父との別れ
父の死は突然だった。がんが発見された時にはもう手遅れで、長くてあと三ヶ月、治療の方法はありませんと医師に告げられ、私たち家族は、父を関西の赴任先から東京の自宅へ連れ帰った。
退院前に受けた輸血の効果もあってか、多少ふらつきながらも、父は自分で歩いて、快活ともいうべき笑顔で自宅へ帰り着いた。あと半月で新しい年を迎えるという頃である。
それまでの二ヶ月の病院生活での父の希望は、早く家に帰りたい、家のご飯が食べたいというものだった、病院で一人過ごす夜は長いとも嘆いた。私たちは、残る日々を家族とともに暮らさせたいと考えたのである。
「ホスピスに…」ということも話し合われた。より良い治療や疼痛ケアが行われるかもしれない。無理な延命が行われることもないだろう。良い点はたくさんあったのだが、受け入れ先が柏だという。しばしば通うには遠すぎる。やはり毎日家族と過ごせる自宅がよい。私たちは、自宅で父に死を迎えさせることを選択した。
父には何と告げたらいいのだろうか。体調が決して上向くことがない以上、自宅療養で十分治るとは説明できない。坂道を転がり落ちていくように病状は悪化していくだろう。「おやじの家なのだから、ここでずっと過ごして欲しい。どこにも行かずにここにいてほしい』という弟のことばで、父は自分の病気を理解した。
父の退院・帰宅を祝うパーティー、クリスマス、お正月、皆が集まるには事欠かない時期だった。父のベッドは居間とふすま一枚隔てた部屋に置かれていたので、私たちはふすまを開け放っては、集まってご飯を食べた。母・弟の家族五人、私の家族五人。小学校六年を頭に乳児まで、六人の孫が賑やかに笑い、大きな声でおしゃべりをした。学校のある日にも、一番チビの赤ん坊は、父のベッドの横で昼寝をした。自宅に帰って安心し、楽しそうな父の笑顔が見られた。
母は長い夜を父のベッドの脇で横になり、たくさんの話しをしたそうだ。弟にも、私にも、父はそうっと別れのことば、感謝のことばを告げた。貴重な家族の時間だった。
わずかながらも大好きなカレーやおまんじゅうを食べて満足そうだった父も、松が明ける頃から、日ごとに弱っていった。体のつらさからだんだん気短になった父に応えながら、用便の始末、吹き出すように止まらない汗で日に何度も着替えをさせるなど、看病の中心だった母は疲れ果てていた。一緒に住むめいやおいも、生活のリズムが狂ったためか、体調を崩して落ち着きがなく、義妹も辛そうだった。私も、朝晩一時間の運転をして通っていたが、家に残した子どもたちへの心配もあって、心も体もつかれていた。
長くないとわかっていても、この生活がいつまで続くのだろうという疑問が頭に浮かぶ。父に優しいことばがかけられないこともあった。ほとんど水ものどを通らなくなった父の顔を見て、私は、一日でも長く生きてほしいとは思わなくなっていた。
自宅へ帰ってから三十五日目の朝、父は逝った。息をしなくなったのもわからないほどの静かな死だったそうだ。
通夜の席で、、「あんな死に方がしたい」という声を聞いた。理解ある医師の協力、親類や友人達の心遣いや協力、家族力を合わせての看病、近頃では珍しい自宅での静かな死。しかし、私は、それを理想的であったとは思えない。ホスピスにいれば、父はあと数日、もしかすると一月だって生きたかもしれない。十分な看護の手のあるところにいれば、雑事に気を回さず、父の心にもっと寄り添っていられたのではないか、心から生きてほしいと願うことができたのではないかと思う。父は、こんな生活を早く終わりにしたいと思っていたのを知っていたのではないだろうか、どんなに寂しい思いでいたのだろうか。
長い間、いつもその思いを抱えていた。台所で食器を洗いながら、お風呂で温まりながら、眠りにつく時も、父の死への後悔が私と共にある。梅雨も明けようとする頃、「病院で死ぬこと」という映画を見た。がん患者の病院での最後の日々を描いたものである。画面に大きく映る病室の白い壁を見た瞬間、私は大切なことを悟った。死は日常であるということ。非日常を象徴するような白い壁とパイプベッドを見て、私は日常の大切さを思った。
美しいものも、醜いものも、全部含んで、死は日常の中で迎えられればいいのだと思った。父の死は理想的ではなかった。しかし、家族が心を尽くして、普段の生活の中で父を見送ろうと努力した。父への愛も、負い目もすべて背負って、私は私の日常を生きていこうと、今、心から思う。
父の死は突然だった。がんが発見された時にはもう手遅れで、長くてあと三ヶ月、治療の方法はありませんと医師に告げられ、私たち家族は、父を関西の赴任先から東京の自宅へ連れ帰った。
退院前に受けた輸血の効果もあってか、多少ふらつきながらも、父は自分で歩いて、快活ともいうべき笑顔で自宅へ帰り着いた。あと半月で新しい年を迎えるという頃である。
それまでの二ヶ月の病院生活での父の希望は、早く家に帰りたい、家のご飯が食べたいというものだった、病院で一人過ごす夜は長いとも嘆いた。私たちは、残る日々を家族とともに暮らさせたいと考えたのである。
「ホスピスに…」ということも話し合われた。より良い治療や疼痛ケアが行われるかもしれない。無理な延命が行われることもないだろう。良い点はたくさんあったのだが、受け入れ先が柏だという。しばしば通うには遠すぎる。やはり毎日家族と過ごせる自宅がよい。私たちは、自宅で父に死を迎えさせることを選択した。
父には何と告げたらいいのだろうか。体調が決して上向くことがない以上、自宅療養で十分治るとは説明できない。坂道を転がり落ちていくように病状は悪化していくだろう。「おやじの家なのだから、ここでずっと過ごして欲しい。どこにも行かずにここにいてほしい』という弟のことばで、父は自分の病気を理解した。
父の退院・帰宅を祝うパーティー、クリスマス、お正月、皆が集まるには事欠かない時期だった。父のベッドは居間とふすま一枚隔てた部屋に置かれていたので、私たちはふすまを開け放っては、集まってご飯を食べた。母・弟の家族五人、私の家族五人。小学校六年を頭に乳児まで、六人の孫が賑やかに笑い、大きな声でおしゃべりをした。学校のある日にも、一番チビの赤ん坊は、父のベッドの横で昼寝をした。自宅に帰って安心し、楽しそうな父の笑顔が見られた。
母は長い夜を父のベッドの脇で横になり、たくさんの話しをしたそうだ。弟にも、私にも、父はそうっと別れのことば、感謝のことばを告げた。貴重な家族の時間だった。
わずかながらも大好きなカレーやおまんじゅうを食べて満足そうだった父も、松が明ける頃から、日ごとに弱っていった。体のつらさからだんだん気短になった父に応えながら、用便の始末、吹き出すように止まらない汗で日に何度も着替えをさせるなど、看病の中心だった母は疲れ果てていた。一緒に住むめいやおいも、生活のリズムが狂ったためか、体調を崩して落ち着きがなく、義妹も辛そうだった。私も、朝晩一時間の運転をして通っていたが、家に残した子どもたちへの心配もあって、心も体もつかれていた。
長くないとわかっていても、この生活がいつまで続くのだろうという疑問が頭に浮かぶ。父に優しいことばがかけられないこともあった。ほとんど水ものどを通らなくなった父の顔を見て、私は、一日でも長く生きてほしいとは思わなくなっていた。
自宅へ帰ってから三十五日目の朝、父は逝った。息をしなくなったのもわからないほどの静かな死だったそうだ。
通夜の席で、、「あんな死に方がしたい」という声を聞いた。理解ある医師の協力、親類や友人達の心遣いや協力、家族力を合わせての看病、近頃では珍しい自宅での静かな死。しかし、私は、それを理想的であったとは思えない。ホスピスにいれば、父はあと数日、もしかすると一月だって生きたかもしれない。十分な看護の手のあるところにいれば、雑事に気を回さず、父の心にもっと寄り添っていられたのではないか、心から生きてほしいと願うことができたのではないかと思う。父は、こんな生活を早く終わりにしたいと思っていたのを知っていたのではないだろうか、どんなに寂しい思いでいたのだろうか。
長い間、いつもその思いを抱えていた。台所で食器を洗いながら、お風呂で温まりながら、眠りにつく時も、父の死への後悔が私と共にある。梅雨も明けようとする頃、「病院で死ぬこと」という映画を見た。がん患者の病院での最後の日々を描いたものである。画面に大きく映る病室の白い壁を見た瞬間、私は大切なことを悟った。死は日常であるということ。非日常を象徴するような白い壁とパイプベッドを見て、私は日常の大切さを思った。
美しいものも、醜いものも、全部含んで、死は日常の中で迎えられればいいのだと思った。父の死は理想的ではなかった。しかし、家族が心を尽くして、普段の生活の中で父を見送ろうと努力した。父への愛も、負い目もすべて背負って、私は私の日常を生きていこうと、今、心から思う。