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龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

私が書いてみてもしょうがないんだけれど。

2015年03月18日 01時19分54秒 | 大震災の中で
三原じゅん子とかいう国会議員が

「八紘一宇」(一発で変換された!)
について、次のように発言したという。

 「日本が建国以来、大切にしてきた価値観『八紘一宇』。八紘一宇の理念のもとに、世界が一つの家族のように、むつみ合い、助け合えるように、そんな経済及び、税の仕組みを運用していくことを確認する崇高な政治的合意文書のようなものを、安倍総理こそがイニシアチブを取って、世界中に提案していくべきだ」(自民党・三原じゅん子参院議員)

ソースはこちら
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2446997.html


私がブログで書いても仕方がないと思うけれど、書いておかなければ気が済まないので、止むを得ず書く。

「八紘一宇」を辞書で引くと大辞林にはこうある。

引用開始------
はっこういちう —くわう— 6【八紘一宇】〔日本書紀「掩二八紘一而為レ宇」より〕
天下を一つの家のようにすること。第二次大戦中,大東亜共栄圏の建設を意味し,日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた。
大辞林 第三版
引用終了------

国会議員がこれを正式なところで主張するということは、まあ国語辞典に載っているスタンダードな物の見方に沿っていえば、
この議員は

「日本の海外侵略を正当化」

している、と解釈可能だ。

もしかするとこの議員はあまりにも無知なだけなのかもしれない。

従って主観的には「歴史修正主義」的な解釈じゃない、とでも思っているのかもしれない。
そしてあるいは誰かバカの上手な「使い手」に助言されているのかもしれない。

しかし、いくらなんでもこりゃ国民に対してすら失礼だろう。どれだけ私たちを危ない目に合わせたいのか。

この不用意な発言では、日本の常識に照らしてすら、侵略戦争を肯定している、というロジックが成立してしまう。

いまさら現政権の思想のインチキ臭さやひどさをいちいち書くつもりもないが、これはちょっとあんまりじゃないか。

これで政治的に「得をする」人について、シミジミ考えざるを得ない。

一体誰が得をするんだろう?

田舎芝居じみたヤクザの威しや警察の尋問ペアのように、しばらくの間ひどいことはバカに言わせておいて、その後で美味しいところを取ろう、というヒトがいるのだろうか。
せめてそうであって欲しいとすら考えてしまう自分に「自己憐憫」を抱いてしまいそうだ……。

それにしても筋が悪い。

日本がロシアや中国のような「陣取りゲーム」のプレイヤーになるのは勘弁して欲しい。この言葉は、かつて「陣取りゲーム」(帝国主義)を正当化したマジックワードという面を持っていた。

アメリカ的な「正義」フィクションもどうかと思うけれど、せめて「正統性」への配慮はあるよね。

憲法も、辞書も、ないがしろにしておいて、まるでできの悪い西部劇でてもあるかのように、
「私が法律だ」
みたいなことをされても挨拶に困る。

「八紘一宇」という言葉は、大日本帝国が日本の侵略戦争を正当化する論理として用いた経緯があるのだから、使い方には注意が必要な言葉に決まっている。

そんな言葉を、なんの説明もエクスキューズもなしに敢えていきなり「三原某」に語らせてせているのなら、かなり悪質なやり方だし、「三原某」が本当に自分で勝手にその辺から掘り出してきたのだとすれば、子供が銃をもてあそぶようなものだ。

危険水域を越えて広がる「バカ」な振る舞いは、もはや確信犯、と呼んでいいのかどうかすら怪しい。むしろ「病気」、もしくは精神分析の対象と呼ぶべきか。




平田オリザコメント(いわき市の実情を描いたディスカッション演劇プログラム)

2015年03月04日 13時19分28秒 | 大震災の中で
平田オリザプロデュースの、演劇プログラムの公演を観に行ってきた。

NHK未来塾の公演 
~いわき市の実情を描いたディスカッション演劇~
2015.03.02於:いわき総合高校 演劇2本とトークセッション



いろいろ考えさせられた、といえばそれで終わってしまいそうだが、ちょっとだけ粘って思考の軌跡を記録しておきたい。
まず、記憶を頼りに平田オリザさんのコメントの意図を再現してみます(そのままじゃありません。あくまでメモ程度です。あしからず)

☆平田さんのコメント1

もっとオブラートに包まずに描いてほしい、最後に方向性(希望)を出してほしい、お金を取る芝居として考えるとどうなるのか、などの意見や質問を踏まえてのお話。




まず最初に「彼らにはテーマは設定しなくていい」と言ってある。
芝居を実際見たのがはじめてというかたも多くいると思うが、これは、基本的になにかこちらでメッセージがあってそれを伝えてみなさんに納得してもらうものではなく、考えるきっかけにしたり、帰り道にあれはこうだったんじゃないか、などとと議論してもらうためのもの。

今回やってきたのは、ある一定期間内に10分とか15分ぐらいのお芝居をチームで作るという大学生とか、演劇を志す人たちのためのプログラム。

これはその作る過程自体に意味がある。

お金を取ってやるものではない。
お金をとってやるなら、一人で書いて一人で演出した方がクオリティは上がる。

このプログラムはそうではない。
創作の過程でみんながものすごく苦しんで、しかも演劇というのは一定時間経つと幕が上がってしまう、本番が始まる、それまでにできる最善の答えを出して行かなければならない、それを体験するもの。
これはある意味では、芝居を一緒に見たみなさんが今ここでやっているこの話し合いと同じことだ。

それをを作る過程でやってきたわけ。
だからたぶんみなさんにとってもリアルに感じてもらえたのではないか。

このプログラム自体に意味があるので、できたものをお金を取るということではない。

もう一つ答えとしては、ずーっと彼らに言ってきたことだが、プロの作品だったらば、もっと冷酷に、もっと冷静に福島とかいわきとか双葉郡とかの現状に向き合ってもっと意地悪にならないといけない。

それは大変なことで、それは芸術家が一人でやる作業。
それはまたちょっと別のものと考えた方がいい。

☆平田さんのコメント2

演劇それ自体というより、観客を巻き込んで対話する空間になっている。それは意図したことだろうが、どういう意図なのか、という質問に対して、




もちろん、最初からそういう意図でやっている。
これは教育プログラムで、大阪大学の授業で実施しているもの。
(欧米などの大学では)演劇をやっていない人を対象にやっているプログラムでもある。

もう少し解説をしておくと、ドラマと言うのは全員が同じ行動をとってはドラマにならない。
たとえばここで誰か一人が急病で倒れたとする。

みなさんどうしますか?

だいたい救急車呼ぶかなにか事件性があれば警察を呼とか、するだろう

隠すっていう人はいない。「もう絶対これ隠す」とかね。それはおそらく、ない。
もし隠すなら、隠すなりの事情がないといけない。

だから、何か事件が起こったからドラマになるというわけではない。

ある事件が起きたときに、共同体の中で、いろんな人がいて、いろんな人がバラバラな意見になるような事件が起きないとダメ。

(授業などでは)よく忠臣蔵に例える。

忠臣蔵の時、赤穂藩には300人ぐらい侍がいた。
関ヶ原からもう100年、完全にサラリーマン化している。

だからそこではずっとおしゃべりばっかりしていた。小さな藩の中で。

このおしゃべりをは、カンバセーション=会話という。
会話ばっかりしてた。
会話だけだとお芝居にならない。

ところが、ある時藩が潰される、という大きな運命に全員が直面する。
そのときにみんな自分でも思ってもいなかった価値観が表にあらわれることになる。

「殿が死んだから切腹だ」
「城に立て籠もる」
「討ち入りだ」
「いやちょっとうちは家族がいるからお金をもらって再就職する」
ETC.
いろんな意見が出ることによって、会話から対話=ダイアローグが起ってくる。

演劇には、対話が起こることが必要。

要するに演劇というのは作る過程においても、作品においても、ダイアローグ(対話)っていうものがどうしても必要になってくる。

そのダイアローグの手法を学んでもらうことが、演劇のプログラムとしての一番のポイント。

もうここまで聞いていただければおわかりのように、福島県、とくに相双地区はまさにそういう大きな運命、しかも価値観はものすごく分かれちゃうような事態に直面した。

だれも、あの原発があの状態になって、しかも微妙な状況。

(不謹慎な話かもしれないが)仮にもっとチェルノブイリみたいな大惨事だったら、みんな逃げる。
だが、今福島が抱えている問題は「よく分からない」。
みんなちょっとずつ違う。

住んでいる場所が500メートル違うだけで受け取るお金が全然違う。

津波で家が流された人と原発で避難した人とのお金が全然違う。

そんなことが起こると、誰も日本人の誰一人考えていなかった。
それが起こったわけです。

イスカンダルからヤマトが放射能除去装置を持ってきてはくれない。簡単な解決はない。

だからこそ、今もずっとみなさんは対話せざるを得ない状態が続いているということ。


(今回演劇をつくってくれたメンバーは)高校生もいるが、大学の学生たちが中心。ですが、これから福島を背負っていかないといけない学生たちだ。
彼らに一番必要なのは、対話力だろう。

はっきりした答えは出ないんだけれども、いろんな価値観を持った人が集まって、一定期間内に何か結論を出していかなければならない。そして前に進んでいかなければならない。そういう時に、今日やったような対話力をつけるプログラムが有効だと思います。

ちなみに、ふたば未来学園で、この四月から一年生からこのプログラムをほぼ毎週やらせていただく。

(以上、平田オリザさんのコメントまとめ)

カシオG-SHOKガルフマスターの短針がプラプラしている件について

2015年01月24日 00時13分03秒 | 大震災の中で
短針の位置と後ろの「G」の文字の位置関係に注目してみてください。時間が進んでいるのに、短針が左にずれています。
ちょっと力を加えると、針が「遊んで」いるのが分かります。

まず一枚目


こちらはその二〇秒ぐらい後。



軽く振るたびに、短針が前に行ったり後ろにいったり。
これが「仕様」ってどうなんでしょう?

なんだか釈然としない気分。まあ、カシオ仕様ってことですかね。間違いなく修理センターでお墨付きをいただいたのだから、カシオクオリティの証明ってことで。


改めて、柏崎刈羽原発再稼動に反対する。

2015年01月04日 11時44分56秒 | 大震災の中で
毎日新聞(ヤフーニュースより)に、こんなニュースがあった。

<柏崎刈羽原発>再稼働・管理強化へ原電技術者受け入れ検討

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150104-00000002-mai-bus_all
再稼働は、本当にやめた方がいい。

私は福島の住民として反対しなければならない義務を背負った。

決してNIMBY(not in my backyard:必要なのは分かるけど、自分の家の近くじゃないところでやってね、という迷惑施設のこと)問題としてではなく。

私は福島に住む住民として、原発施設はいわゆる私たちが付き合ってきた世界(自然、とも呼ばれたりするけど)との関係、人と人との関係、自分自身との関係を、お金との関係を、メチャメチャにしちゃうものだということを知ったから。

もちろん地元の高校教師として、東電に教え子が合格•入社した時、工業高校の進路係として、また担任としておめでとうをいったし、嬉しかった。彼女の人生にとっては疑いなくプラスだと感じたから。そして彼女が大震災の時どうしているかに心を痛めもした。安否がわかって元気にいわき市で子育てをしていると知った時、深く安堵した。
そんなこと一つをとっても感情は単純ではない。

そのことを含めて(つまりは感情を捨象した計算可能性の理性ではなく)、私の直観は原発再稼働を認めてはいけない、と答えを出す。

立場や権力は、人間の自然権を最終的に奪えはしない。

安倍晋三が「解釈改憲」の非常時を宣言して「この道しかない」というのは、そうだろうな、と思う。のんびりはしていられない、という「計算可能性」の限界がそこにきているからだ。

それでもなお、その計算を止めるわけにはいかない、という者達は、どこかで理性を自分の計算の範囲だけで停止してはいないか?

スピノザが偏見や感情(第1種認識)をほぼ間違っている、と嘆きつつもそれもまた人間の認識だと言い、だから理性(第2種認識)が必要だ、と主張しつつもそれが最も高いところに位置しているわけではないとして、なお第3種認識としての直観を手放さないのは、まさしくそこに係る。

みんな、もう少しスピノザを読もうよ。『神学政治論』(光文社文庫から新訳が出てます)は実用書(訳者の吉田量彦による)ですよ(笑)

明けましておめでとうございます。

2015年01月02日 13時55分27秒 | 大震災の中で
ブログを始めてから10年ぐらい経ちました(たぶん)。その間サーバーも4回ほど引っ越ししました。それでもデータを引き継ぎつつ、メモ代わりにアップし続けている理由は、ほぼ一つ。

(最近はFacebookに書くネタの中で、メディア日記に残しておいた方がいいものをこちらに書く使い方になっていますが)

とにかく書き続けているのは 自分のハードディスクやクラウドだと結局いつの間にか散逸してしまったり、参照しないまま埋もれてしまうから、です。

お読みいただくのも申し訳ないぐらいですが、言葉はそれでも読まれることを期待して書かれるので、ありがたく「読ませ」させていただいております。

今年もよろしくおねがいします。


金沢の秘密保護法反対集会を、選挙違反の恐れあり、と選管が指摘?

2014年12月09日 00時29分48秒 | 大震災の中で
この選管のコメントは問題あり。「自主」規制もここまできたか、という印象です。
煽るつもりは全くない。
でもね、控えめな感想だけど、この国はかなりヤバいところまできているかもしれない、と思うよ。
今飛ぼうとしたら削除されてる。
誤報ならいいんだけどな。
(その後午前5時に再度アップされていました)


(引用開始)
秘密保護法:反対する街頭活動を中止…公選法抵触の恐れ
毎日新聞
 金沢弁護士会が、10日に施行される特定秘密保護法に反対する街頭活動を計画したところ、石川県選管から「衆院選期間中の政治活動を規制した公職選挙法に抵触する可能性がある」と指摘され、中止していたことが8日分かった。弁護士会執行部で見解が分かれたが「慎重なメンバーに配慮した」(飯森和彦会長)という。

 弁護士会では金沢市武蔵町の繁華街で10日夕に約1時間、複数の所属弁護士が行政機関による恣意(しい)的な運用の危険性などを拡声機で訴えるほか、ビラを配り、横断幕も掲げる予定だった。

 ところが11月、県選管に照会したところ、再考を促されたという。公選法では衆院選公示日から投票日まで団体による政治活動が規制され、違反した場合、100万円以下の罰金が科される。

 県選管は「特定の主張を拡声機や横断幕を使って訴えることは特定候補の選挙活動と誤解されかねない。ビラ配布も適切ではない」とコメント。総務省選挙課も「一般的に特定の主義・主張を訴えることは政治活動に該当する」としている。

 特定秘密保護法の成立から1年の6日には全国各地で反対のデモ行進や市民集会があったが、特に問題化していない。【中津川甫】

わるいことはいわないから、原発は止めておこう。

2014年11月05日 07時21分28秒 | 大震災の中で
川内原発:8市町長に九電社長が説明 再稼働に異論出ず -という毎日新聞の記事を読んで。


http://sp.mainichi.jp/select/news/20141105k0000m040108000c.html



異論は出ないんだ……。

もし福島のような事故がおこったら、家や道路は除染もできるし再建できる(あるいは放棄もできる)が、私たちが自然と一緒に構築してきた
「人為+自然」=環境
は、汚染されたまま交換することもできず、ただ線量が下がるのを何十年も待つしかない。
だから、
「どうせ雇用がなくなるんだったら事故まで原発で食いつなごう、国と電力会社相手に戦っても勝ち目はないし」
というのはある意味限定された「合理的判断」なのだけれど、その「合理性」の前提が十分なのかどうか。
反対なら反対だと声を上げ続けていくことが本当に大切。その上で「思考停止」しないことが最も重要です。
「思考しない、判断しない、そして責任も取らない」
では、政治は利権を「苦渋の選択」という装いで受け入れるだけの「儀式」になっちゃいかねないと思うんだけど。

悪いことは言わないから原発は止めておけ、と言いたい。

「人為」を介した「自然」
、つまり「環境」は、土木工事レベルの粗雑さの「除染」では回復しない。
そこが解決されない福島の現状を見れば、再稼働は住民のためにこそ、反対すべきでしょう。このことは、他の原発立地区域の首長たちには通じないんだろうか。

福島県知事選挙の底流に流れるのも、この「通じなさ」と通じているのかな……。

やれやれ。

でも、諦めるわけにはいかないんだよ。再稼働はやめといたほうがいいと思うよ。事故が起こった時、「そらみたことか」なんて言いたくないから。その前に止めたいから。無力でも、余計なお世話でも、どこかで発信し続けなければ。


ドイツワイマール期と日本の今(國分さんの講座)

2014年10月15日 09時34分15秒 | 大震災の中で

リブロ池袋本店9月3日「ドイツ1918~1933から考える日本の今」國分功一郎さん

幻冬舎から音声データが発売になっているそうなので、詳しく書くわけにはいきません。

ざっくり自分の感想とメモを書く程度で。

國分功一郎さんは、
「ドイツの専門家でもないし、歴史の専門家でもないので、この特別講義、を引き受けるのにはためらいがあった。しかし、いろいろなところでイマノニホンノ状況について話をしてきて、やはりやるべきかな、と思った。」
と前置きし、
「哲学はテキストを読む行為だから、テキストを読みながら注釈を加えていく形で進めていこう」

と、3つのテキストを挙げました。

1,フランツ・ノイマン『ビヒモス』1942年

2,大竹弘二「民主的立憲国家は生き残れるのか
?」『atプラス21』2014年8月号

3,レオ・シュトラウス「ドイツのニヒリズムについて」

(話の展開の前提として

林健太郎『ワイマル共和国』中公新書

は必須アイテムです。)

1の本は1942年、ワイマール期にドイツにいて、現場でその推移を見ていた著者が、アメリカに渡ってから第二次大戦中に書いたもので、ナチスを批判的に検討した古典的な本。古い時期に書かれたので、今は批判されているところもあるが、研究は最新だからいいというものではない。古典を読むことが大切、というお話。この本と『ワイマル共和国』を中心に講座前半は展開していきます。

この部分の中身は、二冊を読めば大丈夫です。



2は今年書かれた論文です。

國分さんの指摘は次のようなこと。

今、立憲主義は注目されている。なぜなら危機に直面しているから。
安倍首相が予算委員会で「私が最高責任者だ」と言った。もちろんメチャクチャだが、一抹の真理がそこにはある。

「選挙で民主主義的に選ばれた私がなぜ決めていけないのか」

気持ち的には、ね。

長谷部さん
  →飲む時クルマの鍵を人に預けるようにするのが立憲主義

これは民主主義の上に立憲主義がある感じ。

木村草太さん
  →民主主義が憲法を選ぶんですよ。

これは憲法の上に民主主義がある感じ。

大竹弘二さん
  →民主主義と立憲主義は緊張関係にある。

國分さんは大竹さんの考えに近い、と。


つまり、
「ルールなんてしらねえよ、おれは選ばれてんだよ、オラオラ」という反知性主義的な反発・ルサンチマンに対して(つまり安倍首相に対して)、上から目線でエリートが立憲主義を言ってもだめ。

ルサンチマンに民主主義を語らせてはいけない!


どっちが上か、ではなく、二つを同時に緊張関係を持って考えていく必要あり、というお話でした。


3は、レオ・シュトラウスの講演。この人はアメリカに移住したが、ワイマール期のドイツを生きて見ていた人。そこをよく知っているドイツ生まれのユダヤ人。アーレントと同世代。よく保守的と言われる。それはそうだが、それだから批判する、というのは、よく分からない。

きわめて重要な指摘をしている。

レオ・シュトラウスは、ワイマール期の若者が抱えていたニヒリズムをよく掴んでいる。

近代文明は開かれた社会を作る、という進歩的な考え方があった。自由と平等が実現される、という(それに対して文化は閉じる)。
しかし、ドイツは第一次大戦で負けてひどくなった。

開かれた社会?平和?ウソだ!こんなのは人間らしい生ではない!

緊急事態のために生きることこそ、人間らしい生=道徳的生

そういう気分が醸成されたのではないか。開かれた社会、と進歩派がいうのはむしろ「悪夢」だ。
しかし、「ノー」はいえるが、何かを作っていくというビジョンがなかった。レオ・シュトラウスはそのニヒリズムを正確に指摘した。

自由・平和・平等が大事、と進歩派は言うが、実際は戦争で惨めだった。

そこでの若者は「師匠」を求めていた。19世紀からの自由主義者とは違う、自分たちの価値を内面化した「師」を。
そこでよく分かるよ、といってくれたのは、
ユンガー、ハイデガー、シュミット
だった。

若者は彼らの中に師を見いだした。
自分たちを理解してくれたからだ。

進歩的教育者は自由・平和が重要だ、という信仰はあっても、説明できなかった。
そして進歩派は、敵対する勢力を、

「あいつらはバカだ」

としか言えなかった。
この上から目線は実は防御の姿勢に過ぎない。防御は進歩主義の敗北だった。若者の間には権威主義に対する反発だけがある。

Noだけがある=反知性主義

今の日本と重なるのではないか。


そういう視点で話が展開していきます。

もちろんハイデガーはそういう情念を理解していた。たが、ナチスに迎合することしかできなかった。
このルサンチマン、この反知性主義がどこからきたのか、とうして生じたのか、どうしていけばいいのか、なぜ破壊したいのか、それを理解しなければ、解決はできない。

民主主義と立憲主義、両方を守っていかねばならないというお話です。

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他にも印象に残った話はたくさんあるのですが、詳しくは幻冬舎のサイトからダウンロードいて聞いてみてください。

私が印象深く感じたところをあえて取り上げれば二点。

一点目は、実はマックス・ウェーバーがワイマール憲法制定のプロセスに参加していて、しかも悪名高き48条大統領令に賛成しているという事実です。ドイツ人は上からの支配に慣れてしまっていてまだ、民主主義の運営には不安がある、とウェーバーは考え、緊急時には大統領令によって適切な対応ができるようにしておく、という意味で48条大統領令を推したのだそうです。

つまり、かなり進歩的な学者でも、民主主義の主体者である国民を根本において信用していなかった。それが結果として行政=政府側による立法権の実質的行使→独裁へとつながっていく。

國分さんはそこに大きな問題のひとつをみています。行政が立法権を持っちゃったら、やりたい放題ですから。それはある種官僚の理想ではあるけれど。この指摘が印象深かったです。

そういえば、ドコカノクニデモ似たようなことがありますね。

二点目は、レオ・シュトラウスのアリストテレス論「政治哲学の危機」にあるアリストテレスの貴族政治を肯定する言葉

「正気の者なら誰一人として政治共同体は無学の者によって支配されるべきとはいわないだろう」

です。

國分さんは、

我々はこれにどんな議論を対抗し得るだろうか?

と問いかけます。

皆が富めるようにはならないけれど、知ったり考えたりすることはできる。だとするなら、貴族政ではなく、自分たちが自分たちを支配するためには、何を知らなければならないか?


これはワイマールの時期のドイツだけの問題ではありませんね。

以上カンタンなメモと感想でした。

レオ・シュトラウスが言うところの「進歩的な知識人」の末端であった高校教師の一人としては、きわめて厳しい指摘だと感じます。

さてではどうするか。

声高に、あたかも学校の先生のように上から目線で自由と平等の「信仰告白」をしてもはじまらないってことですよね(苦笑)

とりあえずエチカ福島のいわき編を始めることかな。
あとは図書館の活動ですかね。

第4回エチカ福島「故郷は消滅するのか?」の報告。

2014年10月13日 22時24分04秒 | 大震災の中で
参加してくれた小野原さんがまとめてくれました。

こちらをぜひごらんください。
第4回エチカ福島まとめ(「まさをさまの何でも倫理学」 より)
 
それから提案者の深瀬さんもFacebookに書いてくれました。
私は今日はなにもせずに寝てました!

深瀬さんのまとめはこれです。

(引用開始)
加藤嘉が主演した『ふるさと』を観た。認知症気味のおじいちゃんと孫がアマゴ釣りを通じて心を通わせるという話だが、彼らが暮らす故郷は、やがてダム湖の底に沈むことになるのだが、故郷を離れる前に二人はアマゴを釣りに行き、その時におじいちゃんは事切れる。
昨日のエチカ福島のテーマは「故郷は消滅するのか?」。金山町で教員をされている方に問題提起をお願いして、地元出身で現在町の職員として暮らしておられる方をはじめ、東京から来られた方も含め約20名の参加で行われた。
まず、問題提起をお願いした林さんのお話がとてもよかった。リアルさはもちろんのこと、これまでのエチカ福島の流れを踏まえてくださり、お願いした私たちの意図を十二分に汲んで下さった。町の職員の一人は、僕の若い頃の生徒だが、相変わらず、関心するほどすばらしい。彼が誘って参加して下さった、役場の職員の方の切れ味も見事だった。その方は過疎化は止めることができない趨勢で、それにどう歯止めをかけるかということは最重要課題ではあるが、人口という量的な問題だけではなく、金山の歴史に根ざしたコミュニティーなど、その質についても考えなければならないと言われた。僕のかつての生徒である佐々木さんも、中央の資本がこの風土を破壊することは避けなければならないと言われた。結果として、本村から離れた集落の人々が本村に集約されている現状もあり、町としてもその方がコストは削減できるし、中央はそう勧奨し補助金さえ出そうというが、町としてはそれをことさら進めることはしないと言われたことに感銘を受けた。自らのふるさとに対する想いを尊重したいということなのだと思う。
今日は仲間たちと一緒に、本名から4キロ離れた30年前に消滅した三条集落跡を訪れた。本名から御神楽岳に向かう途中にあった集落だったが、偶然にかつてここに暮らしていたという方がいらっしゃって、お話を伺うことができた。すでに建物の跡すら木や草に埋もれており、集落の名残はそこだけ刈り払われたお墓だけである。その後、本村である本名に、そこに自らのルーツを持つ仲間とともに訪れた。ここは2011年7月の洪水によって只見線に列車は走っていない。すでに草に埋もれつつある只見線を歩いてみた。
昨日も話になったが、なぜ人は雪深く不便なこの地のあらゆる場所に集落を作り生活を維持してきたのだろう?確かに、生きるに値する生がそこにはあったに違いない。経済合理性にはかえられない魅力が、あるいは豊かさがあったのだろう。
(以上、深瀬氏のFacebookより)


和合亮一と小泉進次郎がコラボで模擬授業?

2014年10月07日 10時10分20秒 | 大震災の中で

Facebookで 詩人の和合亮一と政治家の小泉進次郎がコラボして模擬授業を行った 、とあった。

イベントだからまあ、ありっちゃあり、なんだろうけれど、和合さんの、政治的な「コトバ」と自分の「コトバ」との関係についての認識を、一度聞いてみたい、と思った。

私見によれば、こういうところにも、スーパーフラットな和合的詩語の特徴は出ている。
そのコトバをどう使うか、どう使われるか、は和合さんにとって、だけではなく、それを受け止める私にとって大きな問題の一つ、でもある。

そしてそれは私たち「地域」が抱える課題(宿痾?)でもあろうか。
むむむ。

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=716301331751953&id=100001162780306

第27回てつカフェふくしま10/25「選挙に意味はあるのか」

2014年09月30日 21時00分59秒 | 大震災の中で
私もちょくちょくお世話になっている

てつカフェふくしま第27回

が10/25にあります。けっこう楽しいですよ。よろしかったらぜひ。、

【テーマ】 「選挙に意味はあるのか?―代表民主制を問う―」
【日 時】 10月25日(土)16:00~18:00
【場 所】 かーちゃんふるさと農園わいわい 
      2Fオープンスペース
 住 所:福島市栄町10-3 キッチンガーデンビル2階
 TEL:024-573-2634
 ※産直カフェの店内をつっきり、一番奥のエレベーターor階段で2階に上がってください。
【参加費】 飲み物代300円
【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


http://blog.goo.ne.jp/fukushimacafe/e/36aa82a4deab990eb30ae7b590c5f5fb

山形ビエンナーレに行ってきた(2)

2014年09月30日 06時22分03秒 | 大震災の中で
「スガノサカエ図画展」が、「やまがた藝術学舎」で開催されている。「山形ビエンナーレ」の中の展覧会だ。

これがすこぶる面白い。
ハガキ大のカードに日々の夢日記のように連続して描かれた絵や、領収書にペン書きでこれでもか、と描かれている落書きのようなものとか。なんと太っ腹の写真撮影可&ネットアップ可なので、再度いくつか紹介しますね。









私の大切なコレクションになりました。
皆さんもぜひ。
山形を訪れる予定があるなら、1日余分に時間をとって(半日でも大丈夫!)「山形ビエンナーレ」の開催中にぜひ山形に行かれることをお勧めします。

楽しいですよ。

知的かつ感性的な興奮が街中に広がっている幸せを、ぜひ味わってくださいませ。

東北芸術工科大学の学生さん、先生方をはじめとするスタッフの皆さんの熱意と好意も特筆すべきかと。

#サカエなぞる

10月11日(土)はエチカ福島へ!

2014年09月30日 06時10分55秒 | 大震災の中で
「故郷は消滅するのか?」(エチカ福島第4回セミナー)を、10月11日(土)14時~会津の金山町「体験生活館」で開催します。
どなたでも参加できます。
地元の方とじっくり話し合える機会です。

予約も参加費も無料です。
よろしかったらぜひおいでください。
宿泊を希望される方は、早めに下のチラシの連絡先までメールをいただければ(宿泊・宴会を含めて10,000円ちょっとかかると思います)。



「山形ビエンナーレ」に行ってきた(1)

2014年09月29日 07時37分09秒 | 大震災の中で

いやぁ、面白かったです「山形ビエンナーレ」。
10月中旬までやっているので、近くの人はぜひ一度。遠くの人も遊びに行く価値はあると思うなあ。

いろいろ山形は美味しいし!

さて、最も重要な収穫の一つが、これ。
荒井良二の絵本「イノチダモン」

http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4902943883/ref=mp_s_a_1_1?qid=1411944038&sr=8-1

この山形の芸術祭に配置されていることでかなり更にやられました。


三瀬夏之介、いしいしんじ各氏の作品との響き合いも含めて、素敵。

和合さんは週末の会津エンジン009にも参加していて今超売れっ子なんだけれど、私には「山形ビエンナーレ」との関係についていえば、今ひとつ腑に落ちないです。

和合さんの立ち位置は、梅佳代さんの作品内で変顔をする子供たちの「配置」かな、とふと思ったり。

三瀬さんは素材として学生の作品や表現を企画の中に取り込んでいる。いしいしんじさんも読んだ人はすぐ分かるように、そこで描かれている子供は実のところ超抽象画っぽくて、それが荒井良二さんとコラボしながら道の奥の「門」と響き合っている。

荒井良二さんの童話もそう。
梅佳代が撮った山形の中学生なんて、すぐにそこから飛び出しそうだし。

そこにいくと、和合亮一さんの詩はある意味で素材それ自体でもある?

これってある意味で凄いんだけど、ここまでくると場所はどこでも良くね?とも思うわけです。逆に今回は「布の上」にプリントされているんだけど、逆にそれも、ありでそこは面白い。

三瀬さんの作品には奈良や京都が確かに歴史として刻まれてる感触はあるけれど、同時に山形の「今ここ」も匂ってくる。

つまりね、「山形ビエンナーレ」ってのは「場」だよね。和合亮一さんの言葉の凄いところは個人的には「平面滑走感」だと思うわけ(あ、横だけじゃなくて縦も動くんだけど)。
震災以前も震災以後も。和合亮一さんのことばのツルツル感は不変だって受け止め方をしている。
すると、他の作品群との「場」における関係が見えにくくなるという話です。言葉の意味、じゃなくてパフォーマンスとしてね。

コトバ、とくに詩のコトバは面倒です。
つまり和合さんの「語る」東北と三瀬さんのいう東北はかなり緊張を孕んですれ違っているはずだし、それは実は和合さんがが語っていないところと響き合っているわけで、そこの勘所が掴めないでいるってことです。あとは個人的に詰めるべき課題かな。

さて、山形まで来れない人はこの荒井良二さんの絵本をひとつ、いかがですか?

スゴイよ(^_^)/