※ これは下書きまで書いた昨日のブログである。私がかつて“注ぎ殺し”と命名した人等と飲みジャケットと共にスマホを忘れて帰った。あの男に色の無いアルコールのボトルを任せたら危険なのである。
タイトルの句は芭蕉が奥の細道に旅立つ前後に書かれたといわれている。それはともかく。未だどこかで草庵=茅、藁葺きの東屋、というイメージが引っかかっている。すでに板葺きで完成に向かっているのに。もっとも草庵といっても、慎ましやかな小屋ということで、バカ正直に草葺きにこだわることもないと思うのだが。板葺きの方が金がかからずプリミティブだろう。茅葺きは田舎に行けば未だにあるが、板葺きに重しの石コロなんて家はそうそうないだろう。しかし門弟が肖像画を複数残したおかげで実像にこだわった芭蕉本人はともかく、芭蕉記念館という施設の性格上、パブリックイメージも尊重すべきか。 今年制作の芭蕉の坐像をこちらを展示する深川江戸資料館に見学ついでに届けた。漆喰作業も佳境となる。外出時は乾かすため常に扇風機全開のまま。芭蕉庵に関しては時期により三軒の存在が確認されているものの、正確な情報はない。後年描かれた庵も、茅葺きは多いものの板葺きもある。 余計な創作をせず、芭蕉記念館を訪れる方々の想像の余地を残す方向を考えたいところである。出立後、庵を譲り渡した人物は判っている。私のイメージとしては、旅に向け荷物はすでに整理され、室内はガランとしている。愛用した文机と、煙草盆、門弟が師匠のために米を持ち寄り貯めたというヒヨウタン。ついでに後に発見される石蛙も。(これは後年の作のような気がしないでもないが)ポツリと残されている。いずれも愛着あっても旅には持っては行けない。”立つ鳥跡を濁さず何を残すか“そんなことを考えながら寝転がって下から芭蕉庵を眺めていて、軒下に残された燕の巣というのはどうだろう。
盃に泥な落しそ村燕
壁土の家する木曾の燕哉
煤ぼりて埃たく家になく燕
先ほどまで外で広瀬すずが俳句ドラマ?かなにか知らないが記念館のすぐそこでロケをしていたらしい。板葺き、茅葺きなんかで悩んでないで、とっとと早く来れば良かった。という話しである。
※ 一晩経って着彩を開始した本日。この後に及んで茅葺きに変更方向に傾いている。