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奈良の名所・古跡

行ってみたい所があるといいのですが・・・古墳とか建物とか巨樹とかいろいろ・・・

與喜天満宮の磐座

2011年11月21日 | 古跡
 三つの磐座で『古事記』神話の「天の岩戸」の段を再現していると考えられています 撮影日;2011.11.13

  裏参道側の神域左方下に三つの磐座が有ります
 右上段は「掌石」(斎神:太玉命)、手のひらのような形をしている
 左下段は「沓形石」(斎神:天児屋根命)、神官が履く沓(くつ)のような形をしている
 手前にある「鵝形石」(斎神:天照大神)、鵝鳥(がちょう)のような形をしている

鵝形石 掌石と沓形石

 與喜山は、古くは大泊瀬山と呼ばれ、古代大和の国では最初に太陽の昇る神聖な山としてあがめられました
 『万葉集』では初瀬にかかる枕詞「隠り国」(山に囲まれ隠っているような地)は、この自然の姿から生まれたそうです
 万物の生命のみなもとである太陽と、母なる慈愛を神としてあがめたのがアマテラスという女性神で、天上からこの御山に初めて降臨されたと伝えられています
 本殿の向かって左に古代信仰のままに磐座(鵝形石)に祭られているのが天照大神で、女性の守護神として信仰されています
 673年4月、天武天皇は伊勢に出発する斎王・大来皇女の潔斎のために、與喜山に施設「泊瀬斎宮」を設けたと伝わります

 後方の鍋倉山には、延喜式式内社の「鍋倉神社」が磐座に祭られているそうです
 磐座の左方には「鍋倉神社」へ奉納された灯篭2基が有り、その後方広場は連歌会所の「菅明院」跡だそうです  

★所在地;桜井市初瀬14
★交通;近鉄長谷寺駅下車 徒歩20分
★駐車場;有ります(有料)
★入場料;見学自由
★問合せ;0744-55-2300(與喜天満神社


山辺の御井(都祁)

2011年11月07日 | 古跡
 万葉に詠まれた伝承地です 撮影日;2011.11.05
 
 都祁水分神社の境内から80mほど北に、山辺の御井と伝えられる小さな池があります
 鈴鹿や毛原廃寺にも同じ話があります(「山辺の御井」伝承井戸

 山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢娘子ども 相見つるかも (巻1-81)
 和銅5年(712)に、長田王を伊勢の斎宮に遣はす時に、山辺の御井にして作る歌

★所在地;奈良市都祁友田町
★交通;名阪国道「針IC」より バスで「友田」下車 徒歩5分
★駐車場;なし
★入場料;見学自由
★問合せ;



栗原寺跡(明日香)

2011年10月05日 | 古跡
 日本で初めて「火葬」が行われた所といわれます 撮影日;2011.09.24

 栗原寺は竹林寺とも称していたようです
 阿知使主の子孫坂上駒子が崇峻4年(592)に創建したと伝えられます

 寺跡は明確で有りませんが、呉津彦神社の東北方の俗称「光徳寺跡」付近と考えられています
 (墓地が有ります)
 白鳳期の古瓦や礎石が出土しています(7世紀後半の建立か?)
 西大門・中門・金堂・講堂を一直線に並べる西向きの伽藍配置であったと考えられているようです

 文武4年(700)、法相宗の祖である道昭 (629~700)という僧が、火葬によってその死を見送られた
 その地は、明日香村栗原であったと伝えられています
 道昭は、遣唐使として海を渡り(653年)、玄奘三蔵に師事した後、飛鳥寺に東南禅院を建てたと伝わります
 行基の師でもあるそうです
 宇治川にかかる宇治橋は道昭の建立と伝わります


 現竹林寺に栗原寺の礎石が残っています
  
栗原寺跡説明版 墓地に置かれる礎石?

★所在地;高市郡明日香村栗原
★交通;近鉄飛鳥駅下車 徒歩20分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;0744-54-5600(明日香村役場文化財課)


秋篠寺東塔跡

2011年10月02日 | 古跡
秋篠寺東塔礎石
 南門を入った左右の林中に東西両塔跡が残っています 撮影日;2011.09.18

 ≪東塔跡≫
 心礎の大きさは1.77m×0.98mで、長径102m×短径0.98mの楕円形柱座(高さ6cm)を造り出し、径18cm×7.6cmの出枘を持つ
 心礎以外に一回小さい心礎と同型の四天柱礎2箇と側柱礎5箇が残っています

 塔の一辺は4.55mだったようです

 ≪西塔跡≫
 土壇らしき場所はありますがはっきりしません
 (下記の記録がありますが、不明です)
 西塔跡は畑地となり不明であるが、本堂から東塔跡に行く道端に石佛が祀られ、その南に西塔心礎が移され現存する
 東塔心礎と同形
 大きさは1.8m×1.0m、径100cm×6cmの柱座を造り出し、径18cm高さ8cmの出枘を有する

 秋篠寺は、宝亀11年(780)光仁天皇の本願によって、奈良朝最後の官寺として創建されました
 保延元年(1135)に講堂を残して伽藍は焼失しています

 残った講堂は金堂としてよみがえり、現在国宝に指定されています
 金堂跡は、見事な苔のジュータンとなっています

金堂跡 東塔基壇
★所在地;奈良市秋篠町757秋篠寺
★交通;近鉄大和西大寺駅下車 徒歩15分
★駐車場;有ります(無料)
★入場料;見学可
★問合せ;


雲井坂と轟橋

2011年09月30日 | 古跡
 ともに南都八景の名所です 撮影日;2011.09.25

 雲井坂は今の押上町付近で、京街道(現国道369号線)を北から南へ下る坂です
 南都八景のひとつ「雲井坂の雨」で知られます
 昭和初期に道路が整備される時、坂はかなりなだらかに改良されました
 南都八景に詠まれた当時は、急な登り坂に霧雨が降る様が美しかったのでしょう
 この付近は「押上郷」といいます
 雲井坂で荷車を押し上げたからついた名前だそうです

雲井坂の石碑 みどりゐ池

 雲井坂を上り切った所に「みどりゐ池」が有ります
 みどりゐ池からは小さな川が流れていて「轟橋」があったそうです
 轟橋の石碑前の歩道の長方形の石3枚が、轟橋の跡だと言われています
 東西4間4尺(約8.5m)、南北1尺1寸(約0.4m)の小さい橋だったようです
 橋の上を車が通ると轟音のように響いたのでついた名前だそうです

轟橋の石碑 轟橋とされる三枚の石版

 村雨の晴れまにこえよ雲居坂三笠の山はほど近くとも (藤原為重)
 うち渡る人めも絶えず行駒の踏むこそならせととろきのはし (藤原定継)
 

★所在地;奈良市登大路町
★交通;近鉄奈良駅下車 徒歩5分
★問合せ;


 参考;奈良歴史漫歩NO.065南都八景

只塚廃寺跡

2011年08月02日 | 古跡
 かつては古墳と思われていました 撮影日;2011.07.23

 首子七塚と呼ばれていた首子古墳群のなかで「只塚」と呼ばれていた小塚です
 首子の7号墳として遺跡地図にも載っていました

 国道165号バイバスが只塚のすぐ西側を通ることになり
 昭和60年に、事前調査され川原式軒瓦、復弁八葉蓮華文などの瓦や垂木先瓦などが出土しました
 白鳳時代に創建された仏堂の基壇である可能性が強いとされました
 さらに平成7年の調査で、現状のように積み上げられたのは近世以降と推定され
 盛土を取り除くと礎石が発見されました
 当初は仏堂の基壇であったと断定されました

 平成8年に県の史跡に指定されています

 基壇の一辺は約10mで、礎石・井戸・溝・掘立柱建物の跡が検出されています
 遺物として屋瓦・石仏・須恵・土師
 
 只塚廃寺跡出土?
 十二尊連坐塼仏と石製菩薩立像頭部

★所在地;葛城市染野(字只塚)741
★交通;近鉄当麻寺駅下車 徒歩10分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;0745-48-2811(葛城市観光協会)


 首子塚櫟山古墳

奥田はす池公園

2011年06月05日 | 古跡
 県指定の無形民俗文化財「蓮取り行事」が行われる所です 撮影日;2011.05.21

 捨篠池(すてしのいけ)とも呼ばれます

 終戦前後の混乱で、奥田はす池の蓮は全滅してしまいました
 平成7年から、この池に蓮を植え付け、奥田はす池がよみがえっています

 毎年7月7日に、吉野の山伏が奥田に来て、行者堂と刀良売塚に香華を献じ、蓮池の蓮108本を切りとります
 この蓮を吉野山から大峰山までの沿道の祠堂に献じ、蛙祭りの供養としています
 大和高田市文化財振興課のホームページ「奥田の蓮取り行事」

奥田はす池 一つ目蛙の伝説

 春には見事な桜が咲くそうです

★所在地;大和高田市奥田470
★交通;近鉄浮孔駅下車 南へ徒歩20分
★駐車場;有りません
★入場料;タダです
★問合せ;0745-53-8200(大和高田市文化財振興課)


アントクの丘

2011年06月01日 | 古跡
 丘頂は展望所・・・ 撮影日;2011.05.21

 文武天皇陵のすぐ西側にある円丘です
 古墳[17A-167]と思われます
 真北には高松塚古墳が有ります

 丘頂の説明版には、藤原京の中軸線を南に延長した、この線上には、菖蒲池古墳天武持統天皇陵中尾山古墳文武天皇陵キトラ古墳があり、ここ「アントクの丘」もその線上に沿っていると書かれてあります

 さ桧の隅 桧の隅川に 馬留め 馬に水飲へ われ外に見む (万葉集・巻12-3097)

★所在地;高市郡明日香村平田
★交通;近鉄飛鳥駅下車 徒歩15分
★駐車場;自転車が良いでしょう
★入場料;見学自由
★問合せ;0744-54-4577(明日香村観光開発公社)




椿の井戸「椿井神水」

2011年05月10日 | 古跡
 現在は画像のように蓋がされています 撮影日;2011.04.16

 旧伊勢街道から増口水分神社の石段登り口に、古来より旅人の咽喉をうるおしてきた井戸が有ります
 「椿井神水」と刻まれた石柱が立っています
 江戸時代の享保年間(1716~35)に刊行された旅行案内書『大和志』にも、その名前が記されています

 この辺りは吉野川沿いですが、湧き水が少なく昔は水に困ることがよくあったそうです
 この井戸は、日照りにも水が枯れることがなく、住民の命を守る水でした
 また、伊勢南街道を往来する旅人達にも重宝されてきたようです

★所在地;吉野郡大淀町増口
★交通;近鉄大和上市駅下車 徒歩5分
★駐車場;なし
★入場料;見学自由
★問合せ;0747-52-1522(大淀町教育委員会事務局)


大和清九郎の墓

2011年04月28日 | 古跡
 清九郎の屋敷跡近くに有ります 撮影日;2011.04.10

 鉾立集落にある大和清九郎の菩提寺「光蓮寺」から細い山道を行った所
 鉾立峰に有ります 
 
 清九郎については、その人柄をさまざまな逸話が伝えています
 その生き方を評して、後の人は彼を「妙好人(特に信心が厚く徳の高い人のこと)」と呼ぶようになりました

 延宝6年(1678)、谷田村に生まれ、幼少のころ両親とともに丹生谷村に移転、ここで生長した
 「せいくろう」と仮名で書かれたものでも読めない無学文盲であったが、孝心深く母によく仕えた
 清九郎の親孝行が高取藩主の耳に入り、ほうびに米5俵を与えられるが、「子が親に仕えるのはあたりまえ」と言って辞退する
 その志にうたれた藩主は再び清九郎を呼び、領内の山の木や柴を自由に刈り取ってよいという特権を与えた
 清九郎に対する賞賛は真宗、心学の立場から高く評価され、色々な出版物が出された
 清九郎は、山を下って吉野川を渡り、下市の油屋さんに奉公へ出かけ、夕方鉾立へ行き母の面倒をみて、夜更けに奉公先へ戻り、冷たいご飯を食べる、という生活をくりかえしていました
 23歳のとき父を失い、母のことも考えて奉公をやめ、きこりとなったようです
 隣村から養子の久六をむかえた後は丹生谷に隠居し、寛延3年(1750年)の旧8月4日、72歳でこの世を去りました


★所在地;高市郡高取町丹生谷奥山
★交通;国道309号線から県道222号線より鉾立へ「光蓮寺」より 徒歩15分
★駐車場;鉾立集落にスペースあり
★入場料;見学自由
★問合せ;0744-52-3334(高取町役場)

 北西2kmの所にも清九郎の菩提寺「因光寺」が有ります