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人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

南太平洋島嶼国「トゥヴァル」について(2)

2016年09月05日 08時50分13秒 | 島嶼諸国
南太平洋島嶼国「トゥヴァル」について(2)





   第1章 ツバル(Tuvalu)の歩み  


   1.エリス諸島、その昔  

 (1) トゥヴァルの歩み

 地球温暖化による海面上昇の影響をまともに受けて沈み行く国トゥヴァルについての記事は驚くほど多い。また最近は、トゥヴァルに出かける日本人が多い。

 前にも触れたが、最近日本から閣僚級を含めて多くの日本人が訪問している。中には、第2次世界大戦中の41~42年にエリス諸島が日本軍に占領された歴史を学ばずに出かけている人がおおいのではなかろうか。そのトゥヴァル(旧エリス諸島)は、9つの島から成る列島で、その最北端(南緯5°)に位置するナヌメ島から最南端のニウラキタ島までの距離は560kmある。
トゥヴァル諸島は西暦1世紀、およそ2000年前から、人間が住むようになったと言われている。 
 トンガ、サモアそしてウォリス島などからトケラウを経由してポリネシア人が渡り住むようになったようだ。トゥヴァル諸島の1つナヌマンガ島には、トンガとトケラウと言う2つの集落が存在しているのもトゥヴァルの人々が海洋民族であるポリネシアの他の島々から旧エリス諸島に移住し、そして彼等はそこに長い歴史を刻みながら自分たちの文化を築いて来たものと考えられるのである。
   
 1568年 スペイン人の探検家アルヴァロ・デ・メンダ-ナ・デ・ネイラ(Alvaro de Mendaña de Neira)が、旧エリス諸島のほぼ中央に位置するヌイ島、そしてニウタオ島を発見 した。その後、1819-26年頃にかけて欧米の探検家たちによってナヌメア、ヌクフェタウ、フナフティ(Funafuti)などの諸島が次々に発見された。  
 1819年、探検家で、しかも英国船レベッカ号のデペイスター船長がフォンガファレ島(今日、一般的にはフナフティ島と呼ぶことが多い)を発見した1)。彼は船主エドワード・エリス(Edward Ellice)の名をとって9つの島々をエリス諸島と名づけた2)。 

 また、1819年に、英国人エドワード・エリス(Edward Ellice)がフォンガファレ島(フナフティ島)に上陸したとき、エリス島と命名したと言う説もある。その他にも英国の水路学者フィンドレーが諸島全体にエリスの名を冠し、エリス諸島として知られるようになったとも言われている。彼は船主エドワード・エリス(Edward Ellice)の名をとって9つの島々をエリス諸島と名づけた2)。また、1819年に、英国人エドワード・エリス(Edward Ellice)がフォンガファレ島(フナフティ島)に上陸したとき、エリス島と命名したと言う説もある。その他にも英国の水路学者フィンドレーが諸島全体にエリスの名を冠し、エリス諸島として知られるようになったとも言われている。

 1861年、ロンドン宣教師協会(LMS)の若干の信者がクック諸島のマニヒキ(Manihiki)から渡来カヌーで、旧エリス諸島の1つの小島嶼ヌクラエラエ(Nukulaelae)にたまたま漂着したことが、トゥヴァルにキリスト教が導入され、広められたきっかけであったとされている。宣教師は、その後暫くしてサモアからやって来て布教に務め、全島に広まった3)。 

 1850-75年頃、エリス諸島の島民はフィジーとクィーンズ・ランドのさとうきび畑で強制的に働かされた。また、奴隷同様に連れ去られたもの、そして疫病による大量な死者もかさなって「当時20,000人?もいたといわれている旧エリスの人々(現トゥヴァル人)はわずか3,000人にまで減少した」4)と言われている。現在、首都であるフナフティ島には、1863年頃はおよそ300人の島民が居住していたが、そのうち3分の2に相当する約200人ほど、旧エリス島全体では400人が奴隷船に拉致されたと言われている5)が、正確な統計が存在しているわけではない。 

 また、1865年5月には、LMSの聖職者A.W.マレーが、サモアからトゥヴァルを訪問した6)。そしてその後、サモア人の牧師達が旧エリス諸島(トゥヴァル)のいくつかの小島嶼の地に配置されたと言われている。
 1892年、英国の軍艦. Curacao の艦長R. N.ギブソンが、保護領化を宣言したEllice諸島とギルバート諸島へ上陸し、英国の保護領として統治した7)。その後1915年11月には、英国はギルバート諸島とエリス諸島を併合して王領植民地とした。
 
 (2) トゥヴァルと太平洋戦争

 トゥヴァルを語るには、太平洋戦争に若干は触れないわけにはいかないであろう。1941年12月8日に敢行したハワイ・真珠湾攻撃に続いて、その後も3ヶ月は勢いを維持していた。しかし後述するように、明けて1942年4月には、早くも米軍の東京空襲が始まったのである。

 ともあれ、最初のうちは大人も子供も、日本軍の活躍を報じる大本営発表に沸いていたものだ。大本営が発表する日本軍の戦果は実に華々しいものであった。小生は、この年から小学校を国民学校に国策として改革し、軍国主義教育を徹底したその国民学校の1年生であった。今思えば実に愚かで、悲しいことですが、大人達の喜ぶ姿を見て同じように喜んだものです。

 さて、1942年までに、あらかじめ準備していた作戦計画に従って行動した日本軍は、初期の戦局を有利に展開していたことは確かであった。一方で、東南アジアと中部太平洋から南部太平洋にかけての広範囲の地域でも有利な戦局を展開したのである。日本軍が占領下に置いた太平洋の諸島も多く、その地域はおよそ次の通りである。

 タイについては1941年12月、グアムは1941年12月、米軍の重要作戦基地と見られていたウェーキ島も1941年12月に、香港は1941年12月、マニラも1942年1月に、クアラルンプールは1942年1月、そしてシンガポールも1942年2月に占領下においた。その勢いは驚くべきものがあった。

 日本軍はこれらの諸島を手中に収め、資源を確保し、戦力を蓄えながら作戦の有利な方向性を探り、米・英連合軍との長期戦に備えようとしたのである。
1942年4月18日、何と米軍機が東京の空に黒くでっかい四発のエンジンが肉眼で見ること出来るほど大胆な来襲だった。そして1942年6月に、ミッドウェイの海戦で無敵を誇っていた日本の連合艦隊が、米艦隊に敗れるという当時のごく普通の日本人には想像し難いじたいになったのである。

 以後、日本の海軍は制海権を失い、戦局は英米連合軍側に大きく傾いた。戦局は、まさかの英米有利の展開となったのである。1942年8月から1943年初めにかけて、かの有名なガダルカナル島攻防戦が行われた。これを契機に連合軍の反攻がいっそう激しくなっていったが、英米に日本軍は補給路を断たれ、物量総力戦に日本軍は完全に戦力を失ったのである。


 (注)
 1)なお、本節ではTuvalu Online から、http://www.tuvaluislands.com/history.htmを参考資料として利用した。 
 2)2004年版『データブックオブザワールド』・二宮書店・平成16年、450頁および『トゥヴァル』・(財)国際協力推進協会・平成7年、2頁。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipeda)』、参照。
 3)David Stanley, South Pacific ,Avalon Travel,7th ed.,p.530.
 4)『トゥヴァル』・(財)国際協力推進協会・平成7年、2頁。
 5)長島俊介「ツバル(1)」(『会計検査資料(「小国の財政・生活事情65」)』・建設物価調査会・
 1991年11月号、35頁。
 6)David Stanley, Ibid.,p.530.
 7) David Stanley, Ibid.,p.530.



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