制的共同体としての学校」論でもいいのだけれど、これほどにうさんくさい教育だからこそ、敢えてする権威主義を「動物的」身体に還元して称揚してしまうのではなく、うさんくさいならもっとうさんくさい縦軸としての「宗教的」なところまでいって、乞食坊主の快楽主義的な提示を、個人的にはしたいのです。

つまり通じない身振りによってしか、啓蒙は正当化されないっていう……。
それって神様のいない「否定神学」ネイティブな50代前半んだけの病気かしら(苦笑)。
でもさ、「啓蒙」とか「共同体」とか「国家」とか、市民消費社会の=経済主体は、それだけで成立しているわけではなく、経済外的現実と繋がった「存在」としてもあるわけで、学校は明治の近代化開始から120年続いた(たかだかともいえるし、よくもともいえるが)シャドウワークの「装置」だかんねえ。

民営化すればそれでいいってわけにはいかないポイントの一つがここにもある。ような気がする。
「新自由主義」的な市場原理主義なんて、そういう意味では均質化というフィクションを無前提な前提としたナショナリズムと同様、「たちの悪い」半分だけの土俵にすぎないでしょう。
まあ、「リベラル」の閉じた「正しさ」もまた同様に薄気味悪いことが見えてきてしまっているけれど。


しかし、身体(論)を伴った処世術や、正義(論)を伴った共同体主義に身を委ねる愚かさを、それらを論じるものたちでさえ、本当には求めていないとするならば(それはヒトがよすぎますか?あるいは趣味が悪すぎますか?)、「保守的」に「近代」でありつづけることも「啓蒙」として必要なんだろうな、とも思う瞬間があります。

ともあれ、教育は、そろばん勘定には乗らない部分があって、そういう「ドブ」に金を捨てるような「無駄」をどう「コスト」に乗せるのか乗せないのか、ってところが典型的に現れてくるよねえ。

それは小さい視点では感情サービス労働全般の問題でもあり、「社会規範(共有すべき知識や身振り、ルールを叩き込むという意味ではしつけも知識も、ある種の想像力の形だって創造性のフレームだって<規範>です)」の内面化という「強制」的な他方近代化以来の「国家」としての社会システムの問題でもあるし、「啓蒙的」であるとはどういうことか、「教育とは何か」という経済的な営みがここまで拡大される以前から問われていた問い、でもある。

だからさあ、経済について考えることは、教育公務員である私にとって、同時に「経済的」でないこととは何か、と考えることでもあるのです。

それは「経済」と「教育」や「啓蒙」が切り分け可能だって話じゃあもちろんなくて、境界線を妄想することによってその近傍に立ち現れる幽霊に瞳を凝らすことによってしか、実は私たちは経済についてであれ教育についてであれ、多少なりと原理や本質について語ることができないのではないか、という表象をめぐる力と形のせめぎ合いの話だ。

収拾がさらにつかなくなりつつ、なおもこの項は続きます。