71番 神光院 京都三弘法の一つ
京都市北区西賀茂神光院町120
山号 放光山
宗派 真言宗 単立
開基 慶円
本尊 空海像
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正伝寺から紫竹通りを南に車で5~10分ほどで神光院に着く。京都に空海ゆかりの寺院が多くあり特に「京都3弘法」として、東寺(教王護国寺)、仁和寺、そして神光院の3寺院は特別扱いである。しかし、創建は一番新しく鎌倉時代の1217年(建保5年)で、空海の活躍した平安初期からは400年後の事なのだが、本尊が空海自刻の弘法大師像なので「西賀茂の弘法さん」と呼ばれている。境内は自由に入れるが拝観寺院ではないので本堂など建造物には立ち入り出来ない。
山門横には「厄除弘法大師道」という大きな石碑があり門を入ると、すぐに小さな池と庭園がある。残念ながらお世辞にも手入れが行き届いているとは言えないが、茶室「蓮月庵」と大田垣蓮月ゆかりの石碑(「蓮月尼旧栖之茶室」と彫られてある)などが見学できる。江戸時代末期の女流歌人大田垣蓮月は晩年ここで隠棲した事で有名、京都観光検定的には、歌碑「やどかさぬ 人のつらさを なさけにて おぼろ月夜の 花のしたふし」が、ここ神光院にある事は必須だ。本堂は左手奥にあるが、外から手を合わせるだけで約10分ほどで一巡できる。
7月の「きゅうり封じ」は重要行事だ。同じ空海所縁の蓮華寺でも有名だが、こちらでも土用の丑の頃に、キュウリで体の悪いところを撫でて奉納すると、僧が秘伝の祈祷をしてくれる。秘伝というからどのようなまじないが施されるのか分からないが、ここから暑い夏に向けて伝染病や夏バテに打ち勝つように庶民の願いを受け止めてくれるのだろう。一説には、空海自身がきゅうりが嫌いで、それに悪い厄をすべて託そうとしたとも伝わる。
72番 等持院 きぬかけの道を行く
京都市北区等持院北町63
山号 萬年山
宗派 臨済宗天龍寺派
開基 足利尊氏
本尊 釈迦牟尼仏
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衣笠から龍安寺前を経て仁和寺に至る道を「きぬかけの道」と言う。宇多天皇が夏に雪景色が見たいと言うので、山(衣笠山)を白絹でおおったと言う故事に因んでつけたものだ。天皇とは言え我儘が過ぎると思うが、そのきぬかけの道の立命館大学衣笠学舎のすぐ裏に、等持院がある。
等持院は、足利尊氏の菩提寺として有名だが、三条坊門にあったされる等持寺との関係には諸説ある。尊氏が建立した等持寺の別院が現在の等持院である事は間違いないが、等持寺は弟直義と深く関わりがある為、喧嘩別れした舎弟の歴史を抹殺した可能性がある。近年の「室町ブーム」で専門家の研究が進むと面白い話かも知れない。さて、難しい話はさて置いて等持院の見所は、庭園と歴代足利将軍の木造そして墓地である。
そして、方丈から庭園へは降りて回遊できる。まずは、縁側で抹茶接待を受け、甘い菓子と渋い抹茶を頂きながら、「心字池」「芙蓉池」と茶室「清蓮亭(義政好み)」を眺める。見事に整備された絶景である。その後スリッパを借りて庭園に降りて散策する。宇多天皇ゆかりの衣笠山を借景にした趣向凝らした名園だと聞いていた。しかし、すぐ北側は立命館大学の校舎がずらり並んでいる。借景どころか眺めを遮断している。腹を立てるのは早計だ。京都の寺院の財政は苦しい。多くのお寺が工夫を凝らして経済基盤を支えて行かなければならない、幼稚園や学校法人を併設するのは巨大寺院にはよくある事だし、境内を駐車場にしたりもする。こちらは立命館大学に広大な敷地を貸して賃料をもらっているようだ。(諸説あり確認中)仕方ないか?
霊光殿に入る。薄暗いお堂の中には歴代の足利将軍の木造がずらり並んでいる。初代尊氏から15代最後の将軍義昭まで並ぶ。ただし5代と14代が抜けている。5代将軍義量(よしかず)は4代義持の長男で父の生前に譲位されて将軍になったが、大酒飲みで親より先に死んだ為、籤で選ばれる6代義教まで将軍空位の時代を招いてしまう。14代義栄(よしひで)は、13代義輝が「永禄の変」で戦国時代最強の「悪人松永久秀」に殺害された為に傀儡将軍にされ、朝廷から室町将軍として正式に就任した形跡がない。さらに義栄自身は京都にいた事もない。そして正面には、徳川家康の木造も安置されている。源氏の正当な後継者として無理やり系図を作成し足利家に継いで徳川家が武家の頭領である事を強調したかったのだろうか。
しかしその為、幕末にはとんでもない事が起こる。尊氏、義詮、義満の三代将軍の木造の首が斬られ鴨川の河原に晒される。「足利三代木造梟首事件」として幕末の象徴的事件となる。京都守護職松平容保は、幕府への反乱と考え、即刻犯人を逮捕し処刑している。さらに明治維新以降は皇国史観の中で足利家自体が国賊扱いされて行く。そのような等持院の重い歴史を考えながら帰路につく時、振り返ると日本映画の父、マキノ省三氏の銅像が見送ってくれた。等持院墓地には映画関係者の墓が多いのである。
73番 大仙院 大徳寺一番の塔頭寺
京都市北区紫野大徳寺町54-1
宗派 臨済宗大徳寺派北派
開基 古嶽宗亘
本尊 釈迦牟尼仏
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大徳寺は誰でも知っている。北大路通の堀川と千本通の中間あたりなので、京都駅からバスで30分、タクシーなら20分ほどで着く。境内は自由に通行できる。京都市内ではよくある光景だが、地元の人には生活道路でもあり堀川通り方面から紫野高校へは大徳寺内を通り抜けるのが近道である。上品そうな女子高生が寺院の境内を笑顔で通り抜けるのは絵になる。いくつかその塔頭を訪ねる事にする。
主な塔頭寺院を整理する。
塔頭寺院 |
創建・所縁 |
茶室 |
書院 |
絵画など |
その他 |
大仙院 |
古嶽宗亘 |
特別名勝庭園 |
方丈(国宝) |
大燈国師墨蹟 |
大徳寺北派 |
黄梅院 |
春林宗叔 |
昨夢軒 |
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雲谷等顔 |
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高桐院 |
細川三斎 |
松向軒 |
意北軒 |
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袈裟型の手水鉢 |
孤篷庵 |
小堀遠州 |
忘全席 |
直入軒 |
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露結 の手水鉢 |
聚光院 |
茶道三千家 |
閑隠席枡床席 |
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狩野永徳・松栄 |
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真珠庵 |
一休宗純 |
庭玉軒 |
通僊院 |
長谷川等伯 |
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龍光院 |
黒田長政 |
密庵 |
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耀変天目茶碗(国宝) |
塔頭で一番の格式は大仙院だ。大徳寺北派の総帥で本堂方丈は国宝である。大徳寺では最古の客殿遺構で創建当時の姿をとどめている。「玄関」とか「床の間」と呼ばれる国内最古の建造物である。庭園も国宝扱いで国の特別名勝に指定されている。枯山水庭園は禅の心を現わす奥深いものだが、本稿はそれを語るのが目的ではない。禅僧から「喝」が入るだけだ。
ただし、国宝の方丈と特別名勝の庭園の組み合わせは、必見のお寺である。南側は「大海」を現わし、西側の白砂の簡素な庭、そして東側にまわると「大河」を現わす大きな枯山水庭園が広がり廊橋をまたいで数々の石組の変化が楽しめる。平安時代に書かれた『作庭記』(橘俊綱)にあるような技法が使われているらしい。一説には草木のない枯山水になったのは明治以降だと言われる。
何も考えずしばし幽境の世界に浸りたい。
74番 聚光院 茶道三千家ゆかりの聚光院
京都市北区紫野大徳寺町58
開基 三好善継
75番 真珠庵 一休さんゆかりの真珠庵
京都市北区紫野大徳寺町52
開基 一休宗純
大徳寺は、山門である金毛閣など自由に眺める事は出来るが、塔頭寺院については、拝観できる寺院が受付で表示されている。大体の寺院が拝観できないので注意して行く。なお、塔頭寺にはほぼ全部に茶室があり「大徳寺の茶面(ちゃずら)」と呼ばれる。因みに、建仁寺は「学問面」、妙心寺は「ソロバン面」、南禅寺は「武家面」など、それぞれの特徴を言い表しているのである。境内最北にあるのが、芳春院。加賀前田家の寺だ。実質の創設者前田利家の妻まつの法名が寺院の名前になっている。その南に大仙院。さらに南西方向に聚光院がある。寺名は三好長慶の法名であり三好家の菩提寺だが、茶道三千家の墓があることで有名だ。重要文化財の茶室「閑隠席」の一室は利休自刃の部屋とも言われる。また、方丈庭園は利休が石組をしたもので「百積の庭」という国の重要文化財に当たる名勝庭園である。注目は狩野松栄・永徳親子の国宝指定の絵画の数々だ。永徳の「花鳥図」「琴棋書画図」松栄は「瀟湘八景図」「竹虎遊袁図」などがある。残念ながら筆者は実物を見たことはない。
真珠庵は、おなじみの一休宗純を開祖としている。一休さんは、トンチで有名だが実は大徳寺を復興させた功績で今日まで言い伝えられているのだ。真珠庵も茶室と庭園が見どころだ。 茶室は金森宗和好みの「庭玉軒」であり、庭園は侘茶創設者の村田珠光作と伝わる「七五三の庭」だ。禅の極意を現わす七五三の石を配置した枯山水庭園である。国宝は、「大燈国師墨蹟」を有する。さらに真珠庵の凄いのは重要文化財の豊富さである。画僧墨渓や長谷川等伯の襖絵など国宝級のものが多い。また、一休禅師ゆかりの墨蹟・絵画・木像などあり時々一部公開している。一休さんの墨蹟で「諸悪莫作(しょあくまくさ)衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」は、悪い事はするな、良い事をせよという意味らしい。「そんなことは分かっています。」と弟子が言ったら、一休さんが「喝!わしは未だに出来ていない。」と言ったと聞いた事がある。先日公開日があり行ってみたら、「釣りバカ日誌」の北見けんいち氏の漫画や、テレビゲームのアートディレクターのイラストなど現代芸術の襖絵が公開されていた。たまに、本来の襖絵の修復中などに現代作品の展示に使われる事がある。まさに「今風」だが、なぜか古刹の方丈にも相応しく見えた。古風な風景と共に楽しんだのだった。
76番 峰定寺 修験者のお寺
京都府京都市左京区花背原地町772
山号 大悲山
宗派 本山修験宗
開基 観空西念
本尊 十一面千手観音座像
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ここからは左京区に入るが、まずは京都市内の北東の果てにある峰定寺に行く。このシリーズでは西北の金蔵寺、東南の金胎寺・笠置寺と共に難所と言える。市内の中心通り烏丸通をまっすぐ北に上がりドン突きを鞍馬街道に入りさらに北上する。市内から車でここまで30分ほどだが、さらに小一時間山道を行く。途中すれ違うのも困難な隘路を行くことになる。
京都は北部に通じる街道が3つあり鯖街道とも言われる若狭街道は、大原を経て日本海まで行く。また周山街道は高雄・栂尾・槇尾を経て京北に行く。今回の鞍馬街道は、鞍馬・由岐神社などを経て美山に行くが、そのまま周山街道にも通じる。こちらは程よいドライブコースだ。
さて、峰定寺へ、山門横の方丈に受付があり住職の奥さんが説明をしてくれる。こちらは修行の場なので、財布以外の持ち物はここに置いて行ってもらいますと、毅然とおっしゃる。特に携帯は写真を撮ることが禁止なので必ず出してくださいとも言われ、巡礼のズタ袋のようなものを渡されそこに財布だけ入れて杖を2本借り覚悟の上、山門を目指した。登り降りに30分、本堂前で瞑想を10分して戻るようにとのご下命だ。1時間以上経っても戻らなければ救助に向かいますと言う。呼吸を整えお経を唱えながら岩場を登る。確かに修行だ。息が上がったところで鐘楼堂にたどり着き鐘を一度だけ突く。あとで聞いたところ熊が出るので警告の鐘なのだそうだ。さらに息も絶え絶えになった頃、見上げるとずっと見たかった懸崖造りの本堂が見える。清水寺の舞台と変わらないその見事に組み上げられた柱が見えた。一瞬疲れも消えて、本堂に上がり舞台から眺めた景色は絶景だ。山並みが遠くまで見通せて、背後には切り立った崖が迫り、すぐにここが修行の場だと分かる。本堂内は見えないが厳かな霊気が漂う。舞台右奥の神仏に備える水が湧き出る有名な井戸「閼伽井屋」を見る。現存最古の遺構である。本尊は十一面千手観音座像で、鳥羽上皇が皇后待賢門院に似せて彫らせたと言う妖艶な姿は現在は収納庫の中だ。祖父白河上皇と孫鳥羽天皇の二人の天皇に愛された悲劇の美女とはどんな姿だったのか、夢想しながら澄んだ空気がご褒美の舞台の高縁に座りしばし深呼吸する。旧国宝で現在は重要文化財を独り占めだ。呼吸していると世界を独り占めしている感覚に襲われる。秘境の寺院を訪ねる至福の時がこのような瞬間だ。
救助が来ないうちに下に降りる事にした。しばし住職の奥さんと歓談する。創建は平安時代末期の修行者の三瀧上人で、その後、鳥羽上皇の勅願を得て堂宇が整った。奈良県の大峰山と並び北大峰とも言われる修行の地である。また、政争で敗れた重要人物の隠里でもあり途中鹿ケ谷の陰謀の首謀者俊寛和尚の眷属の供養塔があった。奥さんは話相手が欲しかったのかずっとしゃべってくれる。冬は3~4mの積雪になるのだそうだ。そのような中で歴史的寺院を維持する苦労を語ってくれた。一方、近くに「美山荘」というミシュラン5つ星の高級料理旅館が来て流行っていることを批判していた。地元の安い食材で作った料理を高級っぽくしているだけだと言う。地元住民の意識はそのようなものだ。
寺宝である仏像群の話や有名なご神体である「3本杉」の話などお聞きしているとキリがないので十分に感謝の意を表明し退散した。下山中も心地よい空気が御馳走だ。前出の「美山荘」の玄関から出て来た女将のような妙齢な女性と出会う。勇気を出して「お昼頂けますか。」というと、「ご予約様のみです。」との事。
77番 実相院 床もみじを見に行く。
京都市左京区岩倉上蔵町121
宗派 単立寺院
山号 岩倉山
本尊 不動明王
開基 静基
別称 岩倉門跡・実相院門跡・岩倉実相院
京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。
岩倉に戻り、いよいよ洛北のお寺を巡る。実相院は枯山水庭園と床緑(床もみじ)が主目的である。鎌倉時代の創建だが、江戸時代初期に後陽成天皇の時、この寺に入山していた室町幕府最後の将軍義昭ゆかりの女性が親王を儲けた事から一気に皇室との関係が深まった。後水尾天皇や東福門院和子もしばしば訪れた。因みに修学院離宮も近い。またその後、東山天皇の中宮宜秋門院から自らの住まいである大宮御所の建物を賜り今日に伝わる。その遺構の一つ、山門の四脚門をくぐり車寄せそして客殿に入る。
堂内はそう広くなく、すぐにお目当ての床緑が見える。撮影できないのでその前の座布団にしばらく座りその情緒を堪能する。黒光りした光沢のある床に移る青葉の見事さに感動する。後ろに安置されている本尊不動明王を拝み。高縁から枯山水庭園を見る。いずれも紅葉の季節に訪れたい。
洛北のお寺は多くが名園を保有している。難しい講釈は抜きに心の安らぎを求めに行きたい。次はすぐそばの圓通寺へ行く。
78番 圓通寺 元祖借景庭園
京都府京都市左京区 岩倉幡枝町389
山号 大悲山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 聖観音
開基 文英尼公
別称 幡枝御所
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圓通寺も庭園が必見の寺だ。実相院からは車で5分ほどで着く。近くには宝ヶ池など散策場所も多く昔から富裕層の居住地域でもある。
瀟洒なたたずまいの地域に広大な敷地を誇る圓通寺だが、見どころは比叡山を借景にした方丈前庭園だ。借景庭園の王者と言っても過言ではない。本尊の聖観音像のある本堂から比叡山の方向に平面の庭園が視野に広がる。高縁の柱やまっすぐ伸びた杉の大木を通して見ると、あたかもそれぞれ額縁に収まったような絶景である。この景色を見る為だけに来たと言っても過言ではない。
ここは、後水尾上皇が営んだ「幡枝御所」のあとで、近くの修学院に離宮を完成させた後、門跡寺院として正式に禅寺とした。上皇からは大悲山圓通寺の勅願を賜り、その後霊元天皇の庇護厚く大いに発展した。本尊の左右には江戸時代後半の天皇の位牌が並ぶ。
受付に座る住職としばし歓談する。やはり皇族とは関係が深く、上皇(平成天皇)・上皇后陛下の退位式典にも招かれたらしく、その時、陛下には「退位後は京都にお戻りいただくよう申し上げた。」との事だった。もとより筆者も賛成だ。空気の悪い千代田の地ではなく現在も「王城の地」である京都に「還幸」してもらいたいものだ。皇室関係の話題で大いに盛り上がり、5月始まりの新天皇の「令和カレンダー」を購入して気分よく本日の訪問を終えた。
因みに京都では、東京遷都は正式には発表されていず、今でも天皇は一時東京に行幸しているに過ぎないと解釈している。1200年以上の平安京の歴史からすれば、明治以降120年など大したことではない。なにせ「先の大戦」とは、「応仁の乱」なのだから。
79番 妙満寺 雪月花の内、雪の庭を見に行く。
山号 妙塔山
宗派 顕本法華宗
開山 日什
本尊 三宝尊
洛中法華21ケ寺
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洛北には数少ない法華宗寺院である。洛中法華21ケ寺の一つであり開山の僧日什が、室町時代に六条坊門室町に法華堂を建立したのが始まりだ。その後の変遷は、多くの法華宗寺院がそうである通りで、火災によりすぐ綾小路東洞院に、応仁の乱後は四条堀川に、そのあと有名な「天文法華の乱」で多くの法華宗寺院と共に泉州堺に移る。その後、後奈良天皇の許しを得て四条堀川に復帰する。そして秀吉の命令で寺町に移り幕末の禁門の変まで何度も火災に合うが復活し、現在の岩倉の地には戦後で昭和も43年になってからだ。現代の寺と言っても過言ではない。近年はつつじの花が数千本植えられ「花の寺」とも言われる。
見所は、方丈内の「雪の庭」である。松永貞徳作庭のこの庭園は、京の「雪月花」の3庭園の一つである。清水寺の「月の庭」と共に二つのみが現存している。いずれも成就院という名の塔頭にある。因みに「花の庭」は北野成就院にあったが現在は廃寺となっている。妙満寺の雪の庭は清水寺と比べると小規模だが趣向を凝らした手の込んだ中庭で本当に雪が積もったら写真マニアが殺到する。
また、こちらは安珍清姫伝説の『鐘』を保有している。紀州道成寺から秀吉家臣の仙石秀久が京都に持ち帰る時に、そのあまりの重さで途中投げ出したものを妙満寺が引き取った。実物を拝見できるが、そんなに巨大なものではなく鐘の中に変身した清姫が閉じ込められるほどの大きさではない。
筆者は、12月8日の釈迦が悟りを得た事を祝う「成道会」の日に訪ねて「大根炊き」の接待を受けたことがある。お揚げと大根の質素なものだが寒空には有難かった。境内は広く、仏舎利大塔や巨大な方丈など新しい建造物が多く、歴史というより法華信仰者の多さと資金力を感じた。
80番 宝泉院 天然記念物の五葉松を見に行く。
京都市左京区大原勝林院町187
山号 魚山
宗派 天台宗
開基 宗快
本尊 阿弥陀如来
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遂に、京都大原にまで足を伸ばす。三千院など見どころの多いエリヤだが大寺院を紹介するのは本意ではない。すぐ隣の声明の寺、勝林院と宝泉院を訪ねる。
まず、宝泉院の見所は二つだ。「血天井」と「五葉松」である。いずれも京都検定的には必須の項目である。このシリーズでも紹介したが、関ケ原の戦いの前哨戦で京都伏見城を守った家康の筆頭の家臣、鳥居元忠が少人数で石田三成に対して籠城戦を戦い、そして敗れたものの時間を稼いだことで、関ケ原の大勝利をもたらす。その功績を称え、遺徳を偲び、自刃した武将たちの血痕の残る伏見城の床の板を、市内数か所の寺院の天井に使っている。養源院・興聖寺・正伝寺などいずれも100寺に入っている。
「五葉松」の方は、金閣寺の「陸舟の松」善峯寺の「遊龍の松」と並び天然記念物であり「京の三名松」という。こちらの「五葉松」は上層部が滋賀の「近江富士」の姿に似せている立派な枝ぶりで、方丈の庭園から眺める下層部の枝ぶりも見事なものだ。しかし近年の気候変動の被害で絶滅の危機にあっている。従って残念ながら養生の為の白い布が巻かれていた。それでも「額縁の庭園」と呼ばれる本堂から柱越しに眺める眺望は格別だ。盤桓園・鶴亀庭園・宝楽園の3庭園を保有する。
寺の創建は鎌倉時代で勝林院の僧坊の一つとして発展した。狭い本堂・方丈内だが、ぼんやり庭を眺めるとしばし時間を忘れる。