アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

833  あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後水尾天皇  ④

2021-04-27 20:04:56 | 日記

 

④ 春日の局  遂に幕府に宣戦布告した。

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 従来からの通説では、差し迫った事情というのは、天皇の腫物による「鍼灸治療問題」だと言われている。腫物とは、腫瘍のことで民間では、「でんぼ・おでき」とも言う。現代なら外科手術で切除できるが、昔は良性のものでも熱や痛みを伴ったりすると命の危険さえある厄介なものだった。当時は、針灸がよく効くとされたが、玉体(天皇の体)に直接施術するのはタブーとされた。従って、譲位して自由な身となって治療を受けたかったというのだ。後水尾天皇は、基本的にはとても健康だったのだが、腫物ができやすい体質だったらしく、よほど悩ましい状況だったのだろう。因みに、叔父の八条宮智仁親王(桂離宮創設者)が同じ病で死去している。

 しかし、最近の研究ではそれは、譲位する「口実」であり、便宜的な理由でしかないという見方が有力だ。やはり本当の理由は前項で述べた「紫衣事件」である。しかし加えて、さらに許しがたい事件が重なった。それが「春日の局参内」問題である。以下、緊迫感ある経緯を時系列で書くと。

寛永6年 8月    幕府、天皇へ譲位の延期を要請

8月27日 和子女子出産(またしても徳川家血統の男子誕生の夢破れる)

           これを受けて、家光の乳母「お福」を使者にして天皇の実情を伺いに派遣決定

    10月10日 お福改め「春日の局」 御水尾天皇に拝謁し天盃を賜る

    10月15日 後水尾天皇から土御門泰重に密命降る

    10月24日 宮中で神楽 春日の局のみ見学(後水尾天皇参加せず)

    10月27日 土御門泰重に女一宮を内親王に叙すことでの調査指示   

    10月29日 女一宮を内親王に叙す

    11月 2日 中院通村を大納言に昇任

    11月 8日 公家衆に伺候命令  その場で譲位伝える。

 以上の経緯を眺めると、それまでの許しがたい状況に加えて、無位無官の武家の娘「お福」が幕府の使いとして参内することがきっかけになって、後水尾天皇がにわかに対応していることが分かる。因みに、お福とは、本能寺の変における明智光秀の第一の侍大将であった斉藤利光の子である。本来なら、「謀反人の子」なのだが、家光の乳母として大奥に揺るぎない地位を築いた女性である。簾内とは言え無位無官では天皇に拝謁できない為、急きょ「従三位春日の局 藤原福子」の称号を与えた。何故、これほど明智光秀ゆかりの人物を重用したのだろうか。「本能寺の変」を徳川家康の陰謀とする説は、このような事実から出ている。話を戻す。従来なら、このような重大決定は幕府に許可を取るか、せめて事前に伝えなければならない。その様な手続きも飛ばしている。

徳川秀忠 - Wikipedia秀忠

 遂に、幕府に宣戦布告したようなものだった。最後は、一人の公家とも相談せずおひとりで決断したようだ。しかし、もっと許せないことがあった。さらに続く。


832  あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 後水尾天皇  ③

2021-04-27 08:47:29 | 日記

 

3    紫衣事件  朝幕の力関係は幕府優先が確定した。

金地院崇伝 | 世界の歴史まっぷ黒衣の宰相 金地院崇伝

 さらに、「紫衣事件」という後水尾天皇の君主意識を傷つける事件が起こる。僧侶が身に着ける法衣・袈裟の色に「紫」を使う事は最高の地位を現わすもので古来より朝廷がその許可を出す。当然、朝廷の大きな収入源でもあった。ところが、慶長18年(1613年)の「勅許紫衣法度」と慶長20年(1615年)の「禁中並公家諸法度」で、幕府はみだりに朝廷が紫衣を授けることを禁じた。ところが、後水尾天皇は従来通り十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えていた。10年以上経て幕府は、なんと寛永4年(1627年)になって、法度違反だと多くの勅許状を無効にした。当然、幕府の突然の強硬な対応に朝廷は強く反対した。

 この事件の不思議なのは、最初の「法度」から14年、「禁中並公家諸法度」からは12年たってから何故ここで問題としたかである。この間、あえて幕府は黙殺し法度はずっと有名無実化していたのであり、当然紫衣を許された僧侶が複数いる事を幕府も将軍も知っていたのである。ここで登場するのが、金地院崇伝で、南海坊天海上人と並び江戸初期の幕府の政策全般に関わった政治家かつ高僧である。特に「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝は、この年(寛永4年)になり、江戸城で一つの覚書を提出する。その内容はつまり、「元和の法度」(慶長20年改め元和元年)以降の出世(勅許)を尽く無効としたというものであった。浄土宗だけでも29通の綸旨(勅許)が無効とされるもので宗教界はパニック状態に陥る。朝廷のみならず有名な高僧が次々に抗議し、大徳寺の沢庵宗彭和尚や玉室宗珀、江月宗玩が、「抗弁書」を提出した。崇伝は、「甚だもって上意にかなはず」として一蹴した。結果、沢庵、玉室の二人は配流と決まった。因みに崇伝は、この頃京都では、「天下の嫌われ者」と言われた。

大徳寺 山門「金毛閣」

 さて、後水尾天皇はこのことでどう対応したか。元和以来の多くの綸旨が無効にされ、大徳寺や妙心寺の高僧達が、不届きものとされ衣をはがれ、さらに流罪に処されたのである。言わば、天皇ご自身ののど元に刃を向けられたようなものであった。「主上にとってこの上の御恥はないとの儀」と細川三斎(忠興)は述べている。この事件は、勅許よりも法度、天皇よりも将軍が上であることを天下に知らしめたに等しい。まさに朝幕の力関係は幕府優先が確定したのであった。

 後水尾天皇は、再び譲位を武器に戦いを挑んだ。この時、天皇が詠んだ御製は、

「 思う事 なきだにいとう世中に 哀れ捨てても おかしからぬ身を 」 で、その無念がうかがえる。

ここで、重要な事は、中宮徳川和子との間に男子の誕生はあったが、いずれも早世であったことだ。女一宮(長女)のみが生育していたので、幕府は譲位を許すと徳川の血統は一代限りになってしまう事にある。なんとしても二人の間に健康な男子が誕生することが切望された。

 

 しかし、後水尾天皇にはもっと差し迫った肉体的「事情」があった。それを次回に書く。