祐さんの散歩路 Ⅱ

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・ 何と日本的。「女子に三角関数、何になる?」発言

2015-09-05 01:37:15 | 社会・経済・政治


伊藤祐一郎と言えば鹿児島の知事で、川内原発再開を支持した男。県の総合教育会議で発言したことが、ニュースに取り上げられています。基本的に物事の判断基準がおかしいので、話したことも問題ではあるが、その後の対応も情けないものです。利権しか頭にない政治屋の良くあるパターンで、自分は素晴らしいのだと偉そうにしているが、いざ周りから批難があがると取りあえず火消だけをしようとする・・・・人間として本質を見られているのに、本人は目先のことだけしか頭が回らず、適当に誤魔化せばすむと思っているのでしょう。なんとも情けないものですね。
Web Ronzaより転載します。



何と日本的。「女子に三角関数、何になる?」発言
伊藤鹿児島県知事、あわてて撤回するなど日本男児として恥ずかしいですよ

高橋真理子 2015年09月02日

伊藤祐一郎知事



 鹿児島県の伊藤祐一郎知事の女性差別発言は、「日本的なるもの」をしみじみ感じさせる出来事だった。九州の風土という面もあるのかもしれないが、やはり日本の中枢を占める男性陣の多数派の発想がそのまま出たという面の方が強いと思う。あわてて撤回して表面だけつくろうというのも、日本ではお定まりの作法だが、こんな撤回は誠に恥ずかしく、日本男児なら潔く発言を認めて謝罪するのが筋だということぐらい、せめて気づいてほしい。

 南日本新聞によると、8月27日に開かれた県の総合教育会議で伊藤知事は「高校教育で女の子にサイン、コサイン、タンジェントを教えて何になるのか」「社会の事象とか植物の花や草の名前を教えた方がいい」と述べた。

 28日の会見で発言の真意を問われた知事は「サイン、コサイン、タンジェントの公式をみなさん覚えていますか。私はサイン、コサインを人生で1回使いました」「女性を結びつけて口が滑った形でしゃべった」などと釈明し、発言を撤回する考えを示した(朝日新聞デジタル)。

 つい思い出すのは、英国のノーベル賞学者ティム・ハント氏の6月の女性差別発言である。「研究室に女性がいると面倒が起こる。男性が女性に恋をする、女性が男性に恋をする、そして女性を批判すると泣き出す」と韓国で開かれた科学ジャーナリスト世界会議の昼食会で述べ、大問題になった。

 両者を比べると、日本的なるものが浮かび上がる。

 まず、伊藤知事は、女性が科学知識の必要な職業に就くことを想定していない。想定していないから、そういう教育は必要ないという発言になる。一方、ハント氏はその後に続いた発言で「だから研究室は別々がいい」と言っており、女性が研究者になることは当然の前提としている。

 次に、伊藤知事の釈明は「口が滑った」である。ハント氏は「あれはジョークだった」だ。「口が滑った」というのは、心の中にあるものをつい言ってしまった、ということだ。思っていることをそのまま言うのは、本来なら歓迎されることだ。日本にはどこかに「思っていることをそのまま言ってはいけない」という規範があるから、あるいは面従腹背は当然のことで表面だけつくろうように奨励されているから、「口が滑った」が言い訳として通用してしまう。おそらく日本以外の国では、これは言い訳として通用しないのではないか。

 最後の違いが「発言の撤回」だ。伊藤知事は、撤回すればコトが収まると考えていることが伺える。一方のハント氏は、そもそも誰からも撤回など求められず、逆に「発言したことを認めよ」と韓国女性科学技術者連盟から迫られ、発言したと認めて謝罪している。

 文系の伊藤知事は、おそらく古文はよく勉強されただろうと思う。「綸言汗のごとし」という格言は当然ご存じだろう。ウィキペディアを参照すれば「皇帝が一旦発した言葉(綸言)は取り消したり訂正することができないという中国歴史上の格言」で、平家物語や太平記にも引用されているとわかる。知事がこの格言を学ばなかったはずはない。サイン、コサイン同様、勉強はしたけれど人生に生かしたことはないということなのか。

 しかし、知事発言で何よりも問題だと私が感じるのは、女性の生き方を男性である自分が指南できると思い込んでいることだ。それは、他人から見れば傲慢以外の何者でもないのだが、おそらくご本人は気づいていないのだろう。

 「女性に教育は不要」という思想は、過去の遺物ではない。現代社会でもタリバーンは女性を教育の場から排除し、それに対してノーベル平和賞を受けたマララさんが命をかけて闘ってきた。そして、少なくともすべての先進国はマララさんを称賛し、支援していると私は理解している。なぜなら、男性であろうと女性であろうと、学びたいことを学べる社会をどの国も目指しているからだ。男性であろうと女性であろうと、人間として尊重されるべきであるとどの国も考えているからだ

 マララさんは外国の話、日本は別、という発想をしがちなのも、「日本的なるもの」の一つではあろう。

 伊藤知事には、今回の発言がなぜこんなに反発を浴びたのか、よくよく考えたうえで9月県議会に臨んでいただきたい。県議会での発言は、きっと全国で注目されるだろうから。

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