龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

生きることのうちに潜むズレの感覚のこと

2010年09月11日 15時31分58秒 | インポート
若い頃は、体が動かなくなることなど想像もしなかった。いや、怪我をしたり病気になったりしたことはある。そうではなく、なんでもないのに動かなくなっていく、ということが想像できなかった。
つまりは「老い」に対する想像力が働かなかったのだ。

最近、病院にいっても年相応ですから、といわれて少々ムッとする経験が増えてきた。
50代前半だからまだ冗談半分で話題にしているが、次第にこれは冗談ごとでなくなっていくんだろうな、とこれは目の前のことの地続きとして想像できる。そして終いに命を終えるとき、「十分年相応の最後」だったと言われるのは、普通に考えれば満足な老後、ということになるのだろうか。
しかし、そのストーリーはやっぱりいささか他人事の匂いがする。本人にとっては「年相応のさいご」なんてそうそうその辺にころがっている「当たり前」じゃないだろう。
強欲にもっともっと長生きしたい、という我欲について書いているのではない。今日と違う明日があって、しかもその今日と明日をつなぐのはこの「私」の中の「連続性」をもった自意識以外にない以上、その連続を断ち切るような一見客観的な言説は、ちっとも「当たり前」ではない、ということがいいたいだけだ。
そんな「自意識」の装われた連続など、ふっとある日突然終ってしまうものだし、それを嫌がる積極的な理由があるわけではない。ヒトの精神的な死というものはきっとその「私」の連続性の終焉であるのだろう。わからないけど。
ただ、じゃあ、それを「私」自身がどこで見切りをつけるというのか、っていうことである。そんな見切りや諦めは早とちりして自分でお墓のじゅんびをするようにするものじゃあないだろう。
死ぬまで生きる。
いまを超えて明日までは生きる。この一瞬を超えて、その次もまたこの「私」は時を超えていく。
その決して当たり前ではない不連続の連続ジャンプを、私たちは物心ついたころから続けてきたはずだ。

たしかにそのズレだけにこだわるのもどうかとは思う。私たちが幸せを感じるのは、その今の自分と過去の自分とのズレ、今の自分と未来の自分ととのズレを意識の表面から押しやってしまうような「持続」の充実感なのだから。

映画に飽きて腕時計ばかり見るような人生はそりゃあたしかにつまらないものね(笑)。

とはいっても、夢中な持続ばかりを並べてすませようというのは、日常をお祭りの屋台で埋め尽くそうという無茶にも似ている。

コンビニエンスストアやレンタルストア、いやTVの高輝度画面の無意味な明るさだって、お祭りの光の成れの果ての一種なのかもしれない。

お墓のカビ臭い静けさに少しづつ慣れていくことも必要な身振りではあるのだろうか。

身体を伴って生きるココロが、この世界像の中ので開かれたものであり続けるためには、どんなことが必要なのだろうか。
とりあえずこの年になってなおも小説を読むことに意味があるとしたら、そういうことについて考えを巡らし、自分のココロと身体を泳がせてみる場所を探すことにおいて、なのかもしれない。

高橋源一郎の『「悪」と戦う』河出書房新社を読み始めて、そんなことを感じた。
高橋源一郎というのは、読むモノを上手に不安に陥れる名人みたいなヒトですねぇ。
今日中に読み終われるかしら……。なんだかぞわぞわする小説です。



それでも教育についてではなく経済について考える(5)

2010年09月11日 13時55分34秒 | インポート
いかん、自分のそれなりにわかっているフィールドだと、経済について考えるようことがついつい後回しになってしまう。

いいたいのは結局こういうことだ。
公務員、なかでも教育公務員なんてものは、シャドーワークが主であって、元々ソロバンに乗らないものが多い、と考えられがちだった。

平等性について考えていたら、効率がわるくなっても それは当然じゃないか、コスト意識が希薄になっても法律はやぶってないからねっ!

みたいなことを公務員は心の底で念仏のように唱えている(少なくてもそういう同僚はかつて多くいた)。与えられた仕事を、正確にこなす。自分で勝手に判断しない。集団のコンセンサスと斉一性、規範性が重要、みたいなね。

そういう意味で公務員の仕事自体は、確かに一般的な効率性収益性のソロバンには乗らないことも多い。
しかし、まだ俸給生活者がごく少数の「書生(=官僚予備軍)」階級のものであって、その「書生力」を近代化に生かしていた時代はもうとうの昔に終わってしまった。今日日、そんな程度のお役人ぐらいの事務的手さばきの多くは、誰でもいつでも情報化・機械化して済ませられてしまう。
戸籍の不整合が今喧しく言われているけれど、これだって世界に冠たる国民把握システムだったわけで。
ただ、これからあのシステムをこのまま続けていっていいのか、ってのはまた別の問題。
じゃあどうするか、となったときに、経済的な効率性流通性を無視してはいられない。

そもそも、「国民」が全員、おーんなじ法律のお約束においておーんなじ内容の知識や技術を、おーんなじマニュアルの範囲で、
専門職の教員だけがこうも圧倒的多数な公教育の文脈のなかで、内容の平等性にばかり気を遣って子供達に与えなければならない「今」の必然性は、どれだけあるのだろうか。

こどもの世話をするだけなら給料は低くていい。
生産性の高い、良質のサービスを提供する専門家には、それ相応のプラグマティックな尊敬と経済的評価があっていいだろう。

だが、いわゆる「経済界」の要求とかいったいまは「コンピュータ」だ、いまは「英語」だとかいった内容・情報の流動は、教育の根幹とはあまり関係のない、そのときどきに変化すればいいものだろう。
カリキュラムはそういうレベルとは別の理念を同時にもつ二重化されたものであっていい。

どんな人間を、誰が求めるのか。
コンセンサスを必要としているのは、繰り返すが内容ではなく人間観だ。どういう「力」をもった人間をを求めていくのか。
100年続くのか200年続くのかわからないけれど、すくなくても5年や10年程度のスパンではなく、教育の専門性を考えていく人間力の側面と、2、3年後、いや今必要な流通すべき「人材」の側面とを、きちんと教育の現場のシステムも多層化をすべきだろう。
ゲストティーチャーやプレゼンテーション、出前授業とかいった単発コラボの蓄積も大切だろうし、社会の中でもっと流動的に「教育」以外を知っている人がどんどん校長にでも教師にでもなって、子供達の教室も安易な均質化を拒むものであってほしい。

給料は低くていいから、好きなことができる、みたいな。
お役人は、今ほど「公共性」の専門家たるべきことを期待されている時はないと思う。
だって、公の専門家、のはずだもんね。
その「公共性」が問いなおされている時に、既存の仕組みにしがみついているような人たちには、引導を渡すベキ時きが近付いているのではないか。
繰り返すが、それはうまい汁を吸いやがってとかいうルサンチマンによって給料を減らす、ということではない。国としてある程度標準化しなければならない教育の宿命を踏まえた上で、どこまで自由を教育に導入できるか、が大事なのだ。

そのためには、高給にしがみつく高齢者ではなく、薄給でも安心して自由に動きたい、という若者を大量に導入できるか、どうか、が大切だと思う。
そのうえで、その新しさ、流動する情報群を、どうコーディネートしていくか、というプロデュースが可能な専門職を少数育てていけるかどうか。

教員全部の質を高める必要なんてないに決まっているではないか。高めるということを先に設定すると、均質性がすぐ全面に出てくる。
何をどこまで均質化するのか、ということを最低限お世話係として子育てするのは失業対策(ベビーシッター的)として必要なことだけれど、その延長線上に日本の教育とか、書生っぽうの人生観が成立していくとしたら、その貧弱さこそが恐怖ではないのか?

官僚=書生っぽうの使い方たを考える、ということは、頭を使って生きていく人間像を必要とする教育の理念と分離しては考えられないような気がするのだ。
古来、教育は官僚か神官のためのものだったんだし。

神様の話は一見経済についてかんがえる、とはまったく別のことのようにも見えるけれど、
経済=神様=権力=教育
って、見かけより近いのかもしれない、ということでもうすこしグダグダ書いて見ます。





経済について考える(4)

2010年09月11日 12時18分45秒 | インポート
経済について考える(4)

公務員の雇用について、もう少し考えてみる。なにせ自分の懐の話だから本気度が増すし、
同時に、末端の状況においてはよく分かっている面もあるから。

まあ結論は例によってまともな政策提案というより妄想に近い話になるのかもしらんが。

さて、前回は公務員給与三割減と、臨時雇い枠の一般化を論じた。

そこで問題なのは、後者だ。

たとえば、私の勤務する高校の講師枠の場合、3月31日が空白の一日になっていて、雇用の継続をせずに一旦退職し、また改めて次の一年の契約を結ぶ仕組みになっている。
これは明らかに、本来的には正規採用が基本 大勢で、講師枠は本当の臨時枠、という位置づけだ。
ところが現状は、県予算の減少などの理由から、恒常的連続的に同一人物を講師枠として雇用し続けている。
継続的に同一人物に業務を任せておいて、片方は正規雇用、もう一方は来年をも知れぬ臨時雇い、という状態が続いているのは、民間でさえ不合理だが、良くも悪くも「公正」で「平等」たるべき
公務員の現場で、国や自治体が雇用対象者に対すべき処遇としては「不平等」「不公平」と言わざるをえない。
しかし、分限として不適当な人員配置と認められる不適切教員も生首を切ることができず、年功序列賃金によって高くなった高齢の現役賃金を大幅カットすることもかなわず、結果として若い前途有為の青年たちを食い物にして組織改革を先延ばしにしているのが現状だろう。

高校では必ずしも普通ではないが、義務教育では一年契約の講師でも授業は当然として校務も分担し、担任もこなし、部活動の指導もしている。
現状年収300万以下でそれをこなしているわけだ。
他方、退職直前の正規雇用たる教諭は、運動部の顧問などはせず、それ以外は決定的な職務内容の違いもないのに、その約2.5倍の給与を得ている。
これは、正直な話、現状に問題がない、という方が無理というものだ。

むろん、学校の業務の中にも、管理的業務もあれば人事的業務もあるし、経営的な業務もあるし、専門業務も当然ある。

授業と部活動は子供の頃から馴染んだ世界だから、授業者や競技のコーチになってもやりながら育っていくことは可能だ。

他方、事務的な仕事や人材業務(人材登用・
配置・教育・評価)、経営などは年収300万円アンダーのぽっと出にはそりゃあ難しいだろう。

マネージャーと専門職をそろそろ分けて考えて育てる必要が出てきていると私は思うのだ。
早わかりてきにいうと、

1、素材・情報としての社会への窓口・サンプルとしての大人
2、専門職としての教師
3、学校内の管理・運営
4、理念、目標の創出と実現のためのマネージメント

学校というのは、その仕事があまりにどんぶり勘定すぎたのではないか。

国家とか企業とか学校が「擬制的共同体」として機能していた時代はとっくの昔に終わった

というのは、先日亡くなった小室直樹から教わったことだが。

単なる子供のお世話係なら300万円アンダーで十分なのだ。
だって、子供も失業者みたいなものだし、その世話をするだけなら失業対策事業みたいなものだから。

だいたい、日本の公的教育機関、とくに小中高校では、学校ごとの特色とかいっても、結局のところ受け入れた顧客をそこそこ「教育」して卒業させ、資格を与える以上のことができているとは思えない。
仕事をまだ与えられない子供たちに、社会人としてお金を稼ぐのを潔しとしない(もしくは社会的経済活動になじまないシャドウワークタイプの)大人たちがお世話係としてあてがわれているようなものではないか。

学校経営というのは、所属長の話を聞いていると、
1に問題を起こすな
2にその大波を立てない程度の範囲で成果をめざせ
3に管理職は法令遵守の徹底文書を出すのだから、結果の責任を自分たちは背負わない

というように聞こえてしまう。私の耳があまりよろしくない、ということは十分にかんがえられるのだけれども。


さて、教育に限らず公務員の仕事には、法令遵守と平等性公平性が優先され、社会的に評価のさだまったことをある種保守的に継続するであるという傾向が見られる。
前例主義というと、無責任体制の典型と見られるし、その批判は当たってもいるのだが、それは公務員のような「無謬性」を前提として誰も責任は取らない(責任を取る、ということは公務員の場合120%失敗したという意味だ)のが基本という土壌を改めない限り、改善が不可能なことだと、内部にいて思う。

驚くべきことかも知れないが、公務員は、基本的にどんなに偉い人であっても、誰一人「責任」なんてとってこなかった。
責任をとらされることはいくらでもあっただろう。あたかも不幸な交通事故ででもあるかのように。

つまり、公務員はじっとしていればいい。

「公務員は、仕事をしなければしないほど実質時給が上がる」
というセリフがある。
午後5時退勤の奴らがいなくなったあとで、無限地獄の中でサービス残業をする教師たちの自嘲めいたジョークだ。

無能である評価を恐れさえしなければ、公務員は天国である。だって、仕事をして責任をとらされることはあっても、自分で仕事の枠組を決めて、それ以外をやらなかったからといって、不作為の責任をとらされる、なんてことは、超例外の不運に属する出来事なのだから。

さて、他方、仕事をする公務員は、無能(あるいは無能のフリ)をして仕事をしないやからに比べればずっとマシだ。
だが、これも表立って法律に触れなければ止めるものがない。
えらくなるかどうかはまた別の話で、仕事の実権を握ってしまえば、面倒を嫌う公務員はそいつに仕事を任せて手を引く。

そうやってノンキャリアの「ドン」どこにでもはびこっていくだろう。

他方、そうやって仕事熱心で偏ったやり方をしている「ドン」たちに対して、無能or無能のフリをする同僚はとりあえず便利に頼り、上司もまた適当にあしらってつかっている。
そして言ったん問題が起こって都合がわるくなると、ハシゴをはずして顔をしかめてみせればよいのだ。

キャリアがステイタスになるほどのお役所は知らず知らず、別に給料が校長だってヒラの倍ももらわない中では、管理職になる意味もないし、好きでなければ仕事場の「ドン」なんぞにならなくてもいい。

余計な縄張り変更さえしなければ、定型業務を何十年でもやっていればいいのだ……。


そんな現状は、私が見聞きしてきた30年の狭い世界だけだろうか。

そういう人たちが、初任給300万~最終1000万未満の狭い世界の中で、誰一人責任を取らないで40年近くいるのである。


おかしくならないほうがおかしい(笑)。

さてでは、やはり可能な限り民営化すべきなのだろうか。

私は上記の絶望的閉塞状況を少しでも動かすためには、「民営化」の方向を考慮すべきだと思う。
私立学校が公務員的問題と無縁だ、なんて思っているわけではない。
もちろん、日本人による日本における教育は、民営だろうか官営だろうが、上記のような問題を多かれ少なかれ抱えていると思う。
「民間」だって十分に「官僚的」だったりするもんね。

理念っとして大切なのは、自分を伸ばす機会に対して、生徒が十分に開かれていることだと思う。
意欲と可能性がある生徒には、高価で良質なチャンスが与えられるべきだし、それは死ぬまで生きるかぎり何度でも(自分で選びなおすコストは払う必要があるが)あっていい。

「機会平等性」の徹底には、実はそんなに教育コストはかからないとわたしは思う。
そして教師の給料なんてそんなに高くなくていい。

むしろある程度低賃金でいいから、1年更新の講師なんて不安定さを強いて就職試験の勉強ばかりさせるのではなく、

1、新しい提案や情報をどれだけ提供できるのか。
2、自分を育てる意欲と方法を血肉として身につけさせる
3、社会的要請と個人的なありように、どう折り合いをつけるか
4、公共的基盤に根ざした心とからだの居場所の確保法を提供すること

そういうことを実現するために、さまざまな大人が出入りして社会の風を今の20倍30倍も学校に入れる手立てを考えるようであってほしい。
つまり、すべてが専門家ではなく、教師たちの何割かは流通する商品それ自体、交通する生きた情報源それ自体であっていいのではないか、ということだ。

学校教育を民営化するということは、安くて効率の良い点数を上げる方法を導入することではまったくない。

定型的な「教育」という枠の範囲の必要性を考え直すこと。
そして、社会の「今」と普遍的「哲学」がせめぎ合う公共的空間の基盤を提供することそれが大事なんじゃないかな。

だって、知識はネットのまわりもの、になっちゃったんだから。

これからは生身の人間をどんどん教育の現場で風通しよく「交通」「流通」させて行くことが大切になるんじゃない?どう考えても。


重要なのは、日本全国「教師」という得体の知れない擬似専門家だけに委ねない、ということなんじゃないだろうか。

たぶん、近代国家の基本としての学校教育、という理念があり、ナショナリズムによって国を支えようとしているうちは、そういう形の「民営化」は難しいのかもしれない。

しかし、どこかの誰かが「正しい」といったことを「教える」ような教育はもう、ダメだろう。

答えだけではなく新たな問いを作り出すこと。

正解ばっかりではなく、切り口や方法、アイディアを試しながらその火種を育てていける力。

実は、その火種自体を育てること自体は教師の仕事ではなく、もともと可能な人間自身の能力だと気付き、
自分を育てる力を育てるのが本当の専門家の仕事だと教師自身が気付き、大人も子度も育っていくような現場で教育が進行すること。

そういうことをするためには、そんなにお金は要らないのじゃないかしら。

貧乏でも、そういう教育はできる。教師の給料はそんなに高くしなくてもそういうことはできる。
与えられるもの品質なんて揃えなくてもいいのだ。

シャドウワークの経済外的評価と、
経済内的評価を取り違えずに、きちんと二重化できること。

お給料の話をしていると、そういう妄想がはつどうしてくるのはなぜだろうか。

とりあえず民営化の話をもう少し続けつつ、
実は公務員・官僚・その末端現場作業員としての教育っていうのは、どんな共同体におけるどんな権力行使=状況定義力が
伴うのか、について考えていきたい。