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龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

『あちらにいる鬼』井上荒野を読み始めた

2020年01月05日 21時06分03秒 | メディア日記
井上光晴の娘で小説家の井上荒野が父親をモデルにして書いた小説『あちらにいる鬼』を読み出した。
小説家の娘が小説家だ、というのはこういうことか、と、なんだかテキスト戸は別のところで感心してしまっているような気分になる。
しかし同時に、小説家の娘である小説家が、その父親である小説家と恋愛する小説家との関係を書く、ということになるといささかややこしいことになるのは当然でもある。
「不覚にも」といってもいいかもしれないが、この小説を読み出した瞬間、心が取りさらわれてしまったような気がしてきた。
今や知っている人も少ないと思うが、井上光晴は「文学伝習所」という小説添削イベント&同人雑誌サポートのようなことを全国展開でやっていた。
私の師匠に言わせると、「自前の顧客開拓」という意味もあり、もともと組織のオルグなどもしてきた井上光晴ならではの活動だね、という側面もありそうで、まあなんだかんだいって何人かの友人もそれに参加していたので、一度私も泊まりがけでその講義&添削イベントに参加したことがある。
つまり、ひろーく解釈すれば私も井上光晴の「弟子」と言えないこともない。
ふつうの作家だったらそんなことを考えもしないだろうが、井上光晴と出会うと、こちらがなんだかそういう気分になる。

その井上光晴!あの井上光晴が、あまりにも鮮やかに描かれているのだ。瀬戸内寂聴(晴美)をモデルとする登場人物が井上光晴的主人公に惹かれていく、そのメカニズムは、幾分か私が井上光晴に対して抱いた感情の動きと重なってすらいて、井上荒野、やるなあ、という思いが強く湧いてくる。
まだ1/4しか読んでいないとば口ののところだが、あまりにもびっくりしたので書き留めておく。
誰かに感想をぜひ聴いてみたい種類の小説だ。
今年はけっこう本についていうと「当たり」の年かもしれないな……。

読むべし!『ふるさとって呼んでもいいですか』

2020年01月04日 12時49分23秒 | メディア日記
ナディ著
『ふるさとって呼んでもいいですか』
大月書店¥1,600-+税

肉声によって書かれた、イランから来た日本育ちの女性のエッセイ。
一つ一つうなずけることばかりで、子どもにも読める総ルビの、貴重な体験のお話です。
「惰夫をも立たしめる」
のが真のテキストの力だとするなら、このエッセイこそ、それです。
2020年の年初にこんな本に出会えたことに感謝。
自分にできることはないか、と社会に目を向けたくなる一冊だ。
以下は腰巻き惹句から引用
「『デカセギ』で海外から日本にやってきた人たちの子どもが、自分の言葉でその人生を語る日を、ずっと待ち望んできました」星野智幸

今はもう、果たして日本が外国の方にとって、来日してもらえるだけの環境屋魅力をもっているのか、が問われる時代になりましたが、そうであればこそ、
日本の「出入国在留管理」の現状から考えていく必要がある、と実感させられる本でした。

「おもてなし」とかいって「バクチ(カジノ)」や「運動会(五輪)」ばかりやってる場合じゃない、と思う。

ヒューゴー賞受賞の中国SF『三体』第一部を読む。

2019年11月26日 11時19分29秒 | メディア日記
『三体』劉慈欣を読了。
面白かった。
解説の大森望も書いていたように、
小松左京『果てしなき流れの果てに』
アーサー・C・クラーク『地球幼年期の終わり』
などを読んだときの衝撃が蘇るような快作だった。3部作の最初なので、これから翻訳される続編が待ち遠しい。中国SFの面白さを改めて実感させられる作品でもあった。
お話は、ジャンルとしては地球外高次文明生物とのコンタクトモノ。
ある意味では「神」さま系ですね。
個人的にはテッド・チャン『あなたの人生の物語』の方が好みですが、個人的な好みを超えて、面白いです!
中国の文革期の描写なども面白いし、SF的なとんでもない設定も魅力的。
オススメです!!


國分さん「ハンナ・アレントと哲学」③

2019年09月10日 09時41分37秒 | メディア日記
次にイントロの最後として國分さんが触れたのは、アレントの生い立ちだった。
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そんなこと知ってるよ、という方も多いと思います。しかしここは重要な点と関わってきます。

1906年ドイツ生まれ。ユダヤ人中産階級。父はギリシャ語やラテン語の本を持っていた。富裕な家だった。彼女は幼少よりギリシャ好き。
驚くべきことに14才で哲学を志す。すごくないですか?
1920年代のドイツは新カント派→現象学の時代。
アレントはハイデガー、ヤスパースに師事し、フッサールの講義も受けている。豪華なラインナップ!
まだ主だった著作を書く前のハイデガーをリサーチして、その大学を選んでいる!
彼女は終生カイデガーを(明示的には?)批判していない。関係は単純ではない。
ちなみにベンヤミンとも面識があった。「暗い時代の人々」で、ベンヤミンはいつも暗い所へ行く人だ、といった意味のことをいっている。

ちなみにわたしがパリに留学したとき、師事したバリバール先生に
「功一郎君は遅れてきた。生きているのはデリダだけだよ」
と言われた。アレントはそういう意味ではすごい時代をくぐり抜けてきた。

また、アレントは常に母語であるドイツ語を大事にしていた。著作は英語で書いたが、いつも知人にチェックしてもらっていた。
最後まで英語は彼女にとってどこかぎこちないものではなかったか。

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さて、國分さんがここからどんな「重要な点」を考えていくのか、それは第1回(今回)では明らかにされていません。これからの楽しみ、ということになりましょうか。
彼女にとっての「哲学」、ハイデガーとの関係、私的領域と公的領域の関係など、いくつかポイントは考えられるが、展開が楽しみ。

以上でイントロは終わり。
次は哲学と政治の関係について。三田のアレント学会で発表された論文の内容を踏まえたお話に。

國分さん「ハンナ・アレントと哲学」②

2019年09月09日 18時04分55秒 | メディア日記
國分さんのアレントに対する相性の悪さ、つまり「ツン」を前回書いた。
今回は「ツンデレ」の「デレ」についてメモから起こしてみる。

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この五年ぐらい新しい政治的動きがある。民主主義的な動きだ。アメリカ、イギリス、EU、そして日本でもその動きはある。
これらを考えるときに、何が手がかりになるのか、といえば、アレント以外にいない。
 1950年代の段階で、現代のプロトタイプを分析した。
20Cの初期大衆社会を見ながら「今の世の中」を見事に分析している。、それはつまり、1930年代ワイマール期に初めてサラリーマンが一般化した瞬間でもあった。

この分析は恐ろしいほど現代社会に当てはまる!
言ってみれば現代社会に対する深刻な危機意識が私(國分さん)をアレントに向かわせている。

これは「挑戦」のつもり。
アレントの「保守主義」が必要なのではないか、ということでもある。

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以上イントロの「ツンデレ」メモでした。
ここからはまた後で。

國分さん「ハンナ・アレントと哲学」①

2019年09月09日 13時31分03秒 | メディア日記
9/6(金)に新宿(正確には千駄ヶ谷)の幻冬舎で
國分功一郎さんの 
「ハンナ・アレントと哲学」
(四回連続講座の一回目)
を受講してきた。

合計4 万円にもなる高価な講座で、後から講義録音データも付いてくるというサービスぶり。なんかそうなると、講義内容を自分メモとはいえ詳細に書くのはためらわれるが、あくまで「オレフィルター」を介した感想なら書いても良いかな、ということで、録音データが来ないうちに感想を書く。いつもの内容に即したメモじゃないので流して読んでください。

講座を聞いていたら國分さん(の一般向け)講座常連の知人が言っていたコトバを思わず思い出した。
「國分さんってアーレントに対して少年みたいにツンデレだよね」

講義冒頭は、その「ツンデレ」(^_^;)の解説から始まった。
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私(國分さん)はスピノザとジル・ドゥルーズの専門家。いわばフランス系哲学。
ドゥルーズはラディカル系。
スピノザは隠者的。

アレントは違う。ドイツ実存主義(ハイデガーとヤスパースに師事)。

アレントは、ドゥルーズに対してはコンサバ系といえるし、スピノザに対してはコミュニケーション系と言える。

ドゥルーズについての言及はないが、スピノザについてアレントは

「あいつ(スピノザ)は自由について何も分かっちゃいない」

と批判している。
 スピノザは、人間がものを考えるのは勝手に考えるのはのであってそもそも自由。
それは奪えない、とかんがえる。

それに対してアレントは「んなこと考えてるからスピノザはダメなんだ」とダメ出しをしている。
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まあ、ざっとそんな感じ。つまり、國分さんのやってきた哲学とアレントはかなり違う。

國分とアレントは相性が良くない、

つまりツンデレの「ツン」の部分がこれです。

しかしじゃあなぜ、わざわざ高い受講料を払わせてまでアレントについての話をするのか?
ってことになります。

こんどはツンデレの「デレ」の話だ。
デレといってももちろん話しは深刻といえば深刻になる。
(続きは後で。)

映画『ザ・ファブル』を観た。

2019年06月21日 15時34分51秒 | メディア日記
映画がいいんじゃないかな、と知人に勧められた。
確かに映画館の暗闇にいるときに、映画を観る以外のことはなかなか出来ない。 「観ないで寝る」ことは可能だが、その選択肢を選べるのはそれは映画が面白くなかった時だけだ。つまりそれも映画次第ということになる。

で、今日も映画を一本観てきた。
岡田准一主演、マンガ原作の『ザ・ファブル』
これが面白い。余計なことは全く考えずに、殺さない殺し屋を演じる岡田准一を楽しめばよい。
荒唐無稽も適度に過激なら、 「リアル」を楽しめる。これがマンガの力なのか脚本の出来なのか、監督の演出なのか。ただ、キャスティングは間違いなくステキ!

佐藤浩市、光石研、安田顕、柳楽優弥、佐藤二朗など、安心してみていられる役者がいるから、二時間観ても長すぎて困ったりはしない。つまらないシーンは役者を愛でていれば足りる。

そして!そんなに目のやり場に困るほどひどい かつての「日本的アクション映画」みたいなことはなかったです。
後半銃声鳴り響いているので、出来れば劇場でどうぞ。

ある意味で今時のテレビドラマより単純な作りですが、悪くない。

きわめて個人的な趣味としては、この中の超かっこいい格好俳優二人が因縁の戦闘をして、どちらが勝ち残るか、という映画をかつての『ヒート』ばりに観てみたいと思ったが、今回はそーゆー映画ではなかった。

ちなみに柳楽優弥の役、クズで素敵。やっぱりいいなあ、この子……ってもう十分おとななんだが。彼のファンもぜひ。

映画『スノーロワイヤル』を観た。

2019年06月20日 16時11分34秒 | メディア日記
何の情報もなく、映画『スノーロワイヤル』を観てきました。
まあストーリー自体はお暇ならどうぞ、というレベルの復讐譚。
ただ、すれ違いと齟齬の中でばんばん人が死んでいくのは、お約束に則った 「痛快」さ。
他方、雪に埋もれたデンバーあたりの山々の風景は文句なしに美しい。
小ネタもいろいろあるから、それを拾うのもあり。

まあ『主戦場』の闘いの方が、自分たちの人生かかってる分スリル満点ですけど。

面白かったのは、客層が
『主戦場』と『スノーロワイヤル』ではかなり違っていて、映画を観る楽しさの一部はそこにもあるかも、と思った。
前者はお暇なインテリ、後者は主観マッチョ=リアル暇なじいさん&おっさん。

いずれも平日の真っ昼間ですからね。いや、みんなにたくさん映画を観てほしいですし自分もその一人だから揶揄するつもりはありませぬ。

ちなみに除雪車は萌えます。
クライマックスちょい前に除雪車カタログの朗読シーンもあって、なかなかBの線としてはいいかも、でした。


面白い!『ラカンの哲学』荒谷大介

2019年06月20日 11時08分17秒 | メディア日記
少し前に買ったまま積んでいた
『ラカンの哲学』荒谷大介
を読み始めた。
実に面白い。まず、
「ラカンによって解釈されるフロイト」についてこれほどクリアな説明を受けたのは人生史上初めてだ、ということ。これはスゴいことだ。

だいたいラカンは私にとってたいそう魅力的にみえながら、全体像を把握するのが体操難しく、様々な概説の説明を読んでも読んでも分からないという印象だった。やむをえないから『エクリ』とかを買ってはみるものの、概説の劣化版的理解を越えるものではない。

ところが、ゲンロンから出た『新記号論』を読んだ後でこれを読むと、びっくりするほどフロイトとラカンの関係がクリアに見えてくる。
素人としてはそういう方向の 「読み」が流行っているの?とでもいいたくなるぐらい呼応している。

『新記号論』のことは今は措くとして、フロイトを読むという一世紀にわたる蓄積と、ラカンを読むという半世紀の蓄積とを、改めて 「今」キチンと関係づけて読み直すと言うことをやってくれているように感じた。

切れ味の抜群な 「訓詁学」とでもいおうか。
フロイトだけでもラカンだけでも今ひとつ霧がかかったかんじだったのが、受け止めるための 「通道」を脳味噌の中でしてもらっているかのようだ。

必要に駆られて読み始めたが、グイグイ読んでいけそうだ。
まあ読了しないと分からないけれど、今のところはとても素敵な出会いです。

互盛央『言語起源論の系譜』は凄い!

2019年05月08日 00時17分33秒 | メディア日記
互盛央『言語起源論の系譜』の一回目を読了した。
一度読んだだけでは足りない本と出会うことがままある。その多くは哲学者や研究者の主著となるもので、研ぎ澄まされた観念の連鎖について行けず意味不明のまま置き去りにされてしまうという体験だ。
だが、気になる。放ってはおけない。だから何度もチャレンジするがそのたびに挫折する……。

この『言語起源論の系譜』は、そういう本とは少し違う。たった一つのことを言おうとしている、という感じがひしひしと伝わってくる。
それは 「ホッブズ問題」と呼ばれ、あるいはルソーの 「一般意志」が抱える超越論的な身振りとして指摘され、あるいは言語起源の不可能性として語られていく。
つまり平たく言えば言語起源論なんて無理ゲーだよね、ということでもある。
だがもちろんこの本の魅力は、その無理ゲーを近代において人はどれほど繰り返し演じてきたか、という 「系譜」を徹底的になぞっていく点にある。

たどり着くのはソシュールであり、チョムスキーでありベンヤミンなのだが、それを読みたいだけなら最終章だけをつまみ食いすればいい……って、訳にはいかない。
この圧倒的な 「系譜」をたどること、つまり 「言語起源論」に渦巻く 「言説の欲望」に向き合うことなしに、例えばベンヤミンは、例えばチョムスキーは読めない、ということを一読して教わった気がする。
つまり、もう一度そこから過去に向かって視線を投じ直さねばならない、ということだ。
ノート取らなきゃならないなあ、とひさしぶりに思った一冊。
「近代」とか 「人間」とか 「言語」とかについて、これほど正面から向き合った本を久しぶりに読んだ気がする。
これから二度目を読まねばならないのだが、『新記号論』(ゲンロン叢書)も控えている(>_<)。
取りあえずまた感想を後で書きます、というところで。

『いつもそばには本があった』國分功一郎・互盛央

2019年03月27日 23時46分22秒 | メディア日記
講談社選書メチエの『いつもそばには本があった』を読んだ。
まだ上四半期を終えるところだが、個人的には2019年のベスト本に推したいと思うほどの一冊になった。
本がいつも傍らにあるということは、いったいとういうことなのか、をこれほど鮮やかに教えてくれるテキストはないんじゃないかと思う。

単なる読書遍歴の記録ではない。本の中身の紹介でもない。本と出会い、それを読みつつ、どう考えてきたか。そしてそれが二人の 「今」とどう関わっているのか。また、お互いが相手の言葉からどう触発されていくか、本を読むことの 「楽しさ」が(そう、文中でも触れられている)まるで連歌のように連想を飛ばしながら響き合い、それぞれのステップが互いの息づかいに感応しつつ展開していく…………。
同時代を生きつつ、同じ本を読み、様々に考えを巡らせてきた自分の体験も二人のやりとりを読むうちに自然と思い出されてくる。
自分の読書の歴史をたどることでもありつつ、今それについて二人が互いに語り合うその現場に私たち読者が立ち会う(読む!)という 「この」体験は、本当にめまいがするほど 「本を読むこと」に近づいていくことでもあった。
何を言っているのか書いていても要領を得ない。
まずはぜひ一読を。

後日また書きます。


Spotifyの話(続き)

2019年02月16日 08時31分00秒 | メディア日記
Spotifyの無料シャッフルバージョン(ジャンルやミュージシャン、作者は選べるが、曲を選べない)を昨日から聴いている。
流し聴きをするには最高だ。

ただし、IIJmioの低速モードだと、車で走っているときに時折途切れる。速度がどうしても足りないことがあるようだ。Wi-Fi環境ならバッチリなのだが。こういうサービスを利用していると自然にGIGA不足になっていくんだろうな。
AmazonprimeMusicでも同じことは起きるが、Spotifyの方が頻度が高い印象。ただし、これについてはもう少し使って確かめる必要アリ。

それと、邦楽のラインナップは期待すると不十分かも。
こういう配信音楽サービスは、CDやダウンロードで購入するほどのこだわりがない範囲で使いこなすのが吉、かもしれない。 私にとっては無料シャッフルが今のところ最適解かな。

Spotifyの無料Ver.を入れてみた

2019年02月14日 23時47分23秒 | メディア日記
たまたま長時間ドライブをする機会があったため、試しにSpotifyを入れてみた。そしたら……

これはもうすごい。
無料だと曲名の指定はできず、シャッフルされたものを聴くしかないのだが、これだけのものを聴けるなら即刻導入しておけばよかった、と後悔した。

たとえば、特別に詳しいマニアでは全くないが、好きな合唱曲を歌うプロカンティオーネアンティカというルネッサンスの声楽曲を歌うグループの曲がサクッと聴ける。
余計な色気のないヒラリー・ハーンのバッハのバイオリン曲が複数聞ける。
パレストリーナの曲がたちまち検索できる。
普通に好きなジャンル、程度のものを普通に聴くにはもう十分すぎる。

特に、ラジオや有線のように流すなら、この無料バージョンでお釣りがくる。

しばらく聴いてから、有料に移るもよし。
でも、ここで流し聴きした上で、好きなものはCD買っちゃうかもね。

まだ未体験の人には勧めてみたいSpotify。
シャッフルモードは無料なので、自分の好きなジャンルとか聴くスタイルと見比べてみる価値はあります。

『カササギ殺人事件(上下)』感想(ネタばれになるかなぁ……)

2019年01月10日 00時04分05秒 | メディア日記
2018年後半大評判になった
『カササギ殺人事件』(上・下)
を昨夜読了。
(2018年の)9月いっぱいで仕事を辞めてから意外にも本を読む時間が足りなくなった。この3ヶ月で数えるほどしか読んでいない。

とても意外だった。

仕事をしていたときには空き時間を探して読んでいたせいか、仕事をしていた割には本も読んでいたような気がする。図書館に常駐していたこと、根本的にヒマな窓際の最期だったこと、と理由は沢山あるに違いない。それにしても仕事を辞めて家事(孫の世話とかいった育児類似行為はなし!)に専念したというのに、この本の読めなかさはいったいどうしたことか。

もしかすると、家事の合間に本を読むにはそれなりのスキルが要るということなのかもしれない。
「仕事」は突き詰めていえば 「自分の」仕事ではない。どれほど内面化していようと他者によって与えられ課された 「仕事」だ。
それに対して家事は自分の仕事だ。特に私のように仕事をそこで中断して家族のために家事をやることを選択した場合、家族の世話をするという意味では 「他者」からの依頼というか要請というか必要によってやることになっている仕事だ。
他方、それは自分のための面倒な 「雑事」ではなく、病気の家族を支える 「ミッション 」でもある。
そういう意味ではお給料のために行う仕事よりも内面化の度合いは強いともいえるかもしれない。

だが根本的な問題として言えば、本を読むという自分の楽しみ、趣味と比べて、端的に 「家事が楽しい」ということがあるような気がする。

ミッションとして家族のために新しい仕事を覚えていく楽しさは、新婚の 「妻」もしくは 「夫」の快楽についてそれは幾分か似ている、といえるだろうか。

そういうこともあるかもしれない。

だが、それだけでもなさそうなのだ。繰り返しになるが、 「家事それ自体」が持つ楽しさ、というものの魅力に心がとりさらわれているのではないか、という疑念(特段それ自体としては悪いことではないが)が兆している。

振り返ってみると、本を読む行為のは長らく外部(社会)との軋轢から身を退避するために有効な手段だった。本を読む行為自体の楽しみ(たとえば意外な物語の筋にカタルシスを感じるとか、逆におなじみの物語の筋に身を委ねて安心して時を過ごすとか、あるいは自分では言葉にできないでいるもどかしさを言語化してくれることによって 「それ!」と指さされて構造化がなされる快感や、目を逸らしている何かに別のところから形を与えられ手瞳をそらせなくなる異和を味わうとか、テキストの織物が次第にずれていって、物語の、水準ではなく表現の水準での逸脱を味わわせてくれるとか、もしくは単純に未知の世界観で頭をガツンとやられるとか、気がついたら引き返せないところまで誘われていて途方に暮れる……etc.)ももちろんある。それなしには生きていけないものになっている、ときってもいい。

それなのに、 もしかすると短期的には「家事」の方が楽しいかも?

これはしじっくり考えてみる必要がありそうだ。

さて、それはさておき。
そんな中で読み始めた
『カササギ殺人事件』
は、評判に違わず家事の魅力に抗ってでも夜中に読み続けさせるパワーがあった。
翻訳本格ミステリーが好きな人は、直ちにアマゾンクリックすべきだ。よしんば期待とは違っていたとしても、ミステリ好きならこれは読まなければならない種類の本といって差し支えあるまい。

もちろん、読み終えた後の不満というか、寂しさはある。それはこの本を読み終えてしまった、という寂しさだ。ミステリーにはつきもののそこはかとないさみしさ。それはある種のノスタルジックな気分と無縁ではないのかもしれない。
私がもし忙しく仕事をしていたときにこの本を読んだとしたらどうだっただろう?
そんなことを考えさせるのは、この本の力なのか?はたまた個人的な環境の変化ゆえなのか?

しかしとにかく腰巻き惹句の
「全制覇(4冠)・第1位」
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このミステリーがすごい!
週刊文春ミステリーベスト10
2019本格ミステリ・ベスト10
ミステリが読みたい!
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はダテではない。

上巻は第二次大戦後のイギリスの田舎町で起こる事件を解決しようとするドイツ生まれの探偵。彼は末期ガンに侵され、これが最後の事件になることを自覚している。
アガサ・クリスティに対するオマージュに、満ちたレトロな本格ミステリの趣だ。
ところが下巻ではその作品が全く別の意味を持ち始める。
作中作ばかりではなく、作品の読み手である編集者の側にも「事件」が起こり、後半は作品内作品とその外側の作品とが呼応しつつ、怒涛の結末になだれ込んでいく……。

とにかく読んでください。
面白くなければぜひご意見を(^_^)




このブログ(カンガルーのふて寝)、面白い。

2019年01月08日 11時56分44秒 | メディア日記
「ブリキの馬」 : カンガルーの不貞寝


「カンガルーの不貞寝」というブログ、外国の小説で何を読もうかな、と思ったときに参照するとたよりになる。 このブログ子 に出会わなければ、例えば『ハイファに戻って』を読むこともなかった。
『ブリキの馬』をアマゾンで見たら、安かったので即クリック。
お正月明けの一冊はこれかな。
まだ昨年話題だった『カササギ殺人事件(上下)』が残ってる。
大沢在昌と貴志祐介の1ブックオフ100円~200円本が終わったらリズムを整えて 「読む」生活を再開したいな。
本当は書く方もしなきゃならないんだけど……。