明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



搬入直前に屋根の仕様を板葺きから茅葺きに変更とは。一度記念館に納めたら、屋根と本体を固定してしまうし変更は利かない。板張りも馬糞紙を水に浸けてあえて板の歪みを演出したのだが。 計三期の芭蕉庵、茅葺きより原始的で費用もかからない板葺きがあってもおかしくはない。しかし草庵のイメージといえば、茅葺、藁葺きではある。イノシシが出て廃村になった村で茅葺きの家に住んだこともあるが、刈り込まれた断面に厚みがあった。しかし後世に描かれた物てはあるが、そこに描かれた多くの茅葺きは、茅を集めてただ被せたような、ヅラを被せたような、キチンと刈り込まれた茅葺きではなく、素朴な、如何にも草庵である。これならば可能であろうと判断した。 数々の芭蕉庵の図で、承服出来ないのが、四角の箱を地面にただ置いたような庵が多いことである。当時の海辺の湿地帯である深川において、床下に湿気の逃げ場がなく、まして台風時などこれではひとたまりもない。台風のたびに水が出た昭和三十年代、葛飾区某所生まれの私からすれば、深川に来たこともない地方の絵師が後年想像で描いたとしか思えないのである。 着彩を進めながら屋根の大改造に着手。本当に良いのか?

 



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※ これは下書きまで書いた昨日のブログである。私がかつて“注ぎ殺し”と命名した人等と飲みジャケットと共にスマホを忘れて帰った。あの男に色の無いアルコールのボトルを任せたら危険なのである。

タイトルの句は芭蕉が奥の細道に旅立つ前後に書かれたといわれている。それはともかく。未だどこかで草庵=茅、藁葺きの東屋、というイメージが引っかかっている。すでに板葺きで完成に向かっているのに。もっとも草庵といっても、慎ましやかな小屋ということで、バカ正直に草葺きにこだわることもないと思うのだが。板葺きの方が金がかからずプリミティブだろう。茅葺きは田舎に行けば未だにあるが、板葺きに重しの石コロなんて家はそうそうないだろう。しかし門弟が肖像画を複数残したおかげで実像にこだわった芭蕉本人はともかく、芭蕉記念館という施設の性格上、パブリックイメージも尊重すべきか。 今年制作の芭蕉の坐像をこちらを展示する深川江戸資料館に見学ついでに届けた。漆喰作業も佳境となる。外出時は乾かすため常に扇風機全開のまま。芭蕉庵に関しては時期により三軒の存在が確認されているものの、正確な情報はない。後年描かれた庵も、茅葺きは多いものの板葺きもある。 余計な創作をせず、芭蕉記念館を訪れる方々の想像の余地を残す方向を考えたいところである。出立後、庵を譲り渡した人物は判っている。私のイメージとしては、旅に向け荷物はすでに整理され、室内はガランとしている。愛用した文机と、煙草盆、門弟が師匠のために米を持ち寄り貯めたというヒヨウタン。ついでに後に発見される石蛙も。(これは後年の作のような気がしないでもないが)ポツリと残されている。いずれも愛着あっても旅には持っては行けない。”立つ鳥跡を濁さず何を残すか“そんなことを考えながら寝転がって下から芭蕉庵を眺めていて、軒下に残された燕の巣というのはどうだろう。

 盃に泥な落しそ村燕

 壁土の家する木曾の燕哉

 煤ぼりて埃たく家になく燕

先ほどまで外で広瀬すずが俳句ドラマ?かなにか知らないが記念館のすぐそこでロケをしていたらしい。板葺き、茅葺きなんかで悩んでないで、とっとと早く来れば良かった。という話しである。

※ 一晩経って着彩を開始した本日。この後に及んで茅葺きに変更方向に傾いている。

 



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今年没後50年の作家、三島由紀夫が死の直前に企画した幻の写真集「OTOKO NO SHI」(男の死)が、国内で50万円(税別)の大型書籍として出版。 ネット上の説明を読むと、すっかり生きてる人達の都合に書き換えられている。という印象である。 出版契約書に実印を押し、数日後の行動に対し、「右翼の奴ら見ていろ!」といった三島。事件そのものは左右陣営問わず三島にやられた、と衝撃を与え、それは三島の意図通りだったろう。だがしかし、三島のアイデア通り、死の直前まで篠山紀信を己のマスターべーションに付き合わせ、その『男の死』は事件の直後、二の矢となって世界に放たれるはずであった。あの時であれば単なる”魅死魔幽鬼夫“のマスターべージョンであることにこそに意味があった。 ニューヨーク版のカバーの三島由紀夫の死んだフリは、期待に満ちた顔に私には見え、それが私には痛ましく可哀想でならない。長い間この事に対して言いたいことも書き尽くし、やり尽くしたが、新しいニュースを目にするたび、つい反応してしまうのである。三島の意図通りには行かず、とんだことになった。



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ホームセンターへ。何度通ったことだろう。おかげでつい余計な金魚を買ってしまったりした。ブラントである志村養魚場産の金魚など入荷するので侮れないのである。 詳細な図面があるわけではなく、予定や気が変わるで、一度に材料を買うと無駄になる。屋根の板など、張る段になり、歪みを演出するため馬糞紙を使うことを思い付き、買った板が無駄になってしまった。多少の無駄は、寒山拾得の逆遠近に歪んだ室内背景を作る時に流用しよう。なんて書いていながら私はなんて奇妙なことをいっているのだ、と思うのだが。 出無精をこじらせたこともあるが、好奇心を自分の頭の中のイメージだけに向けたことで、人の作品に対する興味が薄れてしまった。一度入ったものは出て行かない。これをずっと恐れて来た。おかげで他人からの影響をたいして受けることがないので、常識を身につけることなく、あらぬ方向、ペンペン草一本生えない荒地に平気で歩いて行ける。古典技法などほとんどやる人がいない時代に写真の素人がオイルプリントを独学出来たのも、そのためである。しかしこれで案外客観的な部分も持っていて、自分独自の、新たな、寒山拾得を作るなんてことはゆめゆめ考えることなく、写真で寒山拾得を実現すれば充分である。というより、そうでなくてはならない。寒山拾得とは、そういうモチーフである。 友人が、また私が寒山拾得などと馬鹿なことをいっている、と92歳の母親にいったら、何をいっている。この人はエライ!といわれたそうである。判る人には判るのである。



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五月の個展について飯沢耕太郎さんが書いていただいていたのを今ごろ気が付いた。アートスケープもっとも過酷な自粛の時期に開かれたので有難いことである。ここのところ、この時のことを書く際にタイトルに”椿説“を入れるのをすっかり忘れていた。これはこのモチーフに対する私の心意気を示す言葉であり、ニューヨークでこの後十月に“真説”が出版された今、余計意味が出て来た。作者が個展のタイトルを間違えてはいけない。改めて読ませていただき、さらに次の段階に猛進する事を誓った。私のようなタイプの人間の常で、部屋は片付けられないけれども、集中力だけは、クレヨンを握ったまま寝てしまいシーツを汚して叱られた、物心ついて以来衰える事がない。  塗った漆喰を乾かす。やはりにわか左官屋ではなかなか上手くは塗れず、昭和のスナックの壁の如き様相になる。乾かしてペーパーがけ、乾き次第、また塗ってを繰り返すことになるだろう。我が家の寒山拾得水槽は、気が付くと出演メンバー以外の金魚が紛れて過密状態である。年内に水槽を増やさないとならないだろう。



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屋根は完成した、といったのは、昨日の私である。ラブレターをポストに投函するのは一晩明けてからにすべきである。今日の私は、完成してないじやないか、とここもあそこも、といっているウチに夜になってしまった。夕飯の買い物に行く前に、漆喰を作る。勿論本物の漆喰ではないけれども。一時間ほど練り続けた。漆喰を済ませない限り、すっピンの女性みたいなもので画像アップもままならない。これにより様々な出来事を壁に塗り込め完成に向かう。 夜、工芸学校時代の友人に電話してみる。岩手県は中尊寺の近くで陶芸をやっている。二回遊びに行ったことがある。実家は巨木に囲まれていて、手を伸ばすと隣家に触れてしまうような東京の下町育ちには驚きであった。小学生の娘がいたが、というと、もう三十過ぎだと聞いて驚く。私のように子供が大きくなったり、新入社員が入ってきたりしない生活とは、鏡がない世界で生きてもいるようなものである。気が付かないうちに時間が過ぎている。二回目は田村写真の田村さんと、写真撮りながら青森に行く途中に遊びに行った。私は寺山像を持って三沢周辺で撮影し、寺山記念館まで行った。あの頃は、今と違って人形持って出かけては数十カットをものにして帰って来た。撮影していて「寺山修司だ。」と始めていわれた。 作品の手法、モチーフの変化にはさすがに時間経過が刻まれている。友人には、話が長くなるし、説明もし難いので寒山拾得の話はしなかった。



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板葺きの板は風雨にさらされ、歪んだり、反ったりしている感じを出そうと、ボール紙、昔の馬糞紙をカットし、一晩水に浸けて乾かした物を使った。今時のボール紙ではなく、かつて馬糞紙と呼んだのを思い出し注文したが、それでも昔の物より洗練されていた。結局早朝から始めて深夜までかかった。これで外観に関しては、縦目の板が足りなくて一枚しか作っていない出入り口の戸板一枚を作れば、おおよそ完成である。これで手順上、後回しになった漆喰に取り掛かかれる。 それにしても、何が大変だったといって、私の辞書には直線、直角、垂直など全く載っていないことである。人間像を作る上には無縁である。これはどう考えても、石塚式ピクトリアリズムにおける陰影の排除に次いで、逆遠近法を取り入れるために、背景を予め逆遠近に作っておき撮影するために、芭蕉庵で練習しておけ。という天のお告げ?としか思えず。フォトショップで歪ませるだけでは写真である。という先入観に阻まれ失敗。私が日頃見る人の写真に対する先入観を利用していて、ここへ来て逆襲を食らった。逆遠近法的直線の活きる風景といえば室内風景しかない。 

 



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出来た出来たといいながら気になるところが出てきてやっている。そのあいだに板葺き屋根の板をひたすら切る。天候さえ良ければ、明日の夜には板葺き屋根が完成する予定である。その上にはいくつか石を乗せて押さえる。いずれ着彩の後には草が生える予定。腰痛がこれ以上きつくなる前に完成させたい。 買い物ついでの図書館で水墨画の『寒山拾得』が載っている書籍を観る。素人が描いた下手くそな寒山拾得みたいだな、と思っていたら、昔の東京美術大学を出て有名画家に師事し、勲章や文化功労賞まで貰っている。この国は、こんな下手くそになんて扱いしていやがる、と呆れかえる。肩書きばかりで、死ぬと作品の値段が暴落する典型的な例である。というよりこんな作品を買う人間がいるとは思えず。これが禅味だとでもいうのだろうか。今生きてるかは知らないが大学でも教えている。こんな下手くそが一体何を教え伝えているのか。 何度か書いたことがあるが、博物館に行くと、父から子へ、師匠から弟子へ、連綿と受け継がれて行き、だんだん良くなるはずが、どうもそういう訳には行かず、むしろ今では作り方さえ不明な作品もある。これらを眺める度、誰に教わる訳でなく、独学者の遅遅として進まない廻り道を感じていた私に“これで良いのだ”と思わせてくれるのである。この廻り道にこそが肝腎であり、手を差し伸べられては得られない何かがあるはずだ、と思うのである。そして一歩進んだ歴史を二歩下げるようなこんな輩がちゃんと作用していて、おかげで博物館で先人の功績に関心し「昔は良かった。」と堪能が出来る、という仕組みなのであろう。



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数ヵ所壁を張っていないところを塞ぐ。入り口の戸を1枚残してすべて塞がる。漆喰を早く塗りたかったが、下地をまずやっておかなければ後々面倒になる、と予定より遅くなかった。普段段取りなど、あまり考えていないので勝手が大分違う。当初出来た所からやってしまって、後になって剥がしてやり直しして、さすがに段取りを考えるようになった。 今回改めて思ったのが、昔住んだ屋根裏部屋とか、神社で遊んだ記憶などが案外戦力となった。昔、仕事である外人アーティストを作った時、現在の写真やビデオを参考資料に貰ったのにも関わらず、そのまた昔、音楽雑誌で見ていた頃のその人になってしまっており、人に指摘されるまで気が付かない、ということがあった。つまり目で見たことより頭の中のイメージが優先してしまう、というタチな訳で、子供の頃、図工の時間は大好きなのに、写生となるとまったくやる気が出ずへこみ、シャッター押すととりあえず見たまま写る写真に長らく興味を持てなかった理由も、それで解釈が出来そうである。また自分で作った物を被写体とし、撮影することにより、眉間にレンズを向ける疑似“念写”が可能になることを見つけ、その道具、手段としてのカメラ、写真がようやく好きになった。陰影を排除した石塚式ピクトリアリズムに至ったのは全くの必然であったろう。そう思うと、頭に浮かんだイメージは何処へ行ってしまうのか、と悩んだ幼い私であったが、どうもその一点に取り憑かれた一生といえそうである。



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草庵  


芭蕉庵の事をよく草庵というが、本来、茅、藁葺きの庵の事をいうらしい。高さ70センチとなるとそれなりのリアル感が必要となるが、縮尺に合う素材がなく、板葺きにする。全部で三軒が確認されており、板葺きがあってもおかしくはない。ただたかだか十畳程の平屋に、ここまで堅牢な屋根裏が必要なのか、という懸念があった。本日、元大手ゼネコン部長のMさんが、用事ついでに産経新聞の石原慎太郎の三島由紀夫に関するインタビュー記事を届けてくれたので、見て貰った。おそらく学生時代には建築模型など作っただろう。するとこれでおかしくないということで安心する。むしろ強度を心配されていたようだが、事前にアドバイスを貰っていたので、屋根、本体共に、ひっくり返しての作業も可能である。ついでに今はなき木場の酒場『河本』の解体現場から救い出したカウンターを見たいというのでサーフボードを自慢するサーファーのように披露。 石原慎太郎のインタビューは良かったが、小学生の時、母が隠していた『スパルタ教育』を母より先に読んでしまって以来の石原嫌いである。初対面で「思っていたより小さいですね。」なんていうか?三島と逆にデカいことが悪い作用をしている。




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先日のブログで、三島の命日11月25日がすでに過ぎてしまったつもりでいた。数字に弱い事もあるが、むしろ全方位的方向音痴のせいだろう。1年に1度、これから暑くなるのか寒くなるのか一瞬考えることがある。 芭蕉芭蕉庵制作も、頭を使う場面もなくなってきた。仮に屋根を乗せてみて、開口部から屋根裏を眺めてみている。丸太を削り出した、という設定の梁を見ていると、二十歳で住んだ、岐阜の瑞浪の屋根裏部屋を思い出す。やたら寒く、水道を夜中の間、少し出しておかないと水道管が破裂する、といわれていたが、つい忘れて破裂してまった。大家の婆様には近所に住む恋人がいて、電話で相談すると「とりあえずジャガイモを詰めろ。」といわれていた。 ここまで来ると、自然と寒山拾得のことが、忍び寄ってくる。しかしこんなモチーフに浸りきりになると、ますます浮世離れが助長され、戻ってこられなくなるのではないか?なんて一応、危機感を感じている風を装おってみたりして。もうすでに、友情を持って止めてくれる連中もいなくなってしまった。もっとも、時に寝床に本を撒いて寝心地を悪くし、何年もかけて、三島由紀夫が様々死んでいるところを描いてしまった人間に今さら何と声をかければ良いのか。もはや処置無し、というところであろう。



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