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龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

「山形ビエンナーレ」にやってきた(6)

2014年09月28日 20時11分46秒 | 大震災の中で
最後は東北芸術工科大学へ。
三瀬夏之介(教授)の設定するテーマで、制作された作品が展示されている。
展示されている絵の大きなスケール感に没入。中に散りばめられたたくさんの記号というか素材が、所を得て響きあうのが、見ていて楽しい。

写真じゃ読みにくいかもしれないので、グッときた最後の4行をもう一度引用しておきます。

「しかし東日本大震災以降、それまで固有の背景を持ったメンバーの問いの中から様々な東北観を生み出してきたはずの『東北画は可能か?』は、逆に統一的な回答を求められているように感じることが多くなった。未曾有の危機に直面し、求心的な「東北」の復興を求める声と、この土地での美術の実践とは決して無関係ではない。
『東北画は可能か?』は、これからの東北の呪縛を解体し、再構築することが求められるのだろう」




繰り返し生まれてくる多様な「何か」以前のもの。
それらのものが、「統一」への欲望と響き合いつつも「検閲」に回収され尽くすことなく、なおも画面に跳梁し続けることを期待しつつ、自分もその子供みたいな何か以前の場に触れ続けるためにこそ、何度でも遡り続けたい、という思いを強くして帰ってきた。つい理屈を考えてしまうのが悪い癖、ですが(笑)

子どもたちのような心を持って、「山形ビエンナーレ」に行くべし!

「山形ビエンナーレ」にやってきた(4)

2014年09月28日 11時46分26秒 | 大震災の中で
ここでは
和合亮一×spoken words project
の展示。荒井良二やいしいしんじとは異なり、和合亮一の言葉は素材であることを隠さない。
だから山形とは「関係ない」面白さ。それは福島とも「無関係」。だからこそ遠くまで届く。和合亮一の言葉はそこがバカっぽくて凄い。

良くも悪くも荒井良二&いしいしんじはなにか考えているって感じがするもんね(当たり前どけど)。




この写真館の建物も素敵ですね。

「山形ビエンナーレ」にやってきた(3)

2014年09月28日 11時10分37秒 | 大震災の中で
いしいしんじの日替わり小説(正確には時々変わるらしい)。
中身は、カフカ(城)というか石川淳(処女懐胎•焼け跡のイエス)というか。
でも、荒井良二の絵にインスパイアされたのかな、とも。みなさん、ぜひ山形に来て読んでください(^_^)まだ山形ビエンナーレは始まったばかり。一日中街歩きして、美味しいものを食べながら楽しめますよ。



「故郷は消失するのか?」第4回エチカ福島セミナーを会津金山町で実施!

2014年09月23日 23時18分47秒 | 大震災の中で
下記の通り、第4回エチカ福島のセミナーを実施します。
(よろしかったら拡散・シェアをお願いします)

題名は「故郷は消失するのか?」

折しも、『地域消滅』増田寛也が話題になっています。会津の只見線は災害で不通となったまま、復旧の見通しがまだ立たずにいると聞きます。
たしかに今までの自治体のあり方や公共サービス、インフラをそのまま維持することは難しいかもしれません。
しかし、それがただちに地域を消失させてしまう、とも思えません。
さまざまな課題を抱えた地域の現実は、実はその場所だけではなく、日本中の至る所が抱えている、あるいは今後直面していく「リアル」でもあるはず。

今回金山町で第4回エチカ福島を実施する機会を得、地元の方の報告と参加をいただけることは、非常にありがたく感じています。

充実した討議が期待されます。期日が迫っているので日程調整も大変だと思いますが、みなさん、できたらぜひ、ご参加くださいますよう。

予約不要・参加無料です。



第4回エチカ福島を10月11日(土)金山町の生活体験館で開催します!

2014年09月23日 22時55分23秒 | 大震災の中で
第4回エチカ福島セミナー「故郷は消滅するのか?」を開催します。

日時:10月11日(土)14時~
場所:生活体験館(福島県大沼郡金山町)
報告者:林裕文先生(川口高校)
報告内容:「中山間地域における学校の意味と取り組み」

ぜひ、ご参加ください。


哲学書deてつがくカフェがあります!

2014年08月22日 21時00分44秒 | 大震災の中で
明後日(24日)午後1時より、
福島市舟場町の街中ブランチ(福島大学の関連施設です)で、下記のイベントを実施します。
私も簡単な報告をします。

ハイデガーとアーレントを踏まえつつ3.11以後の哲学の可能性を考える森先生の著作を、著者と一緒に読みながら共に考えようという企画です。
内容についてはレポーターが簡単に報告しますので、未読でも本がなくても全くOKです。著者の了解を得て当該部分のコピーも用意してあります。

よろしかったらぜひお越しくださいませ。

第2回哲学書deてつがくカフェ
森一郎著『死を超えるもの 3,11以後の哲学の可能性』


http://blog.goo.ne.jp/fukushimacafe/e/6d449fdf83dc1872d6bb7be3dad1df4c

『想像ラジオ』のこと(続き)

2014年08月15日 08時12分28秒 | 大震災の中で
続きとはいっても、前の「場所」の話ではなく「話しの話」。

いとうせいこうってヒトが好きで、何だかわからないけれど、惹かれる。
彼は「語り」というか、どう手渡すか、をいつも、考えていると感じる。なんだろう、昨夜のラジオ番組(いとうせいこうトークセッション2014夏)との関連でいえば、モノローグではあっても「対話」が想定されている。

そしてそれは「祈り」に近い態度かもしれない、そんな風にも思う。

神様や死者の魂が、私たちの世界の「外」にあるのなら、それについては沈黙していた方がいい、と思う。しかし、私たちの中にあるのならば、それはことばにして「対話」の豊かさの場に手渡され得る。
『想像ラジオ』の魅力は、そんなところにもあるのかもしれない。

「はなすことがすでになにかである」byいとうせいこう
(「いとうせいこうトークセッション2014夏•國分功一郎との対話より)

以下、ネタバレと感じる人もいるので注意!







柳美里の『JR~』に戸惑うのは、幽霊の発話にも見えるそのことばを誰が受け止めるのか、という戸惑い、ともつながるのかもしれない。

もとより小説はどのようにも書き得る。だが、ことばは誰に向かって語られるのかによってその「意味」は変わるだろう。

単なる読者一般、だけでは足りない。
一人一人に囁くのは、活字の役割ではあるまい。
さて、ではどうするのか。
「場所」についての問いはさらにその先にある。

いとうせいこう『想像ラジオ』を読んだ。

2014年08月08日 13時50分05秒 | 大震災の中で
いとうせいこうは『解体屋外伝』しか読んだことがなかったが、この一冊(『解体屋~』)で、私にとってはかけがえのない作家になって久しい。
繰り返し人に貸して勧めては、文庫や中古を買い直してきた。

今回の『想像ラジオ』も楽しく読めたが、衝撃度は『解体屋~』ほどではなかったかな。

先日読んだ柳美里の『JR上野公園口駅』もそうだったが、これだけの災害を描く時には神様や仏様のような視点、いや正確にいえば神様ではないな、「幽霊」が持つような視点はどうしても必要なのかもしれないと感じた。

これからこういう幽霊小説は一つのジャンルというか傾向性を持って語られていんのじゃないかな。
だって、生きている者たちの都合だけで世界がてきているわけではなかろうし、死者を悼むにしても私たちはその個人的なやり方しか手元に残っていないことに気づいてしまい、では、どうするのか、ってことが「課題」になってしまっているわけだから。

もちろんそこでは「想像力」ってなんだ、ってはなしになってくる。

柳美里は上野公園口に、いとうせいこうは被災地の木の上に、「場所」の息遣いをとりあえずの基盤として展開していく。
さてでは想像力を支える基盤=可能性条件としての「場所」とは?

次はそれを考えねばなるまい。
『想像ラジオ』はそこまで

(これはずっと続く、ですね)

『未完の憲法』奥平康弘、木村草太読了。

2014年08月04日 13時40分59秒 | 大震災の中で
國分センセの推薦図書30のうちの一つ。簡単に読める対談だったので、カール=シュミットの『独裁』と二冊職場に持ってきたけれど、当然ながらこっちに手が伸びました。
カール=シュミットはいっぺんには読めないしねぇ。
で、面白かったです。
9条は国連軍を前提として書かれていた、というところにとりあえず目がいきました。
9条は単なる国内事情の問題ではない、という指摘に納得。

7/26に聴いた萱野稔人センセの暴力論=国家論にも出てきた、各国における軍隊の「紛争解決介入化」「警察化」の大きな傾向とも重なる論点があって、憲法9条は日本だけの問題ではなかったんだなあ、と改めて納得。

また、自民党の改憲論議が自己目的化してしまっていて、実際に改憲して何がやりたいかわからないって話も腑に落ちました。

以下は個人的な感想。
日本人に限らないのかもしれないけれど、いろいろ考えていかなきゃならない時代になったんだなあ、とつくづく思う。何も考えないで「惰性」「慣性」で生きられた震災=原発事故以前のあの頃が懐かしい(笑)


郡司ペギオ-幸夫『群れは意識を持つ』が面白い。

2014年08月04日 11時42分59秒 | 大震災の中で
群れというものを、かつて群衆をコンピュータでシミュレートしてCGを作ったり、人工生命のモデルの基礎となった

「ボイド(バードアンドロイドからのもじり)」

というモデル分析「ではなく」、相互予期モデルによって解析し、個の自由と群れの統御が両立する、単なる能動でも受動でもない、「意識」を持ったものとして捉え直すというもても楽しい試みがなされています。

今年の上半期に読んだ本の中ではベストに近いかも。

ゼヒお勧めです。

あとがきからちょこっとだけ引用。

「時間が同時に進まない、すなわち、みなが異なるタイミングで運動することによって、受動と能動の非対称性が現れ、矛盾が現れる。ところが同時に、このタイミングのずれを用いて、この矛盾自体がやわらげられ、弱められる。なぜなら、異なるタイミングのもとで出現する能動と受動の相違は、同時的なタイミングで想定される相互作用や運動と異なり、運動や相互作用の範囲自体を、そのつど変化させてしまうからだ。きわめて逆説的だが、能動的であるとは、周囲と無関係に自分勝手に能動的なのではなく、周囲との関係において、結果的に能動にされてしまうことを意味する。受動的であることも、いわば他者を能動的にするために、能動的に受動的的となるのである」

かっこいいでしょう(^_^)


ちなみに、あとがきにはトゥルーズの引用がありましたし、本文中にはアントニオ・ダマシオの引用もありました。スピノザは引用されていなかったけれど、平行論と重ねて考えられるなあ、と感じます。

ぜひ一読を!


8/24のてつカフェの場所は舟場町です!

2014年08月03日 10時24分50秒 | 大震災の中で
先日このブログにアップした

【哲学書de てつがくカフェ@ふくしま】
の場所の住所表記が、誤って金谷川の福島大大学所在地になっていました。

街なかブランチ
8/24のイベントで利用させてもらう「街なかブランチ」という福島大学の施設は、福島市舟場町の大仏橋と松齢橋のたもとにあります。

元福島大学の女子寮(葵寮)だったところ、とか言ってもわかる人は少ないですね(^_^;)

本文は既に訂正してあります。

田母神が福島県知事に向かない理由

2014年08月01日 00時11分33秒 | 大震災の中で
わざわざブログに書くまでのこともないと思うけれど、福島県知事候補者として噂とはいえ名前が挙がった以上、書いておきます。
Facebookのシェア記事(日刊ゲンダイ)にコメントしたものをメモがわりに。

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「田母神福島県知事」がだめな理由

田母神福島県知事候補ってのはシュールな記事だなあ。

以下は一福島県民の個人的な意見です。

田母神が決定的にダメなのは、思考を経ていない分かりやす過ぎる政策の決め打ちだからです。政治家が決めうちをすればいい時代ではない、と私は考えています。

情に厚い、というのは意外に政治家としては大事だったりするけれど、回収できるのが「情」だけじゃ困る。決めうちすればいいってものじゃないでしょう。

無論、従前のような調整役、すなわち予算を国からとってきてしたに配分する仕事だけじゃだめだ。

同時に、丁寧に熟議だけしていても「決められない」政治は続く。

下から拾うのが「情」ではなく、上から持ってくるのが「金」でもなく。

下から拾うのは政策の具体的な運用であるべきだし、上から持ってくるのは生活の可能性を広げる政策であるべきだ。

福島県は原発事故を経験した場所なんだから、それを踏まえた「倫理」を思考し得る人であってほしいというのも、当然だろう。

決め打ちはその範囲を墨守し、カバーすることしか出来ないから、いったん外すと話にならない。

つまりさ、原発事故以後、常に被曝の危険を感じる市民と、そんなものは風評被害だから実はなんでもない、といいたい市民とがいたとして、田母神さんはどうするかな?

それぞれの生活の可能性条件を支える政策をしてくれるとは思えないんだよ。決め打ちの人は、何処かで安全か危険か選択しちゃう。なぜなら、思考を停止して「決断」しちまうから。

私たちは安易な決めうちをせずに思考の限界まで私たちの選択を尊重し支援してくれる政治を望みたいね。

以上、「決め打ち」田母神を支持しない理由。

ということは、「決め打ち」山本太郎なんかも願い下げなわけです(笑)。

さらに言えば一緒にオロオロしながら、それでもそこから始める人じゃないと信用出来ない、ってところかな。

「まさか宮沢賢治ばりのトンチンカンな文学者に政治を任せろ、というのか?」

と言われたら、半分はそうかもしれない、と言っておきます。無論、文学者が持っている想像力は必要。

ただし、自分の想像力を思考と行動の限界としないことが政治家には求められる。
インテリとか文学者が自分の学問や想像力を行使した決め打ちの「正しさ」で政策を定めると超悲惨だったりもしますね。政治家の思考力っていうのは、粘り強さが一流でないとだめ。

結局、田母神は野生は可能性があるけど、思考力に難がある、という当たり前の話。

あくまで個人的な一県民の意見ですが。