奈良の名所・古跡

行ってみたい所があるといいのですが・・・古墳とか建物とか巨樹とかいろいろ・・・

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巨勢山古墳群 条池支郡

2009年09月27日 | 古墳
 條ウル神古墳の直ぐ近くです 撮影日;2009.9.7

 古墳時代中期中葉から終焉期にかけて、御所市の巨勢山丘陵に約700基が築かれた日本国内最大級の群集墳です
 2002年12月19日国の史跡に指定されています

 表示案内は有りますが、ほとんど整備されておらず、荒れ放題です

【條庚申塚古墳:642号墳】
 資料がなく詳細不明です
 墳頂に庚申さんの小さい祠が有り、その下に開口しています
 石室は羨道部分は損壊されています

條庚申塚古墳 庚申さん 條庚申塚石室

【條池北古墳:641号墳】(6世紀中葉~後半)
 破壊されているますが右片袖式の横穴式石室が半分残っていて西の池側に開口しています
 天井石は割れています
 
【條池南古墳:640号墳】(6世紀後半)
 発見された石棺には石枕が作りつけてあるそうです
 副葬品には優秀な馬具部品があって葛木氏を支えた有力層の墳墓と見られています 

★所在地;御所市條
★交通;JR玉手駅より 徒歩25分
★駐車場;有りません
★入場料;見学可
★問合せ;



大田皇女墓

2009年09月24日 | 
 皇極・斉明天皇陵から少し石段を下ったところに有ります 撮影日;2009.9.7 

 大田皇女越智岡上墓です

 大田皇女(おおたのひめみこ)
 生年不詳ですが、天智天皇6年(667)2月頃とされます

 菟野讃良皇女(天武天皇皇后・持統天皇)の同母姉にあたります
 父は天智天皇で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘
 同母妹に鸕野讚良皇女、同母弟に建皇子がいます
 天武天皇の妃となり、大伯皇女、大津皇子を生むが、夫の即位を見ずに若くして亡くなりました
 当時大伯皇女は7歳、大津皇子は5歳で、母方の祖父である天智天皇に引き取られたようです

 祖母の斉明天皇、叔母の間人皇女とともに葬られました

★所在地;高市郡高取町大字越智
★交通;JR掖上駅より 徒歩10分
★駐車場;光雲寺に有ります
★入場料;参拝自由
★問合せ;0744-52-3334(高取町役場)



 大田皇女:よろパラ ~文学歴史の10~ 萬葉人物列伝のページ

皇極・斉明天皇陵

2009年09月23日 | 
 光雲禅寺の南側丘陵上に有ります 撮影日;2009.9.7

 <車木ケンノウ古墳>(円墳、直径約45m)は皇極・斉明天皇陵に比定されています 

 正確には、「斉明天皇・孝徳天皇皇后間人皇女越智崗上陵(おちおかのへのみささぎ)・天智天皇皇子健王墓」です

 この陵は斉明天皇と孝徳天皇の皇后・間人皇后を埋葬した越智岡上陵と天智天皇の皇子・建王墓となっています
 (皇極・斉明天皇、娘の間人皇女、孫である健王の合葬墓)

 石段を少し下りたところに天智天皇の皇女で天武天皇妃の大田皇女の墓もあります

 研究者の間では岩屋山古墳牽牛子塚古墳小谷古墳も陵墓の候補としてあげられています

 皇極天皇は推古天皇から一代おいて即位した女帝です
 和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
 敏達天皇の子・押坂彦人大兄皇子の子・茅渟王(ちぬのおおきみ)の第一皇女
 母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)です
 はじめ高向王と結婚して、漢皇子を産んでいます
 後に舒明天皇の皇后として、中大兄皇子(天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(天武天皇)を産みます
 舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、皇極天皇として即位
 大化の改新後に同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲りました
 孝徳天皇の死後、655年に再び皇位に就き(斉明天皇)、661年に崩御しました

★所在地;高市郡高取町大字越智
★交通;JR掖上駅より 徒歩10分
★駐車場;光雲禅寺に有ります
★入場料;参拝自由
★問合せ;0744-52-3334(高取町役場)


貝吹山城跡

2009年09月22日 | 城址
 貝吹山城は、南北朝時代に越智氏によって築かれました 撮影日;2009.9.7 

 越智氏の盛衰と共に幾度も戦いの舞台となりました
 天正8年(1580)に織田信長の一国破城令によって廃城となっています

 意外と広い山頂です
 現在は、「貝吹山城跡」の石碑が有るだけです

 南麓にある越智氏の本拠越智城の詰の城として、また北の平野部への進出拠点となっていました
 戦国時代・天文15年(1546)9月25日、筒井順昭率いる6000余騎が「貝吹ノ城」と「ヲキ田ノ城」を攻撃、10月10日に城が陥落して筒井氏の手に落ちた様子が「多聞院日記」に記されます
 その後越智氏は天文18年(1549)と弘治3年(1557)の二度にわたって貝吹山城の奪回を試みましたが失敗
 永禄9年(1566)に越智家益が貝吹山城復帰を果たしています
 永禄11年(1568)からは松永久秀軍が貝吹山城を攻めましたが敗退
 翌年にも松永久秀自身が子息久通とともに大軍をもって押し寄せますがまたも敗退
 しかし越智氏も籠城に疲れたのかその後に「貝吹城松永方へ渡之」とあって城が松永氏に明け渡されました


★所在地;高市郡高取町与楽・寺崎
★交通;近鉄飛鳥駅より 登城口まで徒歩15分
  山頂まではハイキングコースになっています(30分ほどで登れます)
★駐車場;有りません
★入場料;タダです
★問合せ;0744-52-3334(高取町役場)



与楽鑵子塚古墳

2009年09月21日 | 古墳
 開口部はかなり高い場所に有ります 撮影日;2009.9.7

 貝吹山の南西丘陵に位置する、径24m・高さ7mの円墳です

 南に開口した片袖式の横穴式石室が確認されています
 玄室天井部が高いドーム型の断面形状の古墳です
 羨道部が短いのも特徴
 玄室の長さ4.15m・幅3.15m・高さ4.5m以上、羨道部の長さ2m以上・幅1.4はm・高さは1.4m以上

 発掘未調査のため、出土品などは確認されていません

 きわめて高い玄室を有する特徴が指摘されており、南200mの所にあるカンジョ古墳と同様
 強力な権力を持った氏族の墳墓であると考えられます

 築造時期は6世紀後半の早い時期のようです 

★所在地;高市郡高取町与楽
★交通;近鉄飛鳥駅より 徒歩30分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;0744-52-3334(高取町役場)



与楽鑵子塚古墳開口部 与楽鑵子塚古墳説明板

与楽カンジョ古墳

2009年09月20日 | 古墳
 国内最大級の横穴式石室を持つ古墳です 撮影日;2009.9.7 

 乾城古墳とも言われます

 一辺約36mの方墳です
 石室の高さは5.27mも有ります、石室長6m、幅3.7m

与楽カンジョ古墳石室内

 中国・朝鮮半島の影響を受けた銀製指輪などが出土
 炊飯用具をミニチュア化した副葬品の土器片、木棺に使われる鉄製のクギなども石室内から出土しています

 飛鳥時代に先進文化をもたらした渡来系氏族・東漢氏の墓と推測されます
 築造は6世紀末~7世紀前半

 1976年3月30日に県の史跡に指定されています

★所在地;高市郡高取町与楽
★交通;近鉄飛鳥駅より 徒歩25分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由(石室内には入れません)
★問合せ;0744-52-3334(高取町役場)

 少し北に与楽鑵子塚古墳があります
 貝吹山山頂の城跡へはハイキングコースになっていて30分ほどで行けます


 参考;don-panchoさんのページ

光雲寺の厄除けの杉

2009年09月19日 | 巨樹
厄除けの杉
 推定樹齢700年(千年ともいわれる)の巨樹 撮影日;2009.9.7 

 「光雲寺」参道入り口に有る、樹高15m・幹周り5.2mの巨杉です

 後醍醐天皇の南朝方で活躍をした越智邦澄が元弘2年(1332)高取城を築いた時に植えたと伝えられます

 天正10年(1582)織田信長の命により、筒井順慶が越智氏の家臣鳥屋陣羽守を攻めた時、陣羽守の息子二人が、この木に登って難を逃れ、その時、息子の歳が42歳と25歳の厄年だったので「厄除の杉」と呼ばれます

 明日香村「岡寺」の「星祭り」にこの杉の枝を持ち帰って厄払いに使うそうです
 平成9年奈良県の保護樹木に指定されています

★所在地;高市郡高取町大字越智24
★交通;JR掖上駅より 徒歩12分
★駐車場;無料あり
★入場料;見学自由
★問合せ;



越智氏一族の墓

2009年09月18日 | 碑・塚
 越智氏は室町時代に活躍した武士です 撮影日;2009.9.7

 越智氏墓所には、越智邦永、邦澄墓の左側にも多くの五輪塔が並んでいます
 ほとんどの墓石は誰のものか不明です
 「元亀二年(1558)九月」銘の墓石は越智家高の墓碑だそうです

 南北朝時代には、越智党は吉野方(南朝)として活躍しました 

★所在地;高市郡高取町大字越智24
★交通;JR掖上駅より 徒歩12分
★駐車場;あります
★問合せ;0745-62-3315

 越智邦澄が建立した越智氏の菩提寺「光雲寺」の墓地に有ります


 参考;武家家伝_越智氏