奈良の名所・古跡

行ってみたい所があるといいのですが・・・古墳とか建物とか巨樹とかいろいろ・・・

高安城倉庫跡

2015年11月14日 | 城址
高安城第三倉庫跡
 天智天皇が築かせた高安城の倉庫跡です 撮影日;2015.11.01

 古代高安城は、667年天智天皇が唐と新羅連合軍の侵攻に備えるために高安山に築いたとされます

 現在は、6棟確認された倉庫跡のうち、2棟の礎石を見学できます
 倉庫は672年の壬申の乱で炎上したことが日本書紀に記されているそうです
 その後、天武・持統天皇の時代に修築され、文武天皇の701年に廃城となったようです

 高安城倉庫跡 高安城倉庫跡説明板 

 この礎石群は、昭和53年に市民グループの「高安城を探る会」が高安山頂から奈良側へ200mほど下ったところで発見しました
 倉庫は3間×4間(柱間約210㎝)で20個の礎石が有ります

 昭和57年3月に橿原考古学研究所が2号棟跡を発掘
 礎石の下から平城京跡で発見されているものと同じ暗文入りの盤(大皿)や杯が多数出土しました
 この土器の年代から、これらの礎石は奈良時代前期、720~730年代のものと判明
 3号棟跡も昭和58年3月に発掘され、同時期と判明しました

★所在地;平群町久安寺字金ヤ塚
★交通;近鉄西信貴ケーブル「高安山」駅より 徒歩約25分
★駐車場;朝護孫子寺の駐車場(有料)利用
  駐車場より徒歩 約50分
★見学;自由
★問合せ;



 戦国時代の山城遺構は信貴山城主となった松永久秀が出城として築いたと伝えられます
高安山山頂

 中世高安城は高安城の山頂に築かれています
 県境の尾根を林道が通っている為、城の遺構は東西に分断されていますが、残存状態は良好です

 主郭は西側で北西から南西方向に長い曲輪となり、南東下に虎口が付き、北東下に腰曲輪が残る
 林道を挟んだ東側に二郭、三郭がある
 二郭は土塁が巡る小郭であるが、西側に向かって通路状に伸び、その周囲を横堀が巡る
 横堀を挟んで南側に三郭があり、一番広い曲輪であるが、土塁は北東側のみ付いている

高安城跡 気象レーダー観測所 
 気象レーダー観測所が近くに建っています

信貴山城址

2015年11月13日 | 城址
信貴山城址
 奈良県で最大規模の中世城郭です 撮影日;2015.11.01

 信貴山(標高433m)山上に築かれた山城
 平成5年4月12日、平群町の史跡に指定されています

 信貴山は大和と河内を結ぶ要衝の地
 信貴山城は、朝護孫子寺の境内地として破壊を免れました

 南都北方に築城された多聞城の記録からみて、最高所の雄嶽山頂には小規模な天守(高櫓)が建てられていたと考えられています
 近世に描かれた古城図に「松永屋敷」の記載があり、北側に延びる主尾根には土塁を配した門の取り付く広い郭が並び、松永久秀の居館施設が建てられていたと推測されています
 石垣は1箇所のみで土留めに用いられるのみで、基本的に土で造られた城郭です

 信貴山雄嶽山頂にある護法堂が信貴山城の主郭部です

信貴山城址本郭 信貴山城址説明板

 松永久秀は山上に南北700m・東西550mに及ぶ城郭を築いて、大和経略の拠点としました
 長禄4年(1460)12月、応仁の乱で畠山義就軍が龍田城を攻めて筒井順永の後詰軍に敗れ、信貴山に陣を退いたというのがこの城の文献上の初見と思われているそうです
 
 城郭史としては、楠木正成の築城伝説があります
 天文5年(1536)6月までに木沢長政が入城して大規模に築城しました
 同11年3月の河内太平寺の戦いで敗死、信貴山城も落城(炎上)しています
 その後、永禄2年(1559)以降に三好長慶麾下で力をつけた松永久秀が大和の支配を目指して入城整備し、当城と南都北方に築城した多聞城を拠点に大和の支配に乗り出す
 同11年(1568)6月に三好康長に攻められて信貴山城が落城するが、まもなく足利義昭を奉じて上洛した織田信長に帰属し、その加勢を受けて回復している
 天正5年(1577)、上杉謙信の上洛軍に合わせて石山本願寺攻めの陣を退いて籠城し、織田信忠軍の大軍に包囲されて10月10日に落城
 久秀は信長の望んだ平蜘蛛(ひらぐも)茶釜と共に爆死したとされます
 
信貴山

★所在地;平群町信貴山頂周辺 
★交通;朝護孫子寺門前より 徒歩25分
★駐車場;有ります(有料)
★見学;自由
★問合せ;

 信貴山城へは、朝護孫子寺の境内にある行者堂から山上の空鉢護法堂に通じる参道が登り道です



石打城址

2015年04月10日 | 城址
石打城址碑
 非常に良好に遺構が残されています 撮影日;2015.03.21

 石打城は(別名「稲垣城」)は県史跡となっています
 室町時代後期の在地土豪の稲垣氏の城砦であったと伝えられてます

石打城址本郭 三の郭

 丘陵頂上に四方を切り込み土塁と掻き上げ土塁に囲まれた本郭が有ります
 南側に二の郭・三の郭があり、二の郭下に両側を土塁がある大手口の桝形虎口が有ります
 本郭西側には堀切を隔てて西の郭、本郭北側には空堀の遺構も残っています 

石打城址大手口 二の郭

 城域の南端に城跡碑が立っています
 東側には城主屋敷跡が有ります

空堀 武者隠し遺構
一の堀切 二の堀切
石打城址西の郭 屋敷跡

★所在地;奈良市月ヶ瀬石打
★交通;JR・近鉄奈良駅より バスで「石打」下車 徒歩8分
★駐車場;憩いの家のP( 声かけしたほうが良いです)
★見学; 自由
★問合せ;

 石打保育所の施設を転用した「憩いの家」の北の丘にあります



吐山城址

2015年02月21日 | 城址
吐山城主郭
 室町時代後期の吐山氏の山城です 撮影日;2014.01.25

 早山城とも云われます
 標高573m・比高140~100mの山頂が主郭ですが
 山頂と東北尾根上の二ヶ所に遺構が在ります

 主郭の一段下には帯郭があり、その先には段々になっている郭群、そして堀切となっていて西北の郭に続いています

吐山城副郭 吐山城堀切

 吐山城主郭には、龍王社の小さな祠と役行者石像が並んでいます
 主郭空の眺めは良く、眼下(南)には下部神社が見えます 

吐山城跡三角点 吐山城跡からの眺望

★所在地;奈良市都祁吐山町字城山
★交通;近鉄榛原駅より バスで「吐山」下車 徒歩10分
★駐車場;なし
★見学;自由
★問合せ;


大和・布施城址

2015年02月02日 | 城址
大和布施城跡
 金剛山地から東へ派生した尾根の中腹、標高460m付近に築かれています 撮影日;2014.01.18

 別名、「二塚城」とも言われます
 築城年代は定かでは有りませんが、布施氏によって築かれたと伝えられます

 松永久秀によって筒井城から追われた筒井順慶を布施城に迎え、永禄8年(1565年)には松永方の高田城を攻めるなど反撃しました
 その後、織田軍の支援を得た松永久秀によって布施城が攻められ、周辺を焼き払われるなどしましたが落城はしませんでした

大和布施城跡主郭 大和布施城跡図

 山頂の主郭を中心に東へ伸びた尾根に曲輪を展開
 尾根は途中で北と南に分かれ、その両側に曲輪が付いています

 見所は、最東端部の城道ともいう虎口縄張・城道を登ったすぐの曲輪に築かれた横堀・尾根に連なる曲輪群の東方部に築かれた櫓台と大堀切
 そして西方と東南方の畝状竪堀と盛りだくさんです 

大和布施城跡土塁 大和布施城跡堀切

★所在地;葛城市寺口
★交通;近鉄新庄駅下車 徒歩90分
★駐車場;有りません
★見学;自由
★問合せ;

 進入ゲート(猪除け用)から1.2kmほどですが
 行き着くには、かなりハードな山道を登ることになります(半端じゃないです!)


 主郭からの眺望は抜群です
大和布施城跡眺望

古市城址

2015年01月17日 | 城址
古市城跡碑
 城跡は東市小学校の校地となっています 撮影日;2014.12.21

 東市小学校の裏門を登っていくと右手フェンスの中に「古市城址」の石碑が有ります

 築城年は不明です
 文献上の初見は文安元年(1444)だそうです
 広い台地築かれ、台地と西側の環濠集落が結合して惣構えを形成していたようです
 遺構は見当たりませんが、本丸跡地は周囲より一段高く、東から奈良盆地を一望できる立地です

古市城跡丘陵 古市高山城跡丘陵
 後に谷を隔てた南方の丘陵も城地とされました↑↑
 古市高山城です(ここは遺構が良好に残っています)

古市高山城跡 古市高山城跡石

 古市氏は、1320年代より史料に登場します
 室町時代には興福寺大乗院の坊人として有力な存在でした
 古市澄胤の時代には越智氏とともに大和国を実質的に支配するほど最盛期を迎えています
 明応6年(1497)に筒井氏との戦いに敗れてからは衰退の一途を辿っています

★所在地;奈良市古市町268
★交通;JR奈良駅より バスで南古市下車 徒歩1分
★駐車場;有りません
★見学;自由
★問合せ;


竜王山城跡【北城】

2014年12月21日 | 城址
竜王山城跡【北城】主郭
  撮影日;2014.11.30

 北城は南城より約60mほど低く、大規模な平坦面が残っています

 天文年間(1532~55)十市遠忠が築いたと伝えられ、十市城とも呼ばれます
 のち、秋山氏が侵出し、十市氏は山麓の十市城(十市城跡)に移りました
 その後、竜王山城は松永久秀の支配下となり、北城を中核に大きく改修されます
 本丸を中心に時の丸・辰巳の櫓などの曲輪が築かれ、虎口・堀切・竪堀・石垣など大和屈指の山城となりました
 北東に設けられた空堀は、土塁を組合わせた見事なものです
 往時は石塁であったと推定され、城址最大の見どころです

堀跡 石垣跡

 竜王山城は、戦国時代、筒井氏・越智氏・箸尾氏と並んで大和四家に数えられた大名十市氏の築いた壮大な山城です
 山頂の南城と北尾根の北城からなります 

 別々の城が一つの城を形づくる連郭式山城です
 南城と合わせると、面積としては信貴山城を抜いて大和一の中世城郭となります

竜王山城跡【北城】図
★所在地;天理市田町
★交通;近鉄柳本駅下車 徒歩90分
  車:県道247号線を天理ダムから南下 藤井町への分岐を右へ
★駐車場;有ります(無料)
★見学;自由
★問合せ;


 北城本郭跡からの眺め
竜王山城跡【北城】眺望
 北城・南城からの眺望は抜群で、とくに南城の本丸からは快晴の日には明石大橋が見えるそうです

椿井城址

2014年11月26日 | 城址
椿井城址南郭
椿井城址南郭
 登山道が整備されていて、見学しやすい山城跡です 撮影日;2014.11.16

 矢田丘陵の稜線上に築かれた山城跡
 椿井山城とも呼ばれます

 当初は在地土豪の椿井氏の居城だったようです
 築城は、室町時代から戦国時代までの間

 現状では山林内に全長310mの長大な遺構が良く残っています
 多くの曲輪や深い堀切りや土塁が残っています
 一部ですが、石垣も残っています

 城域は南北に別れ、高い北側部分に中心の主郭が有りました
 <北郭は現在立ち入り禁止となっています>

 戦国末には筒井傘下の嶋左近と信貴山城に入った松永久秀との間で幾度もの争奪戦が繰り広げれられたと考えられています
 天正8年(1580)、織田信長が筒井順慶に命じ、郡山城を残して大和の諸城を破却させており、本城もこの時に放棄されたようです

椿井春日神社 椿井宮山古墳 椿井城址北郭への登り口
     椿井春日神社     椿井宮山古墳     椿井城址北郭への登り口
椿井城址北郭前 椿井城址北郭を望む
     椿井城址北郭前        椿井城址北郭を望む
南郭標識 展望図
      南郭標識      展望図
道の駅を見下ろす 椿井城址のぼり
      道の駅を見下ろす      椿井城址のぼり
椿井城址の石垣跡 椿井城址掘り切り
      椿井城址の石垣跡      椿井城址掘り切り
生駒山展望 土橋
      生駒山展望        土橋
南郭標識 信貴山方面展望
      南郭標識      信貴山方面展望
椿井城址説明 椿井城址の南郭への登り口
      椿井城址説明       椿井城址の南郭への登り口
椿井宮裏山古墳 椿井
      椿井宮裏山古墳      椿井
★所在地;生駒郡平群町椿井
★交通;近鉄竜田川駅下車 徒歩50分
★駐車場;有りません
★見学;自由
★問合せ;


柿

二見城址

2014年11月04日 | 城址
二見城址説明版
 妙住寺一帯が城址です 撮影日;2014.10.11

 東側には吉野川が流れ、自然の防御線となっていました
 築城年代は定かでは有りませんが、二見氏によって築かれたと伝わります
 松倉重政が慶長13年(1608)に1万石で入部、二見氏の旧城址を拡張整備し城下町を開きました

二見城址堀跡 二見城址吉野川

 吉野川に面した平地で、妙住寺に本丸、南に二の丸を配し、西に外郭が築かれていました
 昭和55年に埋め立てられるまでは妙住寺の西に堀が残っていました
 堀跡は材木置き場になっています

 (日蓮正宗)浄土山「妙住寺」は昭和48年の創建です 

二見城址妙住寺門 二見城址妙住寺

★所在地;五條市二見5-2-23
★交通;JR大和二見駅下車 徒歩9分
★駐車場;有ります
★見学;自由(境内内は許可を得ましょう)
★問合せ;


新庄城址

2014年11月03日 | 城址
新庄城址
 屋敷山古墳を利用した城郭です 撮影日;2014.10.11

 中世~近世初めにこの地を支配した布施氏が居館として利用
 江戸時代の初めに桑山氏が陣屋を築き、周辺に屋敷を構えました
 城郭としての遺構は、ほとんど残っていません

 ≪屋敷山古墳前石碑文面≫
慶長六年(一六○一年)桑山修理太夫一晴公 布施郷に入部 この屋敷山に築城し四代八十余年間藩政を施く 天和二年(一六八二年)永井能登守直圓公入部 文久三年(一八六三年)まで七代百八十余年間居城となる 昭和五十一年五月吉日建之

新庄城址屋敷山古墳後円部 新庄城址屋敷山古墳前方部 

 築城年は不明ですが、大和国葛下郡(現在の大和高田市・葛城市周辺)を治めていた布施氏が、本拠である布施城の麓に居館として築いたと考えられています
 鎌倉時代?に布施氏が平時の居館を築く
 慶長5年(1600)、桑山一晴が和歌山より入封し、布施氏の館跡に陣屋を築く
 天和2年(1682)、勅使への不敬により桑山一尹が改易される
 文久3年(1863)、永井直壮により陣屋が櫛羅に移転される

新庄城址図★所在地;葛城市南藤井17(屋敷山公園内)
★交通;近鉄新庄駅下車 徒歩15分
 又は、近鉄忍海駅より バスで「屋敷山公園前」下車 徒歩すぐ
★駐車場;有ります(無料)
★見学;見学自由
★問合せ;



 城址「屋敷山古墳」の南東側に石室の天井石の一部が展示されています 
屋敷山古墳石室石展示 屋敷山古墳石室天井石