素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

再論・ナウマンゾウについて(Ⅱ)-36

2019年06月15日 08時58分07秒 | 再論・ナウマンゾウについて(Ⅱ)

     第Ⅲ章 ナウマンゾウの旅路、北の大地へ

 

 

   (4)縄文の頃にもまだゾウがいた

 

   ⅰ)生息していた時代  

  日本にナウマンゾウが生息していたと考えられる年代は、これまでいろんな見方がありました。たとえば、長野県の信濃町の野尻湖の湖底から発見されたナウマンゾウの発掘が行われる前までは、日本列島にナウマンゾウが生息していた時代は、180万年前から10万年前位でははいかともいわれていました。

  その根拠は、ナウマンゾウの生息年代は、一般に地質年代区分で洪積世早期に区分されるのがごく当たり前だったからだと思います。ですから、いま述べましたような考え方は日本の化石骨関係の学会の普通の見解(通説)だったのです。

  ところが、地質の測定方法が進化した今では、地層の同位元素解析を行うことでかなり正確な年代の推定ができるようになりました。それによりますと、忠類よりも早く1962年からナウマンゾウの発掘が行われている信濃の野尻湖、それは長野県の北部で、そこはもう新潟県との県境に近いのですが、その湖の湖底の炭素の同位元素から測定した分析結果によりますと、180万年前の原人の時代ではなく、ナウマンゾウが発掘されている地層の年代は3万1000年前から1万6000年前という限りなくホモサピエンス、それも縄文人の時代に近いという測定結果が出たのです。

  一方、若干の違いがあるかも知れませんが、旧忠類村晩成地区(現在の北海道幕別町)で見つかったナウマンゾウの大臼歯を手掛かりに、1969年に発掘が始まったナウマンゾウの化石骨の炭素測定の結果によりますと、5万年前から4万年前くらいまでは北海道の十勝の原野にもナウマンゾウが生息していたのではないかという見方が有力になりました。

  忠類のナウマンゾウの化石骨と野尻湖の湖底に3万年以上もの長きにわたって眠っていたナウマンゾウの化石骨との、その決定的な違いとは何なのでしょうか。野尻湖のナウマンゾウの場合、湖底に埋まっていたことで、化石が流れる危険性が想定されるのですが、忠類で発掘されたナウマンゾウの化石骨は、ほとんどの化石が、水没死ときの姿態のままで埋まっていたので掘り出されてからの骨格復元作業が正確に行わうことが出来たといわれています。

  層位学の専門家で北海道大学の故松井愈(まさる)教授は、炭素同位元素の測定が進むことで、「忠類ナウマン象の発掘によって、栗山町の臼歯を含め日本のナウマン象の生息年代は、再考されることになるだろう」(齋藤禎男『これがナウマンゾウの化石だ―忠類原野'70夏の感動―』・北苑社、昭和49(1979)年)といわれています。

  ⅱ)沼にはまったナウマンゾウ:

  北海道十勝平野旧忠類村で発見された太古のナウマンゾウの化石の発掘は、全国的にも大きな関心を呼びました。これまでに何度も述べたことですが1969年10月の第一次調査に続いて、1970年6月には第二次調査が行われました。この調査で発掘されたナウマンゾウの化石は、1体分に相当する化石の大部分が発掘されたのですが、第二次発掘調査の意義も実はゾウ1体分丸ごと発掘出来ることにあったのだといわれています。

  第一次発掘調査の際には、ナウマンゾウの化石が埋まっていた地層やその周りの様々な環境等の観察や分析が十分ではなかったこともあり、第二次調査では一次調査で十分とは言えなかった「ナウマン象の古生態、死因、当時の古環境、あるいは象と人類の関係、化石包含層の時代決定などに対するデータの収集」の精度を高めるためにもナウマンゾウの骨格全体の化石を発掘することが至上命令だったのです。ですから、第二次調査の発掘の意義は極めて大きかったと考えられています。

  旧忠類村晩成で発掘されたナウマンゾウの化石の分析からいえることは、ハンター(人類)によって食料として捕獲、解体された後に廃棄された骨などの化石ではなかったからです。発掘後の専門家による研究の結果判明したことは、健康体のゾウであったことです。多分、沼などの餌場、水飲み場に入り、自力では動きがつかなくなり命を落とした可能性が高いと推測されています。

  少し話が横道にそれますが、国交省北海道開発局帯広開発建設部が編集した『時をこえて十勝の川を旅しよう』の第1章「十勝の平野や川ができるまで」(3「十勝平野が「陸地」になったころ」)には、その③に「ナウマンゾウ、忠類で沼にはまる」という項目がありますが、きわめて平易な口語調で小中学校の児童・生徒から一般の人々に向けて広く、次のよう語りかけています。

  今から「およそ12万年前、地球はリス氷期と呼ばれる寒い時期を終え、今よりも暖かい時期(間氷期)を迎えていました。十勝では南部を中心として、あちらこちらに大小の湿原が広がっていました。そのころ、十勝にはナウマンゾウという象が暮らしていました。

  ある時、ナウマンゾウの群れが今の忠類(幕別町)にあった沼にやってきました。水を飲みにきたのでしょう。その中の1頭(おとなのオス)が、沼に入ったところで死んでしまいました。ひょっとすると、沼の泥炭にあしをとられ動けなくなったのかも知れません。

  沼(湿原)の底にある泥炭の中では、生き物の死体があまり分解されず(土地にかえらず)長い間残ります。ナウマンゾウの死体は、くさりきるきる前に土砂によってすぐ近くの沼底にうまりました。ナウマンゾウの骨は、地中で長い眠りにつきました」、と(下記の文献(11)から引用)。

  発掘現場(旧忠類村晩成地区)のナウマンゾウ化石包含地形、地層など古環境が大型哺乳動物の人類によるキルサイトであった形跡はないことなどから、経験不足の若い(24、5歳と推定されています。)ナウマンゾウの湿地地域に対する錯誤が死因であるのかも知れないと見られています。

  ゾウは湿原地帯の泥沼にはまり、両前足を挙げてもがきながら沈んで行く姿の想像画が「忠類ナウマン象記念館」には制作されて展示されています。しかし、全体としてもがき苦しみながら沈む象の姿のリアルさには若干の違和感を覚えます。

                   

 

 



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