The Phantom of the Opera / Gaston Leroux

ガストン・ルルー原作「オペラ座の怪人」

調査

2007年11月23日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

 

His most important journalism came when he began working as an international correspondent for the Paris newspaper LE MATIN. In 1905 he was present at and covered the RUSSIAN REVOLUTION. Another case he was present at involved the investigation and deep coverage of an opera house in Paris, later to become a ballet house. The basement consisted of a cell that held prisoners in thePARIS COMMUNE, which were the rulers of Paris through much of the FRANCO-PRUSSIAN WAR.


「オペラ座の怪人」原作は冒頭でルルーと思われる「作者」がオペラ座図書室で「怪人の噂話」と「シャニュイ事件」の関連性に気づき調査している描写から物語ははじまります。
 

普通この箇所を読んだ人は「この人こんな所(図書室)に入っていいの?なんで突然調査を始めたの?」と思うのではないでしょうか?

調査自体はルルーが「シャニュイ事件」も「怪人」も知らない時点から開始されています。
なので「パリ・オペラ座の古い記録」を調べる動機が別にあったはずです。

 

上の英文から察するにル・マタン新聞の仕事だったのでしょうか?


とすればルルーがオペラ座図書室に出入りを始めたのが1905年くらいになります。
1907年にはジャーナリズムの世界を離れたようなので少なくとも1905年から1907年の間だと推測できます。

 

で、タイムカプセルは「寄贈 1907年6月28日」と書かれています。そして埋められたのは同年12月23日とも言われているのです。


とすれば、1907年のペルシャ人の出現により「シャニュイ事件」「エリック」に関する情報が得られるまである程度の時間があったのですね。

「私が真相を気づくのには時間がかかった。調査はいつも超自然的とも言える出来事に邪魔をされ、私は虚しい幻影を追い求めるのに疲れ果て、もう無駄骨を折るのはやめてしまおうと思った事も一度ならずあった。
だが、私は<オペラ座の怪人>がただの幻ではないという確証を得て、ようやく自分の勘が的中していたという証拠をつかんだ」

つまり、ルルーの調査の困難さと、カナダ帰りのフォール判事によってダロガを紹介され、ついに証拠である「ペルシャ人の手記」を手に入れた事を描写していますが、そんなこんなを考え合わせると、挫折しそうなルルーの様子とか微笑ましいです。

 


そしてルルーのオペラ座調査が史実なので、ルルーがパリ・コミューンの犠牲者の遺体の埋葬場所に詳しいのもそのあたりに関係あるのかなーなんて思います。

「コミューンの際、オペラ座の地下で虐殺された人たちは、あのあたりには埋葬されていない。包囲の間、あの広大な地下室には食糧が貯蔵されていたので、犠牲者の遺骨はそこからずっと離れたところで見つかるはずだ。」P11

 Ce corridor avait été créé lors de la Commune de Paris pour permettre aux geôliers de conduire directement leurs prisonniers aux cachots que l'on avait construits dans les caves…" ; "Les malheureux qui ont été massacrés, lors de la Commune, dans les caves de l' Opéra, ne sont point enterrés de ce côté

 ちなみにモンシャルマンの「一支配人の回想録」はフィクションだと思っていますよ。

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。