大貫康雄さんの記事に「内部告発者がいかに重要か。100年前の事件をふりかえる」というものがありました。特定秘密保護法案が可決された日本ですが、いつ同じような状況になるやも知れません・・・・・記事を転記します。
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NSA(米安全保障局)の膨大な通信傍受・盗聴事件で、オバマ大統領は17日、国民向けに演説し、NSAの活動を一部制限することを改めて明らかにし、法改正を示唆した。
一方、NSA事件を内部告発したスノーデン氏については、「国の安全保障に大きな損害を与えた」とこれまで通りの非難を繰り返した。しかし、スノーデン氏のような内部告発者が存在したからこそ、秘密裏に活動するNSAの暴走を少しでも食い止めるきっかけになったのは確かだ。
内部告発者がいかに重要か。19世紀末から20世紀初頭にかけてフランスで起きたスパイ事件“ドレフュス事件(Alfred Dreyfus Affair)”で、「ドレフュスは無実」と真相を明らかにしたのは、内部告発をした一将校の勇気だった。
この将校の死から100年になるのを機会に、将校の功績をまとめた本『一将校とスパイ(An Officer and a Spy)』がアメリカで出版された。
著者のRobert Harris氏が『International NY Times』に寄稿しているので要約して紹介する。
ドレフュス事件は、秘密が安易に作られ、一人歩きし、無実の人間が罪に陥れられた。倫理ではなく組織の論理が横行する典型的な例だった。
このスパイ事件は、当時のフランスの著名な作家エミーエル・ゾラ(Emile Zola)が不当な冤罪事件だと激しく糾弾したこともあって、日本の高校でも世界史で教えるところがある。
事件は、フランス・パリにあるドイツ駐在武官官邸から、フランス軍内に対独通報者がいることを示すメモが発見されたことから始まる。
フランス軍部は、ドイツ側に漏えいした情報を知りえる立場の軍関係者を調査。筆跡が似ているとして、アルフレド・ドレフュスを具体的な証拠もないまま逮捕し、内密に捜査を開始した。
ところが、反ユダヤ系・右翼新聞がすっぱ抜き断定的に大きく報道し、ドレフュスが犯人だと決めつけて、何の処分もしない軍部の優柔不断を非難した。右翼の非難にあわてた軍上層部は、証拠不十分のまま非公開の軍法会議でドレフュスに終身禁固刑の判決を下し、南米ギアナ沖の島の監獄に収監した。
しかし、ドレフュスの上司ジョルジュ・ピカール(Georges Picquart)が、情報部長に着任すると、間もなく事件の真相を知るになる。
ピカール自身、反ユダヤ主義者でもあって、当初はドレフュスが犯人だと疑わなかった。しかし、捜査を進めるうちに真犯人はドレフュスではなく、ハンガリー生まれのフェルディナン・ヴァルザン・エステルアズィ(Marie Charles Ferdinand Walsin Esterhazy)少佐であることがわかった。
ピカールは軍上層部に真相を伝え、エステルアズィを逮捕。ドレフュスが無実であることを訴えたが、陸軍大臣ら上層部は軍の失墜を恐れて、もみ消し工作を行なった。再審を求めるドレフュスの家族の要求を退け、うるさいピカールを左遷。ピカールは97年に事実上の流罪でチュニジア駐在を命じられる。98年1月、軍は形式的な裁判でエステルアズィを無罪釈放した。
エステルアズィの釈放を知り、ピカールは軍には解決能力がないとみる。そして外部への告発を決め、上院副議長に資料を送る。このピカールの情報をもとに作家のゾラが、大統領あての軍の弾劾状を『オーロール(L’Aurore)』紙に寄稿。世論は沸騰するが、逆にゾラも軍によって名誉棄損の罪に問われ有罪となり、一時イギリスに亡命する。
国内世論は“ドレフュスの再審、自由と民主主義擁護派”と“国家の威厳や軍の威信を主張する反対派”に二分される。
で裁判は軍の主張を受け入れるだけ、再審でもドレフュスの有罪は覆らなかったが、時の首相により特赦を与えられ釈放される。この論争の中、98年、エステルアズィもイギリスに亡命し、その後自分が犯人であることを告白。罪に問われないまま一生を終える。
ドレフュスが無罪判決を勝ち取り、名誉を回復するのは1906年になってだった。この年、ピカールは将軍に昇進。また「オーロール」紙の社主ジョルジュ・クレマンソー(Georges Clemenceau)が首相になると、ピカールは戦争大臣に任命される。クレマンソー内閣の後、ピカールは仏第二陸軍司令官としてアミアンに駐在したが、皮膚病のため59歳で死亡。第一次大戦勃発の半年前のことだった。
ピカールの悲劇は、ドレフュス支持者の一部からは最後まで“反ユダヤ主義者”と糾弾され、一方、軍部の大部分からは指揮命令組織を裏切ったとして容赦されなかったことだ。
しかし、ピカールの勇気ある決断で、後世の人間は以下のようなことを学んだ。
●秘密裁判や秘密とされる証拠がいかに信頼に欠けるか
●質の悪い情報機関が、法律のようになって一人歩きする恐れ
●政府や国家情報機関が過ちを隠蔽し、安易に国家秘密を増やして民主主義を窒息させる危険性
この事件では“軍事機密”という軍の主張が、実は事実を隠ぺいする“口実”に過ぎないこと。それどころか、軍が真犯人を擁護し続け、ドレフュス・スパイに証拠の改ざんや偽造までやっていたことが発覚した。特定秘密法もこういう口実づくりに使われる可能性は大きい。
フランスでも日本でも、ドレフュス事件では、エミール・ゾラの名は教えられ、また対独強硬論の政治家クレマンソーの名は教えられる。
しかし、肝心の内部告発をして一番の功績が与えられるべきピカールの名はあまり語らえることのまま人々に忘れ去られ、歴史の闇に消えていった。
クレマンソーは、“ドレフュスは被害者で、ピカールは英雄だ”と讃えている。今の日本ではなく100年以上まえのフランスでの事だ。
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NSA(米安全保障局)の膨大な通信傍受・盗聴事件で、オバマ大統領は17日、国民向けに演説し、NSAの活動を一部制限することを改めて明らかにし、法改正を示唆した。
一方、NSA事件を内部告発したスノーデン氏については、「国の安全保障に大きな損害を与えた」とこれまで通りの非難を繰り返した。しかし、スノーデン氏のような内部告発者が存在したからこそ、秘密裏に活動するNSAの暴走を少しでも食い止めるきっかけになったのは確かだ。
内部告発者がいかに重要か。19世紀末から20世紀初頭にかけてフランスで起きたスパイ事件“ドレフュス事件(Alfred Dreyfus Affair)”で、「ドレフュスは無実」と真相を明らかにしたのは、内部告発をした一将校の勇気だった。
この将校の死から100年になるのを機会に、将校の功績をまとめた本『一将校とスパイ(An Officer and a Spy)』がアメリカで出版された。
著者のRobert Harris氏が『International NY Times』に寄稿しているので要約して紹介する。
ドレフュス事件は、秘密が安易に作られ、一人歩きし、無実の人間が罪に陥れられた。倫理ではなく組織の論理が横行する典型的な例だった。
このスパイ事件は、当時のフランスの著名な作家エミーエル・ゾラ(Emile Zola)が不当な冤罪事件だと激しく糾弾したこともあって、日本の高校でも世界史で教えるところがある。
事件は、フランス・パリにあるドイツ駐在武官官邸から、フランス軍内に対独通報者がいることを示すメモが発見されたことから始まる。
フランス軍部は、ドイツ側に漏えいした情報を知りえる立場の軍関係者を調査。筆跡が似ているとして、アルフレド・ドレフュスを具体的な証拠もないまま逮捕し、内密に捜査を開始した。
ところが、反ユダヤ系・右翼新聞がすっぱ抜き断定的に大きく報道し、ドレフュスが犯人だと決めつけて、何の処分もしない軍部の優柔不断を非難した。右翼の非難にあわてた軍上層部は、証拠不十分のまま非公開の軍法会議でドレフュスに終身禁固刑の判決を下し、南米ギアナ沖の島の監獄に収監した。
しかし、ドレフュスの上司ジョルジュ・ピカール(Georges Picquart)が、情報部長に着任すると、間もなく事件の真相を知るになる。
ピカール自身、反ユダヤ主義者でもあって、当初はドレフュスが犯人だと疑わなかった。しかし、捜査を進めるうちに真犯人はドレフュスではなく、ハンガリー生まれのフェルディナン・ヴァルザン・エステルアズィ(Marie Charles Ferdinand Walsin Esterhazy)少佐であることがわかった。
ピカールは軍上層部に真相を伝え、エステルアズィを逮捕。ドレフュスが無実であることを訴えたが、陸軍大臣ら上層部は軍の失墜を恐れて、もみ消し工作を行なった。再審を求めるドレフュスの家族の要求を退け、うるさいピカールを左遷。ピカールは97年に事実上の流罪でチュニジア駐在を命じられる。98年1月、軍は形式的な裁判でエステルアズィを無罪釈放した。
エステルアズィの釈放を知り、ピカールは軍には解決能力がないとみる。そして外部への告発を決め、上院副議長に資料を送る。このピカールの情報をもとに作家のゾラが、大統領あての軍の弾劾状を『オーロール(L’Aurore)』紙に寄稿。世論は沸騰するが、逆にゾラも軍によって名誉棄損の罪に問われ有罪となり、一時イギリスに亡命する。
国内世論は“ドレフュスの再審、自由と民主主義擁護派”と“国家の威厳や軍の威信を主張する反対派”に二分される。
で裁判は軍の主張を受け入れるだけ、再審でもドレフュスの有罪は覆らなかったが、時の首相により特赦を与えられ釈放される。この論争の中、98年、エステルアズィもイギリスに亡命し、その後自分が犯人であることを告白。罪に問われないまま一生を終える。
ドレフュスが無罪判決を勝ち取り、名誉を回復するのは1906年になってだった。この年、ピカールは将軍に昇進。また「オーロール」紙の社主ジョルジュ・クレマンソー(Georges Clemenceau)が首相になると、ピカールは戦争大臣に任命される。クレマンソー内閣の後、ピカールは仏第二陸軍司令官としてアミアンに駐在したが、皮膚病のため59歳で死亡。第一次大戦勃発の半年前のことだった。
ピカールの悲劇は、ドレフュス支持者の一部からは最後まで“反ユダヤ主義者”と糾弾され、一方、軍部の大部分からは指揮命令組織を裏切ったとして容赦されなかったことだ。
しかし、ピカールの勇気ある決断で、後世の人間は以下のようなことを学んだ。
●秘密裁判や秘密とされる証拠がいかに信頼に欠けるか
●質の悪い情報機関が、法律のようになって一人歩きする恐れ
●政府や国家情報機関が過ちを隠蔽し、安易に国家秘密を増やして民主主義を窒息させる危険性
この事件では“軍事機密”という軍の主張が、実は事実を隠ぺいする“口実”に過ぎないこと。それどころか、軍が真犯人を擁護し続け、ドレフュス・スパイに証拠の改ざんや偽造までやっていたことが発覚した。特定秘密法もこういう口実づくりに使われる可能性は大きい。
フランスでも日本でも、ドレフュス事件では、エミール・ゾラの名は教えられ、また対独強硬論の政治家クレマンソーの名は教えられる。
しかし、肝心の内部告発をして一番の功績が与えられるべきピカールの名はあまり語らえることのまま人々に忘れ去られ、歴史の闇に消えていった。
クレマンソーは、“ドレフュスは被害者で、ピカールは英雄だ”と讃えている。今の日本ではなく100年以上まえのフランスでの事だ。