三、事件の経緯(発端) 武家及び幕府を朝廷の支配下に置きたかっただけ。
実朝
事件は、「乱」なのか「変」なのか、単に「合戦」なのか。合戦には違いないが、「変」というと偶発的・短期的なもので、本能寺は「変」である。「乱」は、計画的に準備された戦乱であり戦争に近い。だから応仁の「変」とは言わない。しかし「乱」には反乱の意味合いもある。従って、戦前までは上皇が反乱するのはおかしい、逆賊はあくまでも北条義時であるという「皇国史観」に基づいて「承久の変」と言っていた。しかし、現在は教科書には「乱」を採用している。上皇の謀反と言う異常事態である。
さて、承久元年(1219年)1月、雪中の鶴ケ岡八幡宮で、3代将軍実朝が暗殺される。遂に時代が大きく動く。以下、坂井孝一氏『承久の乱』をもとに経緯を書く。今までの定説によると、その一報を聞いた後鳥羽上皇は、狂喜し「倒幕」の機会をうかがうようになったとされている。その伏線として、実朝を右大臣にまでして「官打ち」にしたとされる。官打ちとは、身分不相応な位につけて「呪い」をかける事である。しかし、最近の研究でそれでは辻褄の合わないことが多いことが分かっている。 まず、実朝のイメージの「武者らしくなく和歌など文化的才能しかなかった。」というのも疑わしい。2代頼家のあと統治者として次々と政策を打ち出しており成果を挙げている。しかも、頼家のように御家人たちが反発した形跡もないのである。急きょ担がれて将軍になったが、地道に努力して御家人たちの上に君臨する将軍へと自立し、遂には権威と権力でしっかりと幕府を運営していた。ただ、不可思議なのは後継者を作っていない事だ。将軍など英雄には必須の生殖能力に問題があったのか、性的な嗜好によるものなのか、「源氏の正当な血統は自分の代で終わり、自らは高い官職について家名を挙げたい。」と言っている。(坂井氏『承久の乱』)さらに、次期将軍には後鳥羽の皇子を請来するという事を考えていたのである。意外にもこれについては、母の北条政子始め鎌倉御家人一同が協力して動いている。その事から考えられるのは、「一族の骨肉の争い」に終止符を打ちたいという気持ちは鎌倉御家人の全員の共通したものだったのだ。
将軍を皇室から招き、自らは「幕府内院政」という立場で武家政治を行う。一方、朝廷で院政を敷く後鳥羽との連携を目指していたのである。場合によっては、実朝は政治は次世代に任せて上洛し、後鳥羽と歌合せなどを楽しみたいとまで思っていた節がある。このように、実朝の施策は後鳥羽の考え方と相いれるものだった。呪いの「官打ち」ではなく、二人の蜜月関係と解釈した方が辻褄が合う。
しかし、その実朝が暗殺されたのである。公暁という青年の愚挙が、歴史に多大な影響をもたらした。しかもその直後、御所が焼失する大事件が勃発する。鎌倉将軍が摂関家(九条家)から招くことに決定すると、京都においては、源三位頼政の孫源頼茂が将軍職を狙って反乱を起こす。後鳥羽が鎮圧軍を出したが、こともあろうに御所を燃やしてしまう。鎌倉の権力争いが、京都まで飛び火した形だ。この後、後鳥羽は御所再建に苦闘するが思うようにいかない。そもそも鎌倉の執権義時がしっかりしていればこんな事態にならなかったはずだ、と、考えるようになる。そして遂に、義時討伐の決意をする。決して倒幕ではない。思うような幕府にするために立ちあがったのだ。倒幕が目的ならば、頼茂の反乱に兵を出すことはない。繰り返すが、後鳥羽上皇は武家及び幕府を朝廷の支配下に置きたかっただけだ。
※ 源三位頼政 平氏政権の中でも重用された源氏の長老。以仁王と組んで平家討伐の兵を立ち上げるが、敗走し宇治の平等院で切腹。