
【三郷鎮の実家付近にて】
三郷鎮にある Con 爺さんゆかりの家をあとにしなければならない。この家にはコスタリカで知り合いになった、女房殿のおじたち(コスタリカの中華料理屋のおやじさん、Tío Charlie と中山大学教授のキンおじさん)も暮らしていたはずである。
築100年以上の古い家であるが、容一族の聖地のようなものなので、このまま保存してもらいたいものである。

中国では市街地にある古い建物は再開発で取り壊されることがあるが、そうならないことを願うばかりである。三郷鎮は大都会ではないので、しばらくは大丈夫だとは思うが。

ところで、Con 爺さんが初めてコスタリカへ行ったのは、独身時代である。様子を見に行ったのだろうか。一度、帰国して、中国人女性と結婚した。

この時代の中国は辛亥革命(1911年)のあとの混沌とした時代である。軍閥が割拠していた時代で1928年まで続いている。
広東省は辛亥革命の中心人物、孫文の出身地である。三郷鎮は孫文出生の地から15キロほどしか離れていない。ひょっとしたら、孫文も三郷鎮辺りまで足を伸ばしたことがあるかもしれない。孫文の故居が三郷鎮から近いことを知ったのは、もちろん帰国してからのことである。また三郷陳を訪れる機会があれば、今度は孫文の故居も訪ねてみたいものである。
そんなわけで、広東省は辛亥革命の重要な舞台の一つであり、三郷鎮あたりの情勢も不穏だったことと推測される。
さて、Con 爺さんは中国人妻との間に二児をもうけた。長男が後にコスタリカで中華料理屋を開業することになる Tío Charlie で、次男が中山大学民俗学の教授になった。
Con 爺さんは妻を残して、二人の子供とともに再度、コスタリカへ行った。妻を国に残した理由や経緯は今となってはわからない。
Con 爺さんはそのままコスタリカにとどまる。その後、子供たちが成長し、Con 爺さんは、二人の息子をアメリカへ留学させる。ところが、長男(Tío Charlie)はギャンブル好きで、金を使い果たしてしまう。しかたなく、コスタリカへ帰国。その後、中国へ帰って、結婚し、子宝にも恵まれる。ところが、やはり戦禍を避けて、再びコスタリカへ。妻と子供を残してきた理由や経緯は不明。

【長男、Tío Charlie】
Tío Charlie は再度、コスタリカへ渡る前にマカオへまず逃げ込んだものと推測される。というのも、現在、次男がマカオに住んでいるからである。この次男が今回の中国への旅に同行してくれている。
Tío Charlie が再びコスタリカへ渡って、中華料理屋 Hoi Fan(海帆)を開業していた1979年に筆者は Tío Charlie と知り合いになったわけである。
一方、次男はアメリカ留学を終えたあと、中国へ帰国。

【次男、中山大学教授】
辛亥革命のあとの混乱は収まっていただろうが、今度は日中戦争の時代である。汪兆銘の南京政府、蒋介石の重慶政府、毛沢東の延安政府が鼎立していて、汪兆銘は日本、蒋介石は英米、毛沢東はソビエトがそれぞれ支援している。
三郷鎮あたりの情勢はよくわからないが、30キロ南のマカオには多くの難民がなだれ込んでいるので、やはり不穏だったことだろう。
次男は文化大革命にも巻き込まれたはずで、激動の人生を送ったことと思われる。現在は穏やかな老後を送っているようである。またお会いして、いろいろ面白いお話が聞ければいいのだが。
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