④ 尊号一件 天皇の願いは叶わなかったが戦いは大勝利?
写真 ウキペディア 閑院宮典仁親王
尊号事件とは、光格天皇の実の父君である閑院宮典仁親王が、天皇の実父でありながら朝廷での席順が、古来より三公(※)の下であり、さらに、「禁中並公家諸法度」によってそのように定められていたことを光格天皇が問題視したことだ。これを解決するためには、禁中並公家諸法度の改定か典仁親王に尊号を贈るしかなかった。尊号とは、太上天皇の事で、普通は譲位した後の天皇に与えられるものである。因みに天皇にならず尊号を贈られた例は2例しかなく、承久の時代の後高倉院(守貞親王)が、子の茂仁親王が後堀河天皇になったことで贈られた例(第1章参照)と、南北朝時代に北朝の後崇光院(貞成親王)が、後小松天皇の猶子となり子の彦仁親王が後花園天皇となったことにより贈られた2例のみである。光格天皇は、前例があることを理由に執拗に幕府に対して尊号宣下を許可するよう迫ったのである。強硬な交渉という言わば戦いと言うより、執拗な心理戦が繰り広げられた。
光格天皇 ウキペディア
引き続き藤田覚氏の『光格天皇』を中心に見て行くと、光格天皇は、即位後早い段階から尊号宣下への強い思いを示されていて、天明2年、天皇12歳の時にその意向を表明されている。天皇が幼い事もあり、幕府は事実上無視した。そして、寛政元年2月、天皇の意思を受けて武家伝奏(※)が京都所司代に伝え、さらにそれを江戸老中に伝わった事で、遂に表向きの戦いが始まる。寛政元年は光格天皇19歳の時である。
蘆山寺 閑院宮輔典親王の墓地がある。
この事件で注目すべきは、「寛政度御所再建」の時以降、関白鷹司輔平と老中松平定信がしばしば書面でやり取りしている事である。従って、この時までの光格天皇の様子はかなり定信に伝わっていたようで、幕府(定信)は、予期していたように早々に体よく拒絶している。以降幕府は同様の回答を繰り返す。
遂に、寛政3年8月、天皇は関白輔平を事実上解任する。交渉における天皇への御不興を被った形で辞職に追い込んだのだ。後任は幕府に不満を持つ一条輝良となり、その直後、光格天皇は自ら参議以上の諸公卿に諮問(勅問)した。今で言うアンケート形式の答申の結果は、反対は2名だけでそれはすでに前関白となっていた鷹司輔平親子のみだった。一方、賛成派は、「その鼻息概して荒きもの多い。」という状況だった。光格天皇はこの結果、一層その意を強くしたのだ。
その天皇の強い戦いの意志に対して、定信は最終判断を迫られる。京都所司代に返答し、「もし、宣下の儀(強行)すれば、関白・議奏の類は誅罰取り計らう。そして閑院宮にはご辞退いただく。」こと、つまり、無理に行えば関白始め天皇周辺の公家を罰する事、さらに父君である閑院宮ご本人には自ら辞退していただくと通告してきた。そしてそれは「極意の事なり」と強い意志を伝えて来た。それでも、光格天皇は武家伝奏を通じて京都所司代に宣下を強く督促する。その内容には、父閑院宮典仁親王が、「昨年冬に中風を発症し改善しつつも此の節再び発症した。」ことを伝えて、尊号宣下の件を「猶更御心急ぎに思し召され候」と、閑院宮の高齢(59歳)と病気を理由に天皇の本気度と焦る気持ちを伝えている。しかし、すでに方針を固めていた幕府はこれに対しても、肝心の返事はしなかった。そこで遂に、朝廷(天皇)は期限を区切り高圧的に尊号実行を宣言した。宣戦布告のようなものである。それに対して幕府は、尊号宣下について議論するより、尊号論の天皇側近の巨魁・急先鋒を江戸に呼び出し、それを処分する方針を決める。
ここに至り遂に、やむなく朝廷(天皇)は尊号宣下を見合わせる。光格天皇が、「万斛の恨みを呑む。」その代わりに、処罰されるであろう3卿の江戸下向の拒否で、「御憤懣の万が一を癒させ給う。」としたもので、つまりは尊号宣下のみを諦める事で決着しようとした。また、ここで後桜町上皇が、側近を通じて、「御機嫌よく、穏やかに、御代御長久に在らせられ候が、第一の御孝行さまと覚しめし候故」(機嫌よく穏やかに長く天皇の勤めを果たすことが親孝行ですよ。)と、間接的ではあるが光格天皇を諭している。光格天皇への後桜町上皇の関係性と影響力の大きいことが分かる。
結果として、光格天皇の願いは実現せず戦いは敗北したように見える。しかし、いくつか注目点がある。まず定信の出方である。彼は尊号事件については、朝幕関係の問題であり幕府の許可を得ず尊号宣下を強行すれば、承久の変で後鳥羽上皇を処分したような最悪の事態も致し方ないと考えていた。尊王心の強い彼でも全面戦争を覚悟していたのである。つまり、幕府が認めないと言っている尊号宣下を強行するという「諸法度」違反を危険視したものだった。要は、光格天皇を戦う相手として手強いと警戒したのだ。
さらには、3名の公卿に処罰を与える時に「解官」(※)の手続きをせず処罰した際の、「天下の人は皆王臣、武家も公家も同様である。」という考え方を示した。これは、天皇と大名の間の君臣関係を幕府自らが認めたことになる。これにより、以降幕府は「最大限に朝廷を崇拝」することが必要となって行く。そのように朝廷への崇拝を通じて「幕府の威光・威信を維持せねばならないこと」となった。すでに定信は、天皇の地位を「天皇は人民の親であり、国家と国民の興廃に関する地位である。」と解釈していた。さらに、将軍家斉へ示した「御心得の箇条」には、「将軍は人民の生活する国土を天皇から預かり征夷大将軍として統治している」としていたのだ。つまり、幕府が天皇こそが国土と国民の真の支配者だと解釈したことになる、これは、幕末の勤王の志士たちの考え方であり、「大政奉還」の論理根拠になるものである。以上のように光格天皇は思想内面的には、大勝利したことになる。
なお、最終的には、3名の公卿は「閉門」と「逼塞」という重い処分となったが、その後、「中山大納言物」という史実とは違って、処分された中山愛親が将軍の前で自説を述べて論破するという読み物が出回っている。幕府と言う権力者の鼻を明かすという庶民(読者)には痛快な読み物が流行ったのである。当時の朝廷への庶民感情が伝わる。武力を行使しない戦いは続く。
※ 三公とは、太政大臣・左大臣・右大臣のこと。従来から親王より上位に位置付けられていた。
※ 武家伝奏 室町~江戸時代に武家から朝廷に願い出ることを伝達奏聞する朝廷の役職名。江戸時代には定員2名で,納言,参議から選任された。慶応3 (1867) 年廃止。
※ 解官(げかん) 現職の官人が解任されることだが、高級公卿の場合処分を下す前に、朝廷による解官の手続きを経たうえで、平民として処分するのが慣例であった。
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