あらかじめ撮影しておいた背景に、人物を配置する。真っ昼間に撮影した背景だが、それを夜に変える。もっとも本当の夜にしたら表紙にはならないので、“今は夜です”という意味で、土曜日に撮影しておいた満月を配置する。浮世絵では良くやっている。これは、ある音が重要な画なのだが、日中だと、その音が響いてこない。月夜の晩なら良く響きそうに見える。 完成作に、関係各位は『けっこう勇ましい顔でギガびっくり』『意外とモサい』などの反応である。 私の今回のテーマは、そこら中にある、好き勝手に作られた人物像の『人の良さそうな老人にしとけばいいや』。と、昔話の好々爺みたいな像ばかり、ということに対する疑問から始まっている。何故、彼の生前、門弟達が、『師匠はこんな人である』。と描き残しているのに無視するのか。実在した人物である限り、彼等の意を尊重すべきだ、と考えたのである。しかし、そうはいっても、数百年前の、西洋の写実的表現など無い時代の日本画であるから、数点の作品の中に共通点はあるものの、別人といっていいくらい、感じたまま描かれているので、そこから“実像”を、どう読み取るか、ということが問題であった。私は確か、当初時間はかからないであろう、というようなことを書いた気がするが、筆の一本線で描かれた中から導き出すには、ただジーッと見つめ、人物が浮き上がってくるのを待つしかなかった。 この人物は、30代で翁の貫禄だったそうで、老け顔だったのであろう。寿命が今より短かった時代でもある。それにしたって、この人物。死んだのが、今の私より数歳若い時である。老人像ばかりで、そもそも、それがおかしいだろう!と私はいいたい。
データをデザイナーに送信し、送信終了を確認しないまま、パソコンをそのままにしてK本へ。朝からの降雪の情報のせいであろう。お客は少ない。数日前から妙に気になっている、壁にかかった今年のカレンダーに目が行く。あまりにもデフォルメされた画であったが、ジーッと視ているうち、まさかなあ、と思いながら近づいて解説を読むと、果たして、私がアダージョで提案し、明日からプレッシャーと戦わなければならない、実にその人であった。
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