とうとう、見習い修行中の田原君の得度式を挙行しました。
得度というのは、仏弟子として入門を認可する式典です。14日はこのところ、いちばん寒い日だったのですが、大勢の参詣者がありました。
得度については動機がもっとも大切で、渡世、世渡り、つまり食べるためにお坊さんになるというようなことでは話になりません。
発心と申しますと、真実の教えを求め、仏の教えを究めようという心をおこすことで、発心なくして得度しても、それは信徒が寄せた貴重な浄財を浪費し、仏様にあげた仏餉米(お供えのお米)をただ徒食する結果となり罪深いことです。
発心して、自分自身で得たところを人のために語り、仏の真実の教えを大勢の方に伝え、困っている方に一筋の光明をあたえるために活動すれば、お仏飯をはむということも許されるでしょう。
得度についての真実の動機は、その人にしか実は分からないものですが、得度を許す師匠としては、その言葉を信じていくより道はありません。
また、得度した者が道を半ばにして挫折することがないよう、本来の動機を忘れず実際に菩薩行に励むことを祈願し、見守り育てることのみ考えます。
得度というのは、仏弟子として入門を認可する式典です。14日はこのところ、いちばん寒い日だったのですが、大勢の参詣者がありました。
得度については動機がもっとも大切で、渡世、世渡り、つまり食べるためにお坊さんになるというようなことでは話になりません。
発心と申しますと、真実の教えを求め、仏の教えを究めようという心をおこすことで、発心なくして得度しても、それは信徒が寄せた貴重な浄財を浪費し、仏様にあげた仏餉米(お供えのお米)をただ徒食する結果となり罪深いことです。
発心して、自分自身で得たところを人のために語り、仏の真実の教えを大勢の方に伝え、困っている方に一筋の光明をあたえるために活動すれば、お仏飯をはむということも許されるでしょう。
得度についての真実の動機は、その人にしか実は分からないものですが、得度を許す師匠としては、その言葉を信じていくより道はありません。
また、得度した者が道を半ばにして挫折することがないよう、本来の動機を忘れず実際に菩薩行に励むことを祈願し、見守り育てることのみ考えます。