アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

327 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 97代 後村上天皇 悲運の天皇 本日御命日

2018-03-29 13:06:35 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

97代 後村上天皇

 

先帝

後醍醐天皇

次帝

長慶天皇

生年~崩御

1328年?  ~  1368年3月29日

在位

1339年9月18日~1368年3月29日

在位中年号

延元・興国・正平・

御所

住吉行宮・吉野行宮・賀名生行宮・男山八幡宮行宮・金剛寺行宮・観心寺行宮

御陵

檜尾陵

父・母

父 後醍醐天皇 母 阿野廉子(新待賢門院)

※    本日は、当該天皇の御命日である。こんな偶然あるだろうか?(合掌)

 

醍醐・村上天皇の時代(延喜・天暦の治)に憧れた先代後醍醐天皇が、自ら追号に選んだ。従って、当然次代は、後村上天皇である。しかし二人とも終生戦場に身を置くことになる。

後醍醐については次回以降詳しく書くが、後村上天皇は、多くの兄弟親王を戦場や暗殺によって亡くし、くしくも南朝2代目の地位を継ぐことになった。吉野から京都に還幸する事10回に及び、結局都から遠く離れた地で生涯を終える。

Kitabatake Chikafusa.svg北畠顕家.png北畠親房・顕家親子

後醍醐天皇第7皇子の義良(のりよし)親王が、後の後村上天皇だが、わずか5歳で北畠親房の子顕家と共に奥州多賀城に赴任していた。東北地方の不穏な動きをけん制する為、遠く陸奥の地に朝廷の権威を置いたのだ。結果、建武の親政の大混乱の戦場から離れていた為命を保った。その後、尊氏の謀反により比叡山に戻り、そこで元服する。一旦多賀城に戻り、そこも襲撃され、各地で戦場を潜り抜け吉野に至る。その後またまた多賀城に戻る時に、伊勢沖で船が難破して急死に一生を得て吉野に戻り、そこで立太子する。すぐに高師直の襲撃を受けて紀伊に逃れる。しかし観応の擾乱により尊氏・直義が南朝に降り京都を目指す。しかし尊氏の子義詮に反撃され賀名生に逃れる。この間10回京都還幸を果たすも生涯戦場にいて、現在の大阪河内長野辺りで崩御した。

賀名生行宮あと

如何ですか。これが天皇の生涯でしょうか。元は父後醍醐天皇の政策の失敗によるとは言え、中世の動乱に翻弄されただけの御生涯であった。

尊氏・直義・義詮そして楠木正成・正行、北畠親房・顕家などの太平記に登場の英雄豪傑が活躍した歴史の大節目にいた天皇だったのだ。

天皇の死の前後にみんな世を去り、時代が大きく転換するその前夜にいたことも間違いない。

なお、この間京都周辺は、大地震にも見舞われ、飢饉も続き民衆の困窮は窮まっていた。世間は地獄の様相を呈していた。

次回から、いよいよ後醍醐天皇。数回にわたることになる。


326 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 98代長慶天皇 現代になって認められた天皇

2018-03-29 12:25:32 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

98代 長慶天皇  現代になって認められた天皇

「長慶天皇」の画像検索結果

先帝

後村上天皇

次帝

後亀山天皇

生年~崩御

1343年?~1394年8月27日

在位

1368年頃~1383年頃

在位中年号

正平・建徳・文中・天授・弘和・

御所

住吉行宮・吉野行宮・天野行宮・栄山寺行宮

御陵

嵯峨東陵

父・母

父 後村上天皇 母 藤原氏

 

昨日のニュースで、今上陛下・妃殿下が沖縄に慰霊の旅に出られた、と聞いて思わず涙した。在位中の訪問はこれが最後と思われる。しかも、高齢であり、特に美智子妃殿下は頸椎のヘルニアが酷く激痛に悩んでおられるのである。日本人が、いつも皇室への敬意を無くさないのは、どんな時でも、天皇皇后両殿下が、日々国民の安寧のみ願っておられるのが分かるからである。

さて、長慶天皇である。何と、正式に98代天皇に認められたのは、大正の時代になってからだ。長く即位した形跡を認定されずにいたのだ。後醍醐天皇の直系の孫であることは間違いないのだが、吉野の山中で生まれ多くの人生を隠遁生活に終始した。

従って、御所はなくすべて「行宮」(行宮とは本来旅先・遠征先の天皇の行在所の事)となっている。また、即位の真偽についても、江戸時代に水戸光圀が「大日本史」の中で、即位を主張したが決まらず、結局明治以降の学者の判断まで待たねばならなかった。大正15年遂に、勅書をもって正式に98代長慶天皇として皇統に加わった。従って、在位中の業績や功績は何も残っていないが、次の後亀山天皇が南北朝統一に同意し、天龍寺に入った時、それに従わず終生吉野にいたと、伝わる。

「楠木正儀」の画像検索結果正成の3男で相当な戦略家であったらしい。

即位後、すぐ南朝のシンボル的武将楠木正儀が、和平派に転じ北朝に降った。あろうことかその正儀を主将に北朝方の攻撃にあって、数少ない配下の武将70名以上が打ち取られ、天野行宮から吉野に還幸する羽目に陥ったり散々な目にあっている。

長慶天皇の親署天皇の親書に力強さが見える。

記録にはほとんど残っていない天皇だが、強靭な意志の強さがうかがえる。

「長慶天皇」の画像検索結果

あくまでも後醍醐天皇の遺言に従って、北朝に屈しなかったのである。

次回は、いよいよ南北朝動乱の中心人物、後村上天皇そして後醍醐天皇の登場へ