OT園通園日記

車椅子生活の母を老人ホームへ訪ねる日々。でもそればかりではいられない!日常のあれこれを書いています。

ホームルームの歌

2010年06月27日 | その他いろいろ
小さいカゴに花を入れ、
寂しい人にあげたなら
色も香りも部屋に満ち
気持ちよい日を過ごすでしょう

(繰り返し)
愛のわざは小さくても
神の力がこもるから
闇夜のような世の中を
真昼のように照らすでしょう

おはようとの一言も
心を込めて言ったなら
言われた人は日暮れまで
気持ちよい日を過ごすでしょう

(繰り返し)




これは、私の出身高校オリジナルの歌。
毎週のロングホームルームの前に、必ずみんなで歌った。
私のクラスだけが歌っていたわけではなくて、全校、全クラスが、ロングホームルームの前にはこれを歌うのだ。

今考えてみれば、歌うのが好きな学校だった。
カトリックの女子中・高で、毎朝、担任が教室に来るまでは、繰り返し聖歌を歌う。
日直が、黒板に歌う聖歌の番号を書いておくのが習慣だった。
隣の教室からも、2階の教室からも聖歌が響いてきて、朝礼前のひとときはカトリックの女子校らしい清らかな雰囲気が漂っていた(と、私は信じている)。

その他、いろんな行事の時には、その場にふさわしい歌が決められていて、クリスマスはもちろんのこと、創立記念日、マリア様の祝日、諸聖人の祝日、音楽の時間を使って、みっちり練習させられた。

そして、ロングホームルームの前には、必ず上記の歌を歌う。

生意気盛りの私は、この歌があまり好きではなかった。
だって、偽善的でしょ?
小さな花束や、挨拶で満足していていいの?
そんなことで、世界が平和になったり、貧しさが解消されたり、悲しみが癒されたりするの?
と、そんなふうに考えて、反抗したわけです。

花束や挨拶が世界を救うはずがないのは、自明の理。
でも、卒業して30年以上が過ぎ、時々ふと思い出すこの歌は、とにかく懐かしい。
そして、小さな花束や挨拶を偽善といって片付けてはいけないとも思うようになった。
だって、50年生きてきて、私が世界を変えるような局面はなかった。
身の回りの小さいことを、大事に生きることしか、私と世界の接点はなかったもの…。

犬に散歩をさせながら、ご近所の方と交わす明るい挨拶は、「言われた人」の心を明るくするだけではなく、自分の心をも明るくしてくれる。
何気ない日常をていねいに暮らすことこそが、自分と回りを救うのだとしみじみ感じてしまうのだ。

教師をしていた頃、先輩が教えてくれたことがある。
目先の効果ばかりを考えて授業をしてはいけないということ。
もちろん、進学の準備のための勉強も大切、定期試験のための勉強も大事。
でも、教師たるもの、生徒が、10年後、20年後、30年後に、ふと思い出して、「そうか~、先生が言っていたのって、そういうことだったんだ~」と、納得するような授業を目指さなくてはいけないと力説していた。
「北斗の拳」の「3日殺し」(「お前はもう死んでいる…」)になぞらえて、「30年殺し」を目指せというのだ。

このホームルームの歌は、まさに「30年殺し」。
6年間繰り返し歌うことで、骨の髄まで染みついているし。
じわじわと効いて、今、ふと心の中で口ずさみながら、懐かしい中高時代を思い出すと同時に、自分の身の回りを明るく照らすような生き方を実践したいと思うのだ。
(我が校の目標は、「灯台の光たれ」でありました)

今日は、二年に一回開かれる関東地区の同窓会、ホームルームの歌で育ったいろんな世代のオバサン達が、賑やかにひとときを過ごしたのでした。