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龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

「なぜ、医者は自分では受けない治療を施すのか」という記事(President ONLINE)を読んで考えさせられた。

2015年05月06日 01時09分46秒 | 大震災の中で
President ONLINEの記事。

なぜ、医者は自分では受けない治療を施すのか


http://president.jp/articles/-/15153

だから医者はひどいことをしている、という短絡的な反応がしたいわけではなくて、どうしてそんなことになってしまうのか、という「構造」を明らかにした上で、変えていかねばならないだろう。

でも、きちんと相談すれば話の通じるお医者さんもいるけどね。

本人ではなく「家族の期待に応えようとしてしまう医師」という指摘はとても重要。
自分の生命の終わりを自分だけで決定するのはどうかな、と思うけれど、延命治療以外の選択肢が無くなってしまったガンの末期などは、ある程度「予測」できてしまうわけで、そういう時に延命治療をしない選択肢は、もっと自由に選べた方がいい。

ガンは突然死とちがって、ある意味ではこちらが生き方を選択できる病気だ。
家族がガンになってから、そのことをしみじみ考えるようになった。
抗がん剤も(本人に)やってもらったが、どこまでそれを繰り返すのかは考えなければならない、と思う。今はマーカーが落ち着いているけれど、これからは以前よりは短いスパンで人生を考えていく必要が出てきた。それは本人だけではなく、家族みんなにとっても同様だ。

どこまでどんな治療するのかについて判断するためには、それ相応の知識が必要になるだろう。
勉強しておかないと、短い時間で決断を要するときに対応できない、ということもある。
と同時に、どれだけ知識を得たとしても、根本から寿命をどうこうできるわけではない。

知と非知の境界線上にあって、生命と向き合うためには、知識だけではなく、ある種の「魂の訓練」も必要になるのかもしれない。

とにかく、考えさせられた。




アートいちはら2015春というイベントが面白かった。

2015年05月03日 22時43分24秒 | 大震災の中で

千葉の山の中をクルマで走っていたら養老渓谷の辺りで
「アートいちはら2015春」
というイベントに出会った。

「アートいちはら2015春」(中房総国際芸術祭いちはらアート×ミックス)


山の中のお家や廃校になった小学校で、インスタレーションやアニメーション、鉄のアートの実演屋染色、いろいろなワークショップ、期間限定のレストランなど、思いがけなく楽しい時間を過ごすことができた。

いわき市の田人でもやっているけれど、山の田舎の廃校とアートは相性がなかなかいい。

持続的な活動として展開していくためにはいくつかハードルがあるのだろうけれど、応援したいなぁ。

作品 芭蕉の月

白井聡の解説が面白い。『一九四六年憲法-その拘束』江藤淳(文春学芸ライブラリー)

2015年04月29日 22時16分30秒 | 大震災の中で
白井聡の解説が面白い。
『一九四六年憲法-その拘束』江藤淳(文春学芸ライブラリー)

『永続敗戦論』の白井聡が解説を書いていて、

「戦後の思想空間が決して自律的なものではありえず、さらにその非自律性が十分に意識されないことがもたらす言説空間のひずみを明るみに出すという江藤の問題意識は、いまなお高く評価されるべきものである」

と白井氏が江藤淳を高く評価しているのは、『永続敗戦論』の著者として納得がいく。


加えて、江藤淳が行った戦後民主主義の「敗戦否認」批判は、いかに鋭いものであったとしても、結果として

「戦後日本が立派な国でないのはアメリカ製の憲法のせいだ」

と米国の世界戦略を支持する人が言ってはばからない奇怪な状況に「言葉」を与えてしまった……

という白井氏の指摘は、安倍首相が訪米している「今」第一に考えなければならないことだろう。

この時期に改めて江藤淳を読むのは、意味があるなあ、と実感。



『1941年 パリの尋ね人』 パトリック・モディアノ(作品社)、読むべし!

2015年04月16日 18時08分57秒 | 大震災の中で
同僚の友人から
『1941年 パリの尋ね人』パトリック・モディアノ(作品社)

を薦められて、昨晩から読んでいる。感想をどう書けばいいのだろう、余計なことは書いていない極めてシンプルな作品だ。

訳者の言葉を借りれば

「浜辺にうっすらと残されたかすかな足跡でしかなく、打ち寄せる波にたちまちかきけされてしまうたぐいのものでしかあるまい。しかしそのかすかな足跡を、かすかであればあるほど消されないよう懸命に残し、忘却から守るように努めた」

そういう作品である。

1941年12月31日付けの昔の新聞に載った尋ね人の広告を、モディアノという作家が1988年に偶然見つけ、その尋ね人である15才の少女に関心を持つところから、書き始められる。

フランスがドイツ占領下にあって、ユダヤ人を強制収容所に送り始めようとするころの時代に生きていたそのドラ・ブリュデールという女の子についてモディアノは調べ始め、10年の歳月をかけて調査をし、作品を完成させていく。

作家が戦後に生まれて育ったパリの同じ街に、そのドラという移民のユダヤ人を両親に持つ少女は生きていた。つまり、同じ街のことを描きながら、1941年から1942,年のパリと、作家が生きている1990年代のパリが、作品の中で交錯しながら、次第に多重な像として私たちの目の前に立ち上がってくるのだ。

その筆致は本当に波に消える砂の足跡のようであり、しかし、今もそこにあるパリの通りで、ユダヤ人が逮捕され、その通りの建物の中で取り調べられ、今もあるそのパリの駅から、列車に乗せられていく……。

様々な記録をたどり、調査をし、街を歩いて取材して書かれた、素っ気ない小品なのだが、描かれていることがら自体以上に、作家の肝が据わった静かな孤独が伝わってきて、まだ形容する言葉を持てずにいる。

多くの人に読んでほしいとも思うものの、この感じはたやすく共感されるような種類の事柄でもない、のが分かる。

その街に戦中も戦後も生きてきたそれすべてに瞳をこらしつつ、そこで空気を吸って生きているそのすごさは形容しがたいものがある、ということだろうか。

戦後何十年か経って、フランスでもドイツ軍占領下の政権におけるユダヤ人虐殺問題(収容所移送を含む)が裁かれるようになったこととか、歴史的な経緯はあるのかもしれないが、そういう時代の事情とは別個の、感情移入ということとは違う種類の、心が「震えるような」感覚を覚えた。

よろしかったらぜひ一読を勧めたい一冊。

ただ、魂の「どこで」これを受け止めればいいのかまだ分からずにいる。

ただ一ついえることがあるとすれば、こういう作品を勧めてくれる同僚がいる、ということは間違いなく「僥倖」ではある。

レオ・シュトラウス『自然権と歴史』第三章「自然権観念の起源」読了。

2015年04月05日 14時45分13秒 | 大震災の中で
レオ・シュトラウス『自然権と歴史』の第三章「自然権観念の起源」を読んだ。

しかし、何がいいたいのか今ひとつはっきりしない。

コンベンショナリズム(規約主義?)の議論をずっと追っている。基本この人はアンチ・コンベンショナリズムのはずだから、理論的な輪郭の明示によってそのコンベンショナリズムの限界を示そうとしているのではないか、とは推測できる。

まあ、書き手の意図の汲み取りはさておくとして、「自然権観念の起源」について考えていくのことは、どこかで哲学の起源と重なって見える、という論の進め方は興味深い。

起源を云々するのは基本的に「思考実験」みたいな感じを受けていて、省略可能であるかのように感じていたけれど、この議論を読んでいると、そうばかりいって片付けられない、と思った。

今までは、ルソーとかホッブズとか、「自然状態」とか「起源」とか、妄想癖のカテゴリーに入れてましたから(笑)
「ねえよ、そんなもの!」
って感じでね。

どこかに予め「真理」が予定されていてそれを宝探しみたいにしているかのように「教わる」と、なんだかつまらなくなる。そうじゃなくて、探索しつつ発生してくる感じを捉えるのだとすれば、それは面白いかもしれない。

概念の発明=誤読

みたいな、ね。
そういう意味では、レオ・シュトラウスのこの本、なかなか面白そうだ。
たどり着かない、といいながら単に神様を招き寄せる身振りになってしまわないためにも。

私はもちろん、神様が規約のうちに予め存在するとはおもわない。
では、神様はどこにどんな風に「いる/ある」んだろう。

自然について考えることは、政治について考えることでもあり、神様についてかんがえることでもある。

なんだかまとまらないけれど、面白そうだ。
再読しながらちょっと整理しておこうと思う。

Xperia Z ultra 6.4インチの微妙な魅力。

2015年04月04日 22時49分27秒 | 大震災の中で
いろいろ迷った結果、スマホと縁を切って、ファブレット一台に落ち着いた。

Xperia Z ultra 6.4インチ

確かに微妙な大きさである。
片手で操作するのはかなり困難だ。
電話もできるが、それもなにやら少しマヌケな感じもしないでもない。

だが、裁断&スキャンした単行本のPDFファイルを出先で読むのには、この大きさが最小限だ。新書をバッグに忍ばせるように、この一台があれば済ませられる。

裁断した元本のサイズが大きなものだった場合は、実物より小さくなってしまうので正直ちょっと辛いが、読めないほどでは(まだ)ない。

文庫や新書なら原寸大か、ちと大きくした状態で読める。

Ascend MATE 7

を購入するかどうかかなり迷ったが、今は我慢しておこうと思う。あとはSIMフリータブレットで300グラムを切ってくるものが出てきたら考えることにします。

思えば富士通のオアシスポケツト、NTTのシグマリオン2、NECのモバイルギア2など、携帯できる入力端末(当時はPDAと呼んでいた)と、ずっとつき合ってきた。

その私にとっては、ひとつの到達点がこの

Xperia Z ultra

なのかもしれない。普通の人は

5.5インチのiPhone6plus

とか

6インチのAscendMATE7

がいいのかもしれないけれど。

さらに贅沢を言うなら、この重さ(220g)のままで

Nexus7(2013)

ぐらいの電池の保ちがあれば、究極の端末、といってもいいかなぁ。このXperiaZultraは1日使い倒すと夕方にはなくなるスマホと同じだから。

で、結局充電池を持ち歩くから、トータルでは重くなってしまう。

でも、不思議なもので、iPhone5を手放してから、この

Xperia Z ultra

が、可愛くなってきた。




佐藤優×柳澤協二「安保法制の問題点」(2)

2015年04月04日 13時04分03秒 | 大震災の中で
以下、佐藤優氏の話


安倍政権は、あんまり難しいことを考える力はない政権。


これは強い。


しかし、尊敬はできない。


神学者の視点から少し。


中世スコラ哲学では、研究がトリヴィアルになりすぎて、みんなが分からなくなっていた。

教会ではラテン語しか使わないし。


フスという人が、自国語でやろうよ、っていったら、磔にされちゃった。

その後マルチン・ルターという変な人が出てきて宗教改革、ということになる。


スコラ学者の研究は、人々に関係ない。


(同様に)今のところ、ここで話題になっていることは国民に直接関係ない。ただ、怖いのはいざとなると、外務省の人には


「必要は法律を知らない」

(必要なら法律は無視するよ)


とうそぶく人もいる。


これは怖い。


19世紀になると「神様は心の中にいる」という考えを( ? )が出してくる。


集団的自衛権の問題はこの心の問題だと思う。


たとえば、ホルムズ海峡の機雷掃海を考えているのかもしれないが、いったいどこの国が機雷を敷設するのか?


かつてサダム・フセインがやった。

イスラム国は海軍を持たない。

じゃあイランか?


これは周回を二回ぐらい遅れている発想だ。

もはやアメリカは中東でイランに頼っているではないか。


さらに、ホルムズ海峡の国際航路帯はどこの領海か?

オマーンの飛び地がある。たとえばイランがそこに機雷敷設をしたとすると、オマーンとのせんそい、ということにすでになっている。

日本の掃海は、自動的についてオマーンに荷担したことになるので、対イラン戦争


になってしまう!


別の例で話をしよう。


たとえば、ニホンは、対ロシア制裁に参加している。

それなのに、先制核攻撃も辞さないとかいっている、プーチンを日本に呼ぼうとしている。


こういうやり方は国際的に「尊敬」されない。

なぜなら、信頼されないからだ。


大島ひろしという外交官が昔いて、ナチスと非常に近しい関係だったが、彼は部下のよしのひろしに、

「戦争も外交の一手段だよ」

といっていた。


そう勇ましいことをいう外務官僚が今も現実にいる。


そういう人は集団的自衛権についても、沖縄についても勇ましい。他人事のうちは、彼らは勇ましい。

だが、うそをついて尊敬されなくなると、国は滅亡する(ナチスがそうだったように、ということか?)。


(以上、佐藤優氏の話)


佐藤優×柳澤協二「安保法制の問題点」(1)

2015年04月04日 12時09分35秒 | 大震災の中で
以下は、昨日聴いてきたシンポジウムのメモです。例によって単なる個人的な忘備録なので、内容は全く保証の限りではありません。いくぶんかは妄想かも(笑)



新外交イニシアティブ(ND)シンポジウム
「安保関連法制を考える」
---集団的自衛権とこれからの外交・安全保障---

日時:2015年4月3日(金)18時~19時45分まで
場所:衆議院第一議員会館

私は何も状況を知らずに参加してきたのだが、議員会館を使って国の中心地(官邸の隣)で開催されるシンポジウムだから、当然開催自体に政治的な意味がある。

まずは安倍首相=官邸側が進めている安全保障に対するアンチ勢力の国会議員がシンパについているのだろう。民主党や維新の党の議員も参加していたようだ。

事務局長は 猿田佐世。資料には

1977年生まれ。日本及びニューヨーク洲で弁護士。対米ロビー活動を行う

とある。
立場としては立憲主義の観点から、安倍政権が十分な議論なく憲法9条の意義を変更したことに反対し、同時に中国・韓国との外交を重視して、アジア・太平洋地域の安定を図る、という方向。

前者においては憲法について知るほとんどすべての知識人の賛同を得られるだろうし、後者については、韓国や中国が(くだらないがしかし無視できない)政策として利用してもいる

「ダレガトクスル?ナショナリズム」

のレベルに反応してしまう「嫌韓中」の日本人以外にとっては、まあ常識の範囲内だろう。

どうしても大国と戦争したいなら別ですけどね。勝てない勝負を準備するだけじゃあ話にならない。安倍政権のようなムチャは、コントロール不可能な領域を「法律内」に抱え込んでしまう。この日の主題は明らかにそのバランスを欠いた安倍政権の安全保障法制を批判する動き、として、その限りでは共感できるものだった。

さて、以下はその具体的な内容のまとめ。いきます。

司会(猿田)から
外交に多様な声が反映されていないから、NDの活動している。(国民的議論を高めるための)キャッチコピーを募集中。


柳澤協二氏(以下「柳」)の報告

(柳)
与党協議が行われたが、何をしたいのか分からないし、方向性も見えない。
1~8の視点で考える。

まず、
1,原則事項

ア、国際法上の正当性に対する疑問がある。

国連安保理の議決がない場合でも、自衛隊は活動できるようになる。
その「自衛権行使」の正当性は?人道介入?

イ、国会関与による民主的統制

米軍の作戦を事前情報開示する、などできるのか?

ウ、自衛隊員の安全確保

非戦闘地域に限定・自己保存型に限定したから可能、というが、治安任務・警護と安全は背反
している。
非戦闘地域だから安全というのは幻想だ。自己保存型で銃を持ったら、現地の人に銃を向けることになる。
それが最悪。銃を使わなければならない状況で自衛隊活動をやるのは論外。
イラク派兵とは全く次元の違うところに自衛隊を送り込むことになる!


ア~ウを考えると、与党協議会の「具体的方向性」など、絶対できるわけがない!(柳)

2,グレーゾーン事態

「95条(自衛隊法)を踏まえ、わが国防衛力を構成する他国群の武器を防護」
とある。しかもそれを現場の判断でやる、という。
だが、95条は、国内争乱の時に暴徒に武器をうばわれないことを想定しているもの。

それなのに、もし公海上で他国の海軍に武力を使うこと自体が問題。

相手から見たらそれはあきらかに「戦争」です。

このとき、アメリカが某国との戦闘状態に入っていったら、「現場の判断」で歯止めができるのか?きわめて疑問だ。通常の演習ではなく
威嚇的演習の場合はキンチョウが激化するだろう。

具体的方向性対応ができるようになっているとはとても思えない。

3,他国軍隊への後方支援

「周辺事態」から「重要影響事態」に条件が変わった。
これはいったい何?

「周辺事態」というのは、このままいけば日本有事になる、という考え。

「周辺」の限定がとれると、地理的拡大が避けられない。
いわゆるシーレーン防護か?アメリカ軍の後方支援。

だが、相手国から見れば明らかに敵対行為。
どこを想定しているのか分からないが、ニホンに近い大国だろう。
だとすれば大国(中国)は、日本にミサイルを数発撃てばいいってなことになる。

つまり、日本有事を呼びこむ地理的範囲が、結果として広がるリスクがある、ということ。

4,国際平和維持・秩序維持(1)他国軍支援恒久法


なにがやばいって、これはメチャクチャやばい。前線に弾薬がないとしたら、「敵」はこの補給路をまず叩くに決まっている。

前線基地への弾薬輸送、これが国連決議なしでいい、といっている。だが、対ISISではない、ともいっている。じゃあ何をするの?

5,国際平和維持・秩序維持(2)PKOなど。

国連統括外活動、という。つまり、停戦合意に従わない状況だ。これは例えばアルカイダ。
相手からしたら完全に敵対する軍扱いになる。

6,新3要件による集団的自衛権

新3要件具体化の基準は?
こんなものは具体化できるわけがない。もともと無理筋。書けない。となると、「戦闘できない」じゃなくて、政府の最良で「戦闘政府できる」になってしまう!!!

(筆者注:たしかに、柳澤氏の言うように、他国で戦闘に参加する理由って、憲法前文に関わる理由とか、想像できないよねえ。むしろ、他国における戦闘が不利益をもたらすことなら簡単に想像できるが)

コトバンクより引用開始

政府は閣議決定で、集団的自衛権を使うことを「憲法第9条の下で許容される自衛の措置」と位置づけた。前提となる「武力行使の新3要件」に、まず「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」と他国での戦争参加を明記。さらに憲法前文の「国民の平和的生存権」や13条の「生命、自由及び幸福追求権」に触れ、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」に、「必要最小限度」の武力行使ができるとした。

(2014-07-06 朝日新聞 朝刊 3総合)

コトバンクより引用終了

新3要件は論理的に言えば

武力攻撃未満、予測事態以上、

ということになるのだろう。しかし、これは何?具体的に説明できないだろう。


こういう場合に、もし軍事行動をやらないなら法律は不要。

いったん法律が作られたら、その法律目一杯使うとどんな事態が起きるのか、どんなリスクがあるのか、と考えるのは(法律論)の常識。

そのリスク認識がない。政府は十分にそのリスクの議論をしようとしていない!

8,イラク派遣の現実

イラク派遣時のサマワは比較的平穏だったが、それでも宿営地への砲撃やIEDの脅威はあった。

ひとりでもケガをしたら内閣がもたない、という認識があった。
そして結果として一発の弾も撃たなかった。
いつ止めるのかを考えるのも容易ではない。
イラク派遣は自衛隊と日本社会の限界なのではないか?

イラク後遺症として、派遣された29人の人が自殺している。これは非常に高い数字。

自衛隊の人の犠牲は政治にも返ってくる。それなのに、現場の知識もなければ覚悟もない。
70年戦争しなかった利点を生かすべき。中東に行ってこんにちは日本ができることはない!
ここはしばらく別の形で日本の国際的な高検を考えるべきだろう。

(以上、前半は柳澤氏の報告でした)

以下後半に続く。

面白かった。佐藤優×柳澤協二の 「安保関連法制を考える」

2015年04月03日 20時03分31秒 | 大震災の中で

佐藤優×柳澤協二の
「安保関連法制を考える」

を聴いてきた。面白かった。
っていうか、誰に聞いても集団的自衛権をめぐる内閣のやり方はメチャクチャだ、ということしか聞こえてこない。このお二人も基本的には同じ。

細かい内容は後日まとめますが、二つだけ忘れないうちに。

一つは佐藤優氏が、安倍首相の言葉は正直で信用がおける、と指摘していた点。

これは非常に納得した。

やることはメチャクチャだし、あられもない姿をさらしていて、外交的にはほとんど壊滅的なんだけれど(私が思うには、ね)、彼の言葉は「本気」なんだよね。
言霊(ことだま)信仰みたいな、と佐藤優はいってたけど。

首相がもはや精神分析の対象であることはまちがいないんだけど、民主党のように安全保障について違う立場がいるのが明らかなのが見えちゃうと、いくら党の代表がしゃべっても、言葉に信頼がついてこない、というお話。

いろいろつっこみどころ満載だけど、それはいえてるよね。

もう一つはまたあとで。

歴史について考えた。須賀川巡見(円谷英二と円谷幸吉、そして芭蕉の足跡)

2015年03月29日 16時53分15秒 | 大震災の中で
昨日は、友人と須賀川で飲み、翌朝には地元の人に市内を案内してもらった。

歴史的には鎌倉期の二階堂氏から説き起こす必要があるのだろうが、それはまた別の時に(っていうか、まだそこは話を聞いていないので分からないのでした(笑))。

今回は室町以降の話を主に聴きながら町内を巡見した。

須賀川という町は江戸時代には宿場町として栄え、たいそうな賑わいだったという。
 須賀川で俳諧が盛んだったのも、それだけ豊かな大商人たちが集まっていたからだろう。芭蕉がここに逗留したのも当然だったわけだ。

須賀川本町と細い坂道の脇、芭蕉が逗留した土地の名士( 相楽等躬?) の敷地の隅だったところに、

世の人の見付けぬ花や軒の栗

の句碑があった。

かつて遊郭があったところも通ったが、今は建物も残っていない。花街の地元で育った方に話を聴きながら街を歩くと、「歴史」と「人の営み」が、街並みの中で溶け合っているのが分かってくる。

歴史は決して「遡行」によって発見されたり、物語られたりするものではない、ということが、ひしひしと伝わってくる。
平たく言えばそこで生きて生活している人々の営みが紡ぎ出している、ということに近いのだが、この「体験」には、別な言葉が必要だ。この感覚をきちんと自分で名付けなければならない……そう思って帰ってきた。

「民主主義を問う」木村草太・國分功一郎(ポッドキャスト)

2015年03月24日 17時16分02秒 | 大震災の中で


■テーマ
 哲学者・國分功一郎さん、憲法学者・木村草太さんと考える。

  民主主義は本当にいい制度なのか?

このポッドキャスト、お薦めです。

2015年03月23日(月)「民主主義を問う」(ディスカッションモード)をポッドキャスティングで聴く

■スタジオゲスト
 ▼高崎経済大学准教授で哲学者の國分功一郎さん





多数決は、少数派の顔の輪郭をきちんと際だたせ、少数派も参加できるようにするシステムなのに、どうして日本人は

「多数決は多数派が横暴で決める制度」だと思っちゃうのか、という話があってそれがとても面白かったです。本当に多数決がそういう制度なら、国会開催した瞬間に全部多数決にすればいい。でも、やっぱりみんなそれはおかしい、と思うはず。だから、賛成反対はあっても、利点と問題点をあきらかにする、その情報を共有するってのが大切、という当たり前で大事な指摘でした。

「民主主義」もそうなんだけど、単にその制度がある、ってところで思考が終わりになっちゃうとつまらない。

だめなところがあるなら、その次を考えて、少数派も多数派も反対派の意見を聞いたり、チキンと説明してよりよい制度設計をしていくという「参加」の姿勢がもっとあっていいよね、ということですね。

あとは憲法95条の特定の地方公共団体に関する立法の話も興味深かった。

そういうときは住民の意思を問わなければならないっていう憲法95条が辺野古の基地移設に当てはまるのでは?という木村草太さんの指摘でした。

たとえて言えば「明日から神奈川県だけ消費税20 %にします」、みたいな話なんだから、チキンと特別法を国会で立てて、法律で沖縄の基地のことは決めるべきなのに、行政(内閣)が勝手にトツプダウンで決めてしまうのは憲法に悖るとの指摘、重要。

簡単にあきらめないってのが大切ですね。



 
 

『本当の戦争の話をしよう-世界の「対立」を仕切る』伊勢崎賢治・著朝日出版社

2015年03月23日 21時36分31秒 | 大震災の中で
毎日新聞の書評欄今週の本棚で、加藤陽子氏が、
『本当の戦争の話をしよう-世界の「対立」を仕切る』=伊勢崎賢治・著(朝日出版社・1836円)

を取り上げている。

伊勢崎氏は、アフガニスタンで内戦後の武装解除を成功させた立役者として有名だが、そのことについて加藤はこう評している。


「60億円もの国際支援金が欲しければ、武器を捨てて動員解除に応じろ、とも迫っただろう。だが、日本という国はアフガンを自国の利益追求の道具になどしないし、ましてそのための武力を用いない国だとの説得は、効果的でもあり信頼もされたという。日露戦争でロシアを敗北させたアジアの小国日本。太平洋戦争ではアメリカから広島、長崎に原爆を落とされた日本。アフガンの若きリーダーの目に日本は、アメリカとは別個の歴史と価値観に立つ国として映じていた。日本などアメリカの51番目の州だと思われているに違いないと決めてかかっている向きには衝撃的な事実だろう。」

「拙速な政治」が展開されつつある今の日本で、私たちは、何を拠り所にしてどう考え、いか行動するかを、おそらくもう身体の中のどこかで考え始めているのではないか。

たとえまだ意識が思考に追いついていないとしても、きっと何かが間違いなく動き始めている。

だとすれば、まず手に取ることを薦めたい一冊。

『日本戦後史論』内田樹・白井聡を読む

2015年03月23日 15時41分58秒 | 大震災の中で
今、小論文始動の前提としてそれ向けの読書をしている。

『日本戦後史論』内田樹・白井聡 徳間書店
『日本の反知性主義』内田樹編 晶文社
『カントを読む』牧野英二 岩波書店

内田樹の本は、読んでいて気分が悪くなりそうだ。書いてあることがおかしいからじゃない。書いてあることがいちいちうなずけてしまうほどひどくて、かつ現実的な指摘だからだ。

やっぱり「覚悟」が必要だね、こりゃ。
慌てて絶望するには及ばないけれど、考えなしに流れについて行く気にはなれない。

さてではどうするか。

ジル・ドゥルーズの「アベセデール」発売決定!

2015年03月23日 14時25分43秒 | 大震災の中で

ジル・ドゥルーズの「アベセデール」
が予約開始になりました。

國分功一郎監修、千葉雅也らの訳による、ジル・ドゥルーズのインタビューの完訳DVDついに完成。観る価値あり、です。


http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%AE%E3%80%8C%E3%82%A2%E3%83%99%E3%82%BB%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%80%8D-%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA/dp/4046533447