アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

406 アチャコの京都観光日誌 新シリーズ アチャコの京都歳時記 ㉒ 長建寺 弁天祭

2018-07-22 18:01:47 | 日記

722日 長建寺  弁天まつり

「島の弁天さん」の画像検索結果長建寺

京都には有名な弁財天がいくつかある。本日紹介する長建寺は、伏見区にあるが、京都では比較的新しく、創建は1699年で、中書島の開拓にあたり弁財天を祀ったのがその起こりだ。銭儲けという典型的な現世利益を願う弁天さんは、筆者は、江戸時代に流行ったのではないかと思っている。常に命の危険にさらされていた太古の昔は、むしろ死後の平安を願う(来世利益)が宗教の本願であった。それが戦争もなくなった江戸時代には当然のように生きている間の幸福(現世利益)中心になったと思う。

「島の弁天さん」の画像検索結果

「島の弁天さん」と呼ばれ親しまれる。その弁天祭は、夜、多くの僧と行者による柴燈大護摩供養が行われる。

「島の弁天まつり」の画像検索結果

その弁財天のお寺を以下に紹介する。なお弁財天を本尊にするお寺は珍しい。


出町妙音堂は、青龍妙音弁財天の画像が本尊だ。出町柳駅から近く、京都・京洛七福神巡りにもなっている。

「出町妙音堂」の画像検索結果

白雲神社内の「御所の弁天さん」と呼ばれる弁財天は、西園寺家ゆかりの神社の中に祀られている。(正確には京都御苑北部にある。)

「白雲神社」の画像検索結果

三千院の弁財天。珍しくお堂の中ではなく境内に祀られている。散策の途中お参りが出来る。

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曼殊院は、左京区修学院の天台宗門跡寺院だが、ここにも弁財天が祀られている。拝観料が必要な曼殊院だが、弁天さんだけなら無料でお参りできる。

「曼殊院弁財天」の画像検索結果

六波羅蜜寺の弁財天は立派なお堂に入っている。京都の七福神で一番メジャーである都七福神に選ばれているので訪れる人は多い。

「六波羅弁財天」の画像検索結果

以上、主な弁財天を書いて見たが、まだまだたくさんあるので機会があれば「七福神特集」などやって見ようか?

「六波羅弁財天」の画像検索結果


405 アチャコの京都観光日誌 新シリーズ アチャコの京都歳時記 ㉑ 法金剛院  観蓮会

2018-07-21 13:17:16 | 日記

721日 法金剛院 蓮花鑑賞 7月第2土曜から8月初旬まで

130706 Hokongoin Kyoto Japan14s3.jpg

この時期京都の各寺院で、自慢の草花を鑑賞させるお祭り?が、あちこちで行われる。先日の三室戸寺の「蓮酒を楽しむ会」に引き続き、ここ法金剛院は「観蓮会」(かんれんえ)と言います。

「法金剛院 観蓮...」の画像検索結果

JR花園駅降りて妙心寺と並ぶように、双ヶ岡のふもとにある。平安初期の貴族の山荘だったのを、待賢門院が再興した。待賢門院についてはこのブログでは何度も書いた。幼児の時から白河上皇に育てられ、そして女にされて上皇の孫の鳥羽天皇のお后となった。あろうことかその後、白河上皇の子を産み、鳥羽天皇との子として育ててそれが崇徳天皇となる。鳥羽天皇から見れば叔父でありまた子である崇徳とは、相いれない関係となる。その事が保元の乱のきっかけとなるのだ。

「待賢門院」の画像検索結果待賢門院

「歴史の裏に女在り」待賢門院は他に歌人西行や少なくとも数人の男性との関係も噂されている。

その待賢門院が晩年過ごしたお寺だ。蓮の花以外にも、アジサイや菖蒲・ナツツツジ、菊・紅葉も美しく「花の寺」で有名だ。本尊阿弥陀如来坐像は丈六の立派なもので、平安末期の、院覚という仏師が彫った定朝様の相当存在感のある仏像だ。見どころはやはり特別名勝庭園だが、特に青女の滝は滝石組の最古の遺構である。残念な事に水はほぼ枯れている。また、背景の山は訪れた天皇が余りの見事さに、山でありながら「位」を授けたという「五位山」である。粋な事をするものだ。

「法金剛院」の画像検索結果青女の滝「法金剛院」の画像検索結果蓮の池「法金剛院」の画像検索結果阿弥陀如来


「法金剛院歌碑」の画像検索結果
そして待賢門院堀川の歌碑

ただし池泉回遊式庭園の池の向こうのマンションが日差しを遮る。歴史的建造物の景観には特別な配慮をお願いしたいものだ。

普段訪れる人の少ないお寺なので、ぜひこの時期行って見たい。


404 アチャコの京都観光日誌 新シリーズ アチャコの京都歳時記 ⑳ 下鴨神社 みたらしさい

2018-07-20 07:58:30 | 日記

720日 下鴨神社 「足つけ神事」 みたらし祭

本日京都は遂に有史以来最高温度を記録するだろう。39度越えだ

筆者はすでに夏バテだ。

「足つけ神事」の画像検索結果「足つけ神事」の画像検索結果

土用の丑の日はいつ頃から「鰻の日」になったのか?鰻が庶民の食べ物になったのは江戸時代だろうし平安の時代から食していたというものの、貴重な食材だったはずなのに・・・。

「鰻」の画像検索結果

さて、京都には誰でもが参加できる祭が多い。祇園祭・葵祭・時代祭の京都三大祭は、エキストラや引手でアルバイトでもしない限り見物する祭りだ。しかし「足つけ神事」は一般人が参加することで成り立つ。

この時期はやはり疫病退散が目的である事が多い。この祭も平安貴族が、禊を行い悪しきを払ったものが庶民に伝わったものと考えられる。下鴨神社の「御手洗川」に足先をつける。湧水なので冷たく「ギヤ―!」と声があちらこちらであがる。

「足つけ神事」の画像検索結果

御手洗に足をつける?細かい事は気にせず・・・・。ろうそくと脱いだ靴をもって、川の中を歩いて摂社御手洗社の正面にろうそくを奉納し祈る。最後に冷たい御神水を頂き神事を終える。御祭神は瀬織津姫だそうだ。

瀬織津姫は、天照大神の同一神で荒ぶる神とされている。確か橋姫伝説の嫉妬深い妻が夫を呪い殺すのを手助けした神様だ。どうも京都は怖くて強力な神様に、ご機嫌を取りながらお願いごとをする傾向がある。

「瀬織津姫」の画像検索結果


やっぱり帰りは「うな重」で昼食だ。



403 アチャコの京都観光日誌 新シリーズ アチャコの京都歳時記 ⑲ きゅうり封じ

2018-07-19 08:38:40 | 日記

719日 きゅうり封じ 蓮華寺ほか

きゅうり封じとは、土用の丑の日の前後に行われる厄除けの行事だ。

「きゅうり封じ」の画像検索結果

祇園祭同様、この暑さが始まる時期には、病除け、厄除け、怨霊退散の行事が目白押しである。衛生観念の無かった古代には、ただただ神や仏にその願いを託した。仏教では特に「祈祷」を重視する真言宗にそのような行事が多い。

「きゅうり封じ祈...」の画像検索結果

きゅうりは、特に栄養価が高く疫病退散の効果もあると信じられていて、空海が一切衆生病苦・悪業の根を断ち切って病気からのがれ、長生きし安楽に往生できるように願いを込めて行われた秘法が始まりだった。蓮華寺においては20日の土用丑の日には今でも秘法厳業の日となっている。


庶民は、キュウリに名前や年齢を記入し真言経を唱えながら体の悪い部分をなでる。その後土に埋めるか川に流すかで治癒すると言われる。

ごく簡単な行事である。

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因みに、祇園祭ではキュウリは食べない。八坂の神文がきゅうりの断面に似ている事から、遠慮するのだそうだ。この時期京都市民はきゅうりをあらゆる場面で崇拝する。(食べるの食べないの??)

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やっぱり土用の丑は、「鰻」で決まりだろう。

「きゅうり封じ祈...」の画像検索結果

蓮華寺は右京区の御室にある真言宗の寺院である。他に天台宗にも蓮華寺があり混同しやすい。(こちらは江戸時代加賀前田藩の今枝民部が再建した事で有名だ。)

他にきゅうり封じのある真言宗の寺では、神光院が有名だ。神光院は、太田垣連月の歌碑でも有名である。

「神光院」の画像検索結果


402 アチャコの京都観光日誌 新シリーズ アチャコの京都歳時記 ⑱ 神幸祭

2018-07-18 09:10:38 | 日記

7月18日 (17日深夜) 八坂神社神幸祭

八坂神社は、スサノウノ命を主祭神とし、その妻櫛稲田姫命と8人の王子の3柱を祀っている。その3柱を祭の間中、神輿に御魂を移し奉る。

神輿洗いで清めた神輿に、御魂を移すと八坂神社の本殿に神様はいない事になる。この日各氏子町を清めて回った3基の神輿は御旅所に24日の還幸祭まで留まる。この一連の神事を神幸祭という。

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スサノウノミコトとは、すべての神の母親イザナミノミコトの4人の子の末っ子で天照の弟とされる。荒ぶる神と言われ高天原で暴れ天照の「天の岩戸の神隠れ」の原因となった。一方、出雲の国では八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治する英雄となり、そこで見つけた絶世の美人である櫛稲田姫を妻にする。その時の、

八雲立つ  出雲八重垣   妻籠に   八重垣作る   その八重垣を
やくもたつ いずもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを

と、読んだ歌が日本の和歌の最初と言われる。

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スサノウは、仏教では牛頭天王となり、奥さんは頗梨采女(ハリサイジョ)、そして8人の子がいる。祇園祭で配る粽に「蘇民将来の子孫也」と必ず書いてあるのは、以下の伝説による。

「その昔、牛頭天王が嫁探しの旅に出た時に、ある村で一夜の宿を請うた所、兄の古単将来は断り、弟の蘇民将来は喜んで応じてくれた。その帰路古単の一族は皆殺しにされ、蘇民の眷属一同は将来にわたり栄えたという。従って庶民はみんな「蘇民将来の子孫」ですと言って幸せを願った。また一説には、古単の妻は蘇民将来の娘だった為に助命されたので、「私も蘇民将来の子孫(娘)」ですとしたともされる。」

「蘇民将来子孫也」の画像検索結果

このように3基の神輿の「渡御」こそが祭の本質であって、山鉾巡行はあくまでも町衆の風流なのである。本来は祟りをなす怖いはずの、しかも最強の「荒ぶる神様」にあえて、疫病の退散を願う事にしたのだ。その神様に祟らないようにご機嫌を取ろうとしてあらゆる風流を企画した庶民感覚を理解しないと祇園祭の華やかさを理解できない。

今日から還幸祭まで、寺町の御旅所には「無言参り」の花街の人で賑わう。家から御旅所まで一言もしゃべらずお参りし、無言で帰ると願いが叶う。

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