第15番 若一神社
京都市下京区七条御所ノ内本町98
主祭神 若一王子(にゃくいちおうじ)
御利益 開運出世
若一神社に行って来た。
西大路八条にあるが、この神社の為に西大路通りがまっすぐなっていない。
碁盤目に通る京都の通りは決してすべてがまっすぐではない。2か所ゆがんだ場所がある。京都駅から堀河通りを7条通りを北に行くと、大きく東に膨らむ。西本願寺がある為だ。もう一つがここ若一神社で、北から南下すると道の行く手に大楠が見えてくる。清盛が太政大臣になった時に記念に植えた楠が大きくなったものだ。平家滅亡の焼亡の中でも焼け残ったことから道路整備の時も移植できなかった。
神社の創建は、光仁天皇の時代と言うから平安京直前だ。ある僧侶が若一王子の御神体をこの地に祀るものの、「其の後、異変により、土中に入り給う。」と言うから一旦忘れられたのであろう。その後、六波羅を拠点にしていた清盛が、「浅水の森と称し風光明媚なる処」と、この地に別邸を営んだ。そして、熊野詣での時、御告げがあり。「土中に隠れたる御神体、世に出し奉斎せよ。」との御宣託あり清盛が邸内を探したら、土中より光が放たれ「若一王子の御神体現わる。」と言うのがその由来である。
境内には、近年創られたような清盛像がある。平の清盛は政治の指揮もここで執ったのは、山陰道・西国街道に通じる街道沿いにあり、また丹波口と言う京七口に近い為、西方面からの最先端の情報が入る要所である為である。宋との貿易を最優先する清盛の政策実現の為には絶好の場所だったのだろう。
清盛が熱病に苦しんだ時、この神水で体を冷やしたが、効なくうなされつつ死ぬ。それでもこの御神水、開運出世の水として、新生児誕生に際しての産湯としても有名とされる。
狭い境内だが多くの見学スポットがある。正月明けなので、お守りやご利益グッズがテーブルに広げられ身動き取れない程だった。なお、水は持ち帰り自由。