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龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

『中動態の世界』を読む会 まとめ②

2018年09月01日 19時14分12秒 | メディア日記
 國分功一郎『中動態の世界』を読んで  島貫 真

2018年8月25日(土)福島市飯坂 温泉のみちのく荘において、國分功一郎氏の『中動態の世界』の読書会を開いた。
14人の参加者を迎え、13:00から終了予定を大幅に超える17:30まで、二回の休憩を挟みつつ約4時間にわたってじっくり読むことができた。
『スピノザの方法』以来(ということは実質東日本大震災&東京電力福島原第一原子力発電所の事故以来ということでもある)約7年間、國分ウォッチャーとして著作を読み継いできた身としては感慨深いものがある。その間、國分氏にはエチカ福島の助言者として来福いただいたこともあった。

当日の読書会では、中動態それ自体についての読解(第一部)を島貫真が報告し、アーレントの意志論批判の部分に関するアーレント読みからの応答(第二部)を渡部純が担当した。

以下は、島貫が担当した第一部についてのまとめである。
出来るのが遅かったのでまとめ②になってますが(笑)
第二部については別途渡部のまとめ①を参照されたい。

https://blog.goo.ne.jp/cafelogos2017/e/ff49a8b2f5d4fdb11384ffd1b7961d42

1、今なぜ中動態か
 今は、仕事をしていても医療の場面でも、教育についてでも、様々な場面で生きにくさを覚えずにはいられない。能動か受動かという問いが至る所に蔓延していて私たちを「尋問」してくる。だが、その能動/受動という二分法ではうまく捉えることができないことがたくさんある、と私たちは感じる。
 そこに「中動態」という概念を当てはめてみるとどうなるのか。それがこの本の前半におけるポイントのひとつだ。


 例
a殺人か過失致死か、加害者か被害者か、原告か被告か
  b謝罪と恋愛(第一章)
  c中毒症状の治療(プロローグ)
  d強制避難と自主避難(島貫が当てはめたこと)


たとえばaでは、犯罪を裁く裁判においては徹底的に「意志」が問われる。つまり自らが能動的にその行為を行ったのかどうかが厳しく尋問されるわけだ。実際の裁判の過程では加害者と被害者、行為を能動的に行った者とその行為を受動的に被った者との対比・対立が鮮明にされていく。また、その能動性が立証されなければ被告を罪に問うことは難しい。
ところが、b謝罪や恋愛になると、その能動/受動の二分法はとたんに不便なものになる。
謝るのか謝らされるのか、もしくは愛するのか愛されるのか。
 もちろんそこでも能動/受動の区分を無理やり適用することはできるが、本当の意味での謝罪は、自分が心の底から申し訳なかった、と感じることによって初めて成立するわけだし、恋愛は愛しているのか愛されているのか、という二分法がおよそ無意味な場所、愛が自分の中から立ち現れ、かつ二人で愛し合っている「恋愛」のまっただ中の場所に身を置くことこそが恋愛に他ならない。恋愛というプロセスの中に主体があって、その中で行為が完結する、といってもよい。

 cになるとむしろ能動/受動という二分法の弊害に注目しなければならなくなる。
麻薬中毒患者においては、「ダメ、ぜったい」と、本人の意志を強く持つように仕向けるのは「ぜったい、ダメ」なのだそうだ。むしろ、薬がなくて寂しいけれど、なんとか今日も薬に頼らない一日を過ごすことができた、という感覚が治療プログラム上は極めて重要なのだという。つまり、回復は意志の力では実現せず、「回復し続けていく」プロセスの中に身をおくことこそが「回復」なのだというのである。

以上のことを踏まえた上でdの例を考えてみたい。

 dは私たち福島に住み、あるいは関心を持つ者たちが避けて通ることのできない事柄である。そしてここでもまた、自ら(能動的に)避難したのか、(受動的に)避難させられたのか、は大きな問題であり続けてきた。
 国によって避難させられた人は受動であり、自主避難した人は能動である、とひとまず仮に言ってみることは可能だ。だが、だからといって自主避難した人は自ら進んで好むままにゼロからその行動をとった訳ではない。

福島が危険な状態だからやむを得ずに「自主避難」したという側面が間違いなくある。というか、好き好んで動いた場合は単なる移住であって、自らも避難とは言わないだろう。そこには純粋な意志で行動したのではない、危機的な環境の中でやむを得ず避難した「自主」避難という側面がある。
 他方、強制的に避難させられていた人も、何年も経って地元のコミュニティも経済も従前通りからはほど遠い状態のまま避難解除が宣言されると、その後はなんと強制避難から「自主避難者」に分類されてしまうことになるという不条理に直面している。
 このdの状況をみた場合、どう考えても能動/受動の区分でこの福島の状況を考えることには大きな限界、不都合があることが分かる。
 むしろ、汚染され非常事態となった福島の環境の「中」でどう振る舞うかが私たちに問われているのであり、意志的にゼロから自由に出入りしたり場所をフリーに選択できるわけではない。避難していようが避難していまいが、大震災と原発事故という大きな進行中のプロセスの「中」にあって私たちはいろいろ考え、また行動し続けているのだった。

そう考えていくと、「尋問する言語」としての「能動態/受動態」でものごとを考えていくと見えなくなってしまうこと、大きな不都合が生じてくることが身近にもたくさんあることが分かる。しかし、近代以降、意志と責任をセットにして法と言葉はあくまで私たちを尋問し続けてきた。「それはおまえの意志なのか?」と。そして、その尋問する言語の根底には「能動/受動」の二項がある。それによって見えなくなってしまうものごとをうまく捉えることができるパースペクティブとして「中動態」を考えたい、そのようにしてこの本は書かれ始めたと考えることができる。


2、中動態の定義

 本文では何種類もの定義が提示されてそれぞれ詳しく吟味されているが、國分氏がもっとも適切なものとして取り上げているのが言語学者バンヴェニストの次の定義である。

「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり主語は過程の内部にある」バンヴェニスト(本文P88)
(ちなみに、アンダーソンという研究者は、能動は遂行、中動は経験、ととらえている。)

 つまり、この定義を通して見えてくるのは、能動/受動の区分をいくら駆使してみても、動詞が描写している出来事のプロセス内部に主語が存在するようなタイプの現象すなわち前項のb~dのようなことどもを、(その能動/受動の区分を前提にしているうちは)適切に記述できない、ということである。

3、なぜ文法か

さてでは、なぜ文法を丁寧に論じなければならないのか、というポイントは、この『中動態の世界』という本を論じる上ではずせない。なにせ前半の第2章~第4章までは、医療でも恋愛でもなく、文法とその歴史、それに対する批判と反論などで埋め尽くされているのだから。
そこで繰り返し強調されているのは次の点だ。

 私たちの思考の枠組みや論理の説明には文法や構文など言語的な要素が大きく関わっているから。(第2章)
 「人が考えうることは言語に影響される」
 「言語は思考の可能性条件である」(第4章)P111
 
 つまり、言語は私たちが思考する上で大きな(可能性を保障し時には制約する)条件になっている、というのだ。言語=思考でもなければ思考=言語でもない。この「可能性条件」という視点を確認しておきたい。
 つまり、神様のような視点を持たない私たち人間は、普段使っている言語の文法規則に則って思考をしているので、いってみれば私たちの視点(パースペクティヴ)は言語を基盤として展開し、言語のあり方に大きく条件付けられているということになる。
 ということは、能動態/受動態という文法の区分に則って思考することと、能動態/中動態という文法の区分によって思考することとはかなり違った世界の見え方になるのではないか、ということになる。
これが文法にこだわる大きな理由のひとつだ。

 まあ國分氏が冗談混じりに言う通り、「自身が文法ヲタク」だから、ということもあるかもしれない。それはそれで國分功一郎論を展開する上では重要なのだろうが、それはまた別の話(笑)。



4、なぜ文法の歴史なのか

「今現在の状態は完成品では少しもないからむしろ今存在している抑圧を知るためには、歴史を参照しなければならない。」P195
「(言語が思考の可能性を規定する)場とは、それは言語が語られ、思考が紡ぎ出されている現実そのもの、すなわち、社会であり歴史に他ならない」p112
「言語が変化するのはその抑圧の形が変わるということである。」p196

今だけをみていると抑圧の姿=全体像が見えてこない。

どんな変化の中で何が抑圧され、何が前景化してきたのか、歴史を参照することで、その今は存在しない痕跡を丁寧にたどることができ、その結果、はじめて

「今何が見えていてかつて見えていた何が見えなくなってしまっているのか、それはどんな視点、思考の枠組みの変化に因っているのか」

が見えてくる。

だから歴史を参照することが重要だ、ということだろう。

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(さて、ここでちょっと本文から離れて立ち止まっておきます)

 実は日本語にはそこいら中に中動態の名残が現存している。

 助動詞「れる・られる」の自発(自然と~なる)
 自動詞「起きる」「見える」「感じる」「分かる」「変わる」「開く」「消える」

 しかし、その中動態的な自動詞があふれている日本で、能動/受動のフレームにおける「責任」が厳しく問われている現実がある。そしてその矛盾が放置されている印象もある。新自由主義的な「自己責任論」などは能動/受動を前提とした究極のクソな視点だが、この中動態にみちあふれているような日本で同時に我々は能動態/受動態の視点にさらされているのだ。

伏見瞬『<二者>の哲学者、國分功一郎』からの孫引きで恐縮だが、
東裕紀は
「日本はそもそも責任主体を明確にしない中動態的な社会である」
とのべている。

國分氏はこの本では直接このことについて触れていないが、とりあえず補足が必要だろう。

 たしかに、軍国主義的<無責任体制>や<空気の支配>といったところに、中動態の匂いがする。全体主義においては、主体がプロセスの中にあることに間違いはない、全体がひとつのプロセスになっているわけだから。

 その<無責任>や<空気の支配>は国全体が中動態におおわれてしまい、責任なんてとれないよ、と無責任体制が蔓延していくってなことにもなりかねない。そうなると中動態は、一見、無責任体制の中で庶民が生きていく言い訳、つまりは

「だってやりたくなはいけどしょうがないよね、その中でなんとか生きていくしかないんだもん」

 といったいいわけの話に使われやすいような気もしないではない。

 だが、この本で語られている「中動態」はそれとはまったく正反対だ。
それ(全体主義的な無責任や空気の支配)はむしろ徹底的に主体を外部に取り拐われてしまった状態だ、ということを論じているものだと思われる。

 それはこういうことだ。

 中動態は、主語がその動作=出来事=プロセスの内部にある、と定義できる。

つまり、無責任体制や空気を読むといった全体主義的傾向において主語は、むしろ為政者や「国体」の側に収斂してしまい、プロセスの内部にあるどころか、私たちの「主語」は空気や無責任体制の中で拡散し、その結果私たちは徹底的に「受動的」なところに追い込まれていくことになるのだ。
 
 だから、少し先回りして書けば、「中動態」について考えることは「自己」と向き合うとはどういうことか、そして「他者」とどう向き合うか、という課題につながっている。つまり、「主体」をどう捉え直すかという現代の「困難」について考えるための手立てにもなる。

<空気の支配>や<無責任体制>が気持ち悪いのは、実は主体が私たちの生きているプロセスの中にあるのではなく、一見主体的にそれを支持しているかのようでありながら、実際には、体制や空気に対して徹底的に受動的に生きさせられているからだ。


「中動態」は「能動態でも受動態でもない」<隙間>や<残余>や<神秘>という説明の方向では不十分だという大きな理由のひとつがここにある。。そういう説明では、能動/受動のパースペクティブを前提としているため、結局強化してしまうことになる。主客図式の乗り越え、というだけではないすまないデリケートな問題なのだ。

近代の超克的な図式は、それこそが全体主義を招き寄せてしまった。
まあ歴史をみれば明らかになるわけだが。

歴史を見る必要がある、というのもそこから必然的に出てくる結論だろう。

繰り返しになるが、ポイントは

「能動/受動の二項対立では見えないものがある……そしてそこには抑圧された重要な見方が隠されている……それこそが中動態だ(ジャジャジャーン)!」

というのはむしろ危険でさえある、という点だ。

そういうロマンチックなあるいは神秘主義的な、つまりは非歴史的な話では、動詞のプロセスの中に主語があるどころか、国家や国体などに主体が取りさらわれしまい、プロセスの中でものごとを考えていくという視点からはもっとも遠いところにたどり着いてしまいかねない(と島貫は感じる)。
 
 そしてまたここにはアーレントの全体主義批判や意志論と切り結ぶ重要なポイントがあると思われるわけだが、それは後述。

 とにかく、中動態を論じるのは、能動/受動という呪縛から私たちを解放してくれるマジックワードを探すためのものではない、ということは強調しておくべきだろう。

そこを丁寧に説明するためには、第7章スピノザ=ドゥルーズの章の読解が必要だが、今回はそこまではたどりつかなかった。一言だけ早手回しに言及しておくなら、歴史を考えるという視点は、ドゥルーズ=スピノザ的にいえば「発生」から考えるという風に言い換えてみることもできるかもしれない。つまり、どこから発生して、どういう経緯(プロセス)を経て今ここの「抑圧」が成立したのか、を考えずには真理が見えてこない、ということだ。中動態という概念はだから、単に目の前の現実をうまく説明するためのフィルタなのではなく、ドゥルーズ=スピノザ=國分氏にとって基盤となるものの見方、ということにもなろうか。

(さて、では本題に戻ります。)

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5、中動態の歴史的発生は?

名詞文→非人称動詞→(中動態的な?)動詞→中動態と能動態が対になる→中動態の中から受動態が派生する→中動態が痩せ細っていき、その後は能動/受動の二項で語られるようになる。

・能動/受動と分けた時と、中動/能動と分けた時とでは、「能動」の意味も変わってくる。
だから、中動は、能動/受動の「間」ではないし、あるいは「外部」にある「残余」でもない(それは能動/受動を前提としているからダメ)。
能動/受動というパースペクティヴではない、中動/能動のパースペクティヴによって世界の見え方がどう変わるのか、そしてそれがどんなプロセスを経て変化したのかという捉え方が重要。


6、プロセスの重要性って?

・ギリシャのアテナイの民主制で
 人民を支配する法律→能動態
 自分たちを統治する法律を自分達で作る→中動態
今だと「法律を定める」とどちらも能動態になってしまうが。

・薬物依存から回復する場合、有効なのは
「回復とは回復し続けること」
決して切断ではない。
「ダメ、ゼッタイ」は「ゼッタイ、ダメ」

ちょっとちょっと寂しいけど、ちょっと退屈だけど、まあいいか、こんなもんかというぐらいの状態に自然にはいっていけるようになると、だんだん依存症から回復していける。
薬物治療も勉強も中動態。プロセスだけがある。

7、では責任の問題はどうなるのか?

(以下は、國分功一郎氏と千葉雅也氏の対談から拾っている)

法だけじゃない。宗教とか文法とか、さまざまな規則がある。
そもそも法律には限界がある。程度がある。

世の中は法的な帰責性の判断だけでうごいているわけじゃないということですよね(中略)。もっとグレーゾーンでうごいていることがたくさんある。(千葉)

僕らが使っている言葉の文法が、今の社会を規定している法と非常に密着している(國分)。
 ↓
尋問している言語が僕らを大きく規定している。ということは近代以降我々は尋問する言語に支配されている、


エビデンス(証拠による論証、ということか)中心主義は大嫌い。(千葉・國分)
でも、僕自身はすごく尋問するタイプ(國分)。

そういう自分をすごく反省している。

デカルトは「我思う、故に我あり」(cogito ergo sum)証明的
それに対してスピノザは「私は考えつつ、存在している」(ego sum cogitanse)描写的
証拠もクソもない、実際にそうなのだ。

「真理であることが確かになるためには、真の観念を持つこと以外何ら他の標識を必要としない」(『知性改善論』P32)


それに対して、デカルトは、みんなで共有できるエビデンスを出せたときに初めて真理は真理。こちらはスピノザに比して尋問的、といえる。


8、國分氏のアレント評価は?

 アレントは哲学の伝統の中から意志の概念を救いだそうとするが、國分氏はむしろ意志は特殊な世界観の中でしか現れないものであって、それを立てた途端見えなくなるものがあるんだという立場。

では、國分氏はアレントをどう評価するのか。


例:アメリカの独立革命についての評価で比較
  アレント
  フランス革命よりもアメリカ独立革命の方が偉いという。
  永続性のあるものを人間が作ることに価値を見出すアーレント。ゼロからの創造を支
 える意志を救い出そうとする。そこはどうか?

國分
 アメリカの憲法がなぜそこまで権威を持つことができるのかというと、自分たちで自分たちに憲法を与える、つまり能動態というより中動態で記述されるべき過程がそこにあったからではないか。
 軍国主義における「無責任の体系」は中動態で説明することができる。でも、これを積極的に使うこともできるはずだし、憲法についても(漱石的な)内発/外発の図式とは違うところでこれを捉えられるのではないか。

 アレントは、古代ギリシャの意志概念は全部ポテンシャルだと言う。過去に事情があるから何かをやるということだ、と。
これまでの哲学史は未来に向けての意志という議論に対する反対を表明している、と書いている。そこで彼女はその哲学史をひっくり返し、意志を救い出そうととするのである。

そして國分氏は、アレントがなんで 「未来に向けての絶対的なゼロからの意志」というものを擁護する方向に進むのか分からないと書いている。

 でも僕、そうは思わないんです(千葉)。
P136の「読みにくい」(分からない)というのは要するに、國分さんがわからないということなのに、その國分さんの「疑問」に読者を巻き込んでいく。(千葉)

國分さんの応答。
 合理主義に基づいて物事を考える道筋から行くと、もはや意志という概念を、しかもアレントが定義した意志という概念を支持することは不可能である、とそういうことになる。
合理主義というのは必ず、どんなことにも原因はあると考えるから。
ゼロからの意志概念は支持できない。つまりこの本は徹底した合理主義(スピノザ主義)の立場から書かれている。

意志という概念は、最晩年のアレントにおいてクローズアップされる。それ以前のアレントは、自由とは言っていても、それは「フリーダム」のことでいわゆる「意志の自由」というものと区別していた。なぜ晩年の著作『精神の生活』において、アーレントは意志に注目するようになったのか。

アレントは、意志の自由は「経緯があっての選択」の問題に還元してはいけないといっている。

國分+千葉
パレーシア(フーコーのいう)の問題。自分が絶対的な起点になるということ。
ゼロからの意志。非合理的な意志。アーレントはそれI(パレーシア)にたどり着いたともいえるか。
なぜなら、政治に参加する自由をつきつめていったから。政治に参加する自由をつきつめていくと、意志の問題は避けられないということなのかもしれない。

・では、無からの創造を認めるのか?

國分

 認めないのがここでのこの本における立場。(國分)
 僕は無を認めてるから認めますね。メイヤスーに関連することですが。(千葉)
意志を認めると周りが「神様」だらけになってしまう(ような感じ?)なのかな。(千葉)

 だが一方、それまでの物事の流れを中断、ぶったぎることができるのが奇跡。(國分)
それをイエスは起こした。それは実際起こっている。(國分)
スピノザ主義的な神みたいな視点から見たら、それにも全部原因があるという話になっちゃう。でも、人間ぐらいの知性から見たら、それはやっぱり大きな変化。それは使い分けた方がいいと思っている。
精神分析的に言えば、象徴秩序が変わった、といってもいい。
しかし、この本ではとりあえず一度、そういう行為というか、尋問する言語に冒されまくったものの考え方を、スピノザ的な視点で全部説明したかった。(國分)

9、レポーターの感想

 ・スピノザ-ドゥルーズ-國分の流れはどちらかというと「発生的」
  だから、他者のないところには自己もないという当たり前のところからはじまる。
  あるいはそこまで遡行して考える。存在が原因、みたいな記述の姿勢がある。
  ある意味では、アレントのいう「闇」から始めようとする。

 ・アレントはそこには手をつけてはならぬ、という。
  むしろ、その闇をくぐり抜けた上で、個人が個人として市民が市民として「複数性」をもって議論すること、彼女が理想とする「政治」の場における「意志」を論じるということ、に力点がある(ように見える)

 ここには明らかに「二者」……自己と他者という重要な存在の基本設定の違い、いわば「OS」の決定的な違いがある。

「中動態」について論じているこの本は、「中動態」を歴史的に論じることによって、その「OS」がどうしてそういう「文法」を持っているのか、そしてそれはどんな抑圧を抱えているのか、またそのことによって何が見え、何が見えなくなっているのか、そしてさらにその抑圧はどんな変遷をたどって「今」のこの「不均衡」にたどり着いているのか、ということをある意味で根底から論じようとしているのではないか。

⑩、参加者のコメント

参加された方の感想を、思い出せる範囲で書いておきます(漏れがありますので、ぜひコメントをくださいませ)

・参加者の中の英語の先生は、⑤の歴史について次第に洗練されてきた、進歩してきたということではないか。
と指摘していた。確かに、名詞文から動詞が発生し、それが中動態的なものから能動態を生み、さらに中動態から受動態が分かれていくというのは、シンプルな区分が洗練・進化していく過程と言える。
その洗練・進化の中で能動/受動の区分が「普通」になっていくプロセス、シンプルに見える二つの態がいかにして「当たり前」になっていったか、を見ていこうというのがこの本のテーマのひとつ、ということになろうか。

・同じく⑤の歴史について、「この名詞文」を見ている主体はどこにいるのか?という疑問があがった。
 この時点では恐らく、主体と客体という区分はなかったのだろうと思われる。
 敢えて言えば、ただそう「見えている」ということか。つまり名詞文の段階では、「見る/見られる」という区分は存在しない、と想像できる。島貫にもよくわかっていないが、主客の二分方以前の、そしてさらに「見ゆ」「思ほゆ」という動詞が析出する以前の、原初的な名付けだけがあるという感じかな、というところで。

・スピノザの話をしていたところ、どうも親鸞に近いのでは、という感想が出てきた。
 「今ここが浄土」という鎌倉仏教の過激さと、スピノザの神が唯一の実体であって、すべてはその様態だという過激さとは、どこかで響きあっているように思われる。参照する外部を持たないという点では確かに。
そういえば、親鸞とスピノザの響き合いを論じた本もありますね。
『親鸞と学的精神』今村仁司(岩波書店)

・会の最中だったか、二次会でのことだったから、純さんの師匠である佐藤和夫さんが「(スピノザには、あるいは國分さんのこの本には)他者がいないね」という評を言っていた、というお話があった。
私が佐藤和夫さんから直接聞いたコメントは
「(『中動態の世界』におけるアーレントの意志論批判について)國分さんは誠実かつ丁寧に論じているが、正面からは論じていないね」
という評だった。
なるほど、と思った。その辺りのことは純さんの報告に委ねていいと思うが、端的にいって、國分さんの考えている「他者」と佐藤和夫=アーレントの考えている「他者」ではかなり大きな隔たりがあるのだと感じている。

この辺り、國分さんが去年のアーレント研究会で発表した「ハンナ・アーレントにおける二者の問題」で話題にした、「二者」という「数」をどう捉えるかということとも関連してくる。伏見瞬の論文「<二者>の哲学者、國分功一郎」でも言及されているポイントだ。

分かる範囲でノートから國分氏の発表を思い出してメモを再現し、今回のまとめの結語にしておく。

①アーレントは哲学者は真理を求めるから一人にならざるを得ない、という。政治は違う。政治はそれぞれにどう見えているかを前提とするから、当然複数の見方があることを前提とする。政治の根本条件は複数性だ。つまり哲学者は真理を求めるから「一者」であり、政治を行う者は複数の意見を前提とするから必ず「多数」だ。

単数か、複数か、という問題。

②しかし同時に、アレントは哲学者は常に一人で思考するが、実は一人ではない、という。必ず哲学者は対話している。「思考というのは自分自身との対話、声なき対話」だともいっている。「一者における二者の経験」(ゴルギアスの表現)。
一者における二者の経験が思考であるとアレント。

その文脈でアレントはSolitude (孤独)と Loneliness(寂しさ)は違うという。

孤独は私が私自身と一緒にいて対話ができる状態、寂しさは私が私自身と一緒にいられない状態のこと。
前者は一人でいられるけれど、後者のさみしさは、誰か一緒にいてくれる非とを追い求めてしまう、とアレントは『全体主義の起源』で書いている。このLonelinessを全体主義は利用するのだ、と。

③上の①と②を踏まえて、アレントは例によって哲学者に厳しい姿勢で望む。哲学者は政治に関与できない。なぜなら一人ならそれは真理といえるが、多数の人が考えたときにはそれは単なる「意見」になってしまうから。政治に「真理」なんぞ持ち込んだらえらいことになる、とアレントは考えている。

だが、ここからがアレントらしいといえばらしいけれど、哲学者も、政治の実践的なシーンで役割を果たすことができるかのうせいがある。それは、自らの命を真理に賭けて、その真理を「範例」にすることだ、と言う(ソクラテスみたいにね)。範例とはつまり、自らやって見せることのことである。つまり、逃げられるし、周りも逃げていいよっていってたのに、敢えて命を賭けて死刑宣告を受け入れる。冤罪だけれども受け入れる……そうやってはじめて哲学者は政治的な役割を果たせるのだと。
厳しい(例によってアレントは厳しすぎる:島貫)。
「哲学者はいつも自分自身を同伴しているという考えに慰められる」アレント

④さてここまでは哲学と政治との関係における1(真理)と多(政治)と2(思考)の関係のお話。
 次に、アレントは2(島貫的にいえばやはりこれはある意味究極の他者概念と関連してると思うんですがね)の話において、哲学と宗教を比べている(正確にいうとアレントの読み手である國分さんがそう対比しているというべきかな)。
つまり哲学者の「2」の実践をソクラテスで代表させているとすると、宗教における「2」を代表しているのは無論、ナザレのイエス。「善行を行う者」としてのイエス。
イエスの有名な教えに「右手のしていることを左手に知らしめるなかれ」というものがある。つまり、善行はそれを他者に見られてはならない。そればかりか、自分自身でさえそれを意識してはならない、他者や自己を意識したとたん、善行は変質してしまうというのだ。

アレントはこのことについて、『人間の条件』でこんなことをいっている
「善行を行う者が生きなければならない寂しさ(Loneliness)というのは、多数性という人間の条件にあまりにも矛盾している。だから長時間に渡ってはとてもそれに耐えられない。それが人間存在を完全に滅ぼしてしまわないためには、善行を目撃する唯一の想像上の証人、神の同伴を必要とする」
つまり、善行を徹底すると、人は寂しさのなかで絶対的な孤独に陥るから、超越的な存在を要請えざるを得ないというのである。
哲学者は自己との対話をしつつ思考するわけだから常に「2」を抱えている。ある意味では分裂している。他方、絶対善を行う者は絶対的に「1」でなければならないために、それには耐えられず、逆説的に神との二者関係に入っていかざるをえないのだ。
ここでは哲学と宗教が対立していて、どちらも「2」という数が問題になっている、と。

だいたい國分氏の発表の概要は以上。


私はこの発表を聞いて、この「2」って、「他者」のあり方と大きく関わってるんじゃね?と思った。
もちろん、この多様な他者のありようを容易に単純化はできない。
言えるのは、このぎりぎりの地点での自己/他者という「2」の関係を、どう位置付けるかという究極において、アレントと國分氏のOSは各々まったく異なった扱いをしているという程度のことだ。

だが、間違いなく、國分氏はアレントを単に否定しているのではないことぐらいは私にも分かる。
ツンデレというのもどうかと思うが、國分氏はダメ出しを続けながら、アレントの核心のところにじわじわと端から近づいていく営為を続けている。佐藤和夫氏は正面から論じていないといい、千葉雅也氏はその疑問は國分さんのさじ加減でしょうという突っ込みをいれている。それはそれとして納得なのだが、この<2>の発表を聞いていると、アレントのやり方ではないやり方で、しかしアレントの求めた「善く生きる」という意味での自己への配慮をなす、ということを、スピノザ主義者の國分氏はスピノザ=ドゥルーズ的なOSで論じようとしているのではないか、そう期待を込めて受け止めておきたい。

終わり。





参考資料
URL『中動態の世界』読書会の予習としてよろしければこんなものが。
①対談:大澤真幸×國分功一郎
https://dokushojin.com/article.html?i=1580
②「<二者>の哲学者、國分功一郎」伏見瞬
http://school.genron.co.jp/…/…/2017/students/shunnnn00/2738/
③対談:千葉雅也×國分功一郎
その1
人生は「それはお前の意志が弱いからだ」では解決できない問題で満ちている
http://www.gentosha.jp/articles/-/8263
その2
僕たちは「尋問する言語」に支配されている
http://www.gentosha.jp/articles/-/8343
その3
一発ですべてを変える「革命」を求めても、世界は変わらない
http://www.gentosha.jp/articles/-/8414
その4
「勉強は楽しい」なんてウソ。でもその先に……
http://www.gentosha.jp/articles/-/8466
(大澤真幸、千葉雅也との対談、および「<二者>の哲学者、國分功一郎」伏見瞬」)

『文明の恐怖に直面したら読む本』がすこぶる面白い。

2018年09月01日 14時59分43秒 | メディア日記
栗原康×白石嘉治『文明の恐怖に直面したら読む本』が面白い。

引用

「われわれは仲が悪くなってしまった。モノによる支配を支えるのは科学的言説です。それがうまくいかないから原発が爆発したのに、血で血を洗うように科学的にどうこうって議論するからいけない。出口が見いだせない」
「三・一一以後、『絆』ということがずいぶんいわれたけれど、それは現実にもとづいた結び付きのことだった。その現実というのは、実のところ文明の再建にすぎない。原発の爆発におって、むしろ文明そのものからの離脱が問題になっているのであれば、文明の現実にねざすのではなく、フィクションから出発するべきだと思う。フィクションは単なる現実の表象ではなく、そこからはみでるもの(中略)徴候的なもの」

引用終了
アナーキスト二人の対談が、胸に沁みる。
文明的なもの、すなわち構築的なものへの不信に被われ尽くした中で、なにかを新たに作っていこうという傾向性よりは、自分の中にあるエネルギーにたいしてより良くいきるためにはいったい「何がしたいの?」と聞いてみる方がしっくりくる。

とりあえずいろいろあって、退職後に就職した仕事を9月いっぱいで辞めることにした。
この本の文脈で言えば、表象や文明より「徴候的なもの」の傍らに立とうということかな。

スピノザは「真理であることがたしかになるためには、真の観念を持つこと以外、何ら他の標識を必要としない」(知性改善論)と言っていた。アナーキスト二人の言葉は、このところずっとスピノザを読んでいる私の心に染みてくる。スピノザも、外部にある表象に振り回されたり、感情に影響されると受動的になってしまうよ、と繰り返している。
ま、もちろん、スピノザはハイパー合理主義だから、アナーキスト達とは違って「こわしちまえー、ひゃっほー」なんて言ったりしないけどね(笑)。
でも、スピノザがいう「永遠の相の下で見れば」ってのも、かなり「とぼけた」表現にも見える。
このスピノザの「永遠の相」は唯一の実体である神=自然の摂理ってことなんだろうけれど、アナーキストの言う「エクリチュールの零度」「今ここの徴候を感じ取って爆発すっっお!」というあばれっぷりと、どこかで背中合わせの接点があるようにも感じられるのだ。

スピノザが「無神論」といわれて弾圧された、その弾圧側の「恐怖」というか拒否感と同じようなものを、アナーキストたちは背負っている。つまり、徹底して考えていくと、この世界の人間の営みの範囲の偏りがあからさまになってしまうというような意味で。

栗原&白石は民意というのはポピュリズムの「手口」だと、口を極めて罵る。重要なのは民意なんぞという表象じゃなくて、ピープルだ、というのだ。その辺の事情も、スピノザのいう民衆たち(そんなに言及しているわけでもないけれど)と他人の空似程度には似ているような気がしてくる。

とにかく、読むべし『文明の恐怖に直面したら読む本』。



今更観た!アニメ『シュタインズ・ゲート』

2018年08月16日 18時39分26秒 | メディア日記
夏休みの自堕落な過ごし方といえば、アニメ映画の一気観が定番。
この夏は『シュタインズ・ゲート』(シーズン1)24本を一気に観た。

いやあ。

こんなにも柄が小さく、これほどまでに繰り返しが多く、いかにもゲームキャラらしい美少女揃いの萌えキャラだらけの、ゲームゆらいのテレビアニメなんぞというものに、これほど夢中にこれほど夢中になってしまうとは想像の外だった。
まあ、タイムリープモノは『カメラを止めるな!』などの 「メタもの」と並んで個人的に大層好みのジャンルなのだが、それにしても参った参った。
続編が今年放映されたと聞く。
そちらも観なくちゃ(>_<)

観るべし『カメラを止めるな!』

2018年08月16日 18時32分59秒 | メディア日記
久しぶりに映画館で映画を観たような気がする。
『カメラを止めるな!』
面白かった。
どこをどう書いてもネタバレになりそうなので何が良いかを書くのはあきらめるが、低予算の単館上映系の匂いがする映画なのだけれど、でも意外に映画館で観た方がいい映画かもしれない、とも思った。
ただひとつ書いておくと、私の好きな映画は例えば
『アメリカの夜』(Day To Night)
だったり、『ビューティフルドリーマー』(うる☆やつら2)だったりする、ということもあるのかもしれない。ここ最近では一番好きな映画です。
ぜひ劇場へ!

読むべし『ののはな通信』三浦しをん

2018年07月18日 22時25分56秒 | メディア日記


三浦しをん『ののはな通信』読むべし。
乙女心(おとめごころ)を持っているすべての人に、一刻も早く読んでほしい一冊。

ということは逆に、たとえ性別が男であろうが、女であろうが、乙女心がない人は読んでもしょうがないかもしれない(笑)。

ざっくり枠組みを言うと、ミッション系のお嬢様仕様の女子校で出会った二人が恋に落ち、そして別れた後もお互いを愛する気持ちを抱えながら、時に音信不通になったり、またやりとりを再開したりつつそれぞれの半生を生きていく様子を、「往復書簡体」で描いた小説、ということになる……のだが、三浦しをんだからといっていいのかどうかも分からないが、一筋縄ではいかないし、とにかく超絶面白い。

あそこのあたりもう少し刈り込んでもいいのでは?なんて余計な感想を持ったりもするが、そういうことじゃないんだな、たぶん。

とにかくクーラーなしの劣悪な環境にもかかわらず「巻措く能わざる」気分を久しぶりに味わわせされた。

まずは読んでみてほしい。

「もし面白くなかったら、ブーイングは甘んじて受けるよ」

ってなスタンスをとりたくなるのは、もうすでに魂が作品の虜になっている徴候かもしれないのたが(笑)。

いや、やられました。

これは読後感を聞いてみたい種類の本です。
といいつつ、予め聞く人を選ぶかもね。つまらない反応だったら残念だもんねぇ。

最後はどうなんだろう、とかも思ういますよ。
いや、これでいいのかな、とも。

いろいろそういう意味でも考えさせられました。

「書簡体」って嘘も真実も書けるから面白いね。

ある意味で書簡体の語りはまずもって「あなたにとってのあなた」であり、単なる二人称とか一人称とかいうだけでは終わらない。

この「あなたにとってのあなた」ミラーリングシステムを仮に「乙女心エンジン」と呼ぶなら、高性能エンジンを積んだ小説であることに間違いない。そしてそのエンジンの行く末まで描ききった小説なんて今まであっただろうか。

そういう意味では漱石の『こころ』のあまりにも長すぎる手紙(遺書)を彷彿とさせるところも(方法的にはちょっとだけ)あったかな。

夏の夜、よろしかったらぜひ。



「神楽坂モノガタリ」という本屋さん

2018年06月14日 19時08分05秒 | メディア日記
神楽坂モノガタリという神楽坂駅前の本屋さんで、
小林康夫×國分功一郎
というトークイベントがあったので行ってきた。
そのトークも面白かったのだが、今日はその話ではなく、イベント会場だった本屋さんの話。
そこでふと手に取った『STONER(ストーナー)』ジョン・ウィリアムズ 作品社刊
がとてもとても素敵な本でびっくりした、という話がしたいのだ。

アメリカの地方大学の助教授として人生を終えた平凡な大学教師の一生を淡々と描いた作品なのだが、キャンパスの風の匂いを感じるというか、大学で学問みたいなものとどんな形であれ向き合ったことがある人にとっては、懐かしいというか、 「ああそんな先生がいたかもしれない」というか、そんな大学の生活があったかもしれないというか、何とも生きる寂しさと少しの苦さと、しかし幾分かは瑞々しい青春の残映と、ソウイッタモノニたいする哀愁とが重なって、しみじみする小説だった。
一代記、なんだけれど一種の 「青春小説」として読める。

読み終えた後で、ちょっと上手く読まされちゃったな、という感も抱くのだが、その読後の感触も決して嫌みではない。その時代の 「風」を掬い取っている、と思えば、難しいことは言わなくても済む。
書かれ方はとても1960年代の小説とは思えない。たしかに時代背景は確かにその頃の社会のものだが、ある種の 「青春小説」(教養小説あるいは成長小説というべき?)的な側面を持っていて、それは時代に関わらないような気がする。

何だろう、かつて自分が 「田舎の大学」で初めて学問の雰囲気に触れたから、だろうか。この描かれたキャンパスの中に自分がいるような錯覚を覚えた。

同世代の人に読んでもらって感想を聞きたい一冊。


谷川俊太郎展(東京オペラシティ)に行ってきた。

2018年01月26日 21時32分06秒 | メディア日記
谷川俊太郎展を観てきた。
詩人の 「個展」ってどんな風にするのかにも興味があったし、なにしろ 「鉄腕アトム」の主題歌以来の 「お付き合い」だから、とにかく観ておこうと思ったのだ。

とても懐かしかった。

なんだろう、自分の人生のシーンの折々に、こんなにもこの詩人の 「詩」が置かれてあったんだ、と始めて気づかされた。
中也を読んだ時期もあるし、朔太郎を読んだ時期もある。富岡多恵子や入沢康夫の詩をタノシンダこともあるし、田村隆一に痺れたことだってある。
しかし、人生の様々なところでこんなにも出会っていた詩人は他にいない。
だいたい 「詩人の本」としては一番買ってる。
谷川俊太郎詩集と谷川俊太郎詩集・続
の二冊は厚かったし、高かったけれど、コストパフォーマンスは良かった。
大学の時ゼミで読んだ詩、彼女と一緒に声に出して読んだ詩、授業で扱った詩、カジュアルで、別に 「詩とは何か」なんて肩肘張って考えなくても読めて、しかも間違いなく社会公認の 職業「詩人」。
りんごでもアノニムでもことばあそびうたでも、peanutsでも、ふとしたときに口ずさむフレーズ(たとえば 「どんなにあいしてもたりなかった」とか、 「さばんなにすむしかだったらよかったのに」とか 「かっぱかっはばらった」)でもいい。

時折ふと傍らに立ってくれ、あるいはさりげなくすれ違う、そういうことばたちだったことを再確認。

谷川俊太郎ってなんだろう。

「海ゆかば」(信時潔)がすきだったってのにはいたく共感した(笑)

基本的に 「詩」って分からない。いつも分かろうとしてしまうしかない自分は、その場所に入れない。
でも、谷川俊太郎の詩はそういう心配をしなくていい。だからちょっと近づいてみたりできる。

あと、年譜が長かった!

蒼井優・生瀬勝久『アンチゴーヌ』を観てきた。

2018年01月21日 19時06分54秒 | メディア日記
昨日(20180120)、新国立劇場で上演中の『アンチゴーヌ』(ギリシャ悲劇アンチゴネーのフランス劇作家アヌイによる翻案。有名な戯曲らしいです)を観てきた。

単なる素人の印象にすぎないが、この芝居はギリシャ悲劇的な 「人間(というより、神様と向き合う人間)」の悲劇を、現代課題として捉え直そうとしているように見える。

そういう意味で言えば、見巧者のための芝居だったと思う。

知らないくせにギリシャ悲劇とか実存主義とか考えなくてはならなくなりそう(subjectは支配か服従か、みたいな話も含めて)だ。
だから素人には戯曲の批評は難しい。しかしとにかく、重層化されたつまり 「予め解釈された悲劇」を受け止める、という楽しみは間違いなくある。


だからこそ、というべきだろう、生瀬勝久と蒼井優という2人の役者にとっては、間違いなく一つのチャレンジとなった芝居なんじゃないか。

神と人間、コスモスとノモスを巡って展開する古代ギリシャの悲劇を、実存的なフレームを持ったフランス劇作家が、その二重性を意識した台本を書き、それを世界中の演出家が描き出す。役者たちはその幾重にも重ねられた 「謎と矛盾」を身体の上に宿らせようとしていく。
蒼井優・生瀬勝久を観るために足を運ぶ価値あり、と感じる所以である。

たぶん専門家はそんなことをおもわないのかもしれないが、私には 「神様」を逆説的に求める芝居のように見えた。それが、どんな神様かってのが問題でもあるのかもしれないけれど、神なき時代であることが自明になった上での神。
読み解き切れない構造を持った作品はいつも、どこかで神様を求めているような風情をみせる。
そういう意味でそれを身体の上に示すお芝居を演じることができ、またそれを観ることができる、という意味では 「幸福なお芝居」だったのかもしれない。

役者二人を観客がぐるりと取り囲んでその背中をも含めて演じる身体を見せ切ろうとする十字架を模したともとれる舞台も良かった。

蒼井優の 「背骨」に、やせっぽちでチビの 美人ではないアンチゴーヌが象徴的に示されているようでもあった。背中が見えるこの舞台の効用でもあろうか。
生瀬勝久は声がステキ。セリフを幾つか噛んでいたのはご愛嬌か。いや、失敗を誉めつつあげつらうつもりはない。しかしこの芝居は、うまく演じればいいというものではなく、そういう意味でチャレンジなんだろうと思う、ということでもある。

誰にでも、ではなく、それでも誰かに薦めてみたい作品だった。

秋沢陽吉の吉本隆明論、面白い。

2018年01月07日 10時55分09秒 | メディア日記
雑誌 「労働者文学」82号に掲載された秋沢陽吉氏の吉本隆明論が面白かった。

「吉本隆明は空っぽ、または吉本隆明的なるもの」

 普通の 「左翼雑誌」なので店頭で購入するのはかなり困難だと思うが、福島に住む人間としては避けて通れない 「吉本隆明問題」を丁寧に書いてくれていて、有り難かった。

ご案内の方も多いと思うが、吉本隆明は一貫して原発肯定派であり、原子力の科学的平和利用と核兵器の危険とを混同して反対するような 「輩」は断固許さない、というスタンスを保ってきた。そしてそれは福島の原発事故もぶれることがなかった。 「科学」と 「科学技術」を区別せよ、というのだ。

その吉本隆明の 姿勢を福島から批判する。
誰かがやらなければならなかった仕事を秋沢氏がようやくやってくれた。

吉本隆明の空虚さは原発政策についての無知をさらす一方で、糸井重里のような新たな 「空所」を招き寄せ続けている。

私には、日本において吉本隆明や糸井重里のような 「空所」を抱えたパフォーマーが繰り返し出現する理由が3.11以後、ようやく少しずつ分かってきたような気がする。

天皇の身体やキリストの身体、そして中産階級的なる身体、さらには我々 「庶民」の身体をどう受け止めるか?

身体を伴った哲学は今、吉本隆明の中には宿っていないのだろう。

私がアーレントのテクストに、そして國分功一郎のテクストに繰り返し惹かれ続ける理由もまた、分かってくる。

するでもされるでもない場所、ある種の者たちには 「空所」として受け止められ流通してしまう場所、その場所を生身の身体と結びつけたとき、身体もまたその 「空所」において消費されていくことに耐えねばならないのだろうか。吉本隆明藻糸井重里も、そうだという。開沼博もまたうなずいてみせるのだろう。

だが私たちは、もう少しその受肉された 「空所」に降りて行きたい。

そういうことだ。



『概念と個別性』朝倉友海、読了。

2017年12月01日 14時01分43秒 | メディア日記
朝倉友海という人のスピノザ論『概念と個別性』を読み終えた。
もちろん哲学書は一度読んだからといってそうやすやすと理解できるものではないから、分かるのはこれからだ。

10年前、まずスピノザの本文に魅せられつつ意味不明のまま震災を迎え、何をどうかんがえていいもやら分からないままウロウロしつつもスピノザのテキストはいつも掌の中にあって繰り返し眺めて来た。
ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』を読み、上野修の『デカルト、ホッブズ、スピノザ』を読み、江川隆男さんの本や講座に接しつつ、震災後はなんといっても國分功一郎氏のコトバの傍らでぼんやり考えるともなく考え続けてきたそのことのひと区切りが、この『概念と個別性』でついたような気がしている。

第一章の 「観念と概念」が一番難しい。観念(これ、頭の中で考えている思考)と観念内対象(頭の中で考えられている観念における対象物、つまり事物)と形相(実際のモノ)の関係、とか言われてもそう簡単には腑に落ちないよね。

でも、対象もまた観念内の対象だというところ、つまり
観念(観念→対象)であり、
観念(観念→観念)であり、
かつこれは無限遡行しないってあたりのところはぼんやり手応えがあった。

物事を観念の外部には置かないってことなんだろうね。
もちろん観念自体も観念の対象になるから、観念の観念もまた観念になる。
ただし
「観念の観念の観念の……」 
と無限遡行はしない。

また、観念の外部に事物を置かない。

つまりここにある十全な観念によって表現されたこの世界=自然が唯一の実体ってことになるわけね。

だからそこには外部がない。

それはすなわち、唯一絶対の神様をわれわれの外部(超越存在)に措定してそこから存在の代わりに表象が流出してくる 「のではない」ってことね。

これからいよいよドゥルーズの『スピノザと表現の問題』
を再チャレンジせねば。

このあたり、なんだかだんだんワクワクしてきた。

デカルトの観念説は中途半端だ、と批判したスピノザはそれをさらに徹底的に考えたのだ、っていう國分さんのお話とも平行する。

もしこの本だけ読んだら何のこっちゃ、だったから、分からないなりに勉強は大事だってことでもある。

しかし、たぶんここは自分の感覚とは大分離れているのでそのうちまた分からなくなると思う。

ただ頭の中でスパークした個所、
画期的におもしろかったのは

「表現的なる観念こそが真なる観念であり、そうした観念が持つ表現性が、われわれの知性を構成している」朝倉P40

というところだ。

これはドゥルーズを読んでいて、また江川隆男氏のドゥルーズ=スピノザ論に接していても感じていたことたちにコトバを与えたもらった感がある。

『エチカ』に出てくる 「属性」というものを理解する鍵にもなりそうだし、これから
ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』を読む大きな助けにもなりそうだ。

実体があって、それが絶対的な規範や神様としてその下に属性(物質や精神)とか様態(具体的な個物=存在)が生じるのではないんだよね、スピノザ的には。

何となく『エチカ』を最初から読んでると神の存在証明とかやられちゃうから困っちゃう(おもしろいけど)わけだけれど、それを面白がって先に読み進めると、ある瞬間からその意味が変わってくる……そのあたりの機微はもう少ししないと説明できないんですが(笑)


第二章 「『身体の観念』とは何か」もワクワクだった。

「精神は身体の観念である」スピノザ

という有名な、そしてなんだかよく分からない決めぜりふを、丁寧に説明してくれている。

つまり、
「理性も観念もいいけど、身体とその精神の関係はどうなってるの?」
というスピノザを読んでいるとどうにもしっくりこない疑問点があって、思惟(精神的な思考)と延長(物質的なもの)の関係は 「平行」だなんて言われても困るわけです。実際スピノザは心身二元論についてデカルトのことを意味不明だと批判してるわけだし。

第二章はそれについても、事物と観念の不可分性を 「表現」というキーで読み解いてくれている。
 
まあ、
「観念と観念内対象との関係だから、所詮は脳内のお手盛り妄想じゃないか」
的な、主知主義に対する批判は想像できなくもない。

それについては別途。

でも、ようやくそういう不可知論的な、つまりは 「私的」なところから解放されそうな予感がある。
スピノザを読み続けてきてよかった、つくづくと思う。

(この項続く)

清沢洌『暗黒日記』岩波文庫が面白すぎる。

2017年11月25日 00時17分24秒 | メディア日記
清沢洌『暗黒日記』岩波文庫が面白すぎる。

清沢洌は、第二次大戦中に「東洋経済」(石橋湛が主幹)の顧問として執筆し、アメリカ通のリベラル派として論陣を張った人物。

惜しくも敗戦直前の1945年5月、肺炎に罹って急逝。

とにかく戦時中のリベラル派にこんな人がいたのか、と目から鱗が落ちる思いがした。

以下、いくつか言葉を抄録する。

P335「イグノランス(無知:筆者注)がいかに罪悪であるかが、三人の一致した意見である。国民を賢明にする必要がある。それには、まず言論自由を許すのが先決問題だ。」

P85[防空演習は、丸ビルでは信号あるや便所の中でも、ピタリと床に平這いになって、顔を地につけている由。その非常識、沙汰の限りだ。二十才前後の者が、得意げに命令をして歩いている。」

P86「ミリタリズムとコンミュニズムとの妥合。予はコンミュニズムは封建主義と同じフレームオブマインドの産物なりとの見解を抱く久し。この事は、あらゆる方面に見らる。」

P122「英国は、いつでも他をして戦わせる。しかし英国が味方した方が敗けたことがあったかしら。」

P335「僕は、また米国の無差別攻撃に対し、日本のキリスト教徒が連合して、世界の世論に訴うべしと述べた。第三国の人をして調査発表せしめるのもいいではないかといった。坂本君はそんなことは軍部が反対だろうといった。」

P261
1945.1.1
「日本国民は今初めて『戦争』を経験している。(中略)だがそれでも彼らがほんとに戦争に懲りるかどうかは疑問だ。結果はむしろ反対なのではないかと思う。彼らは第一、戦争は不可避なものだと考えている。第二に彼らは戦争の英雄的であることに酔う。第三に彼らに国際的な知識がない。知識の欠乏は驚くべきものがある。
当分は戦争を嫌う気持ちが起ころうから、その間に正しい教育をしなくてはならぬ。それから婦人の地位を上げることも必要だ。
日本で最大の不自由は、国際問題において対手(あいて)の立場を説明することができない一事だ。日本には自分の立場しかない。この心的態度を教育しなければ、日本は断じて世界一等国となることはできぬ。総ての問題はここから出発しなくてはならぬ。」


こういう日記を読むと、その中にも具体的にはこんな風に戦争の真っ只中にいても時局を批評的に見る瞳が存在したのだ、と改めて身が引き締まる。そして、自分に引きかえてどうなのか、と考えさせられる。

確かに米国びいきの富裕層リベラルの言としてこの日記を見るならば、それに対してのツッコミどころはいろいろある。

軽井沢の別荘の話とか株の配当の話とか、生活レベルがまるで違うなあとも思うし、(本人も正直に書いているが)親米派と思われないためにわざとアメリカの悪口を言ってみたり、その実アメリカ帰りの日本人はみんな誠実だなんて言ってみたりもする。口を開けば軍部と国民はバカだバカだと毒を吐くし(笑)。

だが、そんな言葉の中に込められた「この世界から戦争をなくすために、僕の一生が捧げられなければならぬ」(1944.11.16)という思いは、間違いなく胸に迫ってくる。

ジャーナリストというよりはやはり「論客」というべき人だろう。
また、広い人脈に支えられた当時の政治の中心に近い人物たちとの交流の中で話された言葉たちの記録として、この日記には高い価値があるのではないか。

俄然戦中の日本に興味が湧いてくる1冊である。

おそらく私のその興味の底には、今もまたすでに「戦前」あるいは「戦中」なのかもしれないという危惧が存在しているのだが。

丸ビルの空襲の信号(警報)でトイレにはいつくばるのを「沙汰の限り」というくだりは、そのままJアラートの今日と変わらないわけだしね。


とにかく、日本国民全員に一読をお薦めしたい1冊。年末のお忙しいところですが、いかがでしょう。
小説以外で「巻措く能わざる」思いをしたのは、今年3冊目でした。

1冊目は『中動態の世界』(國分功一郎)。二冊目は『<政治の危機>とアーレント』(佐藤和夫)
どれも超おすすめです。


最高だった!高木克 「芸能生活30周年記念ツアー」バロウズいわき

2017年11月08日 01時01分33秒 | メディア日記
昨日の夜(2017年11月06 日)全く予備知識なしに、高木克のライブ(いわきバロウズ)に行ってきた。

信じられないほど楽しかった。

ソウル・フラワー・ユニオンというグループのミュージシャンのソロライブ、だったのだが、なにせ何にも予習なしにいくライブはかなりのチャレンジ。
友人が企画していたので誘われて 「不見転」でひやかしに行ったのたが、これがめっぽう素晴らしかったのだ。

とにかく、ギターが凄い。
プロのバンドのギタリストのギターが上手い、とかいうのは失礼というか、とぼけた感想といわれても仕方がないのだが、とにかく楽しいのだ。

アコースティックギター一本から出てくる音とは考えられないほど華やかでタイトで厚みがあって、その音がライブを支えているというばかりではなく、演奏している音楽にとどまらない 「豊かさ」というか 「エネルギーの充溢」というか、そーゆーものを感じた。

小さなライブハウスだからこそ、ということもあるかもしれない。

聴いているのは歌の声とギターの音の二種類に過ぎないのだが、それ以外の何かが伝わってくる。

高木克、すてき!

バンドの栄枯盛衰というか合従連衡というか、出入りというか、そういう様々な歴史もありつつ、一つのジャンルやバンドの色にとどまらない豊かさの匂いも感じた。

誘われたら乗ってみる、って大事なことだね。そういうときにひとはもっともよく 「感染」を体験しやすいんだなぁ。

「アーレントにおける二者の問題」國分功一郎先生のシンポジウム発表をメモしてみた。

2017年09月19日 14時15分46秒 | メディア日記



以下は
「アーレントにおける二者の問題」國分功一郎氏 
 2017.09.09(Sat.)於:慶応大学西校舎519教室

の聞き書きノート。
例によって自分でメモした覚え書きです。
聞き間違いも多いし、メモ出来なかったところもあるので、個人的な覚え書きの域を出ません。

ご承知おきください。

以下開始-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

これは研究ノートのようなもの。

アーレント研究者のみなさんにとっては「そんなこと知ってるよ」という内容がほとんど。

まず教科書的に整理して、最後に僕なりの論点を付け加えるという感じ。

タイトルは「ハンナ・アーレントにおける二者の問題」

ハンナ・アーレントの思想において、「数」というのは本質的な意味を持っているカテゴリーである。

政治と哲学の関係というのは基本的に数によって提示される。

政治は複数に対応し、哲学は1に対応する。

政治というのは人間が必ず複数人存在する。このコロンブスの卵的な発想だが、人間は必ず複数いる。それゆえに要請される営みだ。

政治にとって根本的条件である複数性というのは、

「The Human Condition」(邦題『人間の条件』ちくま学芸文庫)

において各人の区別(distinctness)と平等(equality)という概念に翻訳されている。

「人間は一人ひとり異なる。だから必ず人間たちの間には不一致がある。しかし人間は平等であるから、その不一致を乗り越え、同意を獲得することができる。もし人間が平等でないなら、同意を獲得する可能性も必要もない。」

同意を得るための手段としてアレントがいつも強調するのは言葉。
同意を得るためには言葉によって説得しなければならない。

そこで、アレントはしばしば説得(ペオテイン)と暴力(ビヤン)との対立に言及している。

例えば「権威とは何か」において

「ギリシャにおいて前者つまりペイテイン(説得)というのは、ポリス内部の一般的解決方法であって、後者すなわち暴力(ビヤン)は他国との問題の一般的解決方法である。」


つまり、政治すなわちポリスの=ポリティックスとは従って平等な者の間での言葉による説得と同意を前提としている。

暴力が現れた時に政治は消える、ということ。

「暴力は有無を言わさず人々を従わせることはできるが、同意をもたらすことはできない。」(「暴力について」)

とアレントがは言っている。

説得と暴力というものの区別がアレントの中にははっきりとあって、複数人が関わる営みを政治とそうでないものとに分けるのは、この二つの区別だ。

人間が複数に関わる営みのうち、意見(オピニオン、ドクサ)を政治は扱う。

「私にどう見えるか」が問題。
だから必ずその意見というのは多様になる。
人間の複数性あるいは区別というのものは、具体的には意見の多様性として扱われる。

意見は必ず多様だ、と。

ところが、真理は違う。

「真理はその妥当性を主張する仕方において意見と鋭く対立する」(アレント)

真理は強制だ、と。

「真理を語ることを職業とする者に顕著な暴君的傾向」(アレント『真理と政治』)

つまり、「哲学者とか真理を語っている連中は非常に暴君的だ」と書いてある

これは真理に本質的な特徴。

真理というのは強制的な要素を持っている。

で、真理が強制的なものである、っていうのは、これは当たり前っていうかここから真理が多様性、すなわち複数性を断固として認めないっていうことを意味する。

真理と言うのは多様性を認めない。

単独者としての人間、singulerな存在としての人間だけに真理は関わる。

ここが「1」ということ。
哲学っていうのは哲学者が一人で営みである。
一人で行う。

だからここできれいに政治は「複数で」、哲学は「一人で」、と対立することになる。

プラトンの洞窟の比喩について、アレントは

「哲学者は一人で(洞窟から)出てくる」
と指摘している。

なるほどな、と思う。

一人で出てって太陽の下でイデアを見てきて、一人で洞窟に戻ってきて一人で

「おいおまえら一緒に外行こうぜ」

って連れてったら、連れて行かれたやつらが

「目が痛いよ、こいつ何すんだ」

ってもう一度哲学者を洞窟に連れ込んで、みんなにぼこぼこにされる……っていうのが洞窟の比喩なわけです。

哲学者は全部一人で行う。そこにアレントは注目している。

プラトンの時から哲学って一人で孤独に行うものだ……それゆえに哲学者はバカにされたりする。疎まれる。そして場合によっては殺されてしまう(ソクラテスのように)


哲学は哲学者が一人で行う観照(主観を交えずに自然や人生などの本質を見極めること)である、と。

で、アレントはこういう。

「意見による支持を何ら必要とせずに妥当する絶対的真理が、人間の事柄の領域で要請されるならば、一切の政治、一切の統治の根底が覆える。」

政治に真理を導入してはいけない、と。
政治が真理を援用するやいなや、政治はその根本を覆される。

しかし哲学史の起源にプラトンは哲人王の理想においてそれを追い求めた。
二十世紀には共産主義国家が歴史の真理を手にした政府っていう形でそれを実践した。

このことにアレントは大きな問題を見ていたのではないか。

とにかくこの「1と多」っていう対立でだいたい説明ができる。

哲学と政治っていうものの折り合いの悪さを、「1と多」という数の対立はこの上なくシンプルにそしてこの上なく鋭く示している。

「1」は「多」ではありえず「多」は「1」に翻訳できない。

考えれば英語もフランス語も、現代ヨーロッパ語には単数形と複数形しかない。
ある意味アレントの政治と哲学の対立は、現代ヨーロッパ語のある種の特徴である「1と多」しかない世界を翻訳している、ともいえる。

しかし(ここから注目!)

実はアレントは、哲学者は一人で思考するんだけれども
「思考とは自分自身との対話、声なき対話」
なんだとも言う。

プラトンの『ゴルギアス』の表現を引用して、アレントは「私が私自身と対話すること」あるいは「一者における二者の経験」ということを言う。Two in one なんだかシャンプーみたいだが(笑)

一者における二者の経験、それが思考だ、とアレントは言うのだ。

solitude(孤独)とlonliness(寂しさ)の対立(國分さんの訳)

lonliness(寂しさ)は、自分が自分自身と一緒にいられない状態のこと。
私が私自身と一緒にいられないから誰かを求めてしまう。
solitude(孤独)は、私が私自身と一緒にいる状態。

と考えられる。
アレントは、『全体主義の起源』の中で、さみしさ(lonliness)というのは人間にとってもっとも絶望的な経験である。だから、寂しさの中にある人間は、多くの場合だれか一緒にいてくれる人間を求めてしまう……と指摘している。

『自由とは何か』からの引用

「孤独における一者の内なる二者(two in one of solitude)は思考過程が始まるための条件だ」

まさしくこの two in oneというのがものを考えるための絶対条件であるという。

そうすると、一見したところ「1と多」って区別を非常に根本的なところにおいて、強烈にそれを対立させて政治と哲学を対立させてみせるという思想に見える。

しかし
意外と肝心なところでもう一つ別の数のカテゴリーを導入していて、それが「2」じゃないかと思う。
「2」っていうのが実はこっそりとアレントの本の中に書き込まれているって感じがする。

しかもこの「2」は哲学と政治という対立する二つの活動の、その根本的対立を乗り越えていくときに非常に重要な意味を持ってくるのではないか。

どういうことか。

哲学というのは政治と基本的に対立していて折り合いがつかない。
しかし、
哲学者には実践の領域に入り込むための道が一つだけ残されている。
とアレントはいう。

僕はこれ非常に感銘を受けたんですけれども、読んでいて。で、
この実践の領域に入っていくときに、実は「2」っていう数字が役に立つ。
重要な役割を果たす。

どういうことか?

哲学の真理は「1」としての人に関わるもの。
で、本来的に非政治的。
つまり真理っていうのは「1」のままでは全く実践的に何の力もない。

じゃあこれをうまく多数者に関わらせればいいんじゃないか、っていう発想が出てくる。
つまり、真理を多数者の同意の対象にするということ。

真理を同意の対象にする。しかし、これはアレントが「政治と真理」の中ではっきり言ってる。ダメ。

多数者が真理に同意することはあり得るけれども、その多数者は今日は同意しても明日は同意しないかもしれない、と。

つまりそのとき真理はその性質を変えてしまう。
同意を求めると、それは単なる意見になってしまう。
だから真理を同意の対象にすることはできない。

じゃあ真理は、哲学者は、実践の領域において何の役割も果たせないのか?

でも一つだけやり方があるってアレントは言う。
それは何か?

(ソクラテスのことを念頭に置いて)哲学者が自らの生、自らの生命、自らの命ですね、それをその真理に賭けて、その真理を範例にすることだ、とアレントは言う。

それはここに関わる。

ソクラテスは『ゴルギアス』の中で不正を行うより不正を被る方がよいっていう命題を真理として出す。

ところがこの『ゴルギアス』という対話編は、最終的にカリクレスっていう相手をソクラテスが論破できない。

負けちゃう。
ほんと読んでると、カリクレスが「またこいつくだらねえことをいってる」とかそういうことが台詞として書き込んであって、ソクラテスはカリクレスを全然論破できない。

最後ソクラテスは負け惜しみのように「死後裁きにあう」みたいな話をして終わる。
「おまえたちそんなことをいってるけど生きてる間に悪いことすると将来死んだ後に罰を被るからな」っていうことを、ミュトスとかかっこつけてしゃべるが、結局現世でどうだとか話はできない。


ここ「真理」をソクラテスはどうしたかというと、ご存じの通り

「国法を破るっていう不正を行うよりは、私の冤罪を冤罪として冤罪でも受け入れる」

という、不正を被る方が良いっていう形で死刑宣告を受け入れることで、逃亡できるにもかかわらず逃亡しないということで、命をかけた行為によって一つの範例にすることになる。

つまり、人生をそれに賭けることによって、真理を範例にして、これによってこそ、これによるときのみ哲学者は実践の領域に踏み込むことができて、…とアレントは言うわけだ。

「哲学の真理が範例という形に表されることが出来る場合にのみ哲学の真理は実践的となり、政治の領域の規則を侵さずに行為を鼓舞できる」アレント

アレントは上のように哲学者に対して非常に厳しい。

しかし哲学者には慰めがある、とアレントは同時に言う。

「哲学者はいつも自分自身を同伴しているという考えに慰められる」(『人間の条件』より)

つまり哲学者ロンリネスではなくソリチュードの中に哲学者はいる。

それがあるから、哲学者は哲学と政治の対立を越えて実践領域へと赴くことができる。

(これをいっただけじゃ「ふうん」って感じかもしれませんけれども<國分せんせ>)

アレントはこれを別の人物像と比較している。

ナザレのイエス。

アレントはイエスについて語りながら、「善行を行う者」についてずっと論じている。
「善」は特殊だ、と。善は見られたり知られたりした途端、ただ善のためになされるという善の特殊な性格を失ってしまう。だからあの人はいいことをした、と思われたり、自分はいいことをしたと思った瞬間に、「善」ではなくなる。行為者ですらそれに気付かないときのみ善は存在するというふうにアレントは強調する。
だからここからイエスの有名な「右手のしていることを左手に知らせるな」っていう教えが出てくるのだという。
」つまり善行というのはそれがなされた途端にすぐに忘れられなければならない。
ロンリネスの中でも絶対的なロンリネスの中にいなきゃいけない。人間にとってもっとも絶望的な経験である寂しさの中になんとしても留まらなければならない。

しかし、アレントはここには矛盾がある、という。

善行は他人のためになされる。だから善行を行う者は必ず人々と共にある。ところが、善行を行う者は善行を見られてはいけない。それどころか自分がしている善行を安心して自分で目撃することもできない。ここでアレントはこういう。私(國分さん)が一番好きなフレーズ。

善行を行う者が生きねばならない寂しさ(ロンリネス)というのは、多数性という人間の条件にあまりにも矛盾している。だから長時間にわたってはとてもそれに耐えられない。それが人間存在を完全に滅ぼしてしまわないためには、善行を目撃する唯一の想像上の証人、神の同伴を必要とする」

つまり善行を行う者は、それをつきつめていくと神様をどうしても要請せざるをえない。超越的な存在を要請せざるをえない。だからこそある意味でkろえは神との二者関係がそこに現れるということだ。

まとめ。

哲学者はつねに「2」に分裂している。
それに対して善行を行う者は絶対的な「1」であるがゆえに、逆説的に超越的存在者との二者関係に入っていく。神だけが彼の行いを目撃する。

我々は最初に「多」と「1」として政治と哲学を定義したけれども、今ここで対立されているのはいわば哲学と宗教の対立で、ここでは違った仕方で「2」というのが両方で問題になる。思考における「2」と超越者との関係としての「2」。

だから、実はこの「2」っていうのは重要なところで役割を果たしているのではないか。

最後の結論の話。

一見したところ、アレントの思想っていうのは「1と多」という非常にオーソドックスな対立のもとにある。
オーソドックスというか、現代ヨーロッパ語が「1と多」というのを基本的カテゴリーにしている。
しかしアレントは政治と哲学を対立させるときは「1と多」だが、哲学と宗教を対立させるときには、いわば逆説、ちょっと変わった仕方で「2」という数字を実は取り上げている。

で、ここをまず一つ強調したい。ここから僕(國分さん)の論点。

僕が問いたいのは、アレントが問題にしているのは本当に「2」なのかということ。

哲学者の二者性っていうのはあくまでも一者が分裂したそれではないか。
アレントは、考える人にとって自己欺瞞っていうのは一番やっちゃいけないんだっていうことを「真理と政治」の中で言う。しかし、これもダイアローグというよりはモノローグ的な感じがする。

さらにいえば、善行を行う者と絶対者との関係っていうのも、これを二者関係といっていいのか(まあ言ったのは僕なんですけれども)。
絶対者との二者関係って、これを「2」というのは無理があるって感じがする。

何がいいたいかというと、「1対多」は現代ヨーロッパ語が依拠する基本的カテゴリー。
だが、多くのインドーヨーロッパ語には「双数形」という形がある。dual。

このdualをなんとかして政治理論に持って来れないか、ということが言いたい。

言い換えればアレントに欠けているのはこのdualではないか。
「いや、愛の問題があるから欠けてないよ」というつっこみもあると思うが、それは今日措く。

少なくても政治と哲学の関係を論じるときに、何かdualっていうことにアレントが「触れてるんだけど触れてない」そんな気がする。
「準2」というかそういうのだけが働いていて、本当にdualな「双数形の世界」に触れているようで触れていないようで、もしかしたら触れていうるというような、そういうのがアレントの中にあるんじゃないか。


アレントは「1と多」というカテゴリーにすごくこだわり、「2」が持ってる可能性にこう非常に厳しく目をつぶって議論を組み立てている。だからこそむしろ、「1と多」に「2」を持ってくることでアレントの論の枠組みをもうちょっと違う形で展開できないか?

ここまでいくと全くアレント研究でもなんでもないが、こういう風に考えてみたいと思う。

それを考える上ですごい大きなヒントが、アレントの哲学者と善行を行う者との対立にあると思う。最後「オレの話」になってしいまったが、こんなことを今考えている。





直ちに読もう!佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント

2017年09月09日 09時29分54秒 | メディア日記
アーレント研究会とやらをのぞきにいく電車の中で読み始めた佐藤和夫さんの『〈政治〉の危機とアーレント 『人間の条件』と全体主義の時代』、狂おしいほどに面白い。

佐藤和夫さんとは何度かおめにかかったことがあるし、お話をお聴きしたこともある。

講演の印象は、ジェットコースター並みの高速回転で世界の見え方が動いていく究極のADHD的な(この場合 「芸術家的」と言い換えてもよい)哲学者と出会った、というものだった。

しかしこの本は、その稀有な才能の持ち主である 「佐藤和夫」の名を持つことばたちが、私たち一般読者のために 「足を止めて」きちんと 「拳」を次々に繰り出してくれているのだ。

これはマジで凄いことだ。

この本と出会った午後に、國分功一郎先生の提題で論じられるアーレントの話が聴けるとは、それを至福と呼ばずしてなんと呼ぼう。

ただし、アーレントの 「学会」とか 「研究会」の人々が私のこの狂喜乱舞っぷりを共有してくれるか、というとそれはまた別の話なのだろう。学者の言説は意外とそこは 「鈍い(よく言えば慎重)」からね。

言っておくが、ここでいいたいのは 「物語」の水準のことではない。 「表現」の水準のお話だ。

私は学者さんたちになんの義理もないからいいんだけど。

勤め人にとって貴重な週末の半日を裂いて、自腹で買って読む価値あり、じゃないかな。
そして実はまだ読み終わっていない(笑)

國分功一郎先生がこれでもか、と緻密に緻密に論を進めた『中動態の世界』とは対照的に、佐藤和夫さんはグイッといきなり心臓部に触れるような書きっぷりだ。

「芸風」の違いもあろう。 「お年の差」もあろう。しかし、間違いなくこの二冊は私にとって(今のところ)2017年のベスト2。

しかもそれがいずれもある意味アーレントから現代の 「知」を逆に照らしていることも興味深い。

アーレントって、結構いらいらするし、読んでもわかんないとこあるし、妙に息づかいを感じてしむうところもあるし
、素人でも突っ込みたくなるところもあるし、でもみんな気になってるって感じでもある。

なきはともあれ、読むべし。

佐藤正午『月の満ち欠け』(岩波書店)を読んだ。

2017年08月05日 16時41分35秒 | メディア日記
たった一冊佐藤正午の本を薦めるのなら、これにはしないだろうと思った。

あまりに面白く、あまりにシンプルで、かつあまりにも上手に描かれているこの作品『月の満ち欠け』をその人に紹介してしまったら、その後どうすればいいか分からなくなる、そんな気持ちで読んだ。

何だろう 「キツネに 鼻を摘ままれた」感じ、とでもいえばいいのだろうか。
とにかく語られている話の筋は、読み終わってみれば荒唐無稽かつシンプルだ。

だが。これをどうやったらこんなにも面白く描けるのか?いや、今し方読み終えたばかりの小説なのだから単純に 「面白かった」といえばそれで済みそうなものだが、そう簡単にはいかないのだ。

もちろん 「語り口の妙」とか 「テクニック」とか「佐藤正午だからな」と呟いてもいいのだが、このなんともはやもっていきところのない 楽しい「騙され感」は、むあ読んでみるしかない、と言うべきだろう。
こういうモノは、お金を払って読み、 「二度と読まない」となるかもしくは 「一生ついていきます」となるしかないんじゃなかろうか。私は無論後者なのだが。

読んだ後の感想を聞きたくなる小説だ。小説の 「物語の筋」についてではない。この小説が、読まれてしまったそのことについての、である。

ちなみに私が見知らぬ人に薦めるなら『鳩の撃退法』にしておきたい。身近な人なら 「直木賞だよ」といってこの本を渡すかな(^_^)