アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

820 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち ⑤

2021-04-12 21:47:06 | 日記

三、事件の経緯(発端) 武家及び幕府を朝廷の支配下に置きたかっただけ。

 

源実朝 - Wikipedia実朝

 事件は、「乱」なのか「変」なのか、単に「合戦」なのか。合戦には違いないが、「変」というと偶発的・短期的なもので、本能寺は「変」である。「乱」は、計画的に準備された戦乱であり戦争に近い。だから応仁の「変」とは言わない。しかし「乱」には反乱の意味合いもある。従って、戦前までは上皇が反乱するのはおかしい、逆賊はあくまでも北条義時であるという「皇国史観」に基づいて「承久の変」と言っていた。しかし、現在は教科書には「乱」を採用している。上皇の謀反と言う異常事態である。

 さて、承久元年(1219年)1月、雪中の鶴ケ岡八幡宮で、3代将軍実朝が暗殺される。遂に時代が大きく動く。以下、坂井孝一氏『承久の乱』をもとに経緯を書く。今までの定説によると、その一報を聞いた後鳥羽上皇は、狂喜し「倒幕」の機会をうかがうようになったとされている。その伏線として、実朝を右大臣にまでして「官打ち」にしたとされる。官打ちとは、身分不相応な位につけて「呪い」をかける事である。しかし、最近の研究でそれでは辻褄の合わないことが多いことが分かっている。 まず、実朝のイメージの「武者らしくなく和歌など文化的才能しかなかった。」というのも疑わしい。2代頼家のあと統治者として次々と政策を打ち出しており成果を挙げている。しかも、頼家のように御家人たちが反発した形跡もないのである。急きょ担がれて将軍になったが、地道に努力して御家人たちの上に君臨する将軍へと自立し、遂には権威と権力でしっかりと幕府を運営していた。ただ、不可思議なのは後継者を作っていない事だ。将軍など英雄には必須の生殖能力に問題があったのか、性的な嗜好によるものなのか、「源氏の正当な血統は自分の代で終わり、自らは高い官職について家名を挙げたい。」と言っている。(坂井氏『承久の乱』)さらに、次期将軍には後鳥羽の皇子を請来するという事を考えていたのである。意外にもこれについては、母の北条政子始め鎌倉御家人一同が協力して動いている。その事から考えられるのは、「一族の骨肉の争い」に終止符を打ちたいという気持ちは鎌倉御家人の全員の共通したものだったのだ。

 将軍を皇室から招き、自らは「幕府内院政」という立場で武家政治を行う。一方、朝廷で院政を敷く後鳥羽との連携を目指していたのである。場合によっては、実朝は政治は次世代に任せて上洛し、後鳥羽と歌合せなどを楽しみたいとまで思っていた節がある。このように、実朝の施策は後鳥羽の考え方と相いれるものだった。呪いの「官打ち」ではなく、二人の蜜月関係と解釈した方が辻褄が合う。

 しかし、その実朝が暗殺されたのである。公暁という青年の愚挙が、歴史に多大な影響をもたらした。しかもその直後、御所が焼失する大事件が勃発する。鎌倉将軍が摂関家(九条家)から招くことに決定すると、京都においては、源三位頼政の孫源頼茂が将軍職を狙って反乱を起こす。後鳥羽が鎮圧軍を出したが、こともあろうに御所を燃やしてしまう。鎌倉の権力争いが、京都まで飛び火した形だ。この後、後鳥羽は御所再建に苦闘するが思うようにいかない。そもそも鎌倉の執権義時がしっかりしていればこんな事態にならなかったはずだ、と、考えるようになる。そして遂に、義時討伐の決意をする。決して倒幕ではない。思うような幕府にするために立ちあがったのだ。倒幕が目的ならば、頼茂の反乱に兵を出すことはない。繰り返すが、後鳥羽上皇は武家及び幕府を朝廷の支配下に置きたかっただけだ。

承久の乱

※        源三位頼政 平氏政権の中でも重用された源氏の長老。以仁王と組んで平家討伐の兵を立ち上げるが、敗走し宇治の平等院で切腹。


819 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち ④

2021-04-12 08:57:07 | 日記

 

 一方、皇室(朝廷)は、後鳥羽上皇が治天の君として(親裁)独裁を始める。ただし、後鳥羽の長子土御門天皇は温和な性格で、後鳥羽とは反りが合わず、承久の乱においても消極的であったと伝わる。そこには実際は複雑な事情があった。土御門の実母(在子)の母範子は藤原範兼の子で、後鳥羽の乳母であった。また、次代の弟の順徳天皇の実母(重子)の母兼子も藤原範兼の子で、こちらも後鳥羽の乳母であった。つまり後鳥羽の寵愛を受けた二人の女性は従妹同士だった。ややこしいのは、在子の方が、あろうことか自分の母が寵愛を受けていた源通親と密通してしまう。これが後鳥羽が在子を母に持つ土御門を嫌う決定的な要因かと思う。策士であるこの源道親は村上源氏の末裔で、高倉天皇の側近として世に出て来た人物で、平家とも近しい関係を築くが、平家滅亡後は源氏にも後白河にも重用されるなど、一定の勢力に属さず上手く世渡りをしている人物だ。後白河上皇崩御後は、その最大の荘園を相続した勢力につくなどしてこの時期に一気に政治基盤を築いている。そのような折り、自ら面倒を見ていた在子(その後男女の関係に)が、後の土御門天皇になる皇子を生んだのだ。「外祖の号を借りて天下を独歩するの体なり」と言われ、「源博陸」と称され人生の得意の絶頂を迎える。このようにしたたかな通親は後鳥羽の妃である在子との肉体関係を疑われるものの、朝幕間の重し役でもあった。この源通親の死が、後鳥羽が強行策に転じる一つのきっかけとなった。従って、土御門上皇は性格上の問題もあったが、母親の関係からも積極的に関与できなかったのである。いつの時代も閨の出来事が政治に影響することが多い。

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 このように、朝廷にも幕府にも不安定な要素が内在していたのが、鎌倉時代初期の特殊性である。後世、我々は幕府が北条得宗家の支配になって行くことを知っているが、この時期どのような展開もあり得た混迷期であったことは間違いない。それにしても不倫・不貞・略奪・兄弟親子の殺し合いなど現代人には理解不能の世界だ。

だから歴史は面白い。