スパニッシュ・オデッセイ

スペイン語のトリビア
コスタリカ、メキシコ、ペルーのエピソード
パプア・ニューギニア、シンガポールのエピソード等

閻魔大王

2017-08-31 22:16:34 | トリビア
 ダンテの「神曲」の地獄の裁判官はギリシャ神話にも登場するクレータ島のミーノース王が務めていたが、東洋ではご存知の閻魔大王である。
 もともとはインドの神様で、ヤマと呼ばれていた。(詳細はウィキペディア「閻魔」参照)。
 
 【19世紀前半に描かれたヤマ(ウィキペディア「閻魔」より)】
 ウィキペディアより引用する。

 インドのヤマは、のちに仏教に取り入られて閻魔天となり、地獄の主と位置づけられるようになった。
 中国に伝わると、道教における冥界・泰山地獄の主である泰山府君と共に、冥界の王であるとされ、閻魔王、あるいは閻羅王として地獄の主とされるようになった。
 
 【地獄の法廷を描いた中国の仏画(ウィキペディア「閻魔」より】
 さらに、引用を続ける。

 日本仏教においては地蔵菩薩と同一の存在と解され、地蔵菩薩の化身ともされている。 
 
 【安土桃山時代に描かれた閻魔(ウィキペディア「閻魔」より】
 そういえば、新潟県柏崎市にも「閻魔堂」があり、閻魔様が祀られている。それにちなむ「閻魔市」は江戸時代から続いている。怖い閻魔大王の姿をしているが、実際は地蔵菩薩として信仰しているような気がする。ただ、最近では「閻魔=地蔵菩薩」の考えはだいぶ薄れているような気がするが。

 もう一つ引用。
 閻魔王はコンニャクが大好物であるという俗説もある。東京・文京区の源覚寺にこんにゃくを供えれば眼病を治すという「こんにゃくえんま」像があるほか、各地の閻魔堂でこんにゃく炊きの行事が行われる。
 
 
 
 【いずれも「こんにゃくえんま像」より】
 俗説が本当だとすると、死者には三途の川の渡し賃6文のほかに、閻魔王へのお土産(ワイロ)としてこんにゃくを持たせたほうがいいのではないか。

 ところで、インドのヤマは「本来はインド・イラン(Indo-Iranian)共通時代にまで遡る古い神格で、『アヴェスター』の聖王イマ(中世・近世ペルシア語でジャム(「輝けるジャム」の意味でジャムシードとも呼ばれる))や北欧神話の巨人ユミルと同起源である」(ウィキペディア「閻魔」)と述べられている。
 北欧神話の巨人ユミルと同起源であるなら、ギリシャ神話にも似たような存在があるかもしれない。ダンテの地獄の裁判を務める、クレータ島のミーノース王と接点があれば面白いと思うのだが、どうであろうか。
  それはともかく、映画「沈黙」の宣教師たちは三途の川といい、閻魔大王といい、ダンテの地獄との共通点が多いのに驚きつつも、キリスト教の伝道に利用したことだろう。
 映画の中でも触れられていたが、キリスト教の「神」を当初、「大日」と訳されていたので、キリスト教は仏教の一宗派だという誤解もあったらしい(ウィキペディア「日本のキリスト教史」)。 
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「神曲」地獄の裁判官ミーノース

2017-08-30 22:00:29 | トリビア
 西洋版「三途の川」、アケローン川を渡るといよいよ、地獄の本部である。川を渡る前にいたところは「地獄前域」というそうである(ウィキペディア「神曲」)。
 アケローン川を渡ったところで亡者を待ち構えているのが冥府の裁判官ミーノース(ミノスともいう)である。ミーノースはギリシア神話に登場するクレータ島の王だが、どういうわけか、地獄で裁判官を務めている。
 
 【冥府の裁判官ミーノース:ギュスターブ・ドレによる挿絵】 
 ご尊顔を拝せないのが残念だが、怖そうな雰囲気は伝わってくる。
 東洋には閻魔大王がいらっしゃるが、西洋人も同じようなことを考えるようである。
 ただ、閻魔大王は死者の行き先を極楽と地獄に振り分けるのに対して、ミーノースのほうはすでに地獄にいるわけだから、どこに振り分けられるにしても地獄には変わりはない。
ダンテの地獄の詳細についてはウィキペディア「神曲」地獄界の構造をご覧いただきたい。
 
 【Herrad von Landsbergによる装飾写本形式の百科事典『Hortus Deliciarum』(1180年頃)に掲載されている地獄の絵。ウィキペディア「地獄(キリスト教)」より】
 


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「神曲」地獄の入り口をくぐり、西洋版三途の川へ

2017-08-29 18:09:28 | トリビア
 ダンテは「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」と書かれた地獄の門をくぐる。ダンテは地獄、煉獄をめぐり、最後には天国にも行ってくるので、希望を捨てなかったと思うのだが。
 それはともかく、この世からあの世への入り口は日本にもある。黄泉比良坂(よもつひらさか)がそれで、島根県松江市東出雲町にあったとされる。三途の川と並んで、このような入り口の話は世界各地に見られる(ウィキペディア「黄泉比良坂」)。
 
 【東出雲町の黄泉比良坂・伊賦夜坂(ウィキペディア「黄泉比良坂」より】
 さて、地獄の門をくぐったダンテは三途の川に相当するアケローン川を渡って、いよいよ地獄の本部に行くわけである。この川は現在のギリシャかトルコにあったと考えられていたらしい。
 
 【実際にあるアケローン川。現代ギリシャ語ではアヘロンタス川という(ウィキペディア「アケローン川」より】
 三途の川の渡し賃は六文ということになっているが、アケローン川の方は渡し賃の記述が見当たらないので、無料だったのかもしれない。
三途の川は、渡し賃六文がなければ、乗船できないので、持っていない亡者は現世に送り返されるか、川を渡れず永遠に成仏できないということだろうか。そうすると、悪いやつは地獄に行かなくてもすむということだろうか。
 三途の川はてっきり、渡し舟に乗って渡るものと思っていたが、ウィキペディア「三途川」には平安時代の末期に、「橋を渡る(場合がある)」という考え方が消え、その後は全員が渡舟によって渡河するという考え方に変形する』との記述を見つけた。
 
 【馬に乗って三途の川の橋を渡る善人と水中の亡者ども】
 「三途川」には、さらに次のような記述もあった。

 一説には、俗に三途川の名の由来は、初期には「渡河方法に三種類あったため」であるともいわれる。これは善人は金銀七宝で作られた橋を渡り、軽い罪人は山水瀬と呼ばれる浅瀬を渡り、重い罪人は強深瀬あるいは江深淵と呼ばれる難所を渡る、とされていた。

 船賃がない者は泳いででも渡れということである。決して、地獄に行かなくてもいいわけではない。もともとは三途の川には渡し舟はなかったのである。渡し舟の船頭さん(渡し守)の名前も記述が見つからない。
 ちなみに、「東海道中膝栗毛の記述では、餅一個の価格が3文から5文」(ウィキペディア「文(通貨単位)」)とあるので、6文なら子供の小遣い銭程度である。これくらいならケチらないで、ちゃんと払いなさい。
 一方、ダンテの地獄のアケローン川には橋は架かっていないようである。「冥府の渡し守カロンが亡者を櫂で追いやり、舟に乗せて地獄へと連行していく」とのことで、渡し守には立派な名前がある(ウィキペディア「神曲」)。
  
【渡し守カロン(ギュスターブ・ドレの挿絵より)】
 
【冥界の渡し守カロンが死者の霊を舟に乗せてゆく。(同上)】 
 三途の川は死者すべてが渡るもので、地獄の川というわけではない。一方、アケローン川はあくまでも地獄の川で、善人は渡らなくてもいい。そもそも地獄に落ちないので、アケローン川を見ることもないのである。
 さて、アケローン川が地獄にも現実世界にもあるように、三途川も現実にあることがわかった。群馬県、千葉県、宮城県と青森県にあるらしい。地元の人には珍しくも何ともないと思うが。
 
 映画『沈黙』に戻る。時代は17世紀初頭なので、三途の川は船で渡るのが常識になっていたはずである。宣教師がアケローン川の話をしても、日本人キリシタンたちは抵抗なく受け入れたことだろう。
 

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「神曲」地獄の入り口

2017-08-28 18:24:48 | スペイン語
  ユリウス暦1300年の聖金曜日(復活祭前の金曜日)、ダンテは暗い森に迷い込んだ。
 
 【ギュスターブ・ドレによる挿絵】
「古代ローマの詩人ウェルギリウスと出会い、彼に導かれて地獄、煉獄、天国と彼岸の国を遍歴して回る」(ウィキペディア「神曲」)わけだが、地獄の門に書かれている言葉は有名である。
 「神曲」はこの時代には珍しく、ラテン語ではなく、イタリア語(トスカーナ方言)で書かれている。
 Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate.
 現代のイタリア語と少し違う。現代のイタリア語に直すと、
Lasciate ogni speranza, voi ch'entrate
 となる。
 
 英語では次のようになる。
 
 実は、筆者は高校2年生の夏休みの読書感想文の課題に「神曲」を選んだのである。当然、日本語の翻訳である。地獄の門の言葉は「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」というような訳だったと思う。この言葉は印象的で、記憶に残ってしまった。
 その後、大学の第2外国語でフランス語を、第3外国語でスペイン語を学んだ。さらに趣味でイタリア語もかじった。
 イタリア語はカンツォーネでなじみがある。中学3年生のとき(1964年)、ジリオラ・チンクェッティの「夢見る想い」(Non ho l'età)やボビー・ソロの「ほほにかかる涙」(Una lacrima sul viso)などが流行っていて、意味はわからなかったが、歌詞が耳にこびりついてしまった。イタリア語はスペイン語に似ている印象があったので、スペイン語を学んだついでにイタリア語もかじってみたわけである。かじってみて確かに似ていることがよくわかった。
 「夢見る想い」の一節、“Lascia ch'io viva un amore romantico”はスペイン語の知識だけでも大体理解できるが、イタリア語を少しかじっただけで、完璧に理解できた。英逐語訳では“Let me live a romantic love”。スペイン語では“Déjame vivir un amor romántico”。
 lascia は動詞 lasciare の活用形で、スペイン語の動詞 dejar とは全然、形が違うが、基本動詞である。
 「夢見る想い」はスペイン語版もあり、コスタリカでもヒットしたようである。
 1957年には「コメ・プリマ」(Come Prima)という歌もヒットしていた。タイトルの意味は「最初のように」ということだが、スペイン語に逐語訳すると“Como Primero”となる。この歌の印象的なフレーズも忘れられない。
 Ogni giorno, ogni stante dolcemente ti dirò
(英逐語訳 Every day, every instant sweetly I'll tell you. 西逐語訳 Cada día, cada instante dulcemente te diré.)
 こちらの方はリアルタイムではなく、「カンツォーネ大全集」とか何とかいうLPに入っていて、よく聞いていた。
 この歌で ogni(発音は「オニ」でよい) という言葉を覚えた。
 そして、時が経ち、英文学を勉強することになるのだが、ある授業で E. M. Forster (「インドへの道」は代表作の一つ。映画化もされている)の短編を読んでいた。そのときに出てきたのが、地獄の門のことばである。
  Lasciate ogni speranza, voi ch'entrate
 もちろん英語の原文で読むのだが、突然、イタリア語が出てくるのである。当時の英語の先生は40代。その先生の大学の第2外国語はドイツ語とフランス語だけだっただろう。それ以外の外国語学習はなかなか大変だったことと思う。今ならインターネットですぐに調べがつくが、当時はそうも行かない。調べものをするにも労力も時間もかかる。その先生はお手上げだった。
 ところが、こちらはカンツォーネでイタリア語を少々仕込んでいる。
 lasaciate も ogni も知っている。speranza はスペイン語の esperanza (英 hope)に相当するはずである。entrate は英語 enter (西 entrar)と関連がありそうである。voi はスペイン語の2人称複数代名詞 vosotros に対応するものであることはイタリア語の初歩で習う。ch' は che(発音は「ケ」)の縮約形で、スペイン語の que (この場合は英語の関係代名詞の that)に相当する。
 というわけで、ぴんと来た。これはダンテの神曲に登場する地獄の入り口の文句ではないか。先生が困り果てているところに筆者が和訳させていただいた次第である。


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インヘルノ

2017-08-27 18:47:04 | トリビア
  地獄(インヘルノ)に戻るが、聖書には地獄についての詳しい記述があったかどうか。詳しいのはダンテの「神曲」(La Divina Commedia)の地獄篇(Inferno)である。この作品は14世紀初頭に作られているで、日本に来たキリスト教宣教師たちも当然知っていたことだろう。ボッティチェッリの「地獄の図」(1490年ごろ)も宣教師たちは目にしたことがあるだろうか。
 
 【ボッティチェッリの 地獄の図 c. 1490年】
 時代は下るが、19世紀フランスのギュスターブ・ドレ(Paul Gustave Doré)や1800年前後に活躍したイギリスのウィリアム・ブレイク(William Blake)が描いた地獄の絵も有名である。その他の画像もたくさんあるので、ウィキペディア「神曲地獄篇ダンテ」を参照願いたい。
 1600年前後に日本にやってきたキリスト教宣教師(バテレン)たちの地獄についてのイメージはヨーロッパ人が描いた絵のようなものだっただろうが、そのような絵は日本に持ち込まれたのだろうか。
 一方、日本人キリシタンの側の地獄のイメージは仏教の地獄のイメージしかなかっただろう。仏教の地獄についての詳細はウィキペディア「地獄(仏教)」に譲るが、「地獄の構造は、イタリアのダンテの『神曲』地獄篇に記された九圏からなる地獄界とも共通することがたびたび指摘される。たとえば、ダンテの地獄には、三途の川に相当するアケローン川が流れ、この川を渡ることで地獄に行き着くのである。」という記述もある。
 
 【「地獄絵図」より】
 宣教師や日本人キリシタンたちがこのような絵を実際に目にしたことがあるかどうかはわからないし、宣教師たちに仏教的な地獄についての知識があったかどうかもわからない。しかし、日本人キリシタンたちが「インヘルノ」という言葉を聞いてイメージしたのは上の絵のような仏教的な地獄絵だったことだろう。

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トンスラとフランシスコ・ザビエル

2017-08-26 18:24:46 | トリビア
 映画『沈黙 -Silence-』に登場する宣教師たちの頭髪は長く、頭のてっぺんを剃っていない。
  
 てっぺんを剃ったヘアスタイルは、サッカー選手として活躍したアルシンドのヘアスタイルに似ているが、少し違う。頭髪のてっぺんを剃ったヘアスタイルは「トンスラ」と呼ばれる、カトリックの修道士のものである。詳しくはリンクをご覧いただきたいが、トンスラをしない宗派もあった。日本にやってきたフランシスコ・ザビエルの絵は一応トンスラをしているが、目立たない。
 
 本格的なトンスラは以下の図のようである。
 
 しかしながら、そもそもザビエルが所属していたイエズス会にはトンスラの習慣はなかったので、ザビエルの絵のトンスラは間違いとのこと。以上のことはテレビの番組でも紹介されていた。
 映画中の宣教師たちもイエズス会に所属するものと明記されている(ウィキペディア「沈黙 -サイレンス-」)。当初、日本での宣教が許されたのはイエズス会のみだったが、フランシスコ会やドミニコ会などの宣教師もやってくるようになった(ウィキペディア「日本のキリスト教史」参照)ようである。
 最後に、ザビエルについて一言述べておきたい。
 ザビエルは日本では「フランシスコ・ザビエル」と呼ばれているが、スペイン語表記では“Francisco de Xavier”である。de が入っているのが一つのポイントである。これが入っていると、名門貴族の出の可能性もある。ウィキペディア「フランシスコ・ザビエル」を調べてみると、果たせるかな、「ナバラ王国のパンプローナに近いハビエル城で生まれ、地方貴族の家に育った。」と記されていた。
 
  【ナバラ王国国旗】
 次に「ザビエル」という姓であるが、現在のスペイン語には[z]音はない。手元のスペイン語辞書にも Xavier の項目はない。スペイン語でこれに相当する名前は Javier(ハビエル)だが、姓ではなく男子の洗礼名である。
 実は、ザビエルはバスク人なので、スペイン風の名前とは違うわけである。詳しくはウィキペディア「フランシスコ・ザビエル」を参照されたい。
 ちなみに、Xavier を名乗っている有名人にラテン音楽バンドの Xavier Cugat がいる。
 
 こちらは「ザビア・クガート」と表記されるのが普通である。クガートはスペインのカタルーニャ地方の出身で、5歳のときにキューバに移住したそうだ(ウィキペディア「ザビア・クガート」)。Xavier もそうだが、Cugat という姓もスペイン風ではない。カタルーニャ出身なので、カタルーニャ風の姓なのである。メジャーリーグの選手、Pujols や Puig もカタルーニャの姓とのことである(「カタルーニャを知る事典」より)。
 

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宣教七つ道具(?)

2017-08-25 18:40:21 | トリビア
  日本にキリスト教宣教師(バテレン)がやってきたのは16世紀からである。もちろん、手ぶらで来たとは考えにくい。
 宣教七つ道具というものがあるかどうか知らないが、まず、聖書(西 Biblia、ポ Bíblia)は必携だと思う。グーテンベルクにより活版印刷技術が発明されたのが、15世紀中ごろであるから、印刷された聖書もだいぶ出回っていたのではなかろうか。
 「聖書」の意味の「ビブリア」というキリシタン用語があるかどうか調べてみたが、見つからない。手元のスペイン語辞典の biblia の項目を見てもそれらしき記述はない。聖書の日本語訳がまだ作られていなかったのかと思ったが、そうでもないらしい。ウィキペディア「日本語訳聖書」によると、「聖書の日本語訳は、断片的な試みも含めれば、16世紀半ばのキリスト教伝来時より行われてきた。ただし、江戸幕府による禁教以前の翻訳は、若干の断片を除いて伝わっていない。」とのことである。
  七つ道具(?)の2番目として十字架(西 cruz「クルス」、英 cross)がある。ポルトガル語でも cruz で、ここからキリシタン用語「クルス」になっている。長崎銘菓の名前としても使われている。「十字架の刻印がある洋風煎餅にホワイトチョコレートが挟んである」とのこと(ウィキペディア「クルス」)。
 
  スペイン語 cruz は姓としても使われている。Martínez, Rodríguez, Fernández ほどではなくても、かなり多くの人が Cruz 姓を名乗っている。アメリカの共和党から大統領候補を目指した議員もいるし、野球選手にも数多い。ただし、英語圏では「クルーズ」のように発音されるのだろう。英語に cruise という語があるので、そちらに引っ張られているのかもしれない。
 3番目として、踏み絵にも使われるキリストと聖母マリアの像や絵があげられよう。宣教師たちが持ってきた像や絵がどのようなものかはわからないが、画像は無数にあるので、検索していただきたい。
 踏み絵についての詳細はウィキペディア「踏み絵」を参照願いたい。
 七つ道具の一つのうちに地獄(インヘルノ)絵があったかどうか興味深いところであるが、それについては次回。


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キリシタン用語(6) 地獄:インヘルノ(イヌヒルナ)

2017-08-24 18:27:16 | キリシタン用語
 死後、天国(ハライソ)に行ける人はいいが、悪人には地獄が待っている。
 「地獄」はキリシタン用語では「インヘルノ、イヌヒルナ」である。ポルトガル語 inferno(インフェルノ)に由来する。
  
 【川上澄生の版画より】
 英語も同形であるが、発音はカタカナ表記では「インファーノウ」となろう。英語の inferno には「地獄」のほかに「大火」という意味もある。
 
 そこで思い出すのが、1974年のアメリカ映画「タワーリング・インフェルノ」である。高層ビル火災を描いたパニック映画で、パニック映画の最高傑作と評されている。燃え上がる高層ビルが火炎地獄にたとえられているわけであろう。
 英語の「地獄」は普通、hell というが、inferno には「大火」の意味があるので、映画のタイトルが「タワーリング・ヘル」ではなく、「タワーリング・インフェルノ」になったのだろう。
 英語の inferno の発音は「インファーノウ」の方が「インフェルノ」より原音に近いが、キリシタン用語の「インヘルノ」に影響されたのか、それとも、単にローマ字風に読んだのかは定かではない(一例として、英語の男子名 Graham が「グレアム」ではなく「グラハム」とよく表記されていることを想起されたい)。
 スペイン語では「地獄」は infierno で、ポルトガル語とは少しだけ違うが、キリシタン用語の知識がなくても、「インヘルノ」が「地獄」を意味するであろうことは容易に想像できる。
 ところで、すでに述べたように、英語の「地獄」は hell というのが普通だが、罵り言葉に“Go to hell”はあっても、“Go to inferno”は聞いたことがない。罵り言葉は簡潔でなければならないと思う。inferno というラテン語由来の言葉は日本語の漢語に相当し、日常語彙ではなく、学術用語のニュアンスがあるのではないか。また、hell の1音節に対し、inferno と3音節になると、間延びして、言われたほうも罵られているような気がしなくなるのではなかろうか。


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キリシタン用語(5) 禁断の木の実「マサン」

2017-08-23 21:32:39 | キリシタン用語
  パライソ(ハライソ、パライゾ)であるエデンの園に禁断の木の実がある。ヘビにそそのかされてエバが食べてしまう話はキリスト教徒でなくても知っている。
 
 【フーゴー・ファン・デル・グース 『人間の堕落』。15世紀】
 その木の実は一般的にリンゴだと考えられているようだが、実は旧約聖書に木の名前は書かれていない(『創世記』第3章)。
 そもそも、リンゴは暑さに弱い果物である。ウィキペディア「リンゴ」の項目で、「当時旧約聖書の舞台となったメソポタミア地方にはリンゴは分布せず、またその時代のリンゴは食用に適していなかった」と述べられている。 
 それでは、どうして禁断の木の実がリンゴと考えられるようになったのか。ウィキペディア「禁断の果実」には次のように書かれている。

 西欧では、禁断の果実はしばしばリンゴの実とされるが、これはラテン語で「善悪の知識の木」の「悪の」の部分にあたる「malus」を、同じつづりの「リンゴ」の意味と取り違えてしまったか、二重の意味が故意に含まれていると読み取ってしまったものとされる。「malus」は「邪悪な」を意味する形容詞だが、「リンゴ」の意味の名詞も「malus」になる。

 ちなみに、スペイン語では「リンゴ」は manzana(マンサーナ)というが、手元のスペイン語辞典による語源の解説は次のとおりである。

 mala Matiana「マティウスのリンゴ(複数)」(リンゴの一種で、紀元前1世紀の農学者 C.Matius にちなんでつけられた名称)に由来するという説が有力
 
 それでは、西欧以外では禁断の木の実は何をさしているのだろうか。ウィキペディア「禁断の果実」によると、ブドウ、ザクロ、ナシ、イチジクなどがあげられている。スラブ世界では何と、トマトこそ禁断の果実だとする地域もあるそうである。
 しかし、トマトはペルー原産でヨーロッパにもたらされたのは16世紀以降であろう。さらに言えば、トマトは木ではない。「違いがわかる辞典」では「植物学では、木と草に本質的な違いはないとしている」そうだが。
 禁断の木の実が何かという言及が『創世記』にはないが、謎の木の実だからこそ、知恵の木の実なのだろう。

 さて、ここで日本のキリシタン世界に戻る。「キリシタン用語集」には禁断の木の実は「マサンの実」と呼ばれている。
 「マサン」とは「リンゴ」ではないかと想像されるが、実際、ポルトガル語では「リンゴ」は maçã(マサン)である。どうして、ポルトガル語そのままで、日本語に訳さなかったのだろうか。
 「リンゴ」という日常用語に訳してしまったら、宗教的荘厳さというかありがたみがなくなってしまうからだろうか。お経同様、わからないからこそありがたいということだろう、と思っていたが、実は、現在、日本で栽培されているリンゴ(西洋リンゴ)が日本に持ち込まれたのは、明治4年(1871年)で、それまでのリンゴは「和リンゴ」という粒の小さな野生種…いわゆる「観賞用」のりんごだったとのことである(「リンゴミュージアム」)。
 というわけで、1600年前後に「マサン」(maçã)を「リンゴ」と訳せるはずもなかったのである。
 


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キリシタン用語(4)ハライソ(パライソ、パライゾ)

2017-08-22 18:29:08 | キリシタン用語
 前回、少し「ハライソ(パライソ、パライゾ)」について触れた。これはポルトガル語 paraiso に由来するキリシタン用語である。スペイン語では paraíso とつづられるが、発音はほぼ同じである。英語の paradise も同語源である。手元の辞書によると、これらの語は「庭」を意味するギリシャ語に由来するらしい。
 英語には Paradise の類義語に heaven がある。こちらの方は古期英語「空」に由来するとのこと。スペイン語にも英語同様、「空」を意味する、cielo という語がある(ポルトガル語では céu。フランス語では ciel)。日本では白髪染めの製品の名前としてご存知の方もいるかもしれない。ただし。アクセントがスペイン語とは違っているが。
 cielo という語も「空」の意味の他に「天国」という意味も持っている。しかしながら、手元の辞書には cielo が何らかのキリシタン用語と関連があるというような記述はない。
 さて、天国(cielo)はどこにあるかというと、天がある上の方ということになるが、楽園(paraíso)はどこにあるのだろうか。
 
 【エデンの園(ルーカス・クラナッハ画)】
創世記」2.8には「主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた」とある。旧約聖書のことだから、聖地エルサレムの東の方だろう。現在のイラク、チグリス・ユーフラテス川の河口あたりだろうというのが通説のようである。
 
 【エデンの園(エラストゥス・ソールズベリー・フィールド画)】
 そうすると、日本人キリシタンにとってはパライソは西の方にあるということになる。「キリシタン用語集」の「パライソ」の項目を調べていたら、次のような記述があった。

 英語のparadiseに相当、天国のこと。しかしカクレキリシタンの中でもそれがどこにあるのかという問いにはっきりと答えられる人は少なく、オラショや伝承の限りでは海の彼方にあるようにも取れる。このことは生月に伝わるオラショの中でローマの寺(教会)やジュルジャリン(イェルサレム)とパライゾのイメージが混同されていることからも見て取れる。

 エデンの園もエルサレム(西 Jerusalén「ヘルサレン」)も日本から見れば、西の方である。
 ところで、キリスト教が日本に伝わる前、仏教では西方浄土という名の極楽があると考えられていた。四字熟語辞典オンライン西方浄土」には次のように書かれている。

 阿弥陀仏がいるとされ、人間界から西方に十万億土離れている極楽浄土のこと。

 パライソは言ってみれば、西方浄土のキリスト教バージョンなのかもしれない。
 「パライソ」という言葉は映画『沈黙 -Silence-』にも出てきた。
 ちなみに、筆者も何度か Paraíso に行ったことがある。もちろん、一度死んでから行ったわけではない。コスタリカのカルタゴ州の州都カルタゴの近くに Paraíso という町があり、たまたま通りかかっただけのことであるが。とても「極楽」という感じはなく、何の変哲もない町だった。その昔、そのあたりに入植した人たちが、理想郷を作ろうという気持で、そんな名前をつけたのだろう。
 Paraíso という名前の町はラテンアメリカを中心として結構あるようである(ウィキペディア「パライソ」)。

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キリシタン用語(3) フライ、フライレ、イルマン、サセルドーテ

2017-08-21 18:29:56 | キリシタン用語
 パドレとバテレンの使い分けについての補足。
 映画『沈黙 -Silence- 』では日本人キリシタンがポルトガル人宣教師(神父)に「バテレン」ではなく、「パドレ」と呼びかけていた。
 ポルトガル語 padre がなまったものが「バテレン」で、「バテレン」も本来は「神父」の意味であるが、「キリスト教」、「キリスト教徒」の意味にもなった。筆者のイメージでは「バテレン」は神父ではなく、キリスト教(徒)を指すような感覚である。それゆえ、もし、日本人キリシタンが神父を「バテレン」と呼ぶと違和感がある。実際のところは、神父はキリシタンたちから映画の場面のように、「バテレン」ではなく「パドレ」と呼ばれていたものと推測する。
 
 本題に入る。サンディエゴ・パドレス(San Diego Padres)のマスコット・キャラクターは Swinging Friar である。friar とは「(カトリックの)托鉢修道士」という意味で、「神父」ではない。神父も修道士もカトリック以外の者にとっては、似たようなものかもしれないが、やっぱり違うのである。
 friar はラテン語 frater「兄弟」に由来する(fraternity は関連語)。friar はスペイン語では fraile という。
 「~師」というような場合は、英語では Fra、スペイン語では Fray となる。ポルトガル語はスペイン語と若干違うようだが、キリシタン用語「フライレ」、「フライ」として日本語に入ってきた。
 修道士に呼びかけるとき、英語では brother というが、これは役職につかない平の修道士に限られる。brother に相当するのが hermano(エルマーノ)で、英語同様、役職についていない修道士である。手元の辞書の hermano の項の説明では「司祭の資格を持たない修道士」と書かれている(コスタリカでは hermano は「幽霊」という意味にも用いられると書いてあるが、女房殿の話では聞いたことがないそうである)。
 スペイン語の hermano はポルトガル語では irmão というが、これがキリシタン用語「イルマン」になった。このことばは映画『沈黙 - Silence -』でも出てきたと思う。
 英語の friar もスペイン語の fraile も男に限られるようだが、女でも神に仕えたい人がいる。friar や fraile に相当する女性托鉢修道士がいるのかどうかよくわからないが、シスター(sister)という言葉が修道女の意味で使われている。
 sister はスペイン語では hermana (エルマーナ)で、hermano の女性形である。ポルトガル語では irmão の女性形 irmã で、男性形と発音はほとんど同じはずである。
 日本にやってきた宣教師はみんな男性だったと思う。女性宣教師というものは聞いたことがない。キリシタン用語の「イルマン」はポルトガル語 irmão(兄弟の意)からという説明しか見当たらないのも当然だろう。
 スペイン語の「神父」padre というのは sacerdote「司祭」に対する敬称だそうである。sacerdote はポルトガル語でも同形で、これがキリシタン用語「サセルドーテ」になった(手元の辞書の説明)。
 カトリック教会では聖職者は男に限られており、女性は「神父」padre にはなれない。それでは、マザー・テレサのマザー(mother、西 madre)は何なんだということになるが、スペイン語の madre は修道女に対する敬称なんだとか。英語の mother は「女子修道院長」のことらしい(手元の辞書)。
 何にしても、マザー・テレサも若いころはシスター(sister、西 hermana)と呼ばれていたのである。
 前回、紹介したが、スペイン語の madre には《北米》「セクシーな女」という意味もある。Teresa という女性名もありふれているので、セクシーな Teresa さんはさぞかし、Madre Teresa と呼ばれていることだろう。

 ところで、スペイン語の親族名称は簡単に覚えられる(ポルトガル語も似たようなもののようである)。
 英語では father-mother、grandfather-grandmother, son-daughter, uncle-aunt, nephew-niece のように男女のペアで覚えるが、スペイン語では次のようになる
 padre-madre(父母)、abuelo-abuela(祖父母)、hijo-hija(息子、娘)、tío- tía(おじ、おば)、sobrino-sobrina(おい、めい)
 父母以外は男性形さえ覚えておけばよい。親族名称が複雑なのは中国語だが、煩雑になるので、ここでは述べない(「中国親族、親戚は意外と複雑?関係性一覧図。親族」参照)。韓国語も中国語と同様、難しい。これらに比べれば、スペイン語は天国 (paraíso、キリシタン用語では「パライソ」、「パライゾ」、「ハライソ」)である。
 

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キリシタン用語(2)バテレン(パードレ、パーデロ)、パッパ(パーパ)

2017-08-20 17:13:28 | キリシタン用語
 前回、米大リーグのチーム、パドレス(Padres)に触れたが、大リーグの30チーム中、スペイン語のチーム名を名乗っているのは、パドレスだけである。
 
 【パドレスのマスコット「スウィンギング・フライアー」(Swinging Friar)。ウィキペディア「サンディエゴ・パドレス」の写真より】

 ところで、このブログでは、その他の大リーグのチーム名についても取り上げている。「メジャー・アメリカンリーグのチーム名」、「メジャー・ナショナルリーグのチーム名」、「ヤンキース考」で述べているので、興味にある方はそちらをご覧いただきたい。
 英語そのままのものもあるが、できるだけスペイン語に訳している。日本ではそのままカタカナ表記しているが、「パドレス」が「バテレンズ」にならないものだろうか。
 
 さて、スペイン語 padre の第一義は「父」で英語の father に相当する。英語に papa というくだけた言葉があるが、スペイン語でこれに相当するのが、papá である。papa とやると、ラテンアメリカでは「ジャガイモ」の意味にもなるので要注意である(スペインでは「ジャガイモ」は patata という。英語の potato と同語源。patata についての考察は「パパはどこへ行ったの?(1)」、「パパはどこへ行ったの(2)」、「パパはどこへ行ったの(3)」、「パパはどこへ行ったの(4)」参照)。
 スペイン語の papa には「ローマ法王」の意味もある。英語の Pope に相当する。手元の英和辞典によると、Pope はギリシャ語の「父」の意からと書かれている。 
 このブログのどこかですでに述べているが、「ローマ法王のお父さんはジャガイモを食べる」をラテンアメリカのスペイン語で言うとこうなる。
 El papá del Papa come papa.
 それはともかく、カトリック教会では Papa の方が padre より上位にあるということである。
 ちなみに Papa はポルトガル語でも同形である。ここから日本に伝わり、「パッパ」または「パーパ」になったとのことである。 
 
 余談になるが、米大リーグのチーム、パドレス(Padres)の本拠地はサン・ディエゴ(San Diego)について一言。
 San は「聖」を表す。Diego は男子の洗礼名であるが、手元の西和辞典には次のような記述がある。

 〈古スペイン語 Diago, Santiago(← Sant Iago;Iago は[後ラテン語]Jacobus‘Jacob’より)が誤って San Diego と解釈された。

 何にしても、San Diego と Santiago(チリの首都の名前でもある)は経緯はどうあれ、関係がある。詳しくは「
Santigago Matamoros」の項をご覧いただきたい。

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キリシタン用語 「キリシタン」、「バテレン」 

2017-08-19 18:26:29 | キリシタン用語

 映画『沈黙 - Silence -』にはいわゆるキリシタン用語が出てくる。
 「キリシタン」ということばがその筆頭である。「切支丹」という漢字表記もよく目にするが、「吉利支丹」という表記もある。さらには侮蔑を込めて“切死丹”、“鬼理死丹”という当て字も使われるようになったとのこと(ウィキペディア「キリシタン」参照)。
 「キリシタン」の語源はポルトガル語の Cristão で、スペイン語では cristiano という。英語の Christian と同語源であることはいうまでもない。
 スペイン語の cristiano には「キリスト教徒」という意味のほかに《口》「人、人間」という意味がある。さらにラテンアメリカでは「お人よし、単純な人」という意味もある(筆者の手元の辞書、小学館『西和中辞典』による)。
 研究社の「新英和中辞典」(第5版)には英語の Christian の名詞用法として「キリスト教徒」の他に《口》「立派な人、文明人、人間」という意味も記載されている。
 裏を返せば、キリスト教徒でなければ、立派な人、文明人ではなく、さらには人間でさえないということである。
 まったく、「キリスト教徒にあらざれば、人にあらず」である。

 映画の中で神父たちは「パドレ」(padre)と呼ばれていたが、スペイン語も同じである。スペイン語の方は英語の father と同様、もともと「父」の意味であるが、英語と同様、「神父」の意味にもなる。
 ポルトガル語の padre はもっぱら「神父」の意味のようで、「父」は pai というそうである。
 padre ということばから、「バテレン」(「伴天連、破天連」とも表記される)ができた。本来は「カトリックの宣教師(神父)」の意味であったが、「キリスト教(徒)」の意味にもなった。
 
 カトリックのことを「天主教」と言っていたが、大正時代までこの呼称が用いられていたとのこと。
 神父は「天主」と伴(とも)にあるので、「伴天連」はなかなかいい漢字を当てはめたものである。
 この padre は米大リーグのチーム名としても使われている。サン・ディエゴ(San Diego)を本拠地とする「パドレス」(Padres)である。野球チームに「神父」とはちょっと辛気臭い感じもするが、実は、padre には形容詞用法として「すごい、かっこいい、いかす」という意味もあるのである。
 手元の辞書の例文を一つ紹介する。
 ¡Qué padre madre!
 英語に逐語訳すると“What father mother!”で、何のことかわけがわからないが、「いかす女だなあ」と訳されている。  


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『沈黙 Silence』を見て考えた(2)

2017-08-18 18:07:00 | スペイン語
  17世紀初頭のカトリックの東洋への布教の拠点はマカオである。マカオには最近行ってきたばかりで、聖ポール教会跡も訪れている。教会前の階段らしきところが映画『沈黙 - Silence -』にも出てきたが、現在の姿は下の写真のようになっている。
 
 1835年の台風時の火災によって天主堂は消失し、現在はファサードが残るのみだが、16世紀初頭はアジア最大のカトリック教会で、宣教師たちの拠点になっていた。
 教会跡についての詳しい説明はウィキペディア「聖ポール天主堂跡」をご覧いただきたい。
 ということで、実際に日本に来た神父たちはポルトガル語を話していたのだが、映画『沈黙 -Silence- 』の方はハリウッド製なので、俳優たちは英語を話している。仕方がないとはいえ、ポルトガル語で話してくれないのが残念至極である。

 聖書関連のハリウッド映画の言語はほとんど英語であるが、唯一(かどうかはわからないが)の例外は2004年、メル・ギブソン監督主演の『パッション』(The Passion of the Christ)である。全編、アラム語、ヘブライ語、ラテン語が使用されていて、英語圏では英語の字幕がついていたはずで、日本では日本語の字幕がつけられていた。
 アラム語、ヘブライ語はともかく、ローマ兵が話すラテン語は字幕がなくてもわかるところがあった。数の数え方はラテン語の末裔であるスペイン語に当然ながら似ている。
 映画『沈黙』でも神父の祈りの部分の有名なところはラテン語であろう。祈りの最後の言葉はスペイン語では“Espíritu Santo, Amén”(Holy Spirit, Amen)というが、映画でも全く同じように聞こえた。
 念のために調べてみた。
 ラテン語:In nomine Patris, et Filii, et Spiritus Sancti. Amen
 ポルトガル語:Em nome do Pai,e do Filho,e do Espírito Santo.Amém
スペイン語:En el nombre del padre, y del Hijo,y del Espíritu Santo. Amén.
 日本語訳:父と子と聖霊の御名において。アーメン。
 どうも、映画の中の祈りの言葉はラテン語ではなく、ポルトガル語のように聞こえた。DVD はもう返却してしまったので、確かめるにもまたレンタルの費用がかかるので、やめる。
 この映画は DVD の字幕スーパー版で見たのだが、日本語吹き替え版はあるのだろうか。あるとすれば、いろいろと疑問が湧く。
 英語のせりふを日本語に吹き替えるのは当然として、もとからの日本語のせりふはそのままにするのだろうか。日本語のせりふしかない俳優はそれでもいいだろうが、英語と日本語のせりふがある俳優の場合は、オリジナルで英語を話しているのか、日本語を話しているのかわからなくなるではないか。
 ペルーでドラマ『将軍』を見たときのことを思い出した。オリジナルでは島田陽子が英語と日本語を話していたが、スペイン語吹き替え版がとんでもないことになっていた。
 英語のせりふをスペイン語に吹き替えるのは当然として、日本語の部分も同じ声優が日本語で話しているのである。スペイン語の時と日本語の時とで、島田陽子の声が変わってしまうのを避けるために、そうしたのだろうが、声優の日本語のアクセントとイントネーションが不自然極まりないものだったのである(「テレビドラマの吹き替え、コスタリカのテレビCM等」参照)。
 

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『沈黙 Silence』を見て考えた

2017-08-17 17:17:30 | トリビア
 遠藤周作の小説原作の『沈黙 -サイレンス-』を見た。
 
 考えることはいろいろあるが、まず「神の沈黙」について一言。
 ロドリゴ神父が十字架にかけられたイエス同様、「神よ、なぜ私をお見捨てになるのですか」と言った。
 このイエスの言葉は『マタイによる福音書』 にも『マルコによる福音書』にも記述がある。元は旧約聖書 『詩編』 第22編冒頭の言葉である。
 ところで、キリスト教の「神」(英 God, 西 Dios ラテン語・ポルトガル語 Deus)や多神教の神々などは人格を備えている。イスラム教のアッラー(「神」の意)もそうである。
 詳しくは「人格神とは」を参照されたい。
 神が人格を備えているからこそ、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という言葉も出てくるのだろう。もし人格がなければ、見捨てるも何もないではないか。
 アインシュタインには「神は強い筋肉を持っているが人格は持たない」という言葉があるそうだ。詳しくは牧村和幸氏のサイトをご覧いただきたい。
  神を人格的存在とは認めないものに、「理神論」(英 deism、西 deísmo) や「汎神論」(英 pantheism、西 panteísmo) があるが、これらの考え方に賛同するかどうかはともかく、17世紀初頭のカトリックの常識としては、神には人格があるのが当たり前だったことだろう。そうでなければ、父と子と聖霊の「三位一体」(英 Trinity、西 Trinidad)などありえない。
  万一、神父ともあろうものが神の人格に疑問を持つようなことがあれば、異端審問にかけられ、最悪の場合、火あぶりに処せられたかもしれない。
 前置きはここまで。以下、次回。
 

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