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明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

一日  


朝玄関を出ると物凄く寒い。これから冬に向かうのか夏に向かうのか、2メートル歩く間だけ考えた。方向音痴も私のレベルになると、方向のジャンルは問わない。
このところ、次に制作する人物Dの、評伝その他を読んでいるのだが、先日、近所の古書店で入手した特集号の中で、残された写真について書かれている一文に目が留まった。 この人物の写真は、見る側の期待や欲求に応えていないという。(確かに、先日図書館で閲覧した写真集でも、その多くが二コリともせず、力の入ったポーズをとったカットは数えるほどしかなかった) 本人が写真嫌いなことは有名なのだが、そういうことではなく、ここには“美ならざるもの”がある。という。“美たりえないもの”それまで対象たり得なかった物が呈示されている異様さが感じられる。何も美化されることなく、ただ眼前にあるものがただ写っている。そこにあるものがただ写ってしまっているという不思議な感覚であり、そこからDの写真が持つ独自の迫真性や奇妙な切迫感が生じている。と書かれていた。これはまさに、私がDの写真を見たときに感じたことであり、ニジンスキーの写真を始めてみた時に感じたことと似ている。 問題はニジンスキーの時がそうであったが、人物のことを何も知らずに、そんなところばかりに反応してしまって、その気になってしまうから後が大変なのである。初めて知ってから1年で個展を開いてしまったニジンスキーの場合は、私が勝手にやったことだし、個展は観たくない人は来ないが、アダージョは都営地下鉄駅に置かれるので、そうもいっていられない。  この人物も銅像の類が複数残されているが、有名彫刻家が制作した像を、これまた巨匠が、ボロクソにけなしているエッセイを見つけて、作る前に読まなければ良かった、と後悔しているところである。どこぞの銅像がどうだのといっていたバチが、さっそく当たってしまった気分である。

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