アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

821 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後鳥羽上皇 ⑥

2021-04-13 09:06:56 | 日記

四、事件の経緯(終結)  時代を読めなかったという事か。

 

「乱」の経緯は概ね以下の次第である。承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は、鳥羽宮に「流鏑馬揃え」を口実に兵を集める。実は、予てから流鏑馬をしばしば実施しカモフラージュしていたものである。翌15日、上皇方が京都守護の伊賀光季邸を襲い、同時に義時追討の院宣を発する。この時点では上皇方は、院宣の力を信じ相当な御家人が参加すると読んでいた。一方、鎌倉には、早くも19日には京都から逃れた伊賀邸の家人が上皇挙兵を伝える。

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  ここで大混乱する鎌倉御家人を前にして、北条政子の有名な「大演説」が行われる。讒言に基づき理不尽な義時討伐の院宣が出て、我等鎌倉(すなわち武家社会)を滅ぼそうとしているというのだ。「故右大将頼朝、関東を草創以降の(中略)恩、山岳より高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ浅からんや。名を惜しむの族は、・・・・。」という涙ながらの大演説で方向は定まった。

 大事なのは、義時個人の討伐が、鎌倉幕府倒幕にすり変わったことである。この時点で、事件の顛末は定まったと言っても良い。もちろん、御家人の中には「鎌倉が勝てば鎌倉につき、京方が勝てば京方につく」と公言する者も多かったとも言われる。しかし、22日には東海道、東山道、北陸道の三方向から軍勢が出発し、18騎で出発したものが最終的には19万騎という大軍勢になったと『吾妻鑑』には書かれている。いささか誇張が過ぎる。早くも6月5日には戦端が開かれ6日には、岐阜尾張川付近で上皇方は大敗する。意外に兵が集まらず大混乱する上皇は、比叡山に登り僧兵の協力を求めるがこれも不調に終わる。6月13日、仕方なく宇治川の防衛に総戦力で当たるが、翌日には洛中に幕府軍がなだれ込む事態になる。鎌倉方の進軍が予想以上に早く、西国武士の多くが参戦する前に勝敗が決していたという。敗走して来た武将たちが、御所において「最後の一戦」を試みるが、なんと上皇は自らの保身に動く。門を固く閉ざし、早速「この度の乱は謀臣の企て」だと、幕府に使者を送る。しかし、乱後幕府はそれを許さず、三上皇を配流する。幕府軍総大将の義時の嫡子泰時は、京の六波羅に滞在し戦後処理と西国経営に乗り出す。上皇方の武将たちも尽く処断される。因みに、3000箇所の所領が没収され幕府方の御家人の恩賞として与えられた。

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 以上が事件の概要である。後鳥羽上皇、順徳上皇は配流が当然だが、土御門上皇は自ら配流を申し出たもので、その人柄がうかがえる。また、後鳥羽上皇の「保身」については、祖父である後白河上皇も同様の「保身」で、清盛、木曽義仲、義経、頼朝と手玉に取っている。その処世術に通ずるものであり特に驚くべきことではない。しかし、後白河と決定的に違うのは、後鳥羽は配流となった点である。泰時個人の討伐のつもりが、北条政子が鎌倉幕府の倒幕だと解釈させた機転にやられたのである。

要するに、時代を読めなかったという事だ。

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